川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

 信濃川大河津分水と宮本武之輔  中越の旅(中)

2011-09-04 11:26:28 | 出会いの旅

8月30日(火)晴れ

 喜芳(長岡市三島町上岩井)~寛益寺(かんにゃくじ)~与板町・楽山亭・中学校~信濃川(右岸)~大河津資料館~国上

寺・五合庵~弥彦山スカイライン~越後七浦シーサイドライン~寺泊・住吉屋(泊)

 

①寛益寺山門 仁王像と藁葺き屋根の唐草模様

 地図に「橋の町」とあるところを訪ねたら寛益寺という寺があった。仁王さんの表情も面白いが山門の藁葺(わらぶ)き屋根の庇(ひさし)に唐草模様があるのに気づいた。亀の模様がある一角もあった。村人たちのオシャレ感覚に脱帽。

 

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出典●http://imai-sekkei.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-a771.html

②信濃川風景(右岸・中之島町)

 城下町・与板の街並みや楽山亭からの景観を楽しんだあと与板中学校に寄った。校舎の壁が柳行李(やなぎこおり)模様になっている。ここは昔、柳行李の産地だったという。

 信濃川の橋をわたって右岸の土手上の道(「道路ではない」と断り書きがある立派な道)を大河津(おおかわず)分水に向かった。天下の大河・信濃川とようやく出会えたという喜びがあった。向うに見えるのは国上(くがみ)山・弥彦山である。

出典●http://www.pref.niigata.lg.jp/nagaoka_kikaku/1204737350657.html

③大河津分水

 去年12月には閉まっていた「信濃川大河津資料館」に寄った。

 写真(左)。中央に伸びるのが人工の河川・分水。ここから信濃川の余分な水を日本海に流して信濃川下流部(新潟平野)の洪水を防いでいる。堰は可動堰。下方が信濃川本流。洗い堰がかかっている。

 写真(右)。分水上空から見た新潟平野。悪水に悩まされた湿田地帯も分水が完成したおかげで今や日本有数の穀倉地帯になった。整備された大河・信濃川の流れが平野を潤し、日本海に注ぐ。

 

④青山士(あきら)と宮本武之輔

分水の開鑿は江戸時代から農民の悲願だったが、可動堰が完成したのは1931(昭和6)年である。この時の堰建設の総責任者は青山士だが、可動堰を設計し、建設工事の先頭にたったのは宮本武之輔という人であったという。

 青山はどこでどんな工事をする時にも「人類ノ為ニ」という視点を貫いたというが、宮本は民衆のために民衆と共に働いた土木技術者だという。分水が完成したとき、人々の先頭に立って行進する宮本の写真があった。誰の意見にも耳を傾ける広い心の持ち主だったという。こういうリーダーに恵まれて今の新潟があることを私たちは決して忘れてはならない。

 宮本は愛媛県松山市の沖に浮かぶ興居島(ごごしま)の出身だという。僕は愛媛の出身ではないがこの島はなんども眺めている。こんな誇らしい人がいたことを愛媛の友人たちは知っているだろうか。お節介ながらも知らせてやらなくちゃと思った。

 参考資料●宮本武之輔 http://www.jsce.or.jp/contents/avc/miyamoto_rireki.shtml