カトパンと元AKB大家は似てる
と思う。
ケンコバ一推しの映画。
とにかく良い。
私は観るのは本日が三度目。
暴対法成立以前の昭和63年、
1988年の広島県呉原市(呉
市がモデル)と広島市。
広島県警と暴力団の癒着と、
それを知りつつ、暴力団を
抑えにかかろうとするマル暴
の刑事大上(おおがみ。通称
ガミさん/役所広司)。
その大上刑事の不正を監察する
ために県警本部から極秘に派遣
された新米の日岡刑事(松坂桃李)。
だが、実は広島県警上層部こそ
が丸ごと暴力団とずぶずぶの関
係だったという事実。
広島市内と呉原(呉)市内の
暴力団の抗争の中で、それを
再び70年代と同じ戦争勃発を
阻止しようとしていた大上刑事
は拉致されて豚小屋で刺されて
海に沈められて殺されてしまう。
そして、日岡刑事は、県警の
どす黒い闇に向かって立ち上
がる。
暴力団は悪人だ。
だが、それと癒着してありと
あらゆるもみ消しと利権を得
ていた警察幹部こそが真の極
悪人だ。
この作品は、つとめて「リアル」
である。
広島県人全員に観てほしい。
否、日本人全員が観るべき映画
だ。
これはヤクザ映画ではない。
日本の本当の闇をえぐる映画
作品である。
映像作品としては、誰一人演技
に落ち度は無い。
原作も良いが、これは監督の手
腕だ。
役所広司も松阪桃李もピエール滝
も真木よう子も滅茶苦茶良い。
どんな手を使ってでも、観るべし
という程の出来。
この作品で描かれた、ほぼノンフィ
クションの日本の構造と、演出描写
は外国人には理解しがたいだろうが。
R15指定なので、地上波で放送され
る事は無い。
観るべし。
DVDもしくはネット映画配信で。
邦画の中でもトップクラスに入る
良作だ。
これが現実である。
表現描写による演出はあれど、
これが日本の現実社会だ。
あくまで映画作品だが「リアル」
である。
続編の『孤狼の血 LEVEL 2』(2021)
は、これは完全にヤクザ映画だ。
原作には無いオリジナルストー
リー。
在日問題にも触れるが、現実的
しがらみからか、えぐり出しは
出来切っていない。不完全燃焼。
但し、腹黒い陰謀は第一作より
も衝撃的だ。警察公安の汚さな
どはとてもリアルに描けている。
県警本部の一部の監察官の命令
で味方である同じ警察の主人公
をも騙して意のままに使おうと
した公安刑事は、最後の最後に
「交通事故」で死亡する。
これは現実世界でも公安たちが
やっていたような事を自分が食
らって最期となった。
(1971年6月、明治公園では公安
私服が短いダガーナイフでデモ
隊列の人間をブスブス刺してい
た。共産同赤軍派は機動隊に鉄
パイプ爆弾を投げた。37名の
機動隊員が腹部裂傷等の重傷)
私はこちらの第二作目は二度観た。
警察の真の姿を描いたという点
ではこの第二作目もリアルだ。
ただ、第一作目では大上刑事
(役所広司)に対して呉原東署
の刑事たちは違法無法操作だろ
うと協力的だった。取調室で参
考人の女に性的暴行を強要して
まで捜査をするのが大上だった。
だが、この二作目では大上の
弟子で遺志を継いだ日岡(松坂
桃李)は県警本部だけでなく呉
原東署員たちにさえ排外される
立ち位置にいる。
そして、広島県警本部と公安と
呉原東署員たちに罠にはめられ
て自分の恋人の弟が暴力団に殺
されてしまう。そうした下敷き
を作ったのは県警本部と県警
公安部だった。
まあ、そのあたりの構造的な
やり口は極めてリアルで現実
社会と同じ姿が描かれている。
一番最後の展開と主人公のその
後についても、こうした事をす
るのが警察権力だ。これまた
リアル。「真実」などは表の
世間には公表しない。
日本は冤罪と捏造と隠ぺいと
改ざんが公的権力によって
行なわれる国だ。それは検察
や警察、自衛隊等によって行な
われている。
先ごろ勇気ある女性自衛官に
よって自衛隊内での異常なセ
クハラが告発されたが、自衛
隊は隠ぺいしようとしていた。
そんなもんだ。日本の暴力装置
を掌握する権力者たちは。
「警察官は悪い人を捕まえる
立派な仕事です」
幼児のように寝ぼけちゃいけ
ない。
現実は全く異なる。
ガミさん=大上刑事の死亡後、
日岡は県警監察官の立場を離
れ、呉原(呉市がモデル)と
広島市の暴力団の抗争を呉原
東署のマル暴担当刑事として
3年間止めていた。抗争による
死者は一人も出ていなかった。
現実世界でもマル暴担当刑事
がシャブ横流しで摘発された
りしている(警察内部の手回
しに下手打ったのだろう。た
ぶんトカゲの尻尾切り)が、
映画でもそのような体質は描か
れている。
一作目では監察(警察内部の
警察官を監視するスパイ)で
真面目君だった日岡は大上以上
のどぎつい手段を用い、暴力団
を駒として使って巧みに殺人抗
争を抑えていたのだった。風貌
も3年前とはまるで変っていた。
対立する暴力団同士も手打ちを
して経済企業ヤクザに変身しよ
うとしていた。
だが、そこに殺人狂の骨の髄ま
でヤクザである幹部が出所して
きて広島県内の事態は一変する。
自分の組の幹部や親分たちも凄
惨な手口で殺し始めたその男
上林(うえばやし/鈴木亮平)
も主人公日岡の彼女と同じく
実は在日朝鮮人だった。
そして、残飯をあさってしか生
きていけなかった広島県内での
子ども時代の日本人から受けた
仕打ちが彼の精神背景を作って
いた。
出所後、手始めに上林は刑務所
で自分に暴行を日常的に加えて
いた刑務官の妹のピアノ教師の
目をえぐって強姦して殺す事か
ら連続殺人を始める。だが、被
害者の体内から上林のDNAと
一致する精液を科捜研が突き止
めても、警察本部はそれを隠ぺい
して謀略を進めるのだった。
Amazonプライムで2作とも無料配信中。
今住んでる備後国ってさ、
私は「ヤエー」という言葉は
好きではない。
理由は明白。
2ちゃんねる用語だからだ。
「でつね」「なんとかしる」
「マソ」「ぬこ」「w」「草」
「スクツ」e.t.c.等々の類だ。
そして、それらの言語を自覚
して諧謔性および皮肉を込め
て使うのならともかく、盲目
的に日常的に使用している
ゆとり世代以降の感性が大嫌
いだ。
「w」なんてのはネット用語
ではなくネラーが使う表記だ
からね(笑
使ってる連中は、そいつ、間
違いなく2/5ちゃんねらー。
犯罪者もしくは犯罪予備軍
あるいは犯罪ほう助者。
無自覚に使っているとしたら
なおさら間抜けだ。
私は「w」は使わない。
ある時、ある場所で、若い二輪
乗り(乗り屋か移動人かは不明)
が私に説明した。
「ヤエーというんですよ。
これは道中の安全を互いに願う
バイク乗りの挨拶なんです」
「あ~。そうなんですかぁ」と
その場の空気を濁さないよう
に素人を装って「(言わせと
け)」と聞き流したが、正味の
ところはアホか、と思った。
すれ違う二輪乗り同士の相互
挨拶などは1970年代、お前の
親がひよっこの頃から存在した
のを知らんのか、と。
時々こういう分かったような
説明したがりさんがいる。
刀屋さんに行って「私の家に
も刀があったらしいんですよ」
とか言って何か自分も刀剣愛好
家たちと同族であるかのように
勘違いを振りまく輩とか。
それって、銀行屋に「私は金持
ちです。100万円持っている」
というような頓珍漢と同じなの
だ。
私に対して日本刀の教科書を
読んで俄かに覚えたような
講釈を垂れる輩が時々いるが、
それも同じ。
「解析画像に実例があるその
刀工作品のα系介在物の特異的
な偏在兆候についてはどう解釈
する?」
と質問したら黙る。その者に
とっては意味不明だからだ。
カタログ人間、ステレオ人間
は底が浅い。
オートバイについてもそうだ。
俺の2ストを見て「これ、お父
さんが乗るんですか?これに
乗れるんですか?」と言うの
もいた。
俺はお前のお父さんではない(笑
それに、たぶんお前さんよりも
かなり乗れる。ずっと速く走ら
せ、かつ安全に。
髪がグレーだからか、ただの
ジジイと思って舐めてかかる
のが多くて笑える。
それと、カタログスペックを並
べて、さも二輪車が解ったよう
な気になっている若い人間が
なぜだか最近やたら多い。
昔はそういうのは毛嫌いされ
たが、現代はかなり多い。
薄っぺらいのが。
そういうのは映画のチョースケ
のようにキリンにぶっとばされ
るのが関の山だ。
「やめて!あなたとは帰らない」
とトカゲみたいな顔した女が
言ったが、お前もキリンに張り
倒されてりゃよかったのに、と
思ったね、俺は。あれ観て。
聞き分けのない女の頬を一つ
二つ張り倒してのジュリーの
ように。
私の時代には二輪人同士のすれ
違う挨拶はピースサインと呼ん
でいた。
平和と安全を願うサインだ。
「サインはV」ではない。
もともと、第二次大戦中に反
ドイツの抵抗の証として勝利
のVサインが示されるように
なった。英国のチャーチルも
やたらとVサインを使った。
戦後は平和の印としてピース
サインと呼ばれた。特に日本で。
だが、ヨーロッパでは反ナチ
抵抗の自由を求めるサインと
して今でもある。
10年程前、サバゲの時の撮影
で、私がチョキを出して写っ
たら、ドイツ人の友人が「な
るほど、それいいね」と言っ
た。
ピースサインではなく反ナチ
Vサインと思ったのだろうと
感じた。日本では写真撮影の
時に一般化していたが、海外
ではここぞという時にしか
チョキは出さない。
なお、私は二輪ですれ違う時
にVピースのチョキは出さな
い。これは自分のスタイルと
して。複数の方法があるが。
また、自分からは出さない。
挨拶されたら挨拶は返す。
そして、往年の熟年乗り屋たち
は会釈という渋い挨拶をする人
たちも多い。
会釈を送られたら会釈で返す。
武士同士が道ですれ違う時の
礼みたいでなかなか渋い。
ヤエーは危険だからやめたら
どうかとか言ってるモトブロ
ガーもいるが、その人は危険と
感じるのだろう。片手運転が。
だが、二輪車は片手運転ができ
ないと道交法に違反だ。
方向指示器が故障した際には
手信号で方向を指示すること
が法令で定められている。
二輪車は実利としても法令的
にも片手で運転できなければ
ならないし、技術だけでいっ
たら両手離しでも慣性巡行コー
ナリングができないとならな
い。これは道交法は別として。
両手離しはともかく、二輪走行
では片手運転も必須であるのに、
ヤエーそのものが危ないとか、
何眠い事言ってるのかと感じる。
なにも、右手を潰された飛葉
ちゃんのようなこんな運転を
しろというのではないのだから。
私は挨拶されたら挨拶で返す。
友人の中には「絶対にやらない。
うぜえから」という者もいるが、
私は礼には礼で返す。
執拗粘着の逆恨みのせこいお礼
参りとかではなく(笑
一番地味な通行挨拶は会釈。
一番私がやる派手なやつは、
仮面ライダー1号(改)の変身
ポーズだ(笑
やってる間にすれ違っちゃう
から、あれ、ライダーも変身
ポーズ中に攻撃されたら終わ
ってたな。時間かかり過ぎで
冗長すぎるだよな。ブラック
あたりになるともっと長い(笑
この「怖いw玄人」のような
挨拶は私はしないけどさ(笑
この男、ワインディングでも
120km/hまではこの立ちんぼ
走行。120km/h超あたりから
撮影でも着座する。
一体こいつはなんなのかと(笑)。
んなこたねぇか。法定速度だよね。
戦後から長らくお嬢様学校の
象徴だったボレロとジャンパー
スカートの制服。
にデザイナーを使って企画させ
る事が大流行した1981年あたり
から制服大革命が始まった。
その傾向が全国に広がり、金
太郎飴のどの学校でも同じよう
なブレザーとタイかリボンにな
った。
当に国内から絶滅しかけて
いる。
広島大附属中学などはまだジャ
ンパースカートの制服で、
昔ながらの伝統をかろうじ
て保持している。
た。
色は濃紺だったが。
でカッコ良かった。
十文字は全員真面目さんのよ
うな雰囲気。みなさん眼鏡女
子みたいな。
四トロだったが。
らだという。
1977年5月。高2。
雰囲気分かるでしょう?(笑
故望月三起也先生と映画『ワイ
ルド7』(2011)で使用された
オートバイ。白バイ隊員は本物。
映画撮影用のバイクを赤レンガ
倉庫の広場でデモ走行させた。
この場所は角川映画『汚れた
英雄』(1982)でもロケに使わ
れた。『汚れた英雄』こそが
1980年代の空前絶後のバイク
ブームに火をつけた。
神奈川県警白バイ隊のこの
ロングブーツ、まじ欲しい。
他の都道府県はもっと短い
ブーツなんだよね。
神奈川のみ(確か京都もか)
昔の将校乗馬ブーツのような
ロングタイプなのよ。
しかもサイドファスナーで
履きやすい。
これは結構イケてるぜ。
女性白バイ隊員も県警オリ
ジナルのロングブーツだ。
ワイルド7みたいな神奈川県警。
式典や要人警護の際には本革の
ダブルライダースを着用する。
以前にも同様記事を書いたが、
カッチョいいので何度でも書く(笑
「同じ事書いてアルツハイマー
の診察受けたほうがいいですよ
お大事に」とかの嫌がらせDMを
送って来るネトカス野郎もいる
が、一切気にしない。人の迷惑
にならないように勝手に転んで
崖から落ちてくれ。
この白バイ隊員、私の走りの相方
に顔そっくり(笑
横浜に面白い住宅街を見つけた。
港からもごく近い。
この住宅街のみ、家々が全部
アーリーアメリカン調なのだ。
標識までまるで根岸の旧米軍
居住区みたいだ(笑
日本の住宅街ぽくない街並み。
黄色いスクールバスとか走って
いそうな雰囲気だ。
いいぞ。この街、雰囲気が。
住みたい。
売りに出ていないか見たら、一軒
販売中だった。
5000万円あれば買える。
ほんのお小遣いで買うかな(笑
港のそばだけに、総合開発したの
でしょうね。アメリカ風の建物で
住宅街を統一して。
デベロッパーも面白い事するね。
ちょっと街全体がメルヘンちゃん
みたいにも思えるけどさ(笑
古写真に映っているお店を探して
みるPART20 ~かつて歴史上の
人物が2階に住んでいた場所~
私は生まれて幼児期まで育った
のは目黒区上目黒(今の目黒
区青葉台)だが、もしかする
と文京区本郷三丁目で生まれ
ていたかもしれない。
私の両親は、はじめ伯母が管
理人をやっていた本郷三丁目
の東大赤門前のアパートに住
んでいたからだ。めぞん一刻
の一刻館のようなアパート。
私の一つ上のイトコ兄と三つ
上の姉は本郷三丁目で生まれ
た。大手証券会社に勤める伯
父の家族と別部屋に私の両親
は住んでいた。
イトコの兄貴などは神戸に転
居してからも死ぬまで本籍地
を文京区本郷に置いていた。
文京区本郷三丁目界隈は文人
が多かった。これは明治の
小石川区の頃からそうだった
ようだ。新宿区早稲田が牛込
区早稲田の頃からそうだった
ように。夏目漱石などは今の
地下鉄東西線早稲田駅から歩
いてすぐの場所に住んでいた。
私の娘が生まれた時に私たち
が住んでいた場所も、地下鉄
早稲田駅から歩いて1分の所
だった。
東京という街は狭い。
だが、そこに妙があり、良い。
東京といっても、旧江戸エリア
がかなり良い。これは住んで
みれば痛い程よく分かる。
旧江戸エリアというのは、ほぼ
山手線の内側に該当する。
中目黒駅は山手線の外だが、
上目黒(現在の東急東横線中
目黒駅周辺)だけが江戸期に
は朱引き墨引きで飛び出して
いて江戸の御府内に指定され
ていた変な場所だった。
私は目黒のサンマだが、かろう
じて正真の江戸生れという事に
なる。
本郷三丁目東大前から東大の
脇の無縁坂を下ると上野不忍池
に出る。
無縁坂は森鴎外の小説『雁』
にも出てきた場所だ。
中学生の時、同作品を読んで
少なくない衝撃を受けた。
不忍池から池之端を抜けると
御徒町、上野に出る。
今の東大付近は江戸期には
大名屋敷街で、池之端は町
人街、そして御徒町はその
名の通り幕臣御家人たちの
住まいが密集していた場所
だった。
名工長曽祢虎徹興里は江戸
前期に池之端界隈に住して
鍛刀した。
いろいろないきさつがあった
のか、興里(みのすけ)の
息子(養子とも)の興正は
二代目虎徹を名乗って、父
に迫る利刀を作ったが、その
次代の子は、なにがあったの
か打ち首になっている。
まだ詳細は解明されていない。
興里の伯父は日光の東照宮の
金具を作る程の名工だったが、
やはり打ち首に処されている。
表の歴史には出て来ない裏の
力が働いたのだろう。
刀剣界も大昔から権勢の側に
うまく取り入った者とその
一味が絶対権力を行使して
いた事は記録から読み解く
のは容易だ。
そして、冤罪事件がはびこる
江戸時代には、やたらと人が
「裁き」で処刑された。
年間約2,000人が首をはねられ
たが、冤罪もかなり多かった
事だろう。
元警察庁長官でその後政治家
に転身した亀井静香氏は死刑
廃止論者だが、たぶんだが、
警察庁長官時代に知ってはな
らない事実を多く知ってしま
たのではなかろうか。
彼の説く死刑廃止論はいたっ
てごくまともだ。とにかく、
冤罪だった場合、とりかえし
がつかないというのが彼の
主張の骨子だ。抑止論にも
否定的。
「中にいた人間」だからこそ
見えるものもあるのだろう。
だ。
1980年代の上野駅近くの上野七
丁目界隈、通称上野バイク街は物
凄い活気があった。
まるで御徒町のアメ横商店街のよう
にバイク屋(中古車屋と用品店)が
建ち並んでいた。
表通りだけでなく、裏通りまでも
二輪店がびっしりだった。
こうした光景は全国でここ東京
上野だけ。
この上野駅そばの昭和通り沿線に
バイク街が登場したのは1970年代
だった。ポツポツ並び始めたのは
1960年代。
私が高校生の時の1970年代中期に
はすでにバイク街があり、友人た
ちとよく学校帰りに歩いたりした。
大小含めると約80店舗あった。
80年代に入るとカフェスタイル
のブースを採り入れた店舗もあり、
開放的な雰囲気も出し始めた。
ただ~し!
実際に上野バイク街を歩いた事が
ある人たちは知っているだろう。
あの独特な空気を。
中古車屋などは一切整備はして
いない。
だが、まるで新車のようにピカ
ピカに車両を磨き上げて並べて
展示している。本当に整備は一切
無し。そもそも整備するスペース
も整備士も置いていない。
そうした怪しげな中古車屋がず
らっと並んでいたのだ。
そして、店員たちはまるで不良か
やさぐれた半グレか連日徹夜麻雀
で疲れ切った無職者のような感じ
の店員しかいなかった。
態度は当然この上なく悪い。
「チッ。買わねぇんなら見てん
じゃねえよ」とか平気で訪問客
に言ってた。
中古車古物商でなく用品屋でさえ、
それに近い態度の店ばかりだった。
ただ、品ぞろえが半端なく多い事
と、価格も激安だったので多くの
二輪乗りが訪れただけだ。物販
エリアとして。
ただし、革ツナギなどは下町の
革屋に作らせたパチもんのよう
な物がずらっと並んでいるだけ。
有名どころの製品などはもちろん
無い。
南海部品が高級品店に思えるの
だから、だいたい想像はつくだ
ろう。
そう。戦後の闇市の延長にあった
近所のアメ屋横丁と全く100%
同じ空気と実質の街区だったのだ。
買った中古車は不具合があって
も一切受け付けない。古物商の
それは常道だが、それを地で行っ
てた。
過去の上野バイク街の事を「二輪
の聖地」のように言う人が時々い
る。
それは、上野バイク街に実際に
何度も通って、地場の空気と実態
に触れた事が無い人が言ってるの
は確実だろう。
「二輪の聖地」ではなく、あそこ
は「二輪のドヤ街」だったのが
正確な表現だ。木賃宿が二輪中古
販売店や用品店になっただけだ。
だが、実に「上野」らしい風景で
はあった。
1970年代中期あたりには、ここ
バイク街やアメ横の裏路地あたり
では、カツアゲとかも頻繁にあっ
た。
うちらの仲間はこちらからは仕掛
けたりはしないが、当然ぺったん
この鞄の中には鉄棒を常備してい
たし、伸縮式特殊警棒で武装もし
ていた。でないと歩けない街。
素手でタイマンだ、などとツッパ
リ君よろしくイキっても駄目。相
手は刃物持っててそれを出してく
るのだから。ツッパリ君世界とは
別物の本物の筋者たちが横行する
街だった。
武器を手にするなど卑怯だとか
弱い奴のやる事だとか、そうし
たお花畑をほざくのは「現場」
を知らない人間の言う事だ。
戦闘に武器を用いるのは当たり
前の事だ。園児の喧嘩じゃない。
勿論、真面目君などは一切寄り付
かないのが上野御徒町界隈だった。
オートバイ関係情報は、綺麗ごと
ばかり書くが、実際の東京上野は
ノガミと呼ばれた戦後から1970年
代末期あたりまではそのような
場所だったのは確かな事だ。
第一建ち並ぶ店の店員自体がその
手の連中のような店ばかりだった
のだから(笑)
なんというか、昭和の危ない街。
エンコ(浅草)さえ、まだ国際
観光地化などしておらず、彫り
物の兄さんたちが仕切っている
場所だった。
これは江戸時代からそうなのだが。
暴走族ではエンコのスペクターが
山の手エリアよりも気合が入って
いて、ペクターといえばエンコ、
というような感じだった。
東京下町はそのような空気があっ
た場所であり、下町情緒とかほの
ぼのした人情味の街というのは
それは下町の一面しか捉えてい
ない。
カオスであった東京の街は、戦後
愚連隊(復員兵たちによる暴力組
織で、今でいう半グレ)たちが
自警団のように仕切っていた。
やがてそれは旧来のやくざが現代
暴力団に変貌する時に合流した。
そして、戦後の日本は警察の協力
団体行動や芸能界の興行取り仕切
りはすべて暴力団が行なっていた。
それ、日本の歴史の真実。
上野のバイク街という場所は、
そうした戦後日本の残滓の一つ
だったのである。
戦後の東京の闇市。
昭和20年 東京に路面電車が走っていた頃
1906年(明治39年)頃。
東京には縦横無尽に路面電車が
走っていた。
私が子どもの頃に、今の都電
荒川線だけになった。
地下鉄が多く開通した事と、車
の交通量が爆発的に増えたため、
東京の路面電車は次々に廃止さ
れたのだった。