中川船番所跡を見学した後、東大島駅から都営新宿線に乗り「森下駅」で大江戸線に乗り換え「清澄白河駅」で下車。「清澄庭園」入口まで庭園の塀に沿ってを半周ほど歩く。
都心の地下鉄に乗るとなんだかんだとやたら階段を歩く事になるエスカレーターにも乗るが、乗らない場合はかなりの運動になる。。。。。。
タイトル写真は清澄庭園内「中の島」に掛かる橋とその向うに見える芝生の山は「富士山」と言われる所。
庭園の門を入ると入場ゲートがある。入場料を払いゲートを潜ると紅白の「梅」が迎えてくれる。
この地図は国土地理院の地図を清澄庭園を中心に切り取ったものです。清澄庭園のホームページにはもっと判り易い地図が記載されています。
「梅」の脇を通り越し進むと「大泉水」が見えてくる、左手には「大正記念館」があり少し進み、そこから右手を撮った所。ここから時計回りで「大泉水」を一周する。
大泉水東側の「中の島」に掛かる橋を渡り「中の島」から南方向を見ると大泉水の真ん中に来た感じがする。
更に大泉水の外周を歩きます。北側から東方向は庭園を囲む木々の上へビル群が見えて少し興ざめの感じで写真を撮る角度も限られる。
枯滝(石組)この庭園は各地から集められた名石が集められ「石庭」となっています。
伊豆石・伊予青石・紀州青石・生駒石・佐渡赤玉石・備中御影石・讃岐御影石などがありました(パンフレットより)
大泉水の西側に来ると「涼亭」を中心として水鳥たちの休息場所の様になっている、この時はカルガモを始めキンクロハジロ・ホシハジロが沢山いました。一番下の写真はクロガネモチです。
大泉水の西側から北側に来ると景色もだいぶ変わり池の端に大きな飛び石が並び浅瀬にはカエルの卵がたくさん産み付けられていました。
そして元の出発点に戻ります。
前半の記事 江東区中川船番所跡 2023年02月24日
この地の一部は江戸の豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷跡と言い伝えられています。享保年間(1716~1736年)には、下総国関宿の藩主・久世大和守の下屋敷となり、その頃にある程度庭園が形づくられたようです。
明治11年、岩崎弥太郎が、荒廃していたこの邸地を買い取り、社員の慰安や貴賓を招待する場所として庭園造成を計画、明治13年に「深川親睦園」として 一応の竣工をみました。弥太郎の亡きあとも造園工事は進められ、隅田川の水を引いた大泉水を造り、周囲には全国から取り寄せた名石を配して、明治の庭園を 代表する「回遊式林泉庭園」が完成しました。
清澄庭園は、関東大震災で大きな被害を受けましたが、この時図らずも災害時の避難場所としての役割を果たし、多数の人命を救いました。岩崎家では、こう した庭園の持つ防災機能を重視し、翌大正13年破損の少なかった東側半分(現庭園部分)を公園用地として東京市に寄付し、市ではこれを整備して昭和7年7 月に公開しました。(HPより)
都心の地下鉄に乗るとなんだかんだとやたら階段を歩く事になるエスカレーターにも乗るが、乗らない場合はかなりの運動になる。。。。。。
タイトル写真は清澄庭園内「中の島」に掛かる橋とその向うに見える芝生の山は「富士山」と言われる所。
庭園の門を入ると入場ゲートがある。入場料を払いゲートを潜ると紅白の「梅」が迎えてくれる。
この地図は国土地理院の地図を清澄庭園を中心に切り取ったものです。清澄庭園のホームページにはもっと判り易い地図が記載されています。
「梅」の脇を通り越し進むと「大泉水」が見えてくる、左手には「大正記念館」があり少し進み、そこから右手を撮った所。ここから時計回りで「大泉水」を一周する。
池の端に降りて飛び石の上を歩いてみると荒海の海岸を歩いている感じになる。
更に池を回り込む「芦辺の浜」と言われる所から先程歩いてきたところを見る。
外周の縁は様々な木々が植えられ林床には季節の草花が植栽されているようです。
大泉水東側の「中の島」に掛かる橋を渡り「中の島」から南方向を見ると大泉水の真ん中に来た感じがする。
「中の島」ではこの時庭師達が手入れの最中でした。
更に大泉水の外周を歩きます。北側から東方向は庭園を囲む木々の上へビル群が見えて少し興ざめの感じで写真を撮る角度も限られる。
枯滝(石組)この庭園は各地から集められた名石が集められ「石庭」となっています。
伊豆石・伊予青石・紀州青石・生駒石・佐渡赤玉石・備中御影石・讃岐御影石などがありました(パンフレットより)
大泉水の西側に来ると「涼亭」を中心として水鳥たちの休息場所の様になっている、この時はカルガモを始めキンクロハジロ・ホシハジロが沢山いました。一番下の写真はクロガネモチです。
大泉水の西側から北側に来ると景色もだいぶ変わり池の端に大きな飛び石が並び浅瀬にはカエルの卵がたくさん産み付けられていました。
ここの写真は「磯渡」と言われる飛び石の道となっていて、左右の景色が変化してゆく。
そして元の出発点に戻ります。
前半の記事 江東区中川船番所跡 2023年02月24日
この地の一部は江戸の豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷跡と言い伝えられています。享保年間(1716~1736年)には、下総国関宿の藩主・久世大和守の下屋敷となり、その頃にある程度庭園が形づくられたようです。
明治11年、岩崎弥太郎が、荒廃していたこの邸地を買い取り、社員の慰安や貴賓を招待する場所として庭園造成を計画、明治13年に「深川親睦園」として 一応の竣工をみました。弥太郎の亡きあとも造園工事は進められ、隅田川の水を引いた大泉水を造り、周囲には全国から取り寄せた名石を配して、明治の庭園を 代表する「回遊式林泉庭園」が完成しました。
清澄庭園は、関東大震災で大きな被害を受けましたが、この時図らずも災害時の避難場所としての役割を果たし、多数の人命を救いました。岩崎家では、こう した庭園の持つ防災機能を重視し、翌大正13年破損の少なかった東側半分(現庭園部分)を公園用地として東京市に寄付し、市ではこれを整備して昭和7年7 月に公開しました。(HPより)