kenroのミニコミ

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チェ 28歳の革命/39歳別れの手紙

2009-02-11 | 映画
若い人はチェ・ゲバラの名前も知らずに本作品を見に行っているとか。
チェ・ゲバラの目指したものは世界同時革命ではない。キューバ革命で成功したようにゲリラ戦で地方から政府(軍)が掌握する都市への進軍という形をとっていた。ゲバラは新生キューバの大臣職、カストロに次ぐナンバー2の地位を蹴ってゲリラ戦の前線に旅立った。コンゴでの敗退からボリビアへ。ゲバラの進軍は敗れたがその死後40年経って現在ボリビアは社会主義政権下にあるのは皮肉なことである。
ところでゲバラについて、キューバ革命の立役者、カストロの右腕、キューバ政権から忽然と消え、ボリビアで戦死以外何も知らなかった筆者にもよくわかったことがある。それは1970年代以降の左翼勢力がときに実体的にゲバラの戦略を真似していたこと、山岳にこもって武闘訓練に励み、都市の権力中枢に撃って出ようとしたこと、それに見られる。連合赤軍は、日本の学生運動・左翼勢力の衰退の原因としてあそこまで過激化、仲間を殺すタコツボ化したことがあげられてきたが、その指摘は誤り。連合赤軍は日本の左翼勢力の衰退故にあのような結末に陥ったのだ。そう、すでに人民が(市民層が、でもいいが)そのような革命指向勢力を支持していなかった証なのである。
ゲバラのボリビアでの革命が成就しなかったのも、ボリビア民衆(ゲバラが拠点としたのは特に保守的(情報過疎)な村と言われる)の支持を得ていなかったからも一つの要因。コンゴでの敗退も理念としての農村開放、都市への侵攻という形態はたとえば戦後間もない頃の日本共産党の山村工作体を彷彿とさせるが(もちろん、日本共産党は1955年の6全協で「武装闘争」路線を放棄した)、中南米でのゲリラ闘争路線はニカラグアのサンディニスタ民族解放同盟やエルサルバドルのファラブントマルチ民族解放戦線(FMLN)に受け継がれ、一定の勝利を勝ち取った(しかし、サンディニスタ政権はその後右派政権に獲って代わられた。)。
また、70年代以降の日本の左翼勢力が一部の勢力を除いて武装闘争路線を放棄したが、いまだにその時代を知っている市民運動層はデモ(最近はピースウォークなどと言うらしい)でも「勝利するぞ」と連呼するなど、ゲバラの言葉を知ってか知らずか引用している。
そして、39歳で散るまで一線で活動していたゲバラは神格化までいかずに憧憬の的ともなっているのだろう。
ゲバラがカストロの元を去ったのはキューバが親ソ路線を深めたためとも言われるが(そういう意味では、ゲバラはブレジネフ・ドクトリンの東欧圧政(1988年、新ベオグラード宣言により正式に放棄)=覇権主義をいち早く糾弾していたわけであるが)、一国の革命成就のさきにゲバラは何を目指していたのかまではよく分からない。そのソ連も崩壊し、覇権主義崩壊どころか(チェチェン問題は措いておくとしても)旧連邦内の共和国の争いも激化しているのを見るにつけ、現在のようなナショナリズムの勃興をゲバラは予想したであろうか。
ゲバラ自身アルゼンチン人、カストロもスペイン生まれ。その国の未来を誰が変えていくかということと、その国の真のネイティブ性に民衆がどう固執するかという点が民主化としての社会主義革命の意義が問われているのかもしれない。アメリカで黒人の大統領が誕生し、その彼がキューバのグァンタモ閉鎖を告げる現在、誰が、どのような人物がその国を引っ張れば、より民衆が幸せななるか、ろくな指導者が輩出しない日本から憧れをもってゲバラを思い起こす。そんな作品であった。
コメント
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