京都・金戒光明寺②「アフロ大仏 五劫思惟阿弥陀仏」のつづき
2020年11月18日(水)
会いたかった「アフロ大仏さま」とお別れして・・・
「會津藩墓地」へ向かいます。(會=会 會に統一します。)
紫雲石 西雲院
會津藩墓地へ向かっていると「紫雲石 西雲院」があります。
會津藩殖難者墓地をあずかる、西雲院開基の「宗厳(そうごん)」は、秀吉が朝鮮に出兵の時に連れ帰った一人でした。
宗厳はのちに出家して、元和2年にこの紫雲石を賜りました。
見難いですが「紫雲石 西雲院」と書いています。
「紫雲石」は
1175年(承安5)法然上人がこの地の石に腰を下ろし、日想観をしていると、紫雲がたなびいて、悟った上人は、この岡に庵を結んだのが金戒光明寺の始まりであり「紫雲石」といわれました。
西雲院には、歌にもある「侠客 會津小鉄」のお墓があります。
會津小鉄は本名「上阪(こうさか)仙吉といい、會津藩松平容保が京都守護職在職中は表の家業は口入れ屋として、裏では新選組の密偵として大活躍しました。
小鉄は、會津藩が鳥羽伏見の戦いで賊軍の汚名を着せられ、戦死者の遺体が鳥羽伏見の路上に放置されていたのを子分二百余名と、迫害も恐れず収容し近くの寺で荼毘に付し回向供養したといわれています。
以後も、小鉄は容保公の恩義に報いんが為に
黒谷會津墓地を西雲院住職とともに死守しました。
西雲院には、子分が書いた伝記「会津小鉄伝」が発見され
「近藤勇の首級奪取、会津へ運ばす」との記述がありました。
小鉄が清掃・整備の奉仕を続けたという逸話が残っています。
會津藩墓地
毎年6月の第2日曜日には、京都會津会主催で「會津松平家第十四代当主 松平保久(もりひさ)」氏もご列席で、會津藩殉難者追悼法要を勤められているそうです。
2020年11月18日(水)
会いたかった「アフロ大仏さま」とお別れして・・・
「會津藩墓地」へ向かいます。(會=会 會に統一します。)
紫雲石 西雲院
會津藩墓地へ向かっていると「紫雲石 西雲院」があります。
會津藩殖難者墓地をあずかる、西雲院開基の「宗厳(そうごん)」は、秀吉が朝鮮に出兵の時に連れ帰った一人でした。
宗厳はのちに出家して、元和2年にこの紫雲石を賜りました。
見難いですが「紫雲石 西雲院」と書いています。
「紫雲石」は
1175年(承安5)法然上人がこの地の石に腰を下ろし、日想観をしていると、紫雲がたなびいて、悟った上人は、この岡に庵を結んだのが金戒光明寺の始まりであり「紫雲石」といわれました。
西雲院には、歌にもある「侠客 會津小鉄」のお墓があります。
會津小鉄は本名「上阪(こうさか)仙吉といい、會津藩松平容保が京都守護職在職中は表の家業は口入れ屋として、裏では新選組の密偵として大活躍しました。
小鉄は、會津藩が鳥羽伏見の戦いで賊軍の汚名を着せられ、戦死者の遺体が鳥羽伏見の路上に放置されていたのを子分二百余名と、迫害も恐れず収容し近くの寺で荼毘に付し回向供養したといわれています。
以後も、小鉄は容保公の恩義に報いんが為に
黒谷會津墓地を西雲院住職とともに死守しました。
西雲院には、子分が書いた伝記「会津小鉄伝」が発見され
「近藤勇の首級奪取、会津へ運ばす」との記述がありました。
小鉄が清掃・整備の奉仕を続けたという逸話が残っています。
會津藩墓地
毎年6月の第2日曜日には、京都會津会主催で「會津松平家第十四代当主 松平保久(もりひさ)」氏もご列席で、會津藩殉難者追悼法要を勤められているそうです。
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