怪しい中年だったテニスクラブ

いつも半分酔っ払っていながらテニスをするという不健康なテニスクラブの活動日誌

「当事者の時代」

2012-07-14 06:53:06 | 
「当事者」の時代
う~ん、新書版で468ページ。まずはそのぶ厚さにたじろぎます。題名も何を言いたいのかよくわかりません。

それでも何回か書評でも取り上げられていて、図書館の予約も結構入っています。
読んでみると著者が新聞記者上がりということもあって意外に読みやすく、一気にとは行きませんが読み終えることができました。
時代に当事者として向き合うことの困難性とそれでも向き合うことの必要性を述べています。
最初は新聞記者の経験から夜回りと記者会見の二重の共同体について述べていて、最近批判厳しい記者クラブの裏にある警察・官僚とマスコミとの複雑な関係性を明らかにしている。
しかしそういう関係を持ちながらメディアは「市民目線」「市民感覚」という立ち位置で報道している。
なぜこれが矛盾なく両立するのか。
マスメディアが依拠する庶民は幻想の存在である。そしてその幻想の存在は常にマイノリティである市民運動によって代弁されている。
いったい何故アウトサイダーたるマイノリティを代弁しているのか。
ここから戦後日本の日本人論となるのですが、50代以上の70年安保を多少なりとも経験した人にはすっと腹に落ちる議論が展開されていきます。
戦後日本には「加害者としての日本人」という視点は60年代まで存在しなかった。戦争では軍部に多くの日本人はだまされた無辜の庶民であり、そこにあるのは被害者だけであった。。
そこに加害者としての日本人の視点が入るのは大学闘争特にエリートとして社会を支えて行く東大での自己批判からであった。
それは「自己否定」であり「大学解体」であるのだが、自己否定の先に自分自身がどう当事者として向き合うのかということはきわめて困難な課題であった。
その困難性を現実とはかけ離れた先鋭化していくことによって解決しようとするのだが行き着く先は連合赤軍・・・
一方、小田実はべ平連運動を通じて「被害者であることによって加害者になってしまった」という視点を出してくる。そして津村喬は「われらが内なる差別」によって
マイノリティの視点を提供した。そのことによって当事者としての立ち位置の重要性を問題提起した。
しかし、それは結果としてその困難性からマイノリティに憑依する「神の視点」への道を開いた。連合赤軍事件以後、ひとつの突破口としての大田竜、竹中労、平岡正明の3バカゲバリスタ(世界革命浪人)の辺境革命論、インサイダーからアウトサイダーになることにより自分たち被害者以外はすべて加害者として断罪してしまう気持ちのよさ。
大田竜の「辺境最深部に退却せよ」のあの突き抜けた明快さはそういうことだったんだ。
残念ながら、そこには今を生き、生活している当事者としての意識も存在もなく、当然ながら現実離れしたものとなってしまった。
それでもマイノリティからの体制への断罪は一定の小気味よさがある中で、いまだにメディアの空間ではマイノリティ憑依というアウトサイドの視点と夜回り共同体というインサイドからの視点に乖離している。基本的にはインサイダーとして体制補完しながらもアウトサイダーの位置から批判している。でもネットの世界からどんどん情報が発信される中、今やメディアのそんな立ち位置が問われている。
困難な立ち位置になるが当事者としての立ち位置を取り戻す必要がある。
といっても当事者としての立ち位置というのは自分に刃が帰ってくるだけに困難な道ですね。
日々のマスコミ報道に流されないようにするためには大切な視点だと思うのですが・・・どうも上手く要約出来ませんでした。
よう分からんかったという人、私の要約が悪いので一読の価値はあると思います。

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