「大屋敷」遠景
お城のデータ
所在地:彦根市太堂町 map:http://yahoo.jp/lfpAQl
現 状:集落・藪地
区 分:城館
遺 構:土塁、堀痕
築城期:室町期
築城者:高野瀬氏の重臣久木氏
廃 城:織田信長の近江侵攻で廃城
城 主:久木定邦・隆致
駐車場:太堂町公民館駐車、浄称寺門前駐車可
訪城日:2014.8.17
「太堂町公民館」~集落内の約100m北方が「大屋敷」の藪地
お城の概要
彦根市内では土塁が残る貴重な平城
太堂城跡
「地券取調総絵図」には図のように条里地割ごとに小字名が付記されています。集落内ではさらに細かく小字名が記されていますが、集落の北東辺に「大屋敷」、その北側に「堀ノ岸」とあります(地図の実線や破線の丸で囲んでいるところ)。「大屋敷」は、絵図で藪やぶ地ち に色分けされています。
現在も藪地が少し残っており、一部で土塁や水路を確認することができます。「堀ノ岸」とあることから、水路は堀の役割を果たしていたのでしょう。「大
屋敷」一帯には土塁や堀で囲まれた屋敷、つまり平地城館(平地に築かれた城の機能をもつ館)が広がっていたと想定されます。
太堂城は、安食川が大きく蛇行する地区の南側に営まれている太堂町集落一帯にあった。
この集落のほぼ中央付近に小字「大屋敷」と呼ばれる藪地があり、南東辺には土塁が残っている。
また大屋敷の北側は「堀ノ岸」という小字名がついていることから、大屋敷は堀が廻らされた主郭で、それを中心とした平地城館が集落一帯に広がり、安食川を天然の外堀としていたと考えられる。
保食大明神の祠跡
倉庫の裏手に土塁が確認できる。倉庫の裏手に土塁が確認できる。
歴 史
太堂城は、築城年代は定かではないが、肥田城主高野瀬氏の重臣久木氏の居城であった。
久木氏
この「大屋敷」と呼ばれた城館に住んだのが久木氏でした。久木氏は近くの肥田城城主であった高野瀬氏の重臣でした。
久木氏は、永禄2年(1559)の「肥田城の水攻め」や翌年の「野良田表の合戦」では、高野瀬秀隆の下で浅井方として活躍します。
その後、浅井氏滅亡とともに秀隆に従って織田信長の家臣柴田勝家えに仕えます。そして、天正2年(1574)に勝家が越前(現在の福井県)の一向一揆鎮圧のために出陣すると秀隆の下で従軍し、安居の戦いで秀隆が自害すると、久木一族の久木定邦に・久木隆致親子もこれに殉じたと伝えています。
浄称寺門前駐車可 八幡神社跡碑
安食川沿いの阿自伎神社御旅所
太子堂村から太堂村へ
明治13年に刊行された『滋賀県物産誌』を見ると、太堂町はもともと「太子堂村」であったようですが、なぜか「子」の字を省いて太堂村と称するようになったと記してます。
太子堂は聖徳太子の像を祀まつった仏堂のこと。これが地名になっているのは、当地にも聖徳太子ゆかりの仏堂が存在した可能性が考えられます。
その1つが太堂の集落の北を東から西に向かって蛇行して流れる水路です。この水路は安食川と呼ばれ、豊郷町の阿自岐神社境内にある庭園から湧わき出た水を水源とする水路であり、古くから当地一帯の水田用水として活用されてきました。
もう1つが太堂の集落です。集落は条里地割の2区画程度に収まるものですが、区画内は条里地割の規制を受けつつも、集落の長い歴史の中で形成された変則的な道路や水路そして屋敷割りを確認することができます。
参考資料:彦根市教育委員会文化財課、滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭