kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

噛みつく、突っ込む、逃がさない   武田砂鉄『偉い人ほどすぐ逃げる』

2021-06-19 | 書籍

武田さんのスタンスは一言でいうと「どっちもどっちだよね」という姿勢に落とし込まないでおこう、「まだ、追いかけているのはどうか」という冷笑的、「大人」な対応をやめようということであると思う。

そういった武田さんの姿勢を理解するには、武田さんが批判や議論の俎上に載せる人たちの「右派VS左派」や「保守VSリベラル」、「(安倍)政権擁護VS政権批判」などいとった「分断」の一言で分かったことにしようとする粗雑なカテゴライズでは済まされるなということだ。武田さんはよしとはしないかもしれないが、そこにあるのは「まず、疑う」「その疑いに偏りがないかどうかを疑って」「発言した人の過去の文脈や整合性を確認して」「偉い人や力のない一介の個人の発言かどうか物差しとしない」ことくらいだろうか。これは単に、誠実に発言しているか、その誠実さにきちんと向き合う誠実さはあるか、それらを言論の自由や批評精神と照らして矜持はあるか、ということであると思う。

政治の世界で残念ながら進行した事実は、ウヤムヤが勝利するということである。森友問題では、公文書を書き換えさせられて自死に追いやられた赤木俊夫さんの妻雅子さんが、真相究明を求めて佐川宣寿元理財局長と国を相手に訴えを起こしているが、報道はその裁判の話が触れられるくらいである。佐川局長は「論功」で国税庁長官となったが、その昇進を決定した政権(安倍晋三首相や菅義偉官房長官)への追及は何らなされていない。さらに加計学園問題では、その「行政を歪め」た経緯を暴露した前川喜平元文科省次官への攻撃を主導した犯人も明らかになっていないし、桜を見る会問題では、金銭の出どころやシュレッダー破棄などほとんど何も明らかになっていない。要するに「知らない」「関係していない」「もう終わったこと」が通用してきたということだ。

武田さんの追及の矛先は、政権の中枢に止まらない。2019年のあいち・トリエンナーレでの「表現の不自由展・その後」をめぐって、すでに決まっていた支出をやめ、トリエンナーレ主催者の大村秀章愛知県知事のリコール運動を主導した河村たかし名古屋市長の粗雑な弁舌も切る。リコール署名が偽造されたものであって、リコール運動を取り仕切った田中孝博元県議が逮捕された現在、河村氏や高須克弥氏は「知らぬ、存ぜぬ」である。政権のやり方を学んでいるとしか思えない。

政治家以外の他の言論人らにも武田さんの噛みつきは続く。出演者が麻薬取締法違反で捕まったからといって後付けで助成金不支給を決定した文化庁(所管の独法)、ファンに襲われて怪我をしたアイドルの側から謝罪させるおかしさに気づかないフリの秋元康、目下の芸能人を怒鳴りつけることをキャラとする坂上忍と、その坂上に目上の者を配しない番組制作者など。そして極め付けは「LGBTという概念について私は詳細を知らないし、馬鹿らしくて詳細など知るつもりもないが、性の平等化を盾にとったポストマルクス主義の変種に違いあるまい」と書き散らかして、「生産性がない」発言の水田水脈議員を擁護した文芸評論家・小川榮太郎に対する「論」以前だという指摘である。武田さんはこの「LGBTという概念について私は詳細を知らない」発言を何度も引用する。それくらい、ひどい発言であり、論争を始める以前の前提認識(が誤っている)と考えるからだろう。要するに粗雑なのだ。

編集者として様々な作業に従事した武田さんは現在「ライター」と名乗る。そこには、言葉に対する人並みならぬ思い入れと、それを操る人間の品性にも気にかけてしまう性癖もあるのかもしれない。けれど、最高権力者が「やぎさん答弁」を連ねて済んでいる時代であるからこそ、武田さんの「噛み付く、突っ込む、逃がさない」姿勢に快哉を送りつつ、自身の言葉の劣化にも自覚的でありたいと思う。(『偉い人ほどすぐ逃げる』2021年 文藝春秋)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする