城郭探訪

yamaziro

岡村館 近江国(彦根)

2014年08月24日 | 居館

お城のデータ

所在地:彦根市岡町町 map:http://yahoo.jp/Th3t_4

現 状:新神社鳥居・車道・宅地

遺 構:

区 分:居館 (集落)

築城期:室町期

築城者:岡氏

城 主:岡隼人佐貞吉・岡世之助(天文年間)

目標地:新神社

駐車場: 新神社無料駐車場

訪城日:2014.8.23

お城の概要

岡村館は、中世城郭分布調査によると、雨壺山(平田山)の南麓、新神社の前面鳥居や車道を含む一帯に比定されている。

現在は宅地化や自動車教習所の改変のため城館の面影はない。また、この比定地は発掘調査等なく信憑性はない。
新神社は付近約14町もの氏神である。

歴 史

多賀神社文書」に岡隼人佐貞吉の名があり、「彦根旧記集成」に天文年間には岡世之助が居住したとされている。

東光寺

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

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薩摩館  近江国(彦根)

2014年08月24日 | 居館

 

お城のデータ

所在地:彦根市薩摩町     map:http://yahoo.jp/ATgDyz

現 状::集落・稲村神社

遺 構:集落全体が微高、堀跡と思われる巾広道路、南側が横矢掛り状に膨らんでいる

区 分:居館 (集落)

築城期:室町期

築城者:中村氏

城 主:中村氏

目標地:無量寺

駐車場: 路上駐車

訪城日:2014.8.20

無量寺 稲村神社御旅所

お城の概要

薩摩館は、琵琶湖沿岸に営まれる薩摩町集落内に比定される城館。中世城郭分布調査によると、無量寺と稲村神社に挟まれた付近一帯とされる。

南方から集落を見ると一段高くなっていて、綺麗に碁盤状に区画された集落内にあって、比定地だけは南側が横矢掛り状に膨らんでいる。また北側の旧湖岸道路は、比定地付近だけ道幅が拡がっているのは堀などの遺構の名残りだろう。

稲村神社前には五輪塔がポツリ建っていた。
旧愛知川流路は薩摩館前を流れていたとされる。薩摩町と隣りの柳川町、どちらも九州の地名なのは?

歴 史

近江愛智郡志には、住す

 坂田武士今井家の重臣島新右衛門の室は薩摩中村娘、福原太郎左衛門女房の姉也と「島記録」に見え、新右衛門秀淳の三男三郎右衛門が母家中村氏に養子となり、後年島氏を称す【島記録】

薩摩館に関する詳細は不明である。
薩摩町は薩摩出身者か薩摩守を名乗った者が住したため、詳細不明。ただ古来より、この地は近畿隼人(隼人司や左右衛門府に仕えて御所を守り、色々な行事等の先導役や警護役として活躍した)のうちの近江国の隼人の居住地とされるところで、「薩摩隼人」と関連性があるのかも

 またこの地は、秀吉時代には直轄領とされたほどの要港であった。
江戸時代には、北海道松前までも商圏を保有する商人の町で、薩摩町とその隣りの柳川両町の商人はまとめて「両浜商人」と呼ばれ、近江商人の一翼を担っていた。

無量寺印東

南側から集落を見ると一段高くなっている

旧愛知川流路は薩摩館前を流れていたとされる。薩摩町と隣りの柳川町、どちらも九州の地名なのは、琵琶湖や旧愛知川の商人港・運輸業

参考資料:新修彦根市史、滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、近江愛智郡志

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朽木主膳陣屋   近江国(近江八幡)

2014年08月24日 | 陣屋

お城のデータ 

所在地:近江八幡市玉木町2丁目     map:http://yahoo.jp/DRtBAL

現 状:民家

遺 構:

区 分:陣屋(代官所)

築城期:江戸期 元禄11年(1698)以降

築城者:朽木主膳

城 主:朽木則綱・直綱・紀綱・長綱・綱弘

城 域:南北約70m×東西約50m四方

目標地:玉木バス停

駐車場: 路上駐車場

訪城日:2014.8.20

お城の概要

名門朽木氏一族、旗本の代官所。朽木主膳陣屋は、江戸中期に置かれた旗本の代官所である

秀次の城下町(玉木町)に、江戸期に飛び地の陣屋が置かれ、現在は民家が建替えの工事中、遺構や街並みも更新される。

場所は玉木バス停西側の一画で、規模は南北約70m×東西約50m四方と考えられている

福知山藩朽木氏庶流の代官所。
1698年、朽木則綱が近江国内に6千石の代官地を与えられ、その頃の築城と考えられる。
則綱以降、歴代の領主である直綱・紀綱・長綱・綱弘は代々「朽木主膳」を名乗った。

1825年に同地一帯が天領となったため、廃城となる。

城域は、現在の玉木町バス停付近とされる。 南北約70m×東西約50mの規模があったと考

歴 史 

朽木主膳陣屋は、福知山城主朽木氏から派生した分流朽木氏が旗本として代官所を構えた地である。

朽木氏は、近江守護佐々木氏から六角氏や京極氏と共に分かれた高島氏から、更に派生した高島七頭の1つに数えられ、朽木庄を本拠として代々将軍家に仕えた。

戦国末期には朽木元綱が信長・秀吉・家康の三英傑に従い朽木藩を維持した。元綱の死後の遺領は3子に分知されたため、朽木宗家を継いだ嫡男宣綱は大名の資格を失ったが、交代寄合の旗本として6470石で朽木庄を継いだ。

そのうち3男稙綱には1100石余が与えられたが、のちに将軍家光に重用されて、下野鹿沼藩や常陸土浦藩を与えられ宗家を上回る大名に取り立てられた。
稙綱の子稙昌の時、福知山32000石に移封された。

稙昌の死後、遺領の一部である3000石が次男則綱に分与され、則綱は将軍家綱・綱吉に仕えて元禄11年(1698)近江国蒲生・栗太・野洲3郡内に6000石を与えられた。

朽木主膳陣屋が築かれた時期は定かではないが、則綱ののち直綱・紀綱・長綱・綱弘は代々主膳を名乗っている。また代々朽木氏は、旗本として江戸芝の西久保に屋敷を構えていたので、陣屋では代官が政務を司っていた。

文政8年(1825)綱弘の子綱常の時に陣屋のあった八幡町の中心地は天領となり、その代償として郡内木村及び下小房村を与えられ、陣屋は信楽代官所に引き渡された。

宝永五年から文教九年まで全市が朽木領となった

朽木綱常は天保年間(1830-43)、同じ八幡町内の北ノ庄村に新たに朽木和泉守陣屋を築き、陣屋に代官を配置し明治に至った。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、日本城郭体系11

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日夏城(泉城・泉古屋敷)  近江国(彦根)

2014年08月24日 | 平城

日夏城の平時の居館

妙楽寺古屋敷遺跡の現地看板・説明板

お城のデータ

所在地:彦根市日夏町 map:http://yahoo.jp/bz5C4O

別 名:泉城・泉古屋敷

現 状:荒神山公園

遺 構:案内板 (地割溝・掘建柱建物等出土)

区 分:居館 (集落)

築城期:室町期

築城者:日夏氏

城 主:日夏越前守

廃 城:元亀4年の近江侵攻で、信長の安土城下へ強制的移動で廃城(新・彦根市史第一巻)

目標地:荒神山公園

駐車場: 荒神山公園に第4駐車場

訪城日:2014.8.20

  

お城の概要

泉古屋敷は、荒神山東側を山裾に沿って流れる宇曽川と荒神山に挟まれた一画にあった泉村という集落跡。「荒神山公園」南端付近。

  現在は荒神山公園となっている南端付近で、公園整備以前の昭和60年(1985)に発掘調査が実施、中世商業集落遺構の一部が発見された。各屋敷ごとに石組み溝や道路・土塁などによって大小に区画されており、掘立柱建物やカマド・井戸、方形石組み、川に面した2ヶ所には石段(城郭遺構)が確認された。

調査から日夏8ヶ村の一つ、妙楽寺の古屋敷があったところと伝承されていました。調査の結果、16世紀中頃の商業集落跡が現れた。石組み溝(堀)や道路などによって区画され、掘立柱建物やかまど、方形石組み施設などが城郭遺構発見された。

歴 史

日夏の地を本拠て あったと推測されますが、 土豪化し、城を築いて戦国大名に従化し、戦国大名に従 うよになったのでしょう。

『 江州佐々木 南北 諸士帳』 には 、「日夏庄泉城主  佐々木随兵 日夏越前守」と記されて ます。

地元に残る古文書は、 永禄2年(1559)の「 肥田城水攻め」や、翌年野良田表合戦」に勝利した浅井長政の重臣 磯野員昌が、その勢いで六角方日夏氏を攻めました首尾よく抗戦して難を逃れたこと。その後、 浅井長政配下なった。日夏氏は元亀4年(1573)の織田信長による小谷城総攻撃により、浅井一族ともに討死しやがて日夏城没落たこなどが記されいる。

泉古屋敷は、荒神山の北尾根上にあった日夏城の城下に築かれた平時の下屋敷であったと考えられる。日夏城は、江南守護六角氏の分流日夏氏が代々城を構えて六角氏に仕えた。

説明板で、発掘調査の成果、遺跡の図面や調査時のカラー写真。

後に見える山は、日夏城です。

 遺跡の場所は、荒神山北東の麓にあり、子どもセンターがある公園の南の端。

遺跡の調査は昭和60年に実施。彦根犬上広域廃棄物投棄場に伴うものでした。

 妙楽寺のご先祖が住んでいた場所、この地を訪れた方が、妙楽寺古屋敷のことに気付いて。村の跡に設置されたこの投棄場、その代償として提供された経費で、日夏の人たちが苦労して建てたヴォーリズ建築である日夏村役場の建物を保存活用するのでなく不要として放棄し、新しい町民会館を建設しようとされているそうだ。

遠景:荒神山城(荒神山古墳) 

参考資料:彦根市教育委員会文化財課、滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

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彦富城(藤田屋敷) 近江国(彦根)

2014年08月24日 | 居館

お城のデータ

所在地::彦根市彦富町 map:http://yahoo.jp/GsdmUl

現 状:田畑

遺 構:不明

区 分:居館(平城)

築城期:室町期

築城者:平井加賀守秀名

城 主:藤田佐渡守

目標地:彦富神社

駐車場:彦富神社の北側浄教寺駐車場

訪城日:2014.8.17

「彦富城祉」比定地への路地(彦富神社の) 「彦富城祉」比定地

お城の概要

彦富城は、中世城郭分布調査によると、周囲は土地改良され遺構は

「藤田屋敷」の道路をへだてた西側は、今も 佐々木源氏とゆ かりの深い古社「彦留神社」が鎮座しています

小字「藤田屋敷」 の地 に 藤田佐渡守らが城館を構え、来迎川 の 水利権に関わるとも下街道を守備していた推測されます。

また往時(16世紀)の旧愛知川は、この付近を流れていたため要衝の地であったことは間違いない。

彦富神社

 集落の中央部地頭堂と石仏

浄教寺

   

歴  史

「大洞弁天当国古城名札」には彦富村城主に藤田佐渡守の名がみえる。

「藤田佐渡守」の平地城館

佐々木源氏一族が近江を 支配した中世に、存在城名と主列挙れっきょ した『 江州佐々木南北諸士帳 』の中に「彦富城主 』の中に佐々木旗頭高島末 平井加賀守秀名/ 同備中丹後、与力 藤田佐渡守」と記されています。

元禄 8年( 1695 )、 大洞弁財天の建立に際して彦根藩領内古城主を 調べて菩 提 を弔った『大洞弁財天当国古城主名札』 に 「彦富村城主藤田佐渡守」の名が確認でききます。

平井一族の詳細は不明ですが、藤田佐渡守については図の小字に「藤田屋敷」の名が確認できます。

「藤田屋敷」の道路をへだてた西側は、今も 佐々木源氏とゆ かりの深い古社「彦留神社」が 鎮座ざしています。

小字「藤田屋敷」の地に藤田佐渡守らが城館を構え、来迎川の水利権に関わるとも下街道を守備していたを守備していた。

彦留村から富明治12年に彦富村改称されました。

今でも地元は「ヒコドメ」と呼ぶ人が少なくあ りません。明治4年頃に描かれ「愛智郡彦留村領内絵図」を見ますと、の集落は西方微高地に規模の大きな集落が存在するほか、昭和35年に字稲枝と して独立する南部の「白木」と東下野良田(稲枝駅前)」の3ヶ所に分散して広い村域を形成ました。

■ 条里地割と旧愛知川河道 ■
明治4年の絵図では、北側の金田村・野部と境は、古代から中世にけて行なわれた土地区画である 条里地割に沿って約1500メートルの間が、ほぼ直線的な境界とっています。同様に東側の野良田村との境も約600 メートルが直線的に境界を形成しています。 この村境は、前者が愛知郡条理の4条と5の境、後者が 4条と5の境、後者が 16 里と 17 里の里境に相応しているようです。一方、 南側と西の村境は条里地割が乱れこの形状は、旧愛知川 する曲線となっています。

参考資料:彦根市教育委員会 文化財部 文化財課

彦留神社石造宝塔ほと彦留神社については、延暦年間(782 ~806 )の創祀で、近江守護佐々木京極氏崇敬が厚く、郷の在地領主も武人として崇めた伝わっおり、江戸時代には亥大明神・彦留 大明神と称し、明治以降に彦留神社となりました。
石造宝塔は、彦留神社の境内敷地北端高さ約 石造宝塔は、彦留神社の境内敷地北端高さ約 石造宝塔は、彦留神社の境内敷地北端高さ約 石造宝塔は、彦留神社の境内敷地北端高さ約 3m、直径約 5m程度の円形土盛り上に設置されています。この土盛り周囲には礎石1基と五輪塔の水輪部分 2基が存在し、礎石については板基が存在し、礎石については板石の上に設置されており、現在では手水鉢とし転用います。
石造宝塔については、相輪、笠塔身、基礎の石材が揃っているもですがそれぞれ石材石質(いずれも花崗岩ではあるが、わずかに鉱物組成異なる。)や規格劣化の度合違から、もと

もともと別個体であったのを集めて構成されいる判断できます。全高が323.8㎝最大幅(基礎部)が 114.5 ㎝。制作年代としては刻銘が確認できないため実年代は不明です、 塔身部の形状が、特に勾欄の表現が、鎌倉時代末期から南北朝もとされている金剛輪寺宝塔類似します。

 基礎については、高さ58.2㎝、幅114.5㎝、奥行き115 ㎝を測るもので、格狭間は陽刻され、内部に文様は彫られていません。上面高さ3.8 ㎝の段が付いてます。
 塔身については、軸部と首が1つの石材で作られており、高さ76.2㎝軸部の最大径72㎝を測ります。

磨滅が著しく彫刻の判別は難いしいが、外周に12本の柱を表現していると考えられるわずかな膨らみが確認でき、本来は柱と扉形の表現あったも考えれます。上部についてドーム状に丸みを帯びて狭まり、勾欄部となっいます。勾欄部についても円筒形で、勾欄が12の長方形の 凹みで表現されています。
 笠部については、笠と露盤が1つの石材で作られているもで、高さ45.1 ㎝、幅97.5 ㎝を測ります。ともに平面四角形を呈し、笠部は宝形造り、下り棟は反りは弱いもので、下端近くに面が作られ鬼瓦を表現してます。

相輪部については、一般的なもので下から伏鉢、請花、九輪、請花、宝珠までが1つの石材で作られています。寸法は、高さ140.5㎝、 九輪部の径 22.7㎝、背が高く、寸胴な印象を受けるものです。

 本件については、石材表面の磨滅が著しく、記年銘等残存していません。また、各部の石材についも笠と塔身ついては正安 4年(1302)の記年銘ある石塔寺宝や、 編年研究から鎌倉時代後期のもと考えれ、金剛輪寺宝塔と同時期のもである判断きますが、相輪、請花の形状が反らずに丸く収まる点や基礎の格狭間内文様印刻ならず陽刻になっている点ど型式的退化傾向が確認でき、これらについては時代が下るもの後補石材と考えます。

  ただし、これらの石材を使用て構成さいる宝塔が保存されているとうこは、当地の中世仏教文化を物語にあたって欠くこと のできない文化財ある同時に、小字して 法蔵寺や藤田屋敷、東出等の地名が残存している点からも当地の中世社会全体を考えるための貴重な物証としても期待できるものであり、保存必要が考えられます。(彦根市教育委員文化財課)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、彦根市教育委員会、近江の城郭

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


沼波(のなみ)館 近江国(彦根)

2014年08月24日 | 居館

お城のデータ

所在地::彦彦根市東沼波町 map:http://yahoo.jp/_PjMfz

現 状:HONDA Cars彦根南・国道8号線

遺 構:

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:沼波氏

城 主:沼波三左衛門俊盛・又次郎秀信

目標地:HONDA CarsHONDA Cars彦根南

駐車場:HONDA Cars彦根南 駐車場(店長に依頼・快諾)

訪城日:2014.8.23

お城の概要

沼波館は、県教委の分布調査資料によると、国道8号線「東沼波町」交差点のすぐ北側、現在の自動車ディーラーの敷地付近に比定されている。
近年の土地改良により往時の地形は消失したと思われるが、ディーラーの周囲を水路が廻っているのはその名残なのだろうか

歴  史

「多賀神社文書」から沼波三左衛門俊盛・又次郎秀信の名が知られ、沼波荘・多賀荘から勢力を得た土豪と推定される。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、彦根市教育委員会、愛知郡史

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