喜久家プロジェクト

日本一細長い半島、四国最西端「佐田岬半島」。 国内外からのボランティアとともに郷づくり「喜久家(きくや)プロジェクト」。

迷える子羊ならぬ、飲みすぎの響未(こひつじ)

2015-08-17 | ブログ
 8月12日をふり返る。

 松山での飲み会。
時間があったので、お城下を散策。
 電線を地下に埋設し、歩道が整備され、ゆっくりと歩けるここが最近、お気に入り。

 道後やや、夢蔵のホテル経営、今治タオル「伊織」、様々なオレンジ製品を手がける「10ファクトリー」
などの経営者でもある大藪崇さんの店や商品を見て回る。
 実におもしろい、そして斬新。
多くの人とつながり、まきこみ、喜びを共有する経営観。

 店に入るときには小雨が降っていた街も、雨が上がった。


 飲み会会場の響未へ向かう。
響未と書いて、こひつじと読む。洒落ている呼び名。

 店先につくと、中が見えないモダンな建物。
おそるおそる入口を入る。
ちょうどいい明るさのライト、そしてこれまた洒落た部屋のデザイン。

 感じのいい店員さんが注文をとりにくる。
もちろん、生ビールに決まっている。
ここの生ビールは、えびすビール。
これまた幸せな気分。


 おとうしに出されたのは、
酒が好きな私にはピッタリのものばかり。



 少量で、めずらしくて


 これがトマトとは。


 刺身には舌が肥えている私だが、このおつくりも上等。


 ビールもどんどん進む。

 料理は、どんどん出されるのだが、飲むことで精いっぱい。
いつものことながら、なかなか手が回らない。
結局、食べてもらったり。

 話も切れることなく、湧き出て、盛り上がる。
飲むほどに酔うほどに。

 しだいに大きな子羊は、迷走(め~、走)し始める。
まさに飲みすぎの響未(こひつじ)。


 久しぶりの再会。
そしておいしい料理とお酒。

 松山の夜は、まだまだ終わらなかった。

 部屋に帰るとライトアップされた松山城が見えた。
灯りを落とすと、さらにきれいに見える。

 そんな中、人の大切さを心から感じた。
ずっと大切にしていきたい宝者(たからもの)。

 再会を楽しみにしながら床に就いた。
羊が1匹、羊が2匹…。
 何匹も数えないうちに、深い夢のなかへ入っていった。


           岬人(はなんちゅう)


娘がレッドウィングから帰国

2015-08-17 | ブログ
 8月11日をふり返る。

 7月29日からアメリカ、ミネソタ州レッドウィングにホームステイしていた娘が帰ってきた。



 多くの人の支えがあり、とても貴重な経験ができた。



 日本やふるさととの様々な違いを感じたことだろう。
そして似ている部分も。

 実家に帰って母家にあいさつに行った娘から出た言葉が、
「ばあちゃん、レッドウィングは広くて、きれいで、人はやさしくてとてもいいとこやったよ。
でもここが一番落ち着けるなー。」

 それが感じられただけでもすばらしい経験だったにちがいない。

 違いは、豊かさにつながる。

          
         岬人(はなんちゅう)

長崎という街

2015-08-17 | ブログ
 8月9・10日の後追いブログ。

 9日は、長崎原爆の日。
平和祈念式典に参加した後、大好きな長崎の街を散策することにした。

 そこで、福岡に住んでいる大学の時の親友である長崎出身のゆきちゃんに電話し、
おすすめスポットを聞くことにした。

 電話で聞く久しぶりの懐かしい声。
「今、長崎におるんやけど、どこかおすすめ教えて。」

 すると、思いもよらない返事。
「私も今実家に帰っておるとよ。
夜やったら空くけん、会おうや。」

 妻もゆきちゃんと何度か会っているので、世界3大夜景に選ばれた稲佐山に連れて行ってもらうことになった。

 この後さらにすごい展開となり、
結局夜景を見に行く前に、ゆきちゃんの実家に寄せてもらった。
 初めて会う中学生の息子さん。両親によく似ていた。
そして元気なお母さん。
いろいろな話に花が咲いた。

 ゆきちゃんは、歌手の福山雅治さんと同じ小学校・中学校で、
しかも同じブラスバンド部で、彼は一つ後輩。
 お母さん同士もとても仲が良く、
「雅治くん」と親しみをこめて呼ぶ間柄に、ゆきちゃんやお母さんを通して
福山雅治さんがとてもすてきに感じられた。

 娘は、大ファンなので、わくわくしながら話を聞いていた。

 通っていた幼稚園や小学校、そして実家やマンションを案内してもらい、
裏話を聞かせてもらいながら、ふるさとや家族をとても愛している福山雅治さんを
同じ思いをもつ者として、身近に感じた。


 そして上っていた稲佐山。
久しぶりに見る夜景に感激。
 初めての娘は、感動していた。
この灯りの下にそれぞれの人たちの暮らしがある。
そう思うと、幸せな気持ちでいっぱいになった。



 もちろんゆきちゃんとも記念に。
娘もいっしょに。

       
 友とのとてもすてきな時間。
ずっと大切にしたい。

 翌日10日は、大浦天主堂とグラバー園を見てまわった。
長崎は、歴史をひもとけば、異国との交流の街。

 キリスト教と結ばれた祈りの街。
そこには、喜びと苦難の道が混在している。
原爆が落とされた時もそうであっただろう。


                    「国宝の大浦天主堂」

 長崎の街を感じながら、自分のふるさとについてふり返った。
大切なものを護っていこうとする純粋な心。
そして、ふるさとの外の世界や人との交流。
 そんなことを大切にした郷づくりを進めていきたい。


        岬人(はなんちゅう)
 

70回目の長崎原爆の日 ~長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に参加~

2015-08-17 | ブログ
 この10日間、様々なことがあり、後追いブログとなってしまった。

 8月8日、二名津で「わが家ライブ」のイベントが終わり、
すぐに午後10:30発の九四フェリーに乗りこみ、長崎へ車を走らせた。
70回目の長崎原爆の日「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」に参加するためだ。

 昨年は、娘たち2人といっしょに広島平和記念式典に参加。
今年は、妻と娘一人と3人で向かった。
 見ておきたい・感じておきたい2つの式典。

 昼間は、岡山シーガルズとの交流会、午後からは練習試合。
夜は、二名津の「わが家ライブ」の記録撮影。
 長崎への運転は、疲れで途中何度か休憩を取りながら、
8月9日午前8時には、平和公園に到着。

 この日長崎は、70回目の原爆の日を迎えた。
 爆心地に近い長崎市松山町の平和公園で、市主催の「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」が営まれた。
被爆者や遺族、安倍晋三首相らが参列し、原爆死没者の冥福を祈った。


                                   「安倍首相のあいさつ」

 田上富久市長は平和宣言で、「悲惨な戦争の記憶を語り継いでいくことが必要だ」
と世界に呼び掛けた。
国会で議論されている安全保障関連法案についても言及し、政府と国会に対して、慎重な審議を求めた。(時事通信)



<長崎原爆の日>平和宣言全文

 昭和20年8月9日午前11時2分、一発の原子爆弾により、長崎の街は一瞬で廃墟と化しました。

 大量の放射線が人々の体をつらぬき、想像を絶する熱線と爆風が街を襲いました。
24万人の市民のうち、7万4000人が亡くなり、7万5000人が傷つきました。
 70年は草木も生えない、といわれた廃墟の浦上の丘は今、こうして緑に囲まれています。
しかし、放射線に体を蝕(むしば)まれ、後障害に苦しみ続けている被爆者は、あの日のことを一日たりとも忘れることはできません。

 原子爆弾は戦争の中で生まれました。そして、戦争の中で使われました。

 原子爆弾の凄(すさ)まじい破壊力を身をもって知った被爆者は、
核兵器は存在してはならない、そして二度と戦争をしてはならないと深く、強く、心に刻みました。
 日本国憲法における平和の理念は、こうした辛(つら)く厳しい経験と戦争の反省の中から生まれ、
戦後、我が国は平和国家としての道を歩んできました。
 長崎にとっても、日本にとっても、戦争をしないという平和の理念は永久に変えてはならない原点です。

 今、戦後に生まれた世代が国民の多くを占めるようになり、戦争の記憶が私たちの社会から急速に失われつつあります。
 長崎や広島の被爆体験だけでなく、東京をはじめ多くの街を破壊した空襲、沖縄戦、
そしてアジアの多くの人々を苦しめた悲惨な戦争の記憶を忘れてはなりません。

 70年を経た今、私たちに必要なことは、その記憶を語り継いでいくことです。

 原爆や戦争を体験した日本、そして世界の皆さん、記憶を風化させないためにも、その経験を語ってください。

 若い世代の皆さん、過去の話だと切り捨てずに、未来のあなたの身に起こるかもしれない話だからこそ伝えようとする、
平和への思いをしっかりと受け止めてください。

「私だったらどうするだろう」と想像してみてください。
そして、「平和のために、私にできることは何だろう」と考えてみてください。
 若い世代の皆さんは、国境を越えて新しい関係を築いていく力を持っています。


 世界の皆さん、戦争と核兵器のない世界を実現するための最も大きな力は私たち一人ひとりの中にあります。
戦争の話に耳を傾け、核兵器廃絶の署名に賛同し、原爆展に足を運ぶといった一人ひとりの活動も、集まれば大きな力になります。
 長崎では、被爆二世、三世をはじめ、次の世代が思いを受け継ぎ、動き始めています。

 私たち一人ひとりの力こそが、戦争と核兵器のない世界を実現する最大の力です。
市民社会の力は、政府を動かし、世界を動かす力なのです。

 今年5月、核不拡散条約(NPT)再検討会議は、最終文書を採択できないまま閉幕しました。
しかし、最終文書案には、核兵器を禁止しようとする国々の努力により、核軍縮について一歩踏み込んだ内容も盛り込むことができました。

 NPT加盟国の首脳に訴えます。

 今回の再検討会議を決して無駄にしないでください。
国連総会などあらゆる機会に、核兵器禁止条約など法的枠組みを議論する努力を続けてください。

 また、会議では被爆地訪問の重要性が、多くの国々に共有されました。

 改めて、長崎から呼びかけます。

 オバマ大統領、核保有国をはじめ各国首脳の皆さん、世界中の皆さん、
70年前、原子雲の下で何があったのか、長崎や広島を訪れて確かめてください。
 被爆者が、単なる被害者としてではなく、“人類の一員”として、今も懸命に伝えようとしていることを感じとってください。

 日本政府に訴えます。

 国の安全保障は、核抑止力に頼らない方法を検討してください。
アメリカ、日本、韓国、中国など多くの国の研究者が提案しているように、北東アジア非核兵器地帯の設立によって、それは可能です。
 未来を見据え、“核の傘”から“非核の傘”への転換について、ぜひ検討してください。

 この夏、長崎では世界の122の国や地域の子どもたちが、平和について考え、話し合う、「世界こども平和会議」を開きました。

 11月には、長崎で初めての「パグウォッシュ会議世界大会」が開かれます。
核兵器の恐ろしさを知ったアインシュタインの訴えから始まったこの会議には、世界の科学者が集まり、核兵器の問題を語り合い、平和のメッセージを長崎から世界に発信します。

 「ピース・フロム・ナガサキ」。
平和は長崎から。私たちはこの言葉を大切に守りながら、平和の種を蒔(ま)き続けます。

 また、東日本大震災から4年が過ぎても、原発事故の影響で苦しんでいる福島の皆さんを、長崎はこれからも応援し続けます。

 現在、国会では、国の安全保障のあり方を決める法案の審議が行われています。
70年前に心に刻んだ誓いが、日本国憲法の平和の理念が、今揺らいでいるのではないかという不安と懸念が広がっています。
政府と国会には、この不安と懸念の声に耳を傾け、英知を結集し、慎重で真摯(しんし)な審議を行うことを求めます。

 被爆者の平均年齢は今年80歳を超えました。
日本政府には、国の責任において、被爆者の実態に即した援護の充実と被爆体験者が生きているうちの被爆地域拡大を強く要望します。

 原子爆弾により亡くなられた方々に追悼の意を捧(ささ)げ、
私たち長崎市民は広島とともに、核兵器のない世界と平和の実現に向けて、全力を尽くし続けることを、ここに宣言します。

 2015年(平成27年)8月9日
                     長崎市長 田上 富久 」


 私たちに必要なことは、原爆を体験された方々に耳を傾け、
その事実を知り、語り継いでいくこと。

 平和のために自分にできることを考えていくこと。
そんな想いを強くした長崎原爆の日だった。


                   岬人(はなんちゅう)