400年余の時空を超えてネーデルラントの巨匠と現代彫刻の粋が見えたわけではない。巨匠と書いたが、ヒエロニムス・ボスは生年もはっきりしない(1450年頃?)不明の部分が多い北方ルネサンス期の画家である。現存する作品も工房作も含めて25点程度と言われ、同年代のレオナルド・ダ・ヴィンチに比しても謎の部分が多い。しかし、その少ない作品は現代の人々を魅了してやまない。その代表作がスペインはプラド美術館の至宝「快楽の園」である。「謎の天才画家 ヒエロニムス・ボス」は「快楽の園」をめぐって美術界のみならず各界の著名人がその謎解きに挑む野心作である。
ルターによる宗教改革の前夜、ボスは宗教的教訓満載の「快楽の園」を描いた。そこに描かれている人、動物、得体の知れぬ化け物の姿はいったい幾つあるのか。人はすべて裸体で、交合する者もいるが、歓喜の踊りに興じる集団もある。そして圧倒的な迫力で迫りくるのは主に右パネルに描かれた魔物たちに拷問を受ける憐れな者たち。石臼でひかれる者、ハープに串刺しされる者、魔物に体丸ごと食われる者。左パネルに描かれているのがキリストとアダム、イブであることから、その対称性は明らかだ。宗教的教訓と書いたが、ボスには「七つの大罪と四終」という作品もある。大罪を犯した人間は禁断のリンゴを口にしたアダムとイブを筆頭に楽園を追放され、まだ食べ物の奪い合いや、享楽にふけるが(中央パネル)、ついに魔物の餌食となる(右パネル)。「七つの大罪」ほど分かりやすくはないが、その分、細部をじっくり見る楽しみが広がる。そしていくら見尽くしても見尽くせないほどの多彩な表現と数々の寓意。プラドを訪れる決して敬虔なクリスチャンではない多くの観光客の誰もがじっと見入ってしまう魅力がそこにはある。
映画では数々の著名人 世界的指揮者、作家、画家、現代美術家、美術史家、美術館長 らが口々のその魅力を述べる。そしてこの作品の謎がすべては解明されていないことも。いや解明されないのを皆楽しんでいるかのようだ。ボスはなぜこれを描いたのか、どのように奇想の魔物を生み出したのか、一つひとつの意味は? 500年前の絵画が投げかける疑問の数々を前に悪戦苦闘している私たちをこそボスは楽しんでいるのかもしれない。
一方、名優ジェフリー・ラッシュが演じる「(アルベルト・)ジャコメッティ 最後の肖像」はドキュメンタリーではなく言わば実録もの。あの極端に細長い人物彫刻で知られるジャコメッティだが日本人哲学者矢内原伊作をはじめ、肖像画も多く描いている。しかし、取材で親しくなったアメリカ人作家ジェイムズ・ロードはモデルになってくれないかと誘われ「夕方までには書きあげる」との言葉を信じて、モデルを引き受けたのだが。
芸術家は、近代以降、その性癖が明らかになっている人はたいてい破天荒、気難し屋だったりする。そうジャコメッティの彫刻のあの細長さが、対象の要らない部分をそぎ落とすだけそぎ落としていけばああなるとの解説もうなずけ、作品はいいが、ジャコメッティと友人になるのはご免である。ましてやモデルなど、と思わせる。結局、ロードがモデルを務めたのは18日間。その間、愛人が訪ねてきて全然筆を握らない日や、完成間近と思えたのに塗りつぶしてしまったり。何度も帰国便を変更し、散財した上にニューヨークで待つ恋人には愛想をつかされる。そしてじっと席に座っていたら、思うように描けず苦悩し、叫喚する芸術家。朝からワインを浴び、時には売春屈へ。いらぬことに気を回さずさっさとえがいてくれたたらいいのに、と考えるのが凡人か。いや芸術家には作品が簡単にはできないだけの芸術家なりの理由がある。ジャコメッティは言う「(作品に)完成などない」と。
主演のジェフリー・ラッシュはもちろん脇を固める役もいい。弟ディエゴを演じるトニー・シャループ、愛人の娼婦がたびたび訪ねてくる家で微妙な表情を見せる妻アネットにはシルヴィー・テステュー。彼女はどこかで見たと思ったら、聾唖の両親のもとクラリネット奏者をめざした物語「ビヨンド・サイレンス」の主演少女だったのだ。
ディエゴと示し合わせて、また塗りつぶそうとするのを遮り、肖像画を完成させたジャコメッティとロード。これがジャコメッティ最後の肖像画となり、再び渡仏し、ジャコメッティと再会しようとしたがロードだったが、叶わず芸術家は逝ってしまった。
400年の差と、ドキュメンタリーと脚本の違いはあるが芸術家の真実に迫るのは知的好奇心を揺さぶられる。ボスの絵も、ジャコメッティの彫像ももっともっと見たくなった。
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