民主主義とは何かと問われると結構答えられない。「権力は人民に由来し、権力を人民が行使するという考え方とその政治形態」(広辞苑第七版)では分かったような、納得できないような。ではこの「人民」とは、封建主義社会でない国家ではすべての人を含むと考えて良いだろう。大人も子ども、性別を問わずにである。しかし、世界経済フォーラムが発表した「ジェンダー・ギャップ指数 2018」によれば、日本は149か国中110位であった。教育や健康の分野では指数は高いのに、経済と政治の分野で指数が低かったからである。政策を立案し、国の現在や未来を方向付ける政治の分野に女性があまりにも少ないのは、決定の場に女性が参画していないということである。この国は「女性のいない民主主義」なのである。だからそもそも民主主義と呼べるのか、と問う。
筆者は女性参画の実態を明らかにするとともに、それを問題視してこなかった「男性の政治学」だったからではないかと、政治学の怠慢、あるいは問題構成の貧困ゆえではないかと。今やフェミニズムの成果を抜きに学問を語ることはできないし、触れていない政治学というのもないだろう。しかし、ジェンダーの視点と言いながら、多くの場合「環境」「人権」「民族」といった項目と並列されて「ジェンダー」が語られるのではないか。ジェンダーとは女性の視点ではなく、女性と男性との関係性であるとの概念に気づけば、この並列によりどのような学問−特に本稿の主題である政治学−であってもジェンダーの視点が必要であることに気づくだろう。
本書の冒頭、あるあると思わずうなづいてしまう男性目線の場面が描かれる。それはマンスプレイニング(説明するのは男性、聞き、質問するのは女性、という役割固定。manとexplainingの造語)、マンタラプション(女性の発言を男性が遮る。manとinterruptionの造語)、ブロプロプリエイション(男性が女性の発言を自分の発言として横取り。brotherとappropriation(盗用)の造語)に現れる。マッチョと概念は違うが、トランプ大統領にはあ〜んとしてしまう。これらを支えているのは個人の属性ではない。特に政治の場、決定の場に女性が少ないことの表れであり、また、それを特におかしいと思わなかった観念である。
様々な分析を通して、本書はジェンダー視点が反映されない政治実態を明らかにしてみせるが、例えば、「日本は防衛力をもっと防衛力を強化すべきか」という質問に男性議員は賛成が多く、女性議員は少ない。そして男性有権者は多く、女性有権者は少ない。男性同士、女性同士の意見が対応しているのである。つまり、女性議員が少ないと女性有権者の意見は政治に反映されにくいのである。あるいは、日本では政党自身が女性が政治進出しにくいゲートキーパーの役割を果たしてきたと。それは55年体制下で言えば自民党は明らかに世襲議員と地盤、家父長制の残滓があるであろうし、労働組合を基盤とする社会党も女性を擁立してこなかった。だから2018年に成立した候補者男女均等法(日本版パリテ法)は強制的クオータを定めていないことから2019年の参議院選挙でも女性は増えなかった。しかし政党によっては強制的クオータを掲げつつあり、今後の展開に待つしかない。
現在巷間をにぎわす「桜を見る会」問題では、三原じゅん子参議院議員が自身の母親などが招待されていた件で、ジャーナリストの青木理氏とコメンテーターの玉川徹氏が「(お母さんらに)どんな功労があるんだろう」と疑問を呈したことに対して、「侮辱発言だ。抗議する」と大憤慨したそうな。三原議員は安倍ヨイショの筆頭格だが、くだらない。自民党だけの問題ではないが、政党も女性候補を人寄せパンダ的に扱い、それらは当選させてきた有権者も「女性のいない民主主義」をあまり疑問に思っていないのかもしれない。(前田健太郎著 岩波新書)