「現代美術はわかりにくい」というのが現代美術に必ず冠される前振りだ。その「わかりにくい」現代美術の展覧会が数多く催され、今年は特にヴェネチアビエンナーレ(2年ごと)、ドクメンタ12(カッセル 5年ごと)、ミュンスター彫刻プロジェクト(10年ごと!)まで巡りきた珍しい年でもある。国内でも2回目のBIWAKOビエンナーレ(近江八幡市)と今年初めて開催された神戸ビエンナーレ。
神戸ビエンナーレの総合プロデューサーが華道家ということで、会期中は入場口近くに「いけばな野外展」が設置されている。開催中、ずっと同じ生花を活けているわけにはいかないので数日単位で展示替えをするようであるが、そもそも会期中をとおしたインスタレーションとして耐えうる展示という意味では生け花は難しい分野であったかもしれない。
神戸ビの主要会場であるポートタワーそばのメリケンパークでは「アート イン コンテナ展」と「大道芸コンペティション」などが催されている。「アート イン コンテナ展」はその名のとおり、港町神戸よろしく作家ごとにコンテナで表現する面白い試み。コンテナという制約があるため、蔡国強のような大がかりな作品は無理だが(蔡ほどの大物はもちろん今回「招待」されてはいない。コンテナ展もコンペである。)、美術大学の現役大学生をはじめ若手を中心にそれなりに楽しめた。
越後妻有トリエンナーレでも出品した塩澤徳子氏の「こと-の-は」は、世界中の文字を散りばめたちょっと知的で楽しげな空間である。漢字、アルファベットはもちろん、ハングル、クリル文字、インカ文字、ヒエログリフ、トンパ文字まである。作家は作品をつくるにあたって世界の「文字」を探しまわったそうであるが、コミュニケーションが断絶しがちと言われる現代社会で文字の持つ「つながり」の実感といったものはまだまだ有用であるのかもしれない。携帯小説がはやり、ネット相談がそれなりに役にたっているという現代にあって、絵文字だろうが、不正確な日本語であろうが「つながり」を求めないということはない文字コミュニケーションを前提とした人の性みたいなものを見た気がする。もっとも、携帯ツールはいじめ自殺や出会い系犯罪なども誘因するが、これは文字コミュニケーションが本来内包する問題ではないだろう。
実は会期2日目に行った際、今夏いつまでも暑いのが災いして、塩澤さんのコンテナには暑くておれなかったのだが(蛍光灯がたくさん使用してある)、11月になってどのコンテナも暑くして耐えれないということはない。10月はこの暑さが入場者の減少に関係しているとすればとても残念だ。しかし、そもそも現代美術のインスタレーション作品は全部ではないが電気やその他動力に頼るものが多い。最近は多くはないが、ビデオインスタレーションなど電気なしでは展示さえできない。そのような前提で考えるならばコンテナという閉鎖空間でする展示はより涼しい季節を考えたほうがいいかもしれない。むろん今年の暑さが異常なのだが。
行列ができているコンテナもあり、それなりに観客は来ているがはっきり言って連休のしのぎやすいこの日和に、この人出ではきついだろう。冒頭に述べたが「現代美術はわかりにくい」という理由で人が少ないのであれば、むしろ(現代)美術が「わかる」「わからない」という範疇でとらえられている不幸な証ではないか。現代美術であろうとルネサンスや仏教芸術であろうと、「わかる」人は多くはないのでないか。「わかる」「わからない」ではからないと美術に接しえないというこの国の文化政策・教育(市民の感度)の貧しさこそ問われるべきであろう。もちろん「面白いと思う」「いいと思う」というのもより主観的になりすぎ、育てる、楽しむ、残すという意味での人間にとっての芸術・美術の存在価値がうすれるような気もするのであるが。
塩澤さんの作品をはじめしばらくコンテナにたたずんでいたい作品は外にもあるし、それぞれで探してほしい。2年に一度。また再来年開催するために。
(写真は塩澤さんの「こと-の-は」)
神戸ビエンナーレの総合プロデューサーが華道家ということで、会期中は入場口近くに「いけばな野外展」が設置されている。開催中、ずっと同じ生花を活けているわけにはいかないので数日単位で展示替えをするようであるが、そもそも会期中をとおしたインスタレーションとして耐えうる展示という意味では生け花は難しい分野であったかもしれない。
神戸ビの主要会場であるポートタワーそばのメリケンパークでは「アート イン コンテナ展」と「大道芸コンペティション」などが催されている。「アート イン コンテナ展」はその名のとおり、港町神戸よろしく作家ごとにコンテナで表現する面白い試み。コンテナという制約があるため、蔡国強のような大がかりな作品は無理だが(蔡ほどの大物はもちろん今回「招待」されてはいない。コンテナ展もコンペである。)、美術大学の現役大学生をはじめ若手を中心にそれなりに楽しめた。
越後妻有トリエンナーレでも出品した塩澤徳子氏の「こと-の-は」は、世界中の文字を散りばめたちょっと知的で楽しげな空間である。漢字、アルファベットはもちろん、ハングル、クリル文字、インカ文字、ヒエログリフ、トンパ文字まである。作家は作品をつくるにあたって世界の「文字」を探しまわったそうであるが、コミュニケーションが断絶しがちと言われる現代社会で文字の持つ「つながり」の実感といったものはまだまだ有用であるのかもしれない。携帯小説がはやり、ネット相談がそれなりに役にたっているという現代にあって、絵文字だろうが、不正確な日本語であろうが「つながり」を求めないということはない文字コミュニケーションを前提とした人の性みたいなものを見た気がする。もっとも、携帯ツールはいじめ自殺や出会い系犯罪なども誘因するが、これは文字コミュニケーションが本来内包する問題ではないだろう。
実は会期2日目に行った際、今夏いつまでも暑いのが災いして、塩澤さんのコンテナには暑くておれなかったのだが(蛍光灯がたくさん使用してある)、11月になってどのコンテナも暑くして耐えれないということはない。10月はこの暑さが入場者の減少に関係しているとすればとても残念だ。しかし、そもそも現代美術のインスタレーション作品は全部ではないが電気やその他動力に頼るものが多い。最近は多くはないが、ビデオインスタレーションなど電気なしでは展示さえできない。そのような前提で考えるならばコンテナという閉鎖空間でする展示はより涼しい季節を考えたほうがいいかもしれない。むろん今年の暑さが異常なのだが。
行列ができているコンテナもあり、それなりに観客は来ているがはっきり言って連休のしのぎやすいこの日和に、この人出ではきついだろう。冒頭に述べたが「現代美術はわかりにくい」という理由で人が少ないのであれば、むしろ(現代)美術が「わかる」「わからない」という範疇でとらえられている不幸な証ではないか。現代美術であろうとルネサンスや仏教芸術であろうと、「わかる」人は多くはないのでないか。「わかる」「わからない」ではからないと美術に接しえないというこの国の文化政策・教育(市民の感度)の貧しさこそ問われるべきであろう。もちろん「面白いと思う」「いいと思う」というのもより主観的になりすぎ、育てる、楽しむ、残すという意味での人間にとっての芸術・美術の存在価値がうすれるような気もするのであるが。
塩澤さんの作品をはじめしばらくコンテナにたたずんでいたい作品は外にもあるし、それぞれで探してほしい。2年に一度。また再来年開催するために。
(写真は塩澤さんの「こと-の-は」)
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