J-Blueの雑記帳(近場を歩く)

此のBlogを雑記帳代わりにと始めました。最近はハイキング・旅行等の写真を中心に記録性を高めた内容と編集にして居ます。

「白馬大雪渓」

2006年04月26日 | ハイキング・山登り
撮影したのは2年前、栂池ヒュッテから2時間程の所だ、生憎の天気で白
馬の山頂は残念ながら見え無かった。写真中心位置は丁度、三合雪渓と
葱平(ねぶかっぴら)への分岐点当たりと思う。
雪渓を良く見ると踏み跡が下から続いている、確か昨年の夏丁度この上部
辺りで雪渓が崩壊して、死傷者が出た、私は白馬岳は登った事は無いが
夏山の雪渓登りは安易な気持ちで登りがちだが要注意だ。
栂池高原辺りも今頃は雪が深く一般の人が歩くのは無理と思うが、今は
ロープウェーが在るので気楽に行ける、7月~8月に掛けてシーズン中には
高山植物を見るには良い場所だ、栂池自然園の遊歩道を全部廻ると4時間
程掛かるが、高低差も余り無く天気さえ良ければ、素晴らしい散策が出来る。



「SNSとホームページ」

2006年04月24日 | その他随筆
サーそれからが大変!・・・・・初めの頃SNSが何であるか訳も解らずに
登録したモノだから、自分自身のやった事に追いまくられる様な感じで
肝心のホームページの運営が疎かになりそう、時間に限りがあるので
此はマズイ!・・・・テナ訳で、自主規制!・・・・バカだな~(自分)・・・
「オイ!・・自分の責任で始末しろよ!」・・・・そんな声が聞こえそう。

 そんな訳で現状はライブドアーの「フレパ」は休止状態ですので「日記」
を此の「goo」のブログに登録して居ますので、もしメッセージ等のアクシ
ョンが在る場合はgoo-Blog或いはホームページ掲示板に、書き込んで頂
けると有り難いです。(フレパの方にはお手数をお掛けいたします)
アァ~つくづく自分の愚かさに呆れています。(苦)・・・・・


「ジェットホイル」

2006年04月23日 | ドライブ・旅行
 この写真は「佐渡汽船」新潟ー佐渡間を疾走する
ジェットホイル(水中翼船)だ、一昨年佐渡旅行の際
帰りのフェリーボートから撮影したモノだ。
実際に行く時に乗船した。
この巨大な物体が時速80Km前後で海上を疾走
する。
地上を走る自動車と違って急ブレーキを掛けても
簡単には止まらない、水中翼にはショックアブソーバー
が付いて居て多少の障害物は大丈夫な様だが鯨
の様な大型の物にぶつかると大変だ。
元々軍事用に開発された物だが、今では旅客用で
観光客を運ぶ事にも転用されている。
開発元もアメリカ・ボーイング社で何千馬力も有る
ガスタービンエンジンで、更に水中翼と言う事から
航空機と同じ原理で水中を浮上しながら走る。

 考えてみると、少々おっかないな~と言う気がする
日本近海は結構鯨が沢山居るので、結構多くの航路
で使用して居るようだが今まで事故がおこらなっかた
のが不思議な位だ、海の上はゆっくりと行くのが矢張り
良いような気がするが・・・・・・


「下関駅」

2006年04月18日 | ドライブ・旅行
 いよいよツアーも最後と成った、此処は下関駅写真は門司駅、本州最後の地下関は、生憎の雨だった、此処での自由時間が可成り有り、昼食を含めて3時間弱。まづ食わなければ落ち着かない、其処で「カモンワーフ」で昼食を取る事に
した。
下関迄来たら、其れはモー食べる物は「ふぐ」っきゃ無い、地元では「ふく」
と言う。カモンワーフ内に在る「武蔵」と云うお店だった。
ランチメニューと別にふぐ刺しを注文、それにお酒、「ふぐ刺し」と来れば「お酒」
・・・ですネ!
お客は、私達家族だけだったので割とすぐに出来上がった。
時間を気にしながらも、ご機嫌な食事だった。

 さて、食事を済ませ、急いで、船着き場へ。門司まで行くのだ!
関門海峡を船で渡る、所要時間5分ほど、門司迄行けば、九州まで足を
延ばした事になる、まー気分的な物だが、其れでも九州は初めての地だ。
急いで、九州「門司港レトロ地区」を見学、早足で船の出発時間に合わせて
25分程だ。全く忙しい(少し欲張りすぎか!)そんなこんなで、門司港を後にして
今度は下関で「水族館(海響館)」で、関門海峡のお魚さん達とご対面だ。

 私は何より此の「海響館」で、お魚さんに対面する事が楽しみだった、その為に
時間をなるべく多く取り、割とゆっくり見学した。其れでバスへ・・・・
ツアーのそれぞれの客は水族館には余り興味が無かったらしく、バスに帰り着
いたのは私達が最後だった。

 やがてバスは最後の見学場所「赤間神宮」へ下関からは僅かな距離だ。
「赤間神宮」は、安徳天皇と平家一門を祀る神社だ。境内には「耳なし芳一」を
祀る「芳一堂」、此は(小泉八雲)の怪談で有名、が在りバスガイドさんの説明を
聴きながら、当時の状況を想像するのだった・・・・

 此で今回のツアー日程は全て終わり、バスは一路「宇部空港」へ、あー忙しか
った、・・・・そんな感じです。
東京の近場では、自動車移動で自分達で計画を立て、日程に余裕を持たせる事
が出来るのですが遠くになると、どうしても出来合のツアーに頼る事になります。
様々なツアーが有りますが、費用対効果で選択するので、なかなか自分達の思う
通りには行かない物ですネ!

 「宇部空港」、午後19時20分発の羽田行きに乗り・・・・・無事帰還!


アーカイブ・シリーズ(No3)「山口県萩・津和野ツアー」編



「秋芳洞」

2006年04月14日 | ドライブ・旅行
 バスは「金子みすず」記念館、仙崎を後にして、一路秋芳台へ。
写真は秋芳洞の入り口近く、「青天井」と呼ばれる大きな空間だ。
三脚を持って行かなかった為この様な暗い場所での撮影は多少
工夫が要る、近くの手すりにカメラを置いて、そっとシャッターを切る
1秒~4秒程掛かるのでブレないようにカメラを固定するのがポイ
ント。デジカメの為、後の修正は楽!この写真も明るさを調整した。

 バスの駐車場からエレベーターで地底に下りる。
エレベーターの有る位置は秋芳洞の中間辺りに在り、そこから入り口に
向かって逆行する、観光コースは全体を回ると可成り時間が掛かるようで
今回は途中からなので1時間ほど、研究や探検でくまなく洞窟内を探索
するとなるとどれ位時間が掛かるだろう・・・・・(総延長10Km)

 洞窟の中を流れる川、地底湖の流れは意外と濁っている、此は石灰分
が水中に溶け込んでいる為と思うが、地下100mモノ下にこの様な流れ
が有ること自体神秘的だ。此の水中の石灰分が何万年も掛けて堆積した
り、溶けたりして洞窟を形成する。気の遠くなるような年月を掛けゆっくりと。

 やがて地上に出て、次はバスから秋吉台を見学、所が時間がない為に
バスから「見るだけ」もっと「カルスト台地」をじっくりと見たかったが仕方な
い、あぁ~残念! 

アーカイブ・シリーズ(No3)「山口県萩・津和野ツアー」編

「金子みすず記念館」

2006年04月11日 | ツアー旅行
 観光ツアー2日目、生憎の雨でした。バスは萩市から朝一番で長門市仙崎
金子みすず記念館」へバスガイドさんから「金子みすず」の生き様や生涯の話
を聞き乍ら一路仙崎へ・・・・・・

 其処は数メートル幅の大して広くない通りに在った。その名も「みすず通り」
金子みすず記念館は山口県長門市仙崎に在り、表の大看板は「金子分英堂」
と右から左への横書きだ。金子みすず(詩人)は此処で生まれ育った、建物は
再建された物だが当時のまんまの様だ、棟続きで記念館本館があり詩集など
縁の品々が展示してある。
明治~大正と此の時代御多分に漏れず金子みすずも女性として無権利状態
の中で生き辛い日々の中で最後に自ら命を絶つと言う運命に成って仕舞った、
26歳という若さだった。
彼女に付いて今更此処で解説するまでもないと思うので興味のある方は「金子
みすず」と検索を架けると沢山出てきます、検索して見てください。

写真は「金子みすず記念館」の真向かいに在る「みすずこうぼう」と言うお店兼
ライブハウスだ。此のお店のオーナー「もりいいさむ」さんは、「金子みすず」の
詩に自ら作曲した曲を付け自ら歌い活動して居る方です。
「20年間、金子みすずの心を一筋にうたいつづけて・・・・・・・」パンフレットに在
る台詞です。訪ねた当日は時間も無くお客も居なかったので、残念ながら「もり
いさむ」さんの歌は聴けませんでしたが、お話だけは伺うことが出来ました。


アーカイブ・シリーズ(No3)「山口県萩・津和野ツアー」編

「萩市内と武家屋敷」

2006年04月05日 | ツアー旅行
 この写真は、萩市内の観光案内図。旅行に行くと大体こうした案内図が在り
その写真を撮る、今回の旅行はパックツアーの為決められたコースを回るだけ
の為、自由が効かず今回も武家屋敷の一角をホンの少し回っただけに終わった
其れでも必死に写真だけは撮った、何枚かを「PhotoGallry」にまとめたみた。

 幕末の獅子を排出した「萩市」長州藩。革命と言って良いか悪いかは私には解
らないが、大政奉還を成し遂げ明治政府を作る大きな原動力に成った「松下村塾
塾生」及び「松下村塾門下生」の生まれ育った地だ。
塾生の主だった者は若くして命を落として行ったが、「伊藤博文」「山県有朋」「品
川彌二郎」「木戸孝允」(門下生)等何人もの人物が明治政府の閣僚として残って
いる。
この時代は近代史の為記録や資料も沢山あり、様々な観点から論じられている
が、全体像を史実として明確に捕らえることは難しい、何れにしても近代国家を形
成して行く過程の重要な一里塚と成った塾生達の地だ。

アーカイブ・シリーズ(No3)「山口県萩・津和野ツアー」編

「松下村塾」

2006年04月02日 | ツアー旅行
 この写真は「松下村塾」、建坪30坪程の小さな物だ、当時この塾に日参
して来る塾生達が、やがて日本を変革して行く。
圧巻はこの建物の一本の柱の傷だ、吉田松陰が江戸へ連れて行かれた後の
塾生達が、悔しさ、無念さのはけ口として、「柱」に向かって刀で斬りつけた。
その傷跡が残っている。やがて吉田松陰は帰らぬ人になるのだが・・・・・

 母屋もすぐ側にあり、松蔭が幽閉された3畳程の狭い部屋が在る、日増しに
増える塾生達にその部屋から庭に居並ぶ塾生達に講義をしたと言うのだから
当時の塾生達の勉学熱が如何に凄い物か想像が付く。

 この時代の建物は小さく、床から鴨居まで五尺七寸程しか無く、「木戸孝允」の
武家屋敷を見学した時など178cmの身長の私は、危うく頭を鴨居にぶつける所
だった。
江戸時代から明治時代に掛けての人の体格は随分と小柄だったようだ、戦前迄
の一般日本家屋の作りは大体似たような物だ、神社仏閣やお城などは立派な作
りだが、一般人の生活は非常に質素で慎ましかったに違いない。

アーカイブ・シリーズ(No3)「山口県萩・津和野ツアー」編