レンブラントはあれだけの画業をこなし、生前かなり稼いでいたにもかかわらず、散在がすぎてついには破産したというのは有名である。その散在の理由がとてつもない蒐集癖であったこと。ルネサンス期の絵画など直接の美術作品はもちろんのこと、イスラムのミニチュアや貝殻、あるいはガラクタとしか思えないものまで集めまくったという(尾崎彰宏『レンブラントのコレクション─自己成型への挑戦』三元社)。
杉本博司の膨大な蒐集癖にまずレンブラントを思い出した。ただし、今回本展に出品されたのは、どうやって入手したのか何億年前の貴重な化石や空から降ってくるのをずっと待つわけにもいかない隕石、人類の文明発祥を想起させるエジプト「死者の書」や古代日本は法隆寺の絹、そして『タイム誌』のバックナンバーまである。古週刊誌などガラクタに見えなくもないが、集められたのはほとんど第2次大戦前のものでヒトラーをはじめ、ムッソリーニや、昭和天皇、東条英機などファシズム期の指導者が表紙を飾ることも多く、その登場回数から時代、時代の重要度がかいまみえる。
杉本博司という人をよく知らなかったのだが、2005年に森美術館で回顧展をしていて、それで「ああ、このような写真を撮る人なのだ」という少し変わったコンセプトで対象を捉える写真家というイメージを勝手に持っていた。しかし、今回、その写真家としての広がり、というか写真家には違いないのだけれども、「写真家」というにはあまりにも杉本を評するには足らない気がしてしまった。
本展のタイトルが示すようにこれは「歴史の歴史」である。それこそ地球誕生から今世紀の最先端の建築物までカメラで写し取るという行為は、「歴史」から考えれば、それはあまりにも一瞬である。しかし、杉本は写真という何千分の一秒の世界であるからこそ、その世界で「歴史」を表そうとしたのではないか。もちろん、杉本の撮影方法はいわゆる動物写真や植物写真のようにほんの一瞬を切り取った(あるいはタイミングがすべて)写真とはひと味も二味も違う。露出を長くして、普通には露光できないものも描いている。そしてそうであれば、この世界に流れる時間を意識させるために徹底的に被写体に付き合う時間も長かろう。そして、人間の生などほんの100年足らずの中でその短い生しかない存在であるからこそ、海であるとか、宗教事物であるとかより長いスパンで人間に対峙する被写体と向き合っているのである(宗教発現の杉本の解説もまた簡潔でよい)。
展覧会での杉本自身の説明は、レンブラントもおそらくそうであったように思うのであるが、ある種の博覧強記を感じざるを得ない。好奇心が過ぎるのだろう。歴史を語るためには、杉本の場合、写すには、歴史が語られた歴史を繙かなければならない。そういう広角レンズ(というか360度か)を持った写真家の宿命として時間を我がものにした説明責任が杉本にはあるように思える。
45億年の中でほんのゴミくずの私たちにも時間を感じる特権は許される。
(写真は十字架教会 建築設計は安藤忠雄)
杉本博司の膨大な蒐集癖にまずレンブラントを思い出した。ただし、今回本展に出品されたのは、どうやって入手したのか何億年前の貴重な化石や空から降ってくるのをずっと待つわけにもいかない隕石、人類の文明発祥を想起させるエジプト「死者の書」や古代日本は法隆寺の絹、そして『タイム誌』のバックナンバーまである。古週刊誌などガラクタに見えなくもないが、集められたのはほとんど第2次大戦前のものでヒトラーをはじめ、ムッソリーニや、昭和天皇、東条英機などファシズム期の指導者が表紙を飾ることも多く、その登場回数から時代、時代の重要度がかいまみえる。
杉本博司という人をよく知らなかったのだが、2005年に森美術館で回顧展をしていて、それで「ああ、このような写真を撮る人なのだ」という少し変わったコンセプトで対象を捉える写真家というイメージを勝手に持っていた。しかし、今回、その写真家としての広がり、というか写真家には違いないのだけれども、「写真家」というにはあまりにも杉本を評するには足らない気がしてしまった。
本展のタイトルが示すようにこれは「歴史の歴史」である。それこそ地球誕生から今世紀の最先端の建築物までカメラで写し取るという行為は、「歴史」から考えれば、それはあまりにも一瞬である。しかし、杉本は写真という何千分の一秒の世界であるからこそ、その世界で「歴史」を表そうとしたのではないか。もちろん、杉本の撮影方法はいわゆる動物写真や植物写真のようにほんの一瞬を切り取った(あるいはタイミングがすべて)写真とはひと味も二味も違う。露出を長くして、普通には露光できないものも描いている。そしてそうであれば、この世界に流れる時間を意識させるために徹底的に被写体に付き合う時間も長かろう。そして、人間の生などほんの100年足らずの中でその短い生しかない存在であるからこそ、海であるとか、宗教事物であるとかより長いスパンで人間に対峙する被写体と向き合っているのである(宗教発現の杉本の解説もまた簡潔でよい)。
展覧会での杉本自身の説明は、レンブラントもおそらくそうであったように思うのであるが、ある種の博覧強記を感じざるを得ない。好奇心が過ぎるのだろう。歴史を語るためには、杉本の場合、写すには、歴史が語られた歴史を繙かなければならない。そういう広角レンズ(というか360度か)を持った写真家の宿命として時間を我がものにした説明責任が杉本にはあるように思える。
45億年の中でほんのゴミくずの私たちにも時間を感じる特権は許される。
(写真は十字架教会 建築設計は安藤忠雄)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます