東京の大田区は関西の東大阪と並んで町工場が集積している町です。ほとんどが従業員3人以下の小さな町工場ですが、高度な技術を持っているところも多く、ここへ行けばどんなものでも作ることができるといわれています。まさに日本のモノづくりの拠点です。
それでも近年こうした街工場は激減しています。大田区で言えば8千ばかりあった工場が今では4千弱になっています。そこで大田区では従業員3人以下という小さなモノづくり工場で働く人を5年間で100人(実際には103人)を選んで「大田区の工匠」という名称で表彰しました。
その総合審査委員をしていた小関智弘さん(粋な旋盤工などの著書があり、自身も大田区の工場で長年旋盤工として働いています)が、その中でも選りすぐりの十数人の聞き書きをまとめたものです。

今更ですが、この本を読むとこんな小さな町工場なのですが、半導体などの最先端の製品の加工がここがないとできないという工匠たちの技術で成り立っていることがわかります。
工匠たちは自分の仕事に誇りを持ち、かつ不可能なことはないというぐらいに挑戦し、考え、工夫しています。金属加工の悉知さんは「仲間からは仕事の鬼だってよく言われましたけれど、なあに仕事の仏ですよ。無理難題を持ち込まれたって、ちゃんと削って、納期には間に合わせてやるんだから。」と言います。
工匠たちはみんな新しい機械好きで、それでいてそれを自家薬籠中の物にするためには、徹底的に研究し、工夫しています。(旋盤などのいわばナイフである)バイトも自分で研ぎだすというのは当然。いろいろなものを組み合わせて誰もできないような超微細加工も溶接もしてしまいます。
大田区では一つ一つの工場で得意なことをもっていて、それぞれがネットワークを結んでいるので、それこそあちこちに声をかければほとんどのものは(例えばロケット。池井戸潤の「下町ロケット」は東大阪が舞台ですが大田区でも同じでしょう)できてしまう。実際そういったネットワークもできているそうです。原子炉の炉心の部品から微細な医療機器の部品まで大田区の町工場で作られているなんて信じられますか。
しかしそんな巧と言われている人でも、みんなそれぞれ修業時代とか下請け時代には理不尽な苦労を背負ってきています。それでも現状に満足しない負けん気で、努力に努力を積み重ね、考えに考え、工夫して誰にも真似できない独自な技術を身に着けています。逆に言えば考えもせず工夫もしなかった町工場なり職人は、下請け仕事に甘んじ中国などの低コスト製品に絶えず追われて疲弊し消えていくしかなかったのでしょう。負けん気とともにモノ作りが限りなく好きだったという面もあるのでしょうが。
私事ですが、父はしがない自転車屋でしたが、亡くなるまで工具を大事に持っていて、今となってはその大量の工具の始末に困るだけですが、自分なりに工夫して使い勝手の良いものに鍛えこんでいたのでしょう。誰も後を継ぐ者もいない中、工具も手入れされることなく錆びていくだけです。
小関さんの聞き書きは工匠に対する尊敬の念があふれ、技術的なことはよくわからないところもあるのですが、技術にこめた情熱と拘りがよくわかります。若干自分のことを語りすぎているきらいがあるのですが、自分の経験にひきつけ咀嚼しているので、素人の読者にもよくわかるようになっているのでしょう。
日本のモノ作りはまだまだ健在です。でも、どこも後継者には悩んでいるところがあって、これからあと何年このモノづくりの技術が健在なのか不安です。もっともっと技術に対する尊敬の心がないとなかなか後継者が育たないのでしょう。下請けとして苛められている零細企業というのではなく、オンリーワンの技術を持ち経済的にも社会的にも恵まれている姿がモデルにならないといけないのでしょう。
それでも近年こうした街工場は激減しています。大田区で言えば8千ばかりあった工場が今では4千弱になっています。そこで大田区では従業員3人以下という小さなモノづくり工場で働く人を5年間で100人(実際には103人)を選んで「大田区の工匠」という名称で表彰しました。
その総合審査委員をしていた小関智弘さん(粋な旋盤工などの著書があり、自身も大田区の工場で長年旋盤工として働いています)が、その中でも選りすぐりの十数人の聞き書きをまとめたものです。

今更ですが、この本を読むとこんな小さな町工場なのですが、半導体などの最先端の製品の加工がここがないとできないという工匠たちの技術で成り立っていることがわかります。
工匠たちは自分の仕事に誇りを持ち、かつ不可能なことはないというぐらいに挑戦し、考え、工夫しています。金属加工の悉知さんは「仲間からは仕事の鬼だってよく言われましたけれど、なあに仕事の仏ですよ。無理難題を持ち込まれたって、ちゃんと削って、納期には間に合わせてやるんだから。」と言います。
工匠たちはみんな新しい機械好きで、それでいてそれを自家薬籠中の物にするためには、徹底的に研究し、工夫しています。(旋盤などのいわばナイフである)バイトも自分で研ぎだすというのは当然。いろいろなものを組み合わせて誰もできないような超微細加工も溶接もしてしまいます。
大田区では一つ一つの工場で得意なことをもっていて、それぞれがネットワークを結んでいるので、それこそあちこちに声をかければほとんどのものは(例えばロケット。池井戸潤の「下町ロケット」は東大阪が舞台ですが大田区でも同じでしょう)できてしまう。実際そういったネットワークもできているそうです。原子炉の炉心の部品から微細な医療機器の部品まで大田区の町工場で作られているなんて信じられますか。
しかしそんな巧と言われている人でも、みんなそれぞれ修業時代とか下請け時代には理不尽な苦労を背負ってきています。それでも現状に満足しない負けん気で、努力に努力を積み重ね、考えに考え、工夫して誰にも真似できない独自な技術を身に着けています。逆に言えば考えもせず工夫もしなかった町工場なり職人は、下請け仕事に甘んじ中国などの低コスト製品に絶えず追われて疲弊し消えていくしかなかったのでしょう。負けん気とともにモノ作りが限りなく好きだったという面もあるのでしょうが。
私事ですが、父はしがない自転車屋でしたが、亡くなるまで工具を大事に持っていて、今となってはその大量の工具の始末に困るだけですが、自分なりに工夫して使い勝手の良いものに鍛えこんでいたのでしょう。誰も後を継ぐ者もいない中、工具も手入れされることなく錆びていくだけです。
小関さんの聞き書きは工匠に対する尊敬の念があふれ、技術的なことはよくわからないところもあるのですが、技術にこめた情熱と拘りがよくわかります。若干自分のことを語りすぎているきらいがあるのですが、自分の経験にひきつけ咀嚼しているので、素人の読者にもよくわかるようになっているのでしょう。
日本のモノ作りはまだまだ健在です。でも、どこも後継者には悩んでいるところがあって、これからあと何年このモノづくりの技術が健在なのか不安です。もっともっと技術に対する尊敬の心がないとなかなか後継者が育たないのでしょう。下請けとして苛められている零細企業というのではなく、オンリーワンの技術を持ち経済的にも社会的にも恵まれている姿がモデルにならないといけないのでしょう。