レーンバッハ美術館は、ミュンヘンの中心部、アルテピナコテークなどのそばにあり、ベルリンのブリュッケ美術館よりはるかに便利である。今回、レーンバッハ美術館展が開催できたのは美術館が2012年まで改装、休館することになったことによる。ただ、「カンディンスキーとクレー展」など昔あったような展覧会名ならもう少し人が来たかもしれないが「青騎士」となると知っている人がどれくらいいるか。
ドイツ表現主義と一括りにされることも多いが、青騎士とブリュッケではかなり違うようだ。キルヒナーやノルデが参加したブリュッケは、1905年結成から数年間は活動しているが、青騎士はそもそもカンディンスキーが1908年に結成した「ミュンヘン新芸術家協会」の中にあって内紛を重ね、カンディンスキーが1910年結成、11年の2回だけ展覧会を開いたものの、メンバーが第一次大戦に従軍、戦死するなどしてわずか2年の活動を余儀なくされたからである。カンディンスキーはロシア人であったこともあり、従軍していないが、カンディンスキーと意気投合し、青騎士の結成にも奔走したフランツ・マルクも36歳で戦死、マルクに師事し、クレーともチュニジア旅行を経験し、将来を嘱望されたが27歳でアウグスト・マッケもこの戦争で逝ってしまった。
毒ガスや塹壕戦などそれまでの戦争の姿を一変させた第一次世界大戦。ドイツはこの戦いで敗戦国となり、賠償に苦しみ、ナチスの台頭をゆるしていくが、失ったもののなかにはマルクらドイツ表現主義をけん引した若き画家たちも含まれていたのである。そして、生き残ったカンディンスキーらは青騎士の後、バウハウスに招請され、後進の指導にあたったが、その営みもナチスによってつぶされていく。バウハウスに移ってからのカンディンスキーはお馴染みのシュルレアリスム色が強くなっていくが、青騎士の頃はむしろ肖像画や風景画に力をいれているように見える。それもそのはず、ミュンヘンで11歳年下の教え子ガブリエーレ・ミュンターと出会い、当時妻がいたカンディンスキーは妻から逃れるようにずっとミュンターと過ごし、海外放浪も重ねていたからだ。そして、肖像画はミュンターなどを描き、風景画はミュンター、ヤウレンスキー、ヴェレフキンとアルプスのふもとムルナウに滞在し、アルプスの情景を徹底的に描いているからだ。カンディンスキーはミュンターにムルナウに家を買うようすすめ、結局カンディンスキーと別れたミュンターがムルナウに住み続け、ナチスによって退廃芸術の烙印を押され、作品が散逸したのにも関わらず、カンディンスキーの作品を守り続けたのだから歴史とは分からないものだ。そのミュンターがカンディンスキーの作品をミュンヘン市に寄贈したことによって、レーンバッハ美術館が青騎士の美術館として充実したものになったのが本展で紹介されている。
カンディンスキーらがムルナウで制作に励んでいた1909年ごろ、彼らの芸術的方向性は決定的となり、ミュンヘン新芸術家協会から分離、青騎士結成に至るのであるが、戦争で絶たれたこの短い活動は、バウハウスはもちろんのこと、ヤウレンスキーの形体主義はロトチェンコらのロシア構成主義へ、バウハウスで教鞭をとった後ドイツを追われたクレーも独自の世界を切り開いていくである。これが20世紀初頭の画壇を代表していくのであるから決して「短く」はなかったのだ。
冒頭記したように本展が「カンディンスキーとクレー展」などという催しであったなら、カンディンスキーとミュンターとの関係や、ヤウレンスキーとヴェレフキンのことまで知ることはなかったのではないか。そして早世したマルクやマッケのことも。
わずか2年弱を駆け抜けた青騎士の色遣いの激しさは、大戦という時代が流転する激しさや彼らの離合集散、出会いと訣別の激しさも内包していて有意義な本展であると思う。
(ガブリエーレ・ミュンターの肖像 カンディンスキー)
ドイツ表現主義と一括りにされることも多いが、青騎士とブリュッケではかなり違うようだ。キルヒナーやノルデが参加したブリュッケは、1905年結成から数年間は活動しているが、青騎士はそもそもカンディンスキーが1908年に結成した「ミュンヘン新芸術家協会」の中にあって内紛を重ね、カンディンスキーが1910年結成、11年の2回だけ展覧会を開いたものの、メンバーが第一次大戦に従軍、戦死するなどしてわずか2年の活動を余儀なくされたからである。カンディンスキーはロシア人であったこともあり、従軍していないが、カンディンスキーと意気投合し、青騎士の結成にも奔走したフランツ・マルクも36歳で戦死、マルクに師事し、クレーともチュニジア旅行を経験し、将来を嘱望されたが27歳でアウグスト・マッケもこの戦争で逝ってしまった。
毒ガスや塹壕戦などそれまでの戦争の姿を一変させた第一次世界大戦。ドイツはこの戦いで敗戦国となり、賠償に苦しみ、ナチスの台頭をゆるしていくが、失ったもののなかにはマルクらドイツ表現主義をけん引した若き画家たちも含まれていたのである。そして、生き残ったカンディンスキーらは青騎士の後、バウハウスに招請され、後進の指導にあたったが、その営みもナチスによってつぶされていく。バウハウスに移ってからのカンディンスキーはお馴染みのシュルレアリスム色が強くなっていくが、青騎士の頃はむしろ肖像画や風景画に力をいれているように見える。それもそのはず、ミュンヘンで11歳年下の教え子ガブリエーレ・ミュンターと出会い、当時妻がいたカンディンスキーは妻から逃れるようにずっとミュンターと過ごし、海外放浪も重ねていたからだ。そして、肖像画はミュンターなどを描き、風景画はミュンター、ヤウレンスキー、ヴェレフキンとアルプスのふもとムルナウに滞在し、アルプスの情景を徹底的に描いているからだ。カンディンスキーはミュンターにムルナウに家を買うようすすめ、結局カンディンスキーと別れたミュンターがムルナウに住み続け、ナチスによって退廃芸術の烙印を押され、作品が散逸したのにも関わらず、カンディンスキーの作品を守り続けたのだから歴史とは分からないものだ。そのミュンターがカンディンスキーの作品をミュンヘン市に寄贈したことによって、レーンバッハ美術館が青騎士の美術館として充実したものになったのが本展で紹介されている。
カンディンスキーらがムルナウで制作に励んでいた1909年ごろ、彼らの芸術的方向性は決定的となり、ミュンヘン新芸術家協会から分離、青騎士結成に至るのであるが、戦争で絶たれたこの短い活動は、バウハウスはもちろんのこと、ヤウレンスキーの形体主義はロトチェンコらのロシア構成主義へ、バウハウスで教鞭をとった後ドイツを追われたクレーも独自の世界を切り開いていくである。これが20世紀初頭の画壇を代表していくのであるから決して「短く」はなかったのだ。
冒頭記したように本展が「カンディンスキーとクレー展」などという催しであったなら、カンディンスキーとミュンターとの関係や、ヤウレンスキーとヴェレフキンのことまで知ることはなかったのではないか。そして早世したマルクやマッケのことも。
わずか2年弱を駆け抜けた青騎士の色遣いの激しさは、大戦という時代が流転する激しさや彼らの離合集散、出会いと訣別の激しさも内包していて有意義な本展であると思う。
(ガブリエーレ・ミュンターの肖像 カンディンスキー)
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