「処理」や「解決」という言葉は対人間に使われるとき、とてつもないその非人間性と人命無視に気づかされる。戦後「処理」における強制連行された朝鮮人・中国人らへの補償の無為さ、原爆被害者への差別、「従軍慰安婦」への本質的謝罪の欠如など日本をめぐる太平洋戦争期の負の遺産としての「処理」がおよそ被害者の納得として機能していないことからも明らかだ。そして「解決」。人間の存在とは得てして「解決」とは遠いところで生きて、迷い、行きつ戻りつつ成長したり、なんらかの自覚や獲得を意識したり、あるいは結局答えが見つからないまま何も前進がないまま終わることも多いのが本当のところではないだろうか。個人の生き方の中で「解決」が語られて終わる場合は、他者に害を及ばさないという点で宜なるかなというところだが、権力を持った者が「解決」と言った場合どうか。
ヒトラーは「ユダヤ人問題の最終的解決」と言い、ホロコーストを生みだした。そしてスターリンはそのヒトラー、ナチスのポーランド侵攻に抗してポーランドを奪回、占領下に置きたいという政治的野望の上ではポーランドが独立した力を持つことを畏れた。スターリンがポーランドの戦後「処理」を選択した結果がカティンの虐殺。
幾分手前みその前置きが長くなったが、ポーランド映画の巨匠アンジェイ・ワイダが祖国がソ連の桎梏から解き放たれて20年近くの構想の末送り出したのが本作「カティンの森」である。虐殺事件後ポーランドの民衆はそれがナチスドイツの仕業ではなくソ連の犯罪であることを認識していたという。しかし、戦中そして戦後ソ連の衛星国家となったポーランドではそれはタブーであった。そしてワイダ監督の父親はカティン虐殺の犠牲者であった。
映画は、ラストこそ凄惨かつ衝撃的虐殺シーンで終わるが、物語の本旨は連行され、行方知れずとなった夫、息子、父であるポーランド軍将校を案じる女性ら家族の姿である。帰ってくると信じ、あるいは、その死の真実を知りたいと奔走する彼女ら。兄はソ連に殺されたとはっきり言う妹は拘束され、夫の死の実相を知りたいと奔走する妻は疎んじられる。同じく大将の夫をソ連軍に殺された妻は生き残った中尉にその真実を伝えたため、中尉は自ら命を絶つ。
戦後ソ連の属国化したポーランドではカティンの事件を語ることさえタブーであった。そしてワイダ監督自身が父をソ連の一連の虐殺で失っており、その事実を知ったのも監督自身が1957年カンヌ映画祭で「地下水道」審査員特別賞を受賞した際に、フランスで文献資料を見たのが初めてということなのだ。そして数々の賞を受賞したワイダ監督でさえも映像化するのに50年の歳月を待たなければならなかった苦難。
ソ連崩壊後多くの東欧諸国が自国民の血を流して独立の道を歩んでいる。なかには一つの共和国から最終的には6つの国に分かれ(コソボ独立を承認している国から見れば7つ)、その間夥しい犠牲者が出たユーゴスラビアのような例もある。その中にあって、ポーランドは自主管理労組「連帯」の蜂起に始まり、最終的には民主化(1989年)の過程で自国民に銃を向けることはなかった。しかし、18世紀のロシアによるポーランド分割、第2次大戦期にはドイツに侵攻され、戦後ソ連の支配下とやられっぱなしの国である。であるからこそ民主化、独立を果たす過程で新たな犠牲者を出さなかったのかもしれない。
カティンの森が語られるようになってほんの20年も経っていない。しかし、その間多くの遺族が斃れ、亡くなっている。ホロコーストはなかったとする一部の人にドイツは、それらの人を「記憶の暗殺者」と名付けた。記憶を消す、思い出させないという試みはソ連がポーランドに課したように戦車や銃剣の力でしか持続しなかったし、それも最終的には成功しなかった。東欧の過去と現実、カティンの森事件を語り継ぐ役目は一人ワイダ監督だけではない。
「一九六八年の夏、小雨に濡れたプラハの街頭に相対していたのは、圧倒的で無力な戦車と、無力で圧倒的な言葉であった。」(『言葉と戦車』加藤周一)
ヒトラーは「ユダヤ人問題の最終的解決」と言い、ホロコーストを生みだした。そしてスターリンはそのヒトラー、ナチスのポーランド侵攻に抗してポーランドを奪回、占領下に置きたいという政治的野望の上ではポーランドが独立した力を持つことを畏れた。スターリンがポーランドの戦後「処理」を選択した結果がカティンの虐殺。
幾分手前みその前置きが長くなったが、ポーランド映画の巨匠アンジェイ・ワイダが祖国がソ連の桎梏から解き放たれて20年近くの構想の末送り出したのが本作「カティンの森」である。虐殺事件後ポーランドの民衆はそれがナチスドイツの仕業ではなくソ連の犯罪であることを認識していたという。しかし、戦中そして戦後ソ連の衛星国家となったポーランドではそれはタブーであった。そしてワイダ監督の父親はカティン虐殺の犠牲者であった。
映画は、ラストこそ凄惨かつ衝撃的虐殺シーンで終わるが、物語の本旨は連行され、行方知れずとなった夫、息子、父であるポーランド軍将校を案じる女性ら家族の姿である。帰ってくると信じ、あるいは、その死の真実を知りたいと奔走する彼女ら。兄はソ連に殺されたとはっきり言う妹は拘束され、夫の死の実相を知りたいと奔走する妻は疎んじられる。同じく大将の夫をソ連軍に殺された妻は生き残った中尉にその真実を伝えたため、中尉は自ら命を絶つ。
戦後ソ連の属国化したポーランドではカティンの事件を語ることさえタブーであった。そしてワイダ監督自身が父をソ連の一連の虐殺で失っており、その事実を知ったのも監督自身が1957年カンヌ映画祭で「地下水道」審査員特別賞を受賞した際に、フランスで文献資料を見たのが初めてということなのだ。そして数々の賞を受賞したワイダ監督でさえも映像化するのに50年の歳月を待たなければならなかった苦難。
ソ連崩壊後多くの東欧諸国が自国民の血を流して独立の道を歩んでいる。なかには一つの共和国から最終的には6つの国に分かれ(コソボ独立を承認している国から見れば7つ)、その間夥しい犠牲者が出たユーゴスラビアのような例もある。その中にあって、ポーランドは自主管理労組「連帯」の蜂起に始まり、最終的には民主化(1989年)の過程で自国民に銃を向けることはなかった。しかし、18世紀のロシアによるポーランド分割、第2次大戦期にはドイツに侵攻され、戦後ソ連の支配下とやられっぱなしの国である。であるからこそ民主化、独立を果たす過程で新たな犠牲者を出さなかったのかもしれない。
カティンの森が語られるようになってほんの20年も経っていない。しかし、その間多くの遺族が斃れ、亡くなっている。ホロコーストはなかったとする一部の人にドイツは、それらの人を「記憶の暗殺者」と名付けた。記憶を消す、思い出させないという試みはソ連がポーランドに課したように戦車や銃剣の力でしか持続しなかったし、それも最終的には成功しなかった。東欧の過去と現実、カティンの森事件を語り継ぐ役目は一人ワイダ監督だけではない。
「一九六八年の夏、小雨に濡れたプラハの街頭に相対していたのは、圧倒的で無力な戦車と、無力で圧倒的な言葉であった。」(『言葉と戦車』加藤周一)