城郭探訪

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水口城(碧水城・水口御茶屋御殿) 近江国(水口賀)

2014年08月04日 | 平城

 

お城のデータ

所在地:甲賀市水口町水口字中邸(本丸部分) (旧甲賀郡水口町水口字中邸(本丸部分))    map:http://yahoo.jp/hjPmgf

別 名:碧水、御茶屋御殿

現 状:水口高校グランド・水口城資料館

遺 構:本丸跡(グランド)、水堀、土塁、乾櫓石垣、移築門

区 分:平

築城期:江戸期 寛永9年(1632)

築城者:徳川幕府

城 主:初城主:坪内玄蕃(城代)・水口藩:加籐明友

城 域:360m×360m

目標地:水口城、水口城資料館 

駐車場:水口城資料館・体育館無料駐車場

県指定史跡

訪城日:2014.8.3

お城の概要

水口城は明治維新後廃城となり、建物や石垣の大半は撤去されたが、本丸跡地のみ保存され、水口高校のグランドとして使用されている。

 グランドの周囲には
今なお土塁が残り、その外周には水堀が巡り、北西角には乾櫓の櫓台が良好な状で残っている。
堀の水は湧水を利用しているといわれ、水深は15mもある薬研堀であるという。なお、水口城が碧水城とよばれる所以は涌水だけを使用していたためとされ、現在でも湧水の取り口や排水口は不明である。

 御成門付近の石垣と乾櫓の石垣は、中村一氏が築城した岡山城(水口古城)から運んだ石で積まれているとされる。

 大手門口の出丸部には、平成3年(1991)に模擬櫓(水口城資料館)が建てられている。
 なお、水口町蓮華寺の本堂に水口城の玄関が、大岡山(水口岡山城のある古城山)の麓の大岡寺に茶室が移築されている。

  

歴 史 

 水口は京から伊勢へ通じる交通の要所にあり、中世後期にはすでに町並が形成されていたとされる。
天正13年(1585)羽柴秀吉の命により水口岡山城が築かれ、その城下町として発展を見せた。

関ケ原合戦後、この地を幕府直轄地とした徳川家康は、水口を東海道の宿駅に指定し、家康自身もしばしばこの地を通行し、宿内の大徳寺などに宿泊している。

  江戸幕府3代将軍徳川家光が寛永11年(1634)に上洛の際の宿館として小堀遠州に築かせた水口城があります。その後、天和2年(1682)別名「碧水城」といわれた城です。

  寛永11年(1634)三代将軍家光は上洛に先立ち、道中となる水口に専用の宿館を築かせたのが水口城である。
近江には同じ目的で建てられたものが、柏原御殿、伊庭御殿、および永原御殿がある。

 水口城の築城は幕府の直轄で行われ、その作事奉行には建築や造園、茶道などで知られる小堀遠江守政一(小堀遠州)があてられた。
延べ10万人の大工が動員され、本丸は京都二条城を小型にしたものと云われている。 しかし、その後家光は上洛することなく、幕府の管理下で城番が置かれた。なお、水口城は居館式城郭で本丸と二の丸曲輪だけで構成されていた

天和2年(1682)石見国から加藤明友が入封して水口藩2万5千石の居城となり、水口藩が成立、以後明治維新まで続いた。

 

水口藩加藤家文書

老中奉書老中奉書(天和3年に水口城の門の立替えを許可する内容
江戸時代、水口には水口藩が置かれました。それは天和2(1682)年に、石見国吉永(現島根県大田市)から加藤明友が、1万石加増の2万石で就封したことに始まります。加藤家は「賤ヶ岳の七本鎗」の一人として有名な加藤嘉明を祖とする外様大名で、明友を初代藩主として、明英・嘉矩(以後2万5千石)・明経・明熙・明堯・明陳・明允・明邦・明軌・明実と幕末まで藩主をつとめました(ただし藩主としては明英と嘉矩の間に譜代大名の鳥居忠英が一代入り、明英以降は譜代格となります)。

水口藩は小藩とはいえ、甲賀地域に城を構える唯一の大名であり、甲賀の歴史に大きな足跡を残していますが、家臣団の構成や藩政機構、明治維新期の動向など、藩政の実態は史料の不足から不明な点が多く残されていました。

 辞令辞令(写)(明治2年に加藤明実を水口藩知事に任じる

しかし、近年水口町内に大量の古文書が残されていることが分かり、その寄贈を受けたのを契機として、平成18(2006)年から4年をかけて詳細な調査を実施した結果、近世初期~大正期の総点数1万3983点にも及ぶ古文書群であることが判明しました。

「水口藩加藤家文書」と名付けられたこの古文書群には、実に多様な史料が含まれています。近世のものとしては、加藤嘉明へあてた豊臣秀吉・秀頼の朱印状をはじめ、徳川家康・秀忠以降家茂まで歴代江戸幕府将軍からの「御内書」(献上への礼状)約640通、水口藩の成立などを示す「老中奉書」約400通、幕府役人や他大名などからの書状約200通、加藤家が勤めた大坂加番などの軍役関係史料約180点、江戸藩邸でまとめられた藩日記、水口藩領の村絵図などがあります。

また近代以降のものとしては、王政復古の頃の水口藩知事任命書や、廃藩置県にともなう明治政府からの一連の通達類など、近代水口藩から華族加藤家への移行期に関するもの、また加藤家のみならず、華族全体の動向を知ることもできる書状・廻達文・記録などがあり、これらは、近世のものと合わせて、全国的にも貴重な古文書群であることが判明し、その成果は平成22年3月に甲賀市教育委員会が刊行した『水口藩加藤家文書調査報告書』にまとめられました。

 駐車場:水口城資料館・体育館無料駐車場

参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、甲賀市誌7巻甲賀の城

           本日も訪問、ありがとうございました!!!感謝!!


富川屋敷  近江国(甲賀)

2014年08月04日 | 平城

美濃部同名中を構成した富川氏の居館。

お城のデータ

所在地:甲賀市水口町水口字美濃部 (旧甲賀郡水口町水口字美濃部)    map:http://yahoo.jp/hjPmgf

現 状:宅地

遺 構:土塁、土壇

区 分:平

築城期:織豊期

築城者:美濃部富川氏

城 主:美濃部富川氏

目標地:水口城資料館・水口高校

駐車場:水口城資料館・体育館駐車場

訪城日:2014.8.3

お城の概要

富川屋敷は、水口高校校舎南側の住宅地となっている一角にあった。 「城南地区老人憩の家」の南側に土壇の一部が残されている。 

木造橋の南西、水口城お¥のある段丘から一段下った南側集落内部に高さ4mの土壇があり付近が冨川屋敷である。土壇から南北に土塁の痕跡に見える。地籍図では土塁部分に南北に竹藪がL字に状に広がり東側の屋敷を囲んでいる。

一ノ井と馬渡川の交差する。北側に位置する。

歴 史 

富川屋敷は、築城年代は定かでないが富川氏によって築かれた。 富川氏は、美濃部同名中の一つ。

江戸中期の絵図の富川屋敷跡の名が見る

美濃部家は徳川家旗本として江戸幕府に仕えた。甲賀武士。甲賀忍を形成していた「甲賀五十三家」「甲賀二十一家」のうちの一家である甲賀地方の国人。(滋賀県甲賀市水口町の領主)。

美濃部家の 一族の著名人物として: 美濃部達吉・美濃部亮吉・美濃部洋次・古今亭志ん生・古今亭志ん朝・池波志乃・美濃部貞功・美濃部正;美濃部直彦・美濃部ゆう・美濃部達宏 がいる。

参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、甲賀市誌7巻甲賀の城

           本日も訪問、ありがとうございました!!!感謝!!


美濃部古屋敷 近江国(甲賀)

2014年08月04日 | 平城

水口高校敷地内

お城のデータ

所在地:甲賀市水口町水口字美濃部 (旧甲賀郡水口町水口字美濃部)    map:http://yahoo.jp/hjPmgf

現 状:高校・宅地・水口城

遺 構:土塁

区 分:平

築城期:室町期

築城者:美濃部氏

城 主:美濃部氏氏

目標地:水口城資料館・水口高校

駐車場:水口城資料館・体育館駐車場

訪城日:2014.8.3

残存土塁

お城の概要

美濃部屋敷に水口城(水口御殿)が築城された。http://www.shiga-bunkazai.jp/download/kiyou/22_kido.pdf図4 美濃部氏関係城館推定位置図(木戸雅寿)

美濃部氏の城館の跡地に徳川幕府は再び平城として城を築いたことも、今も水口の中心たることを考えてもその重要性が理解できるであろう。

美濃部古屋敷は、水口高校の校舎敷地から東側の住宅地辺りが城域であった。 水口高校から一つ東側の通り(南小路)沿い東側にあるアパート二棟の敷地北側に「L字」の土塁が竹藪の中に残る。 この土塁が美濃部古屋敷の東のライン。 また、南小路はアパートから南50m程でクランクに曲がっているが、ここが古屋敷の門跡の場所

鈴鹿峠から横田の渡しへと街道が走る結節点に当たる位置である。野洲川にもほど近く、交通の要所として人の往来と地域を抑えるには格好の場所であったといえる。

さて、美濃部氏の居館が近世水口城で破壊されていることが事実であれば、居館はすでに破壊されたことになり姿形を明確にすることは困難である。ただし、類推することは可能である。それを考えるヒントとなるのが、同じ柏木三家のひとつである植城の存在である。植城は、一族郎党の居館が連なったと考えられる複郭式の城館群(200m×約300m)を中心として、その外に出屋敷である方形城館(約50m四方)が付く形となることが近年の発掘調査等で判った。同じような地域的な位置関係と領主クラスの格からすると、同じような形態の城が考えられる。 

ここで問題となるのが、美濃部氏居館とは別に、それよりも南東にずれた位置に存在したと伝えられている「水口出屋敷」という方形居館の存在である。水口出屋敷跡については「美濃部出屋敷遺跡の調査」に詳しい。(ただし、残念ながら平成13年度版『滋賀県遺跡地図』には、遺跡として周知されていない。)出屋敷の位置は、水口城の西、「字八光」の位置である。報告によると、南正面、信楽街道が90度東に曲がるあたりに「木戸口」であったとされ、さらに左折して北上する八幡街道から慶長期の東海道、八幡宮までを北限とする方40m四方の敷地とされている。現況では前面の道からの平坦地が東海道で屈曲していることが分かる。土塁は東側の八幡街道沿いと西側の水口高校側の一部に、近世に小家臣団屋敷に分割されたにもかかわらず破壊されず近年まで残存していた。また、郭内は井戸の痕跡も認められている。また、水口高校の周囲にも土塁が残存している。布袋塚と呼ばれる塚も位置的に見て土塁の一部と考えられる。現在の梅ヶ丘辺り一帯が梅ヶ畑にあたり、美濃部一族の代々の屋敷が建ち並んでいた場所である。さて、美濃部氏の館を利用して水口城を築いたとするならば、その規模は、40~50m四方と考えられ、これらふたつの屋敷と隣接した関係になる。近世水口城の方角と美濃部出屋敷遺跡の方位が一致することを考えると、もとの美濃部館もその方向が一致すると考えられる。つまり、この辺り一帯に美濃部氏の居城が植城のような連結した城館群として存在していた可能性は高いと判断されるであろう

正面に、岡山城

歴 史

甲賀二十一家の一つ・・。柏木三家(山中十郎・伴佐京介・美濃部源吾)                                                     甲賀二十一家、五十一家として位置づけられるほど、郡中惣の中の甲賀武士として大きな役割を果たしていた。

『佐々木南北諸士帳』の美濃部源吾

『山中家文書』の中に見える美濃部茂(重)国、美濃部六右衛門尉、美濃部茂在、美濃部茂良、美濃部茂濃、美濃部治茂など

信長の家臣:美濃部茂濃・地茂は金指物番として信長の配下に組み込まれており

豊臣秀吉の家臣ともなっている。周知の通り、甲賀衆は天正13年(1585)に最終的に秀吉の勘気に触れ、惣中が改易され帰農させられてしまう。

徳川家康:美濃部茂濃は天正10年(1582)の本能寺の変の時に、世に言う「神君、伊賀・甲賀越」により、徳川家康を伊勢白子まで逃がした人物として名を残す。その功により、慶長5年(1600)に甲賀衆全体が赦免される。

 

美濃部郷から水口郷へ・・・参照資料http://www.shiga-bunkazai.jp/download/kiyou/22_kido.pdf
『水口町志』⑷によると、水口という名称には、①この地の開発の祖であった水口神社の祭神でもある大水口宿禰命の名に由来する。②水口神社祭神大国主命(大己貴命)が神田に蝗が発生したときにも水口の祭りをして防いだことに由来する。③横田川の水口を設けていたことに由来する。などの説があげられている。これらはいずれも水の口としての意味合いを持ち、地名としての水口郷の名は室町期に成立するとされている。

残された文献からは、古代にあってこの地は山直郷(『延喜式』)に属しており、後に美濃部郷となり、菅原氏の荘園として栄えていたとされている。中世にあっては聖護院門跡の蔵田荘にも属し、その後に水口郷となったと考えられている。このように水口と美濃部、どちらが先かは明確ではないが、中世におけるこの地の出発点は、歴史的に見て美濃部であり、在地領主美濃部氏の領地であったようである

甲賀武士美濃部氏とその城館
(1)美濃部氏の出自について
美濃部氏に関わる文献資料(表1)は少ない。そこから、順序立てて美濃部一族の構成や動向をうかがい、その全てを明確にすることは出来ない。ここでは、郡史、町誌に述べられていることを中心に整理しておきたい。まず、その出自である。出自の伝承は、伝承年代に問題があるが、天満宮に伝わっている『美濃部天満宮社記』に詳しい。それによると、延喜元年(901)2月25日に起こった「昌泰の変」で菅原道真が失脚して大宰府に左遷になった時、一族や側近も同時に失脚し、その時に京を追われた5男(4男としている書物もあるが、5男が正しいと考えられる。)の菅原淳茂が、菅原氏の荘園であった美濃部郷梅ヶ畑の郷長、平左兵衛門為親の屋敷に逃れ娘婿となり、一子菅原三郎直茂をもうける。淳茂は延長元年(923)5月赦免となり帰洛することとなったが、子の直茂は美濃部に残り小字武島に居宅を構え、姓を地名の美濃部に代えて在地領主となった。ただし、正式な菅原氏の家系図には、淳茂の名はあるが、子の所には直茂の名は無い。これらは落胤伝説である可能性もある。それはさておき、淳茂は逃れていた時の延喜3年(903)に、父の死の冥福を祈るため心光寺を建立したとされている。心光寺は現在天神町に位置しているが、寛永10年(1633)水口城築城に際し、現在の地に移
転してきたものである。この時、木像を造り氏神として「美濃部天神」を祀った。このことから、美濃部氏代々の菩提寺となっている。そして、淳茂は帰洛後の延長4年(926)2月25日に61歳で没する。その子直茂は、天慶3年(940)に父の建てた天神社に社殿を造営した。このように、伝承では美濃部氏は菅原氏の末裔という出自を持っている家系である。家紋は「菊に􄽁」と「梅鉢」である

(2)中世における甲賀武士美濃部氏出自にまつわる伝承が途切れた後、最初に文献に現れるのは、建武年間に生存していた美濃部兵衛三郎元茂である。
この後、長享元年(1487)頃の名を記した『佐々木南北諸士帳』の美濃部源吾を始め、大永3年(1523)を初出に、元亀4年(1573)迄の期間の山中家文書の中に見える美濃部茂(重)国、美濃部六右衛門尉、美濃部茂在、美濃部茂良、美濃部茂濃、美濃部治茂など、系譜は明確ではないが「茂」の諱を持つ一族の存在をうかがい知ることが出来る。おそらく、この期間が最も美濃部氏が甲賀郡域で在地領主として活躍していた時期と考えられる。特に、永禄8年(1565)の山中氏・伴氏・美濃部氏のいわゆる柏木三家としての同名中の起請文は、地域的結束の形として位置づけられるものである。後に、甲賀二十一家、五十一家として位置づけられるほど、郡中惣の中の甲賀武士として大きな役割を果たしていたことは明白である。これらの状況から、鎌倉時代以降戦国期にかけて、美濃部氏は美濃部郷を支配していた、いわゆる甲賀武士の同名中であることは間違いがないところである。信長の近江侵攻後は、元亀4年で文書類が途切れていることでも、その名が織田方として出てくることでも、美濃部茂濃・地茂は金指物番として信長の配下に組み込まれており、信長の家臣であることは明白である。さらに、そのまま豊臣秀吉の家臣ともなっている。周知の通り、甲賀衆は天正13年(1585)に最終的に秀吉の勘気に触れ、惣中が改易され帰農させられてしまう。茂濃は天正10年(1582)の本能寺の変の時に、世に言う「神君、伊賀・甲賀越」により、徳川家康を伊勢白子まで逃がした人物として名を残す。その功により、慶長5年(1600)に甲賀衆全体が赦免される。この間の記録が途切れるのも頷けるところである。


(3)美濃部氏居館の位置と構造それでは、美濃部氏はどこに居館を持って、領域支配をしていたのであろうか。記録では、郷長の屋敷は「字梅ヶ畑」である。そして、美濃部氏の館は「字武島」とされている。現在のその位置は現水口城の位置、城の真下であったことがわかる。鎌倉から戦国期にかけての美濃部郷の中心地は、現在の水口の中心は水口城とその東隣であったことがわかる。中世時代の城もしくはその位置を戦国時代以降に利用することはしばしば見受けられる。それは戦略的にこの場所が重要な位置を占めていることを物語っている。この位置は、南北に近江八幡街道から信楽街道が、鈴鹿峠から横田の渡しへと街道が走る結節点に当たる位置である。野洲川にもほど近く、交通の要所として人の往来と地域を抑えるには格好の場所であったといえる。さて、美濃部氏の居館が近世水口城で破壊されていることが事実であれば、居館はすでに破壊されたことになり姿形を明確にすることは困難である。ただし、類推することは可能である。それを考えるヒントとなるのが、同じ柏木三家のひとつである植城の存在である⑸。植城は、一族郎党の居館が連なったと考えられる複郭式の城館群(200m×約300m)を中心として、その外に出屋敷である方形城館(約50m四方)が付く形となることが近年の発掘調査等で判った。(図3)同じような地域的な位置関係と領主クラスの格からすると、同じような形態の城が考えられる。 

ここで問題となるのが、美濃部氏居館とは別に、それよりも南東にずれた位置に存在したと伝えられている「水口出屋敷」という方形居館の存在である。水口出屋敷跡については「美濃部出屋敷遺跡の調査」⑹に詳しい。(ただし、残念ながら平成13年度版『滋賀県遺跡地図』には、遺跡として周知されていない。)出屋敷の位置は、水口城の西、「字八光」の位置である。報告によると、南正面、信楽街道が90度東に曲がるあたりに「木戸口」であったとされ、さらに左折して北上する八幡街道から慶長期の東海道、八幡宮までを北限とする方40m四方の敷地とされている。現況では前面の道からの平坦地が東海道で屈曲していることが分かる。土塁は東側の八幡街道沿いと西側の水口高校側の一部に、近世に小家臣団屋敷に分割されたにもかかわらず破壊されず近年まで残存していた。また、郭内は井戸の痕跡も認められている。また、水口高校の周囲にも土塁が残存している。布袋塚と呼ばれる塚も位置的に見て土塁の一部と考えられる。現在の梅ヶ丘辺り一帯が梅ヶ畑にあたり、美濃部一族の代々の屋敷が建ち並んでいた場所である。さて、美濃部氏の館を利用して水口城を築いたとするならば、その規模は、40~50m四方と考えられ、これらふたつの屋敷と隣接した関係になる。近世水口城の方角と美濃部出屋敷遺跡の方位が一致することを考えると、もとの美濃部館もその方向が一致すると考えられる。つまり、この辺り一帯に美濃部氏の居城が植城のような連結した城館群として存在していた可能性は高いと判断されるであろう。以上のこれらの関係を示したのが図3、4である。今後の精密な調査の手がかりとなすべく問題提起した。

参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、甲賀市誌7巻甲賀の城、http://www.shiga-bunkazai.jp/download/kiyou/22_kido.pdf

           本日も訪問、ありがとうございました!!!感謝!!