言うまでもなく、英語のimportは輸入、exportは輸出である。接頭辞であるimはinと同義で内に入れること、exは外に出すこと。印象派はimpressionism、表現主義はexpressionismと英訳されるが、千足伸行成城大学名誉教授の本展解説によれば、印象派は革新的と見えながら、その前の絵画芸術(新古典主義やロマン主義)の主流であったアカデミーのサロンから逃れることなく、いやそのエッセンスを取り入れ、離れることなく、時にサロンへの上梓を希求した印象派の若い画家たちの姿があったということ。つまり、印象派は古いサロンの手法を完全否定するのではなく、内包化しつつ新しい表現=戸外に出て描いたのだが、その象徴的な出来事は、たとえばモネはずっとアカデミーに出品し続けて認められようとしていたとか、サロンと印象派の展覧会に両方出品し続けてきた画家がほとんどであるとか。ドガのようにサロンに出す奴は、新しい絵画を目指すものとして許さん、みたいな印象派原理主義者は少数派で、千足さんによるとサロンは印象派にとって「必要悪」であったとのこと。だから、ドガのようなサロンを全否定した画家はほとんどいなくて、印象派の活動後何年もしてからサロンに出品、入選したことを率直に喜んだモネのような画家が残ったとも言えるのだ。
一方、表現主義は内に取り込むのではなくて、外への放出が彼らの立ち位置であったこと。表現主義の範囲をどこに求めるかで変わってくるが、例えばフォービズムのブラマンクやドラン。アカデミーのサロンへのこだわりは、印象派創世記の画家ほどなく、むしろその後サロンを完全に解体した近代絵画の流れ、ピカソらのキュビズム、バッラらイタリア未来派、そしてノルデらドイツ表現主義への萌芽を感じさせる。
本展の要諦は、「夢見るフランス絵画」と名付けられただけあって、日本(人)のフランス絵画人気もしくはフリークを物語るものであって、上述の印象派からの美術史的分析というより、フランス近代美術に日本(人)がどう惹かれてきたかという日本側から見た、いわば一方的なフランス画壇への憧憬である。であるから、印象派の次はルオー、ブラマンクといったフォーブの画家が取り上げられるが、エコール・ド・パリの画家である。「パリ派」の実態はベラルーシから来たユダヤ人シャガールや、ポーランド人のキスリング、イタリア人モジリアニ、そして日本人フジタなどパリに惹かれてやってきた異邦人の集合体であった。もちろん今回の出展者の蔵ゆえユトリロやローランサンなどフランス人の作品も多いが、むしろこの「個人」がエコール・ド・パリの面々個人々に深い興味・造詣があったわけではなく、入手しやすいものを入手したのか、あるいは、ユトリロ、ローランサンといった「分かりやすい」作品を好んだのなのかもしれない。
いずれにしても、日本人がフランス絵画を収集しようとするとき、「パリ」という響きに惹かれて、先述の美術史的観点からの欠落性、不連続性はあるにせよ、日本にパリを持ち込もうとしたのは間違いないであろう。もともと日本の近代画壇を背負った人たちは黒田清輝をはじめとして、みんなパリを目指したのであるから。そういった意味で、日本ではパリをいただくフランスに「夢見た」のは故なきことではなく、それが西洋絵画導入への嚆矢となったのはやはり否定できないのである。(ルノワール「ド・ガレア夫人の肖像」)
一方、表現主義は内に取り込むのではなくて、外への放出が彼らの立ち位置であったこと。表現主義の範囲をどこに求めるかで変わってくるが、例えばフォービズムのブラマンクやドラン。アカデミーのサロンへのこだわりは、印象派創世記の画家ほどなく、むしろその後サロンを完全に解体した近代絵画の流れ、ピカソらのキュビズム、バッラらイタリア未来派、そしてノルデらドイツ表現主義への萌芽を感じさせる。
本展の要諦は、「夢見るフランス絵画」と名付けられただけあって、日本(人)のフランス絵画人気もしくはフリークを物語るものであって、上述の印象派からの美術史的分析というより、フランス近代美術に日本(人)がどう惹かれてきたかという日本側から見た、いわば一方的なフランス画壇への憧憬である。であるから、印象派の次はルオー、ブラマンクといったフォーブの画家が取り上げられるが、エコール・ド・パリの画家である。「パリ派」の実態はベラルーシから来たユダヤ人シャガールや、ポーランド人のキスリング、イタリア人モジリアニ、そして日本人フジタなどパリに惹かれてやってきた異邦人の集合体であった。もちろん今回の出展者の蔵ゆえユトリロやローランサンなどフランス人の作品も多いが、むしろこの「個人」がエコール・ド・パリの面々個人々に深い興味・造詣があったわけではなく、入手しやすいものを入手したのか、あるいは、ユトリロ、ローランサンといった「分かりやすい」作品を好んだのなのかもしれない。
いずれにしても、日本人がフランス絵画を収集しようとするとき、「パリ」という響きに惹かれて、先述の美術史的観点からの欠落性、不連続性はあるにせよ、日本にパリを持ち込もうとしたのは間違いないであろう。もともと日本の近代画壇を背負った人たちは黒田清輝をはじめとして、みんなパリを目指したのであるから。そういった意味で、日本ではパリをいただくフランスに「夢見た」のは故なきことではなく、それが西洋絵画導入への嚆矢となったのはやはり否定できないのである。(ルノワール「ド・ガレア夫人の肖像」)