最近BSの歴史番組などに頻繁に出るようになった本郷さん。
新書などで専門の中世日本史についての本を何冊も書いているのですが、最初の本を出版する時にはあの岩波書店からの話が進んでいたのに「本郷には1冊の本を書きとおす力はない」との上層部の判断でポシャってしまい、いまだに岩波書店からは本を出していない。多分岩波新書から著書が出ることは今後もないかも。
この本はそんな本郷さんの歴史学者としての自分史ですが、そういう類の本も出版できるほど売れっ子になったということなんでしょう。
教育熱心な母親から物心つくと英才教育を受け将来は医者になることを嘱望されていたのだが、幼い頃は喘息持ちで『死』を極度に恐れる子どもで、医者になろうと思ったらフナの解剖が出来ずに断念。「無用者」にあこがれ高校の頃にはパニック障害にも苛まれている。東大入学直後には引き籠り状態にもなるのだが、桑山浩然先生の講義によって歴史の面白さを知り、中世史を専攻し、何とか東大の史料編纂所へ入って現在に至る。自虐ネタ満載の自分史なのですが、愚痴る割には有名進学校から東大へ行き、学友である小泉恵子(今では史料編纂所所の所長なので上司でもある)と結婚し、東大教授になっているので、世間一般から見ると間違いなく成功譚で、私は逆立ちしても東大などには入れない。これはステルス自慢話?
でも日本における歴史学の変遷は非常に面白かったですけどね。
戦前の日本の歴史学は皇国史観によって天皇の時代こそ最高とされてきた。研究や分析の対象は支配者・為政者であり庶民は対象外。平泉澄が代表的だが彼は「日本の神話の話をすると、そこにどんな証拠があるのかと問うてくる人間がいる。しかし我々は日本人なのだから、信じるところから始めなくてはいけない」と言ったとか。これはもう学問というよりも信仰ですね。
戦後は皇国史観は完全に否定されマルクス主義史観が席巻。おなじみ上部構造と下部構造の議論であり、国家の経済を実質的に担っている労働者(下部構造)こそが歴史の主役という見方。私の大学時代の経済史とか思想史の教授はほとんどがこの史的唯物史観だったですけどね。
その後イデオロギー中心の歴史学から実証に基づいた分析が主流になり、民衆を中心とした名もなき民の歴史を分析した社会史が注目され網野善彦が一躍スター研究者となる。本郷が直接間接に薫陶を得た時代を代表した先生方の考え方と姿は興味深い。
こうして見てくると歴史学とは非常に時代の空気や世の中の雰囲気に影響されやすい学問と言える。
歴史に対してはロマンや感情による解釈が世に溢れているけど、実証主義の歴史学は感情に起因する一切のロマンを否定するところからスタートする。歴史学のロマンはいらない!一級資料を精読して機能的に考えていくのが科学としての歴史学。人間の内面には立ち入れないし、軽々に立ち入ってはならないが鉄則なのだが、井沢元彦に言わせれば、だから日本の歴史学はだめなんだとなるのだろう。
ただ実証と言っても史料を右から左に移しながら現代語に置き換えていくことだけではなく史料から史実を復元し、その史実を元に俯瞰する史像を導き、そこから歴史の見方である「史観」を生み出していくのが本郷の考える実証史学という。もっともその史料がどれほど実態を現しているのかと言うことを考えないと如何に緻密な分析を行っても意味がないかもしれず難しいところです。
それでも今の歴史の教科書は皇国史観のしっぽが残りエリート主義歴史観が残っている。暗記主体の構成で生徒に考えさせようとしないものだが、そこは大学試験の問題のせいと言われるとなんだかな~です。
もう1冊は池田清彦の「「頭がいい」に騙されるな」
いつもながらの池田節ですが、今日の日本の「頭がいい人」が政治や経済を主導して世論を形成してきた現状はどうだろう。それはみんなが考える「頭がいい人」の定義が間違っているし、「頭がいい人」は国や社会をよくしようとしているのではなく自分の利益だけ考えていることから。
いわゆる偏差値が高く受験競争を勝ち抜いてきた人が頭がいいと言われるけど、それは人間の頭脳の能力の偏った一面への評価。自分の頭で考えようとしないでひたすら前例を踏襲して現状維持の中でうまく立ち回る能力はあっても独創的な発想は出てこない。それどころか同調圧力の強い日本では独創的な人材の頭を押さえつけようとしている。いろいろな人が警告しているけど今の日本の教育制度には危機感を覚えてしまいます。
床屋政談的ですけど面白いし、結構予約待ちでしたのでファンも多いのでしょう。
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