日々雑感「点ノ記」

備忘録(心の軌跡)

ゴボウのささがき

2013年08月15日 | インポート
先日の仕事帰りに、バスを降りて宿舎に向って歩いていたら、懐かしい夕餉の仕度のにおいがした。

きんぴらゴボウのにおいだった。

子どもの頃からきんぴらゴボウは大好物で、実家へ帰省するごとに母に作ってもらっていたおかずのひとつ。

部屋に着いてから妻に電話して、きんぴらゴボウが食べたいので、次に帰った時には作ってくれるように頼んでおいた。

家に帰ってから、いつきんぴらゴボウを作って出してくれるのかと期待していたが、いっこうにそれが出てくる気配がない。

ゴボウは買って冷蔵庫に入っているという。

暇だったので、自分でゴボウのささがきをすることにした。

まずゴボウを水洗いして表面についている泥を落とし、それから包丁の背で表面の皮をこそぎ落とす。

水を張ったボールにざるを沈めて、その中でゴボウをささがきにする。

結構楽しくて面白い作業。

4本のゴボウのささがきが終わり、ささがきにしたざるの中のゴボウをあげると、ボールにはゴボウのアクで真っ黒になった水。

その真っ黒な水を流して数回水にさらすと、だんだんと水の色が透明に近くなる。

水の色がかなり透明に近くなった所で、さらに一時間ほど水に浸けておく。

すると残っていたアクが出て来る。

そしてようやくきんぴらゴボウの調理ができるようになる。

そこまで自分で準備していたら、後は妻が調理して、きんぴらごぼうにしてくれた。

早速いただいてみる。

しばらく振りに食べるきんぴらゴボウはとてもおいしく感じた。

ゆったりとした休みの日に、ゴボウをささがきにして、出来立てのきんぴらゴボウを食することができた終戦記念日。

平和であればこそ味わうことができるささやかな幸福感。

国家のため、家族を守るためという教育を受けて、否応無しに戦争に駆り出され、いつ帰れるか、生きて帰れるかさえも分からないような戦地で、望郷の念を抱きながら家族のことを思い戦死された方々も多くおられたことだろう。

そして国策によって異国の地で戦死なされた方々の遺骨を、国家の責任において収集して日本に連れ帰り、慰霊するということをほとんどしようとしない日本という国家。

また、過去のことからの教訓を生かそうともせずに、勇ましい言葉を発する政治屋さんたち。

平和であればこそ自由にものも言える。

だけれども、残念ながら自分が善人であるからといっても、周りが全部善人であるとは限らない。

国家間においてもそれが言えるのではなかろうか。

未来永劫、人と人との殺し合いである戦争は絶対にやってはならないが、いざという時に丸腰では何もできないと思う自己矛盾。

先の大戦で失われた多くの御霊に対して、やすらかに眠っていただき、平和が続くように見守っておいていただきたいと、正午のサイレンの時に念じた。



豊田一喜