憲法「改正」をめぐって自民党が新憲法試案要綱を発表(4月4日)、国会では憲法調査会が報告書を提出した(4月15日、衆議院)。自民党の要綱提出にいたった議論を見る限り、立憲主義への理解や国家の基本法たる憲法への本源的な理解が欠けているという指摘はあながち否定できない。
そもそも「改憲」か「護憲」かというからには憲法とは何なのかをわかっておく必要はあるだろう。立憲主義の本旨は、国家権力が市民(国民)に対してその圧倒的な力=支配力を背景にふるう社会的、政治的、経済的そして具体的な暴力を抑制するための民が国家に対して枷をはめた権力抑制の基盤である。先の衆議院福岡県補選で国会議員に返り咲いた山崎某が昔発言した「現行憲法には権利ばかり書いてあって義務が書いていない」というのは、この基本原則を理解できていない阿呆である。
『論座』は滅多に買わないが、本号はこの憲法特集で、『〈民主〉と〈愛国〉』の著者小熊英二が発言しているので手に取った。小熊は言う。「冷戦期と高度経済成長期に形成された『日本という国のあり方』が限界にきた、という認識が一般に広く共有され、新しいナショナル・アイデンティティーを築かなければならないという気分が高まっている。その新しいナショナル・アイデンティティー探しを改憲論議という形でやっている」と。
鬱屈した現状に壮大な打開策を求めるのは個人的にはあり得るし、それの失敗や成功のもとで人間は一定成長していくのだろうが、憲法は別である。
憲法だろうが、皇室だろうが民主主義社会のなかで論議するのは肯定されてよいし、むしろタブーをもうけない方がいいだろう。しかし、論議と言うからには床屋政談で終わってはならないし、ましてや政権与党が国会の場で思いつきの言いっぱなしではダメだろう。
小熊の論考の題は「改憲という名の『自分探し』」。自分探しは個人でなし、近しい人にわかってもらおうというプロセス自体に解放や転機が生じる可能性を内包する。憲法という国家のあり方の基本にかかわること、そして、それが私たちの未来の生活に少なからず影響があることについて思いつきの「自分探し」は止めてほしい。
これはブログなども縛りかねない表現・言論の自由にとってとてつもなく危険な「憲法改正国民投票法案(自民党)」以前の問題である。
そもそも「改憲」か「護憲」かというからには憲法とは何なのかをわかっておく必要はあるだろう。立憲主義の本旨は、国家権力が市民(国民)に対してその圧倒的な力=支配力を背景にふるう社会的、政治的、経済的そして具体的な暴力を抑制するための民が国家に対して枷をはめた権力抑制の基盤である。先の衆議院福岡県補選で国会議員に返り咲いた山崎某が昔発言した「現行憲法には権利ばかり書いてあって義務が書いていない」というのは、この基本原則を理解できていない阿呆である。
『論座』は滅多に買わないが、本号はこの憲法特集で、『〈民主〉と〈愛国〉』の著者小熊英二が発言しているので手に取った。小熊は言う。「冷戦期と高度経済成長期に形成された『日本という国のあり方』が限界にきた、という認識が一般に広く共有され、新しいナショナル・アイデンティティーを築かなければならないという気分が高まっている。その新しいナショナル・アイデンティティー探しを改憲論議という形でやっている」と。
鬱屈した現状に壮大な打開策を求めるのは個人的にはあり得るし、それの失敗や成功のもとで人間は一定成長していくのだろうが、憲法は別である。
憲法だろうが、皇室だろうが民主主義社会のなかで論議するのは肯定されてよいし、むしろタブーをもうけない方がいいだろう。しかし、論議と言うからには床屋政談で終わってはならないし、ましてや政権与党が国会の場で思いつきの言いっぱなしではダメだろう。
小熊の論考の題は「改憲という名の『自分探し』」。自分探しは個人でなし、近しい人にわかってもらおうというプロセス自体に解放や転機が生じる可能性を内包する。憲法という国家のあり方の基本にかかわること、そして、それが私たちの未来の生活に少なからず影響があることについて思いつきの「自分探し」は止めてほしい。
これはブログなども縛りかねない表現・言論の自由にとってとてつもなく危険な「憲法改正国民投票法案(自民党)」以前の問題である。