kenroのミニコミ

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ジェンダー規範の問題点は? 「三岸好太郎・節子展」

2021-12-01 | 美術

若くして亡くなった三岸好太郎は天才と呼ばれ、妻の三岸節子より圧倒的に知名度が高い。しかし、好太郎がわずか10数年稼働したのに比べて、94歳で逝去した節子の画業はとてつもなく長い。しかし、好太郎が戦前のシュルレアリスム絵画の一端をになったとの評価も含めて、好太郎の画業の変転に光を当たられることが多く、節子は「好太郎の妻にして画家」と紹介されることが多かったのではないか。しかし節子は「好太郎の妻にして画家」には収まらないし、少なくとも本展ではそうではない。しかし、ではなぜ「三岸好太郎・節子展」であるのか。

展覧会は少なくとも好太郎の画業に比して、節子のそれを軽んじているようにも見えないし、そして好太郎死後の節子の画業にもスポットを当てているのでバランスを取っているようにも見える。そうであるなら展覧会名の夫と、妻が付属物との表記がますます安易であったとしか思えない。「三岸好太郎・三岸節子展」であるならまだしも、画業の長さと没年齢を考えるならむしろ、「三岸節子・三岸好太郎展」ではなかったのかと。

しかし、好太郎が「天才」と呼ばれたほど時代の先端を切り取るほどの作品を発表したのは事実であるし、節子は戦前、それほどの業績を残していないのも確かである。では、節子の画業を好太郎のそれと比較して、正当に評価することは可能なのであろうか。

好太郎の画業は短かったが、大正期新興美術運動と並走し、西洋由来のさまざまな表現主義の息吹を捉え、取り入れ、作品に昇華した。有名な好太郎の「蝶と貝」をモチーフにしたシュルレアリスム作品は晩年の短い時期であって、それまでの変転こそが好太郎の真骨頂であることに見開かさせられることだろう。それほどまでに1920年代、西欧の「前衛」美術を取り入れようと格闘した三岸好太郎らの世代は、フォービズムもキュビスムも、挑戦できるものであればなんでも取り入れようとしたのである。日本で最も早い段階で抽象画に挑戦し、フォービズムもキュビスムをも体現したとされる萬鐵五郎は、その後南画に傾倒しているし、20年代にシュルレアリスムなど前衛的な作品を発表した画家たちは、戦時の国家体制という時代状況もあり、そのスタイルを変えていった。そういう意味では、美術の世界にまで国家主義が完徹する時代の前に亡くなった好太郎は、むしろ幸せであったのかもしれない。しかし、その後衛には同じ画家でありながら家事、育児に追われ、画家としての業績を重ねることもできずに奔放な好太郎の尻拭いに追われた節子の存在があった。同展では触れられていなかったが、同展の表題「貝殻旅行」、好太郎と節子が好太郎の死の直前、珍しく「睦まじく」旅行した際に、好太郎だけ名古屋に留まり、節子だけ先に東京に帰したのは、好太郎が名古屋の愛人の元に寄るためであった。その事実こそが、好太郎と節子の関係性を物語るし、好太郎がその愛人の元で客死したことを知るにつけ、節子の感情はいかばかりであったろうか、と考えずにいられない。

画家同士、夫婦である例は珍しくもないし、まさに「同志」であったからこそ紡がれた豊かな関係性もあるだろう。体調不全に悩まされた具体美術協会にも籍を置いた田中敦子は、同士で夫の金山明の支えがあったが、おそらく、金山より田中の画業の方が有名である。美術の中身の話ではなく、ジェンダーの話になってしまったが、美術の世界のジェンダー規範は、問うても問いきれていない問題でもあると思う。(「貝殻旅行 三岸好太郎・節子展」は神戸市立小磯記念美術館 2022年2月13日まで)

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