海外の古典文学にめっぽう弱いので(白状すると日本の古典も疎い)、たいがいの作品は題名以外知らないのだが、なぜか「ジェーン・エア」は読んでいた。これまで何度も映画化、テレビドラマ化されているが、見るのは初めて。
あらすじは複雑ではなく、19世紀初頭のイングランドで、不遇な子ども時代を過ごした主人公が成長し、やがて女性の自立と自ら選び取る愛を描いた物語、とたった二行ほどで済んでしまう。しかし、「女性の自立」が困難な時代に自らの意志を曲げずにやがて結ばれるとはいえ、自分の雇い主、身分の違う貴族領主と対等に物言い、渡り合う姿は当時としてとても斬新な物語であると言える。そして、出版当時は当然自立した女性という生き方に対する反発も強かったそうである。それはそうだろう、ジェーンもそうであるように、女性が働くというと家庭教師か寄宿学校の教員、それ以外は召使いしかなかった時代だ。原作者のシャーロット・ブロンテより少し前の時代だがジェーン・オースティンの描く世界では、女性の幸せは(貴族の女性だが)、いかに金持ちの男を捕まえるか、だけにかかっている。はたらかなければ生きてゆけない庶民層は、ジェーンのように家庭教師の道を選ぶしかなく、ジェーンがロチェスターの下を去り、身動きできなくなっていたのを助けたのが牧師、仕事を得るのも牧師館の教師の仕事であり、牧師の妹らも家庭教師として出稼ぎに行っている。
ロチェスターの旧館はおどろおどろしく、ロチェスターの妻が精神を病み、館の一角に閉じこめられ、夜な夜な出歩く様といい、18世紀末から流行ったゴシック小説を思わせるとの指摘もあるが(そもそもジェーンには聞こえるはずのないロチェスターの声が聞こえて、戻る決心をするのであるから)、本作のキモはいたってシンプルである。それは一度(ひとたび)愛を確認したらそれを追求するということである。それは、屋敷を含めて資産の多寡や(ジェーンは最後に伯父の遺産が入り、ロチェスターと財産的には対等な立場となるが)、女性の側から愛を告白してはいけないとか、男性側から申し込まれるのを待つといったジェンダー規範ではないということ。
それは女性の自立と愛情がこの時代に困難であったことを反対によく示しているだろう。しかし、19世紀初頭から200年近くたった現代、女性の働く世界ははるかに広がったとはいえ、資産の多寡や容姿など婚姻が外形的事情によらずになされているかというと、そうは言えないし、むしろ、不況の中、「上昇婚」しか対象になっていないというのが本当のところではないか、少なくとも日本では。
原作では、火事のあと、ロチェスターは盲目になったほか、片腕もなくし、資産も減らすなど、かなり落ちぶれた体で描かれていたように思うが、映画はそれほどでもない。しかし、今や力関係が逆転し、ジェーンの方からしっかりとロチェスターの手を握る姿は美しく感動的である。盲目のロチェスターはその手でジェーンと分かったシーンは、チャップリンの「街の灯」を思い起こさせ、ほろりとさせられた。
あらすじは複雑ではなく、19世紀初頭のイングランドで、不遇な子ども時代を過ごした主人公が成長し、やがて女性の自立と自ら選び取る愛を描いた物語、とたった二行ほどで済んでしまう。しかし、「女性の自立」が困難な時代に自らの意志を曲げずにやがて結ばれるとはいえ、自分の雇い主、身分の違う貴族領主と対等に物言い、渡り合う姿は当時としてとても斬新な物語であると言える。そして、出版当時は当然自立した女性という生き方に対する反発も強かったそうである。それはそうだろう、ジェーンもそうであるように、女性が働くというと家庭教師か寄宿学校の教員、それ以外は召使いしかなかった時代だ。原作者のシャーロット・ブロンテより少し前の時代だがジェーン・オースティンの描く世界では、女性の幸せは(貴族の女性だが)、いかに金持ちの男を捕まえるか、だけにかかっている。はたらかなければ生きてゆけない庶民層は、ジェーンのように家庭教師の道を選ぶしかなく、ジェーンがロチェスターの下を去り、身動きできなくなっていたのを助けたのが牧師、仕事を得るのも牧師館の教師の仕事であり、牧師の妹らも家庭教師として出稼ぎに行っている。
ロチェスターの旧館はおどろおどろしく、ロチェスターの妻が精神を病み、館の一角に閉じこめられ、夜な夜な出歩く様といい、18世紀末から流行ったゴシック小説を思わせるとの指摘もあるが(そもそもジェーンには聞こえるはずのないロチェスターの声が聞こえて、戻る決心をするのであるから)、本作のキモはいたってシンプルである。それは一度(ひとたび)愛を確認したらそれを追求するということである。それは、屋敷を含めて資産の多寡や(ジェーンは最後に伯父の遺産が入り、ロチェスターと財産的には対等な立場となるが)、女性の側から愛を告白してはいけないとか、男性側から申し込まれるのを待つといったジェンダー規範ではないということ。
それは女性の自立と愛情がこの時代に困難であったことを反対によく示しているだろう。しかし、19世紀初頭から200年近くたった現代、女性の働く世界ははるかに広がったとはいえ、資産の多寡や容姿など婚姻が外形的事情によらずになされているかというと、そうは言えないし、むしろ、不況の中、「上昇婚」しか対象になっていないというのが本当のところではないか、少なくとも日本では。
原作では、火事のあと、ロチェスターは盲目になったほか、片腕もなくし、資産も減らすなど、かなり落ちぶれた体で描かれていたように思うが、映画はそれほどでもない。しかし、今や力関係が逆転し、ジェーンの方からしっかりとロチェスターの手を握る姿は美しく感動的である。盲目のロチェスターはその手でジェーンと分かったシーンは、チャップリンの「街の灯」を思い起こさせ、ほろりとさせられた。
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