2月10日(水)曇り
寒い一日です。妻は風邪でダウン。
先日投函した「きいちご基金」からの「熱川温泉の旅」案内が届いたと何人もの方から参加申し込みの電話をもらいました。「中国残留日本人孤児」か、その配偶者、または娘さんです。
昨年の旅の楽しかった思い出、新たな春を待ち望む気持ち…。参加希望者はあっという間に定員(20)を超えて24人。すべて「残留孤児」夫婦、または夫を亡くした中国人妻。
昨年、40年連れ添った夫を亡くされた方がいます。娘さんの話では思い出しては泣いておられるそうです。友人の度重なる誘いにこの旅に参加する気持ちにやっとなってくれたといいます。日本に帰ってからでも25年にはなります。苦労を共にしてきたお連れ合いに別れる打撃に耐えかねておられるのでしょう。
一泊二日の短い旅ですが温泉に入りながら中国語で心行くまで交流してほしいものです。
3月23日、伊豆の熱川、桜の花が迎えてくれるかな。
第10回「きいちご移動教室」の目的地決定のための情報収集でこんな記事を見つけました。
終戦記念日に思う、満州開拓団の集団自決 惨禍の記憶今も…山梨
(毎日新聞 2007年8月15日)
山梨県南アルプス市の神社に半世紀前から立つ慰霊碑--。碑面には中国残留孤児の石丸美知子さん(67)=同市=の名も刻まれている。戦時中に同県旧豊村(同市の一部)は満州(現中国東北部)開拓団として村単位で移住し、その中に幼少の石丸さんがいた。終戦2日後の1945年8月17日、開拓団141人が集団自決を図り、石丸さんはただ一人生存していたことがその後分かる。
【新聞記事続き】
40年、豊村の村民は国策で満州に移住し始めた。畑は肥よくで作物はよく実った。現地の人々から強制的に取り上げた土地とは、村民は知らなかったという。
45年8月16日に終戦の知らせが届くと、土地を取り返そうと現地の人々が村を襲撃してきた。村民は銃などで応戦したが弾が底をついた。村民はダイナマイトによる集団自決を決断し、140人が死亡した。その時を石丸さんは記憶している。
「会議がある」。5歳だった石丸さんは母から言われ開拓団本部の建物に入った。線香のにおいが立ちこめ、大人たちがすすり泣いていた。急に目の前が揺れ、見知らぬ人が上から倒れてきた。ダイナマイトが爆発した瞬間だった。1週間も昏睡(こんすい)状態が続き、目を覚ますと母と姉が息絶えていた。ひん死の石丸さんは中国人に育てられた。
養父母の長男と61年に結婚し、その後、中国残留孤児であることが判明し、88年に帰国した。
額には5センチ、左ひじにも15センチ以上の傷跡が残っている。家族と平穏に暮らしているが、日本語が話せず孤独を感じることも多いという。消え去ることのない痛手を心と体に負い、石丸さんは言葉を絞り出す。「戦争さえなければ……。戦争なんて何もいいことがない」
開拓団の遺族らは、47年から自爆した8月17日に慰霊祭を毎年開き、慰霊碑は開拓団の悲劇の継承と不戦を誓って57年に建てられた。石丸さんの名は、帰国した今も自決者として慰霊碑に名前が刻まれている。【中西啓介】
豊村開拓団の記録/5 半身まひの父と涙の再会
( 毎日新聞8月25日朝刊)
◇生き残った娘、帰国--草の根活動の端緒に
「自決した豊村開拓団に生存者がいたなんて」――。当時、県職員だった前南アルプス市長の石川豊さん(79)=南アルプス市小笠原=は、中国残留孤児となった石丸美知子さん(67)が中国黒竜江省阿城県で生存し、肉親を捜しているという事実を雑誌報道で知り、驚いた。知らせは瞬く間に、櫛形町(同町は60年に豊村を編入合併)を駆けめぐった。
雑誌報道と前後して1982年、中国在住の日本人女性から、厚生省援護局長に「開拓団に住んでいた孤児がいる」という内容の手紙が届いた。同年、慰霊訪中団として中国を訪れていた豊村出身者が石丸さんと面会。写真を持ち帰った。
83年12月、石丸さんは一時帰国し、父の政吉さん(当時75歳)に面会するため長坂町(現北杜市)の老人ホームを訪れた。車いすで談話室に現れた政吉さんは半身まひで言葉が不自由になっていた。突然現れた娘の存在に確信が持てず、何度も石丸さんの手を握り、背中に触れた。やがて政吉さんは、紙に鉛筆で「美知子に間違いないと思います」と書き、涙を流しながらゆっくりと「ごめんなさい」とつづった。
「自分が誰なのか分かった喜びと、姉弟がみんな亡くなっていた悲しみで、抱き合って泣くことしかできませんでした」と石丸さんは再会の記憶を思い出す。
■ ■
娘との再会を待っていたかのように政吉さんは85年3月息を引き取った。父の墓参りのため再来日した石丸さんは、町長になっていた石川さんに帰国の意志を伝えた。小学校の同級生5人が満蒙開拓青少年義勇軍として大陸に渡っていた石川さんは「戦争の犠牲者は絶対に放っておけない」と身元保証人になった。
戦後、村にとって開拓団の話題はタブーだった。余剰農民を率先して送り出した村長以下、関係者の多くが、戦後も村に残っていたからだ。県歴史教育者協議会の相原千里会長(66)=南アルプス市小笠原=は「開拓団の悲劇に村も加担したという後ろめたさがあったのです」と話す。
だが、石丸さんの帰国のために石川さんが募金を呼びかけると、「支援に役立ててほしい」と町民たちは率先して協力、たちまち150万円を超える義援金が集まった。
■ ■
石丸さんは88年に長女の艶子さん(44)とともに帰国した。町では残留孤児を受け入れたことがなかったが、住民福祉課が手探りで支援策を考え、町営住宅を手配。2人に就職先をあっせんした。90年には長男の政夫さん(43)夫婦が帰国。政夫さんは増穂町内の工場に勤め、石丸さんや家族と穏やかに暮らしている。
戦後40年以上顧みられなかった開拓団について、石丸さんの帰国をきっかけに、生存者の証言や資料を集める草の根の活動が始まった。99年には櫛形町内の公民館で資料が展示され、00年、14回にわたり「豊小だより」に開拓団の話が掲載された。02年には、沢登眞さん(81)を編集委員長として、開拓団の証言や資料をまとめた本「四道河にねむる拓友に捧(ささ)ぐ」が1000部作られ、旧豊村の全世帯に配られた。
この本の出版を機に、開拓団を改めて記録する試みが始まった。=つづく
南アルプス市の豊小学校の近くにこの慰霊碑はあるようです。石丸さん一家のお住まいも近いはずです。「樹園」という宿泊施設もあります。
甲府盆地がいいかなあと思って適地を探索中に出会った記事です。今あれこれと調査中です。この方にお会いしたい気持ちが押し寄せてきています。
寒い一日です。妻は風邪でダウン。
先日投函した「きいちご基金」からの「熱川温泉の旅」案内が届いたと何人もの方から参加申し込みの電話をもらいました。「中国残留日本人孤児」か、その配偶者、または娘さんです。
昨年の旅の楽しかった思い出、新たな春を待ち望む気持ち…。参加希望者はあっという間に定員(20)を超えて24人。すべて「残留孤児」夫婦、または夫を亡くした中国人妻。
昨年、40年連れ添った夫を亡くされた方がいます。娘さんの話では思い出しては泣いておられるそうです。友人の度重なる誘いにこの旅に参加する気持ちにやっとなってくれたといいます。日本に帰ってからでも25年にはなります。苦労を共にしてきたお連れ合いに別れる打撃に耐えかねておられるのでしょう。
一泊二日の短い旅ですが温泉に入りながら中国語で心行くまで交流してほしいものです。
3月23日、伊豆の熱川、桜の花が迎えてくれるかな。
第10回「きいちご移動教室」の目的地決定のための情報収集でこんな記事を見つけました。
終戦記念日に思う、満州開拓団の集団自決 惨禍の記憶今も…山梨
(毎日新聞 2007年8月15日)
山梨県南アルプス市の神社に半世紀前から立つ慰霊碑--。碑面には中国残留孤児の石丸美知子さん(67)=同市=の名も刻まれている。戦時中に同県旧豊村(同市の一部)は満州(現中国東北部)開拓団として村単位で移住し、その中に幼少の石丸さんがいた。終戦2日後の1945年8月17日、開拓団141人が集団自決を図り、石丸さんはただ一人生存していたことがその後分かる。
【新聞記事続き】
40年、豊村の村民は国策で満州に移住し始めた。畑は肥よくで作物はよく実った。現地の人々から強制的に取り上げた土地とは、村民は知らなかったという。
45年8月16日に終戦の知らせが届くと、土地を取り返そうと現地の人々が村を襲撃してきた。村民は銃などで応戦したが弾が底をついた。村民はダイナマイトによる集団自決を決断し、140人が死亡した。その時を石丸さんは記憶している。
「会議がある」。5歳だった石丸さんは母から言われ開拓団本部の建物に入った。線香のにおいが立ちこめ、大人たちがすすり泣いていた。急に目の前が揺れ、見知らぬ人が上から倒れてきた。ダイナマイトが爆発した瞬間だった。1週間も昏睡(こんすい)状態が続き、目を覚ますと母と姉が息絶えていた。ひん死の石丸さんは中国人に育てられた。
養父母の長男と61年に結婚し、その後、中国残留孤児であることが判明し、88年に帰国した。
額には5センチ、左ひじにも15センチ以上の傷跡が残っている。家族と平穏に暮らしているが、日本語が話せず孤独を感じることも多いという。消え去ることのない痛手を心と体に負い、石丸さんは言葉を絞り出す。「戦争さえなければ……。戦争なんて何もいいことがない」
開拓団の遺族らは、47年から自爆した8月17日に慰霊祭を毎年開き、慰霊碑は開拓団の悲劇の継承と不戦を誓って57年に建てられた。石丸さんの名は、帰国した今も自決者として慰霊碑に名前が刻まれている。【中西啓介】
豊村開拓団の記録/5 半身まひの父と涙の再会
( 毎日新聞8月25日朝刊)
◇生き残った娘、帰国--草の根活動の端緒に
「自決した豊村開拓団に生存者がいたなんて」――。当時、県職員だった前南アルプス市長の石川豊さん(79)=南アルプス市小笠原=は、中国残留孤児となった石丸美知子さん(67)が中国黒竜江省阿城県で生存し、肉親を捜しているという事実を雑誌報道で知り、驚いた。知らせは瞬く間に、櫛形町(同町は60年に豊村を編入合併)を駆けめぐった。
雑誌報道と前後して1982年、中国在住の日本人女性から、厚生省援護局長に「開拓団に住んでいた孤児がいる」という内容の手紙が届いた。同年、慰霊訪中団として中国を訪れていた豊村出身者が石丸さんと面会。写真を持ち帰った。
83年12月、石丸さんは一時帰国し、父の政吉さん(当時75歳)に面会するため長坂町(現北杜市)の老人ホームを訪れた。車いすで談話室に現れた政吉さんは半身まひで言葉が不自由になっていた。突然現れた娘の存在に確信が持てず、何度も石丸さんの手を握り、背中に触れた。やがて政吉さんは、紙に鉛筆で「美知子に間違いないと思います」と書き、涙を流しながらゆっくりと「ごめんなさい」とつづった。
「自分が誰なのか分かった喜びと、姉弟がみんな亡くなっていた悲しみで、抱き合って泣くことしかできませんでした」と石丸さんは再会の記憶を思い出す。
■ ■
娘との再会を待っていたかのように政吉さんは85年3月息を引き取った。父の墓参りのため再来日した石丸さんは、町長になっていた石川さんに帰国の意志を伝えた。小学校の同級生5人が満蒙開拓青少年義勇軍として大陸に渡っていた石川さんは「戦争の犠牲者は絶対に放っておけない」と身元保証人になった。
戦後、村にとって開拓団の話題はタブーだった。余剰農民を率先して送り出した村長以下、関係者の多くが、戦後も村に残っていたからだ。県歴史教育者協議会の相原千里会長(66)=南アルプス市小笠原=は「開拓団の悲劇に村も加担したという後ろめたさがあったのです」と話す。
だが、石丸さんの帰国のために石川さんが募金を呼びかけると、「支援に役立ててほしい」と町民たちは率先して協力、たちまち150万円を超える義援金が集まった。
■ ■
石丸さんは88年に長女の艶子さん(44)とともに帰国した。町では残留孤児を受け入れたことがなかったが、住民福祉課が手探りで支援策を考え、町営住宅を手配。2人に就職先をあっせんした。90年には長男の政夫さん(43)夫婦が帰国。政夫さんは増穂町内の工場に勤め、石丸さんや家族と穏やかに暮らしている。
戦後40年以上顧みられなかった開拓団について、石丸さんの帰国をきっかけに、生存者の証言や資料を集める草の根の活動が始まった。99年には櫛形町内の公民館で資料が展示され、00年、14回にわたり「豊小だより」に開拓団の話が掲載された。02年には、沢登眞さん(81)を編集委員長として、開拓団の証言や資料をまとめた本「四道河にねむる拓友に捧(ささ)ぐ」が1000部作られ、旧豊村の全世帯に配られた。
この本の出版を機に、開拓団を改めて記録する試みが始まった。=つづく
南アルプス市の豊小学校の近くにこの慰霊碑はあるようです。石丸さん一家のお住まいも近いはずです。「樹園」という宿泊施設もあります。
甲府盆地がいいかなあと思って適地を探索中に出会った記事です。今あれこれと調査中です。この方にお会いしたい気持ちが押し寄せてきています。