9月27日(火)晴れ
昼前から晴れてきたので野に出てみました。
川越~伊佐沼~入間川大橋・開平橋~上尾市平方~県央ふれあいんぐロード(上尾丸山公園・榎本牧場・川田谷泉福寺)~太
郎右衛門橋~荒川自転車道~入間川自転車道~家
いつもの道ですが新発見がありました。ふれあいんぐロードから太郎衛門橋に登るあたりで「桶川飛行学校」の入口を示す標識を見つけたのです。橋をわたりきった荒川自転車道の入口にも関連する標識がありました。
「桶川飛行学校」‥なんだろう? パソコンで調べてみました。
荒川の河川敷に広がる「ホンダ・エアポート」。これはかつて陸軍熊谷飛行学校桶川分教場の滑走路だったといいます。
「大東亜戦争」末期にはここからも特攻機が飛び立ったそうです。その時、飛行機に同乗した方の手記や写真がHPに紹介されています。貴重な資料です。
昭和20年4月5日 桶川飛行場
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元整備員(埼玉県北本市在住) |
(略)戦況がいよいよ険しくなってきた昭和20年4月5日、特攻隊員12人が知覧(ちらん)から出撃することになった。整備のため、私たちも99式高練に同乗するよう言い渡された。指名されたのは、整備担当の藤原曹長と整備員5人であった。隊長の訓示、別れの酒のあと、12機のうちの6機の後部座席に乗った。特攻隊が出発することは秘密のはずであったが、うわさを聞きつけて周りの堤防の上には、見送りの人たちが来ていた。荒川の上流に沿い、北に向けて飛び立った。眼下には、冬枯れの薄茶色の地面の中に、黒く蛇行する荒川が見え、太郎衛門橋の上では、おじいさんらしき人が大きく日の丸を振り、ほかにも数人が手を振っているのが見えた。旋回して戻り、飛行場の上を超低空で飛んで見送りの人たちに左右の翼を振って別れの挨拶をしたのち、12機は、西に向けて飛んで行った。戦争に行って死ぬのは当然と思っていた当時、私はどんなことを思ったか、今思い出すことはできない。途中、各務原(かがみがはら)飛行場に一泊し、下関に近い小月(おづき)飛行場に向かった。
私は、京都出身の山本少尉の飛行機に同乗したが、京都の町に入ったとき、大きな煙突だったので風呂屋だと思うが、2階の物干し台の上で家族らしい人たちが大きく日の丸を振っていた。私の飛行機は、驚くほど超低空飛行で煙突の周りを2、3回まわり、翼を大きく振って別れの挨拶をした。学徒出陣で、学生からいきなり特別操縦見習士官1期生として入隊し将校となった22歳の青年が、故郷の空をどういう思いで飛んだのか、胸中を察するに余りある。
小月飛行場に着いた私たちは、翌日朝、試運転を終わって飛行機を隊員に引き渡した。アクセルを吹かした飛行機の爆音の中、山本少尉は、車輪止めをはずし終えた私を操縦席に呼んだ。「柳井、世話になったな。整備班に帰ったら、みんなによろしく伝えてくれ」。私たちは列車で帰ってきたが、隊員たちは鹿児島県の知覧基地に向かい、記録によると、4月16日、第79振武隊として、沖縄の海に散ったということである。(略)
知覧に飛び立つ隊員・水盃を交わす隊員
出典●「桶川飛行学校を語り継ぐ会」http://okgwkataritsugu.koborezakura.com/index.html
日曜日に行けば見学できるのかな。次の機会に訪ねてみます。