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黒嶋敏「戦国の<大敗>古戦場を歩く」

2024-09-28 13:24:26 | 
戦国時代は文字通り闘いの連続。数々の有名な戦いがあるのだが、雌雄を決して一国の消長を決定づけた戦いもあった。
この本はそのうち一方が大敗を喫した古戦場を地図を片手に古の戦いに思いを馳せながら聖地巡礼のごとく巡るもの。

挙げられているのは
・桶狭間
・人取橋
・耳川・高城
・三方ヶ原
・長篠
の5か所です。
こう見てみると桶狭間、三方ヶ原、長篠と愛知県から静岡県東部に3か所もある。関ケ原もあってもいいと思うのですが、どうなんだろう。他にも毛利台頭の契機となった厳島の戦いとか後北条が扇谷上杉を撃破した川越の戦いが出て来てもいいのだが、まあ、これは著者の好みか。
ところで人取橋と耳川・高城というのは何処にあって誰と誰の戦い?
人取橋は福島県の本宮市のあると言ってもよく分からないのですが、郡山から東北本線で本宮駅へ。本宮は阿武隈川と安達太良川が流れ込む地点で奥州街道の宿場町。ここで伊達政宗が蘆名・二階堂などの連合軍と激突したのですが、数に劣る伊達勢が辛うじて危機を逃れて撤退。若き日の伊達政宗にとっては苦い敗戦となった。
耳川・高城は九州日向の国で起きた戦いで、当時九州最大の大名の大友氏が数に劣る島津氏に敗北を喫したもの。これ以降大友氏は衰退に向かい島津氏が勢力を伸ばしていく契機となる。
さて桶狭間に戻ると、今でも桶狭間の戦いについてはよくわかっていないことが多い。今川義元が討ち死にした場所のついても、今でも名古屋市と豊明市の2か所に史跡があって、それぞれが主張している。
そもそも勝者の記録しか残っていないことから戦いの実相についても織田側に神の加護があって悪は滅びる的な記録になりやすい。
今川義元の意図もいろいろ言われているが、上洛を考えていた訳ではなく、信長側に圧迫を受けていた大高城と鳴海城を援護してその支配を確実にするのが目的ではなかったか。連動した服部水軍の動きを見ると知多半島を今川方にして伊勢湾の制海権を握ろうとしたのでは。
今は都市化が進んでなおかつ海岸線も大きく後退しているので、以前鳴海から有松をへて現地を歩いたことがあるが、鉄道が通り、高速道路が頭上を交叉していて、なかなか当時の様子が思い浮かばないのですが、それだけに名鉄有松駅とかJR大高駅から歩いて行っても半日もあれば廻れるでしょうし、途中でランチを食べる場所にも困りません。
三方ヶ原は浜松の北の台地で東西10キロ南北15キロに及んでいて、平坦で水の確保が難しいので開発が難しく、当時は何もない原野だったみたいです。しかし無価値という訳ではなく入会地として大切な土地であり、台地の南北にある追分は東西交通の街道の要衝になっている。武田軍としてはこの三方ヶ原を確保することにって浜松の家康に圧力をかけたのだが、台地から平野への降り口である犀が崖で徳川方が何とか持ちこたえたと言うところなのだろう。浜松城からこの犀が崖までは1キロもなく、ここを奪われれば平野部に進出を許し浜松城に籠城するしかない。浜松城から歩いて行っても大したことはないので城を見た時に激戦地であったここまで歩けばよかったのですが、その時はそんな知識もなく浜松城を見ただけでした。三方ヶ原は広い原野だっただけにどこでどういう戦いがあったのかは明らかでない。見てみるのなら浜松城から犀が崖周辺ということなんでしょうか。
最後は長篠の戦い。鉄砲の三段撃ちはフィクションみたいですが、武田軍の動きと織田徳川軍の動きは、平山優さんと藤本正行さんの間に今でも論争があるみたいです。信長はこの戦いの勝利を大々的に喧伝しているので少し割り引いて考えないといけない面もあって、武田勝頼はこの戦い後もすぐに滅びたのではなく、活発に軍事活動を行っており、むしろ軍事よりも対外戦略を誤ったのが滅亡の原因と考えられます。武田軍がまったく無謀に鉄砲の弾幕に飛び込んで討ち死にしたと言うのは考えられないところです。
今では馬防柵が一部復元されていて、本数は少ないのですがJR飯田線の駅からも歩いて行けるので時間があれば一日付近を逍遥できればと思っていますが、なかなか機会がありません。
著名な古戦場ばかりですが、なぜここが戦場になったのかについて思いを馳せつつ徘徊したいものです。


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