ゼウスというと絵画の世界では、様々なものに姿を変えて、多くの場合美しい女性を孕ませる全能の神どころか完璧にして頂点を極めた好色である。神であるのに、女神と交わることに飽き足らず、人間ともまぐわい、動物とまぐわる。まぐわるためには白鳥(レダと白鳥)や金色の雨(ダナエ)にまで姿を変えて、女(性)に精気?を送り込む。だからゼウスで真っ先に浮かんだのは好色であった。
それが一面的な見方であるのは、美術界を席巻する「変身物語」(オウィデイウス)からの題材拝借に毒されてきたことと同時に、ゼウスのお話(そもそもギリシア神話のゼウスが、変身して交わることを中心に描いたのはローマ神話のユピテル)を正確、多面的にとらえ切れていなかったということ。ただし、裁判官を全知全能と誤解することに、この作品の題の間違いと、それを狙った制作者の意図にまんまとはまった鑑賞者の姿がある。
ところで、「ゼウスの法廷」での裁判官の描き方はティピカルすぎてデフォルメが過ぎているのかなとも思う。実際の裁判官の世界なんて確認しようもないが、加納裁判官のそのようなティピカルな振る舞い 例えば婚約者の反論に「異議申し立てか」と訊いたり、「思料する」と言ったり は、おかしいがやはり裁判官の実際の姿を描いてはいないと思う。加納裁判官は、婚約者との私生活でも裁判官たらん姿を示しているが、むしろ、あのような「いつでも理性的に、合理的判断をする」(婚約者恵の言葉)裁判官が、私生活では「普通の」市民になりきることが問題なのではないか。
加納裁判官は「普通」の「庶民」出身であったが、司法研修所で人が変わったと母は言う。小さな商店を営む父が銀行の貸し剥がしにあい、訴訟でも負け、小学生であった加納少年がそれまでの野球少年から変わり、猛勉強して裁判官を目指すことになると。そして、東大、司法試験といくが司法研修所に行くまでは実家にも出入りしていたのにと。映画の時代設定が「平成23年」、加納判事が「特例」になるシーンがあるので、加納裁判官は平成18年任官となる。司法試験制度が変わり、法科大学院修了者が受験資格を得るのが一般的になったのが平成16年。細かな話であるが一発試験(旧司法試験のように法科大学院修了者でなくても受けられる試験)でないかぎり(合格者はとても少ない)、加納裁判官は法科大学院出身である。ところが加納の婚約者は32歳という設定なので、見合い(結婚)で出会ったというのであれば、加納が恵よりおそらく同年齢か年上。そうすると加納も32歳以上となるので、裁判官になったのは27歳ということになる。法科大学院は法科専科であれば2年履修なので加納は少なくとも法科大学院卒ですぐストレートに司法試験に合格したのではないことが分かる。
何が言いたいか。加納は恵と初任の鹿児島地裁で出会っているように決して裁判所内におけるエリートではないのである。なぜなら最高裁が目を付けたその後出世街道を歩むエリートは初任を東京地裁で経験し、その後関東近辺の裁判所と最高裁事務総局しか経験しないからである。しかし、今は二人とも東京で過ごし、加納は官舎にいるよう。ただ、恵の裁判を自分に担当させてくれといってそうなるあたりは東京地裁の規模では考えられないし、そもそも裁判官は事件を選ぶことなどできない(はずだ。ただ最高裁が最高裁の意に沿わない、人権を重視する裁判官を住民訴訟や行政訴訟、労働裁判の担当部に配置しないことはありうる。)。かように本作の設定はご都合主義的ではある。また、加納を攻撃する部総括判事や所長はあからさまに(最高裁の)意(や判例)に従え、裁判所の体面を傷つけるなと言うが、おそらく実際の所長らはこんなことを直接的、分かりやすくは言わないだろう。加納が自ら出処進退を明らかにするとか、自分ひとりの問題として「裁判所に迷惑をかけない」とか仕向けるはずである。
周防正行監督のヒット作「それでも僕はやってない」に比べ、ディテールで漫画チックなのは仕方ないとしても、裁判官は一人の人間たり得るのかあるいはゼウスなのか。そういった視点だけで見れば十分楽しめる作品ではある。(なお、現役裁判官として裁判所(官)のおかしさについて発言している寺西和史さんの本作ホームページで発言しているコメント(http://www.movie-zeus.com/comment.php)は秀逸である。)
それが一面的な見方であるのは、美術界を席巻する「変身物語」(オウィデイウス)からの題材拝借に毒されてきたことと同時に、ゼウスのお話(そもそもギリシア神話のゼウスが、変身して交わることを中心に描いたのはローマ神話のユピテル)を正確、多面的にとらえ切れていなかったということ。ただし、裁判官を全知全能と誤解することに、この作品の題の間違いと、それを狙った制作者の意図にまんまとはまった鑑賞者の姿がある。
ところで、「ゼウスの法廷」での裁判官の描き方はティピカルすぎてデフォルメが過ぎているのかなとも思う。実際の裁判官の世界なんて確認しようもないが、加納裁判官のそのようなティピカルな振る舞い 例えば婚約者の反論に「異議申し立てか」と訊いたり、「思料する」と言ったり は、おかしいがやはり裁判官の実際の姿を描いてはいないと思う。加納裁判官は、婚約者との私生活でも裁判官たらん姿を示しているが、むしろ、あのような「いつでも理性的に、合理的判断をする」(婚約者恵の言葉)裁判官が、私生活では「普通の」市民になりきることが問題なのではないか。
加納裁判官は「普通」の「庶民」出身であったが、司法研修所で人が変わったと母は言う。小さな商店を営む父が銀行の貸し剥がしにあい、訴訟でも負け、小学生であった加納少年がそれまでの野球少年から変わり、猛勉強して裁判官を目指すことになると。そして、東大、司法試験といくが司法研修所に行くまでは実家にも出入りしていたのにと。映画の時代設定が「平成23年」、加納判事が「特例」になるシーンがあるので、加納裁判官は平成18年任官となる。司法試験制度が変わり、法科大学院修了者が受験資格を得るのが一般的になったのが平成16年。細かな話であるが一発試験(旧司法試験のように法科大学院修了者でなくても受けられる試験)でないかぎり(合格者はとても少ない)、加納裁判官は法科大学院出身である。ところが加納の婚約者は32歳という設定なので、見合い(結婚)で出会ったというのであれば、加納が恵よりおそらく同年齢か年上。そうすると加納も32歳以上となるので、裁判官になったのは27歳ということになる。法科大学院は法科専科であれば2年履修なので加納は少なくとも法科大学院卒ですぐストレートに司法試験に合格したのではないことが分かる。
何が言いたいか。加納は恵と初任の鹿児島地裁で出会っているように決して裁判所内におけるエリートではないのである。なぜなら最高裁が目を付けたその後出世街道を歩むエリートは初任を東京地裁で経験し、その後関東近辺の裁判所と最高裁事務総局しか経験しないからである。しかし、今は二人とも東京で過ごし、加納は官舎にいるよう。ただ、恵の裁判を自分に担当させてくれといってそうなるあたりは東京地裁の規模では考えられないし、そもそも裁判官は事件を選ぶことなどできない(はずだ。ただ最高裁が最高裁の意に沿わない、人権を重視する裁判官を住民訴訟や行政訴訟、労働裁判の担当部に配置しないことはありうる。)。かように本作の設定はご都合主義的ではある。また、加納を攻撃する部総括判事や所長はあからさまに(最高裁の)意(や判例)に従え、裁判所の体面を傷つけるなと言うが、おそらく実際の所長らはこんなことを直接的、分かりやすくは言わないだろう。加納が自ら出処進退を明らかにするとか、自分ひとりの問題として「裁判所に迷惑をかけない」とか仕向けるはずである。
周防正行監督のヒット作「それでも僕はやってない」に比べ、ディテールで漫画チックなのは仕方ないとしても、裁判官は一人の人間たり得るのかあるいはゼウスなのか。そういった視点だけで見れば十分楽しめる作品ではある。(なお、現役裁判官として裁判所(官)のおかしさについて発言している寺西和史さんの本作ホームページで発言しているコメント(http://www.movie-zeus.com/comment.php)は秀逸である。)