城郭探訪

yamaziro

太堂(たいどう)城 近江国(彦根)

2014年08月18日 | 居城

「大屋敷」遠景 

城のデータ

所在地:彦根市太堂町      map:http://yahoo.jp/lfpAQl

現 状:集落・藪地

区 分:城館

遺 構:土塁、堀痕

築城期:室町期

築城者:高野瀬氏の重臣久木氏

廃 城:織田信長の近江侵攻で廃城

城 主:久木定邦・隆致

駐車場:太堂町公民館駐車、浄称寺門前駐車可

訪城日:2014.8.17

「太堂町公民館」~集落内の約100m北方が「大屋敷」の藪地 

お城の概要

彦根市内では土塁が残る貴重な平城

太堂城跡
 「地券取調総絵図」には図のように条里地割ごとに小字名が付記されています。集落内ではさらに細かく小字名が記されていますが、集落の北東辺に「大屋敷」、その北側に「堀ノ岸」とあります(地図の実線や破線の丸で囲んでいるところ)。「大屋敷」は、絵図で藪やぶ地ち に色分けされています。

現在も藪地が少し残っており、一部で土塁や水路を確認することができます。「堀ノ岸」とあることから、水路は堀の役割を果たしていたのでしょう。「大
屋敷」一帯には土塁や堀で囲まれた屋敷、つまり平地城館(平地に築かれた城の機能をもつ館)が広がっていたと想定されます。

太堂城は、安食川が大きく蛇行する地区の南側に営まれている太堂町集落一帯にあった。

この集落のほぼ中央付近に小字「大屋敷」と呼ばれる藪地があり、南東辺には土塁が残っている。

また大屋敷の北側は「堀ノ岸」という小字名がついていることから、大屋敷は堀が廻らされた主郭で、それを中心とした平地城館が集落一帯に広がり、安食川を天然の外堀としていたと考えられる。

保食大明神の祠跡

倉庫の裏手に土塁が確認できる。倉庫の裏手に土塁が確認できる。

歴 史

太堂城は、築城年代は定かではないが、肥田城主高野瀬氏の重臣久木氏の居城であった。

久木氏
 この「大屋敷」と呼ばれた城館に住んだのが久木氏でした。久木氏は近くの肥田城城主であった高野瀬氏の重臣でした。

久木氏は、永禄2年(1559)の「肥田城の水攻め」や翌年の「野良田表の合戦」では、高野瀬秀隆の下で浅井方として活躍します。

その後、浅井氏滅亡とともに秀隆に従って織田信長の家臣柴田勝家えに仕えます。そして、天正2年(1574)に勝家が越前(現在の福井県)の一向一揆鎮圧のために出陣すると秀隆の下で従軍し、安居の戦いで秀隆が自害すると、久木一族の久木定邦に・久木隆致親子もこれに殉じたと伝えています。

 浄称寺門前駐車可 八幡神社跡碑

 安食川沿いの阿自伎神社御旅所

太子堂村から太堂村へ

 明治13年に刊行された『滋賀県物産誌』を見ると、太堂町はもともと「太子堂村」であったようですが、なぜか「子」の字を省いて太堂村と称するようになったと記してます。

 太子堂は聖徳太子の像を祀まつった仏堂のこと。これが地名になっているのは、当地にも聖徳太子ゆかりの仏堂が存在した可能性が考えられます。

その1つが太堂の集落の北を東から西に向かって蛇行して流れる水路です。この水路は安食川と呼ばれ、豊郷町の阿自岐神社境内にある庭園から湧わき出た水を水源とする水路であり、古くから当地一帯の水田用水として活用されてきました。
 もう1つが太堂の集落です。集落は条里地割の2区画程度に収まるものですが、区画内は条里地割の規制を受けつつも、集落の長い歴史の中で形成された変則的な道路や水路そして屋敷割りを確認することができます。

参考資料:彦根市教育委員会文化財課、滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

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三ツ屋城 近江国(彦根)

2014年08月18日 | 平城

織田信長の攻撃により、落城し廃城

  

城のデータ

所在地:彦根市南三ツ谷町      map:http://yahoo.jp/XJlDfd

現 状:集落

築城期:文亀4年(1504)頃

築城者:田付(伊庭)景春

廃 城:天正元年(1573)景輔の時に織田信長の攻撃により落城し廃城

城 主:田付美作守景春・兵庫介兵景澄・兵庫介景輔3代の居城

区 分:城館

駐車場:路上駐車

訪城日:2014.8.17

本堂の前に5m×5mの竹林、土塁痕・・・城郭遺構カ?

 

お城の概要

三ツ屋城は、南三ツ谷町集落内にあったとする城館である。中世城郭分布調査によると、蓮常寺の西方、集落の西端を比定。

集落は、周辺の田地より50cmの段丘にあり、集落内は民家が密集し、路地が不規則に折れ・交差する城内道の名残りのようにも見えるが、確かな城館遺構はない。

三ツ屋城の南方、田附町に接する付近には田付城があったとされる。距離にして300~400m、同時期に両城が機能していたのか、当所の田付城から伊庭景春が田付氏を継いだ時に移築したのか、その辺りの詳細が判らない。

蓮常寺 本堂前の庭園池

本堂西の土塁

本堂裏の土塁 本堂南の土塁本堂南の土塁・庭園井戸

歴 史

三ツ屋城は、田付美作守景春・兵庫介兵景澄・兵庫介景輔3代の居城とされる。

田付氏の祖は、淳和天皇の子守房親王とされ、守房親王は田附村の八幡神社の神官として当地に赴いたことに由来するという。
田付氏は代々近江守護佐々木六角氏に仕えた。文亀3年(1503)9代重房の時に軍律違反を理由に領地を没収され、その翌年六角氏は配下の伊庭景治に田付氏を継がせた。
以後景澄・景輔と六角氏に仕え、天正元年(1573)景輔の時に織田信長の攻撃により落城し廃城となった。
景輔は落城後、安芸広島城主福島正則に取り立てられた。正則改易後は砲術指南役として徳川幕府に召された。これがのちの徳川家三大砲術のひとつとなった田付流である。

また賤ヶ岳の七本槍の1人、脇坂安治の出自は田付家であるという。
安治の父安明は田付景治(春)の妹を妻にしていた。その義妹が田付源(孫)左衛門との間にもうけていた男子を養子としたが、その男子が脇坂安治だという。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、日本城郭体系11、近江の城郭、ウィキペディア(Wikipedia)

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新海城  近江国(彦根)

2014年08月18日 | 平城

今でも集落全体が、見事な「お城壕」で囲まれている

堀跡を示す石碑 

お城のデータ

所在地::彦根市新海町   map:http://yahoo.jp/rQbHHM

現 状:集落

遺 構:城濠(堀)・石碑・現地説明板

区 分:平城

築城期:室町期

築城者:佐々木六角の臣・新開源之丞

城 主:新開源兵衛尉家郷

目標地:報恩寺、新海公民館

戦 い:新開崩れ   〇佐々木六角 VS  ●比叡山

駐車場: 報恩寺・延命地頭駐車場

訪城日:2014.8.17

新海橋石碑と説明板 

お城の概要

新海は、「大浦屋敷」「北浦屋敷」「今浦屋敷」という 3つの小字名を持つ屋敷地から成り立っています。  いずれの屋敷も周囲には水路が発達してます、中でも大浦屋敷は、卵型の集落を取り囲むように水路が巡って見事な環濠を形成しています。地元ではこれ「お城濠」と呼んでおり、この屋敷一帯が新開氏の平地城館であり、「新開崩れ」の舞台もったと想定さます。

現在は、お城濠も集落内は埋められ、生活道路と化し消失したが、集落の用水路として「お城濠」残存している。

     

歴 史

新海村の開発と新開氏  新海の地は、彦根市南部を流れる愛知川の河口右岸に位置しており、北と東は 田附町に接し、西は琵琶湖に面しています。新海は「新開 」とも書き、新海の東側は、新しい開発地であることを示してますが、古代以来の整然とした碁盤目は、条理地割が認められるものの、それより西側では条里地割消え、湿地を埋め立てた水田や藪地そして砂質の畑地が広るなど、後世開発によって新く誕生た土地と考えら土地と考えられます。

この新海地を開発したは 、新開氏と伝えています。

 愛智家行の長男家仲を祖とする一族で、家仲以降代々が六角氏の命に で、家仲以降代々が六角氏の命に で、家仲以降代々が六角氏の命によ 当地の開発に努めました。16 世紀中頃には、山崎城主(彦根市稲里町)山崎 賢家の弟が新開氏を継いで源兵衛尉家郷と名乗りました 。

新開崩れ  新海には、六角氏配下の新開氏と延暦寺から派遣された法師の両者が居住していたわけですが、両雄並び立たずの諺のとおり、両者は反目 を強め、永禄元年(1558 )正月、ついに比叡山派遣の山法師である 岡田千甚坊が新開氏の館を襲撃します。当主が新開源兵衛尉家郷とその子源内 は殺害され、千甚坊は新開氏館に入りました。

このとを知った六角氏は、直ちに 種村城主(東近江市種町)三河守定和に命じ、佐生城主(東近江市佐生町)後藤但馬守、目賀田城主(愛荘町目賀田)摂津守らともに千甚坊の軍勢を攻め、激戦の末に千甚坊を討ち取りま し た。 この戦を「新開崩れ」と称しています。

栗見荘   新海は、現在の彦根市域に属している田附村と 新海は、本庄村、そして東近江市域の新村 ・ 宮西村、乙女浜・ 福堂村・ 川南村・福堂村・ 阿弥陀堂村 の10 村で栗見荘を構成していまた。栗見荘は比叡山延暦寺が 比叡山延暦寺が所有する荘園でした。 富永荘(長浜市高月町・ 木之本、木津荘(高島市新旭町)ともに「三箇荘聖供領(千僧供領)」と呼ばれ、 延暦寺の経済的基盤を担う特別な荘園でした。延暦寺からは代官として山法師が派遣されて居住し、年貢米の徴収業務などに携わっていました。

参考資料:彦根市教育委員会文化財課、滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

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