城郭探訪

yamaziro

小泉館  近江国(彦根)

2014年08月21日 | 居館

お城のデータ

所在地:彦根市小泉町   map:http://yahoo.jp/P_m4bA

現 状:宅地・勝泉寺

遺 構:近年の宅地開発で消失

区 分:居館(平城)

築城期:南北期

築城者:沢右京

城 主:沢右京

廃 城:江戸期(一国一城令)・・・彦根藩

目標地:勝泉寺、小泉町公民館

駐車場:勝泉寺・小泉町公民館横の空地に駐車

訪城日:2014.8.20

お城の概要 

小泉館は、現在の小泉町のほぼ中央に営まれている旧来からの小泉集落にあったとされる城館である。

中世城郭分布調査によると、勝泉寺を中心とした一帯を比定している。

 勝泉寺の北側では、集落中央を貫く道がクランク状に曲がり、その付近の中道も至るところで食い違いを見せ、道幅も不均一で、城道の様相を呈している。

歴 史

「佐々木南北諸士帳」には小泉館主に沢右京の名がみえるが、詳細不明。

参考資料:彦根市教育委員会文化財課、滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

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安養寺館  近江国(彦根)

2014年08月21日 | 居館

 京町交差点城東小学校北西隅

お城のデータ

所在地:彦根市京町2丁目   map:http://yahoo.jp/ghvyLb

現 状:宅地・県道

遺 構:彦根城下町で消失

区 分:居館(平城)

築城期:南北期

築城者:安養寺氏(土豪)

城 主: 安養寺三郎右衛門

廃 城:江戸期(一国一城令)・・・彦根藩

目標地:京町交差点、城東小学校

駐車場: 「彦根市武道場」前に駐車

訪城日:2014.8.20

 お城の概要

安養寺館は、中世城郭分布調査によると、現在の京町交差点とその南側付近に比定されている。この辺りは昭和45年の町名再編まで安養寺町であった。
現在は市街地化しており城館の名残は一切ない。

城館とは無関係だが、明治3年に起こった百姓一揆跡の碑。(京町交差点の北東50m歩道・民家前)http://yahoo.jp/pHk-S6

歴 史

「佐々木南北諸士帳」には彦根安養寺館を居館とした安養寺三郎右衛門の名がみえる。14~15世紀頃、近江守護佐々木氏の庶流外村氏がこの地に住し、安養寺氏を名乗ったのが始まりだと考えられる。

戦国末期の記録によると、安養寺氏は13代子孫が相続して大庄屋となっていたとされ、安養寺三郎兵衛という名が記されている。

長浜市(旧びわ町)の安養寺城主で、京極家の根本被官であった安養寺氏が知られているが、その関係性は不明である。

「滋賀県史」に、15世紀末に作られた「佐々木南朝諸士禄」に安養寺三郎右衛門、彦根安養寺館」とある。館は、大きな屋敷、小さな城。三朗右衛門は館の当主。

彦根市(旧犬上郡)には安養寺町というところがありましたが、昭和45年に新住居表示になり、現在の大東町と京町の一部になっている。

南北朝期(1336~)には、安養寺荘という荘園があったとの記録がある。その荘園には、京都洛西の広隆寺の末寺の料所、つまり安養寺のための田畑でした。

 ところで、「地方別日本の名族8近畿編」新人物往来社によれば、浅井郡安養寺(びわ町)に発祥、京極高清に属した武将に、安養寺三朗右衛門がいる。記載者は「浅井長政」(光文社歴史小説文庫)などの著者徳永氏です。

ここでは、「三郎右衛門」が浅井郡安養寺村の出身であるとされています。徳永氏の記載が正しいとすれば、彦根の館にいる「三郎右衛門」と浅井郡の「三郎右衛門」がいることになります。それとも同一人物でしょうか。徳永氏が何を典拠としたかは分かりませんので確かではありません。

15世紀に浅井郡と犬上郡(彦根)に二つの安養寺館(城)があること、どちらにも、安養寺氏と名乗る人物がいた。
1468年、応仁の乱が始まり、安定していた京極家持清の時代が終わり、1470年から1505年までの京極家の内紛時代があった頃。

 この裏の「彦根市武道場」前に駐車

参考資料:彦根市教育委員会文化財課、滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、戦国の武将

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葛篭(つづら)城(岡部城)  近江国(彦根)

2014年08月21日 | 平城

神社裏手に残る「土塁や堀跡が」

お城のデータ

所在地:彦根市葛籠町     maphttp://yahoo.jp/xIgnAm

別 名:岡部城

現 状::集落・鹿嶋神社(若宮八幡宮)

遺 構:土塁・空堀

区 分:居館(平城)

築城期:南北期

築城者:岡部清六

城 主:岡部清六

廃 城:江戸期(一国一城令)・・・彦根藩

目標地:葛篭町公民館、鹿嶋神社

駐車場: 葛篭町公民館に駐車場

訪城日:2014.8.18

 お城の概要

葛籠城は、中山道沿い東側の葛籠集落内にあったとされる平城である。中世城郭分布調査によると、集落の中央に鎮座する鹿嶋神社や公民館の東側一帯に比定されている。
比定地の中道を散策すると、クランク状に折れ、土塁のような高まりが見られるが、城遺構なのか私には判断がつかない。
また鹿嶋神社の北側裏手の竹薮内や周囲には土塁や堀跡らしき窪みが残っていた。比定地とはズレているが、こちらが城館ではないのだろうか。

東側児童公園付近

葛篭町公民館

歴 史

「大洞弁天当国古城主名札」や「佐々木南北諸士帳」に岡部清六の名がみえる。岡部氏は興福寺領の荘官より出た土豪とされる。

文和五年(1356)足利義詮が後光厳天皇を奉じて近江を転戦した際、同行していた義詮の側室が産気付いてこの地で出産したと伝えられている。

この時側室や家臣数名がこの地に残ったが、子はやがて亡くなってしまい、竹で葛籠を編みながら菩提を弔って土着したことに因んで葛籠という地名になったとされている

 『大洞弁天当国古城主名札』や『佐々木南北諸士帳』に、葛籠城主として岡部清六の名が見られる。岡部氏は興福寺領の荘官出身の土豪とされるが、詳細は不明である。

彦根市教育委員会では、若宮八幡宮向かい周辺を葛籠城址遺跡と比定している。

若宮八幡宮

由緒
南北朝の争乱の頃、足利尊氏の子義詮が、文和四年後光厳天皇を奉して西江州に戦い、湖北を経て大垣を平定し、翌五年京都に帰ることになった。

その時、義詮に同行していた妻妾が途中産気づき、ここで男子を出産した。付人として家臣九名がこの地に残り保護した、君子は幼くして亡くなった。生母は悲しみのあまり髪を下ろして醒悟と称して尼になり、この地に一庵(松寺)を結んで幼君の後生を弔った。ここに土着した。家臣九名が竹と藤蔓で作った葛籠を生産するようになり、松寺の北方に一社を祀ってこの宮が出来た。

 古来「産の宮」として安産祈願に参詣する人が多い。向かいに建つ若宮八幡宮には、文和五年(1356)足利義詮が後光厳天皇を奉じて近江を転戦した際に、同行していた義詮の側室が産気付いてこの地で出産した。

葛籠の地名も、この時側室や嬰児とともにこの地に残った家臣数名が、子が幼くして世を去った後も側室らと竹で葛籠を編みながら菩提を弔って土着したことに因むものとの伝承があります。

ただ、これらの言い伝えや八幡宮と城との関連は不明。

旧中仙道沿いの医院駐車場の東側(鹿島神社の裏・土塁と堀)

参考資料:彦根市教育委員会文化財課、滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

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平田城   近江国(彦根)

2014年08月21日 | 平城

お城のデータ

所在地:彦根市平田町   map:http://yahoo.jp/zE-QOs

現 状:民家

遺 構:近年宅地開発で消失

区 分:居館(平城)

築城期:南北期

築城者:平田氏(土豪)

城 主:平田和泉守・平田宗左衛門高慶

廃 城:江戸期(一国一城令)・・・彦根藩

目標地:彦根市社会福祉センター別館

駐車場: 路上駐車場

訪城日:2014.8.18

 お城の概要

彦根市社会福祉センター別館の東側道路~約150m先水路がある交差点の南側宅地付近

平田城は、中世城郭分布調査によると、平田町の西方で福祉保健センターの北側、天理教公平分教会が建つ住宅地一帯に比定されている。付近は碁盤状に整然と区画され民家が建ち並んでいるが、比定地前だけは車道がクランク状に曲がり、北方には野瀬川支流の水路が区画とは逆らって流れている。これらは城館があった名残りなのだろうか。

 歴 史

「佐々木南北諸士帳」に平田城主平田和泉守の名がみえる。

『多聞院日記』に平田城・天正10年12月13日の条「筒井ハラタト云所ニ陣取、サラ山へ一里南ニ」と記す。

また京都清水寺の「成就院勧進奉賀帳」には文明11年平田宗左衛門高慶の名がみえる。平田氏は荘官出身の土豪。

応仁の乱の騒乱の中でも平田山が軍事拠点として使われていたとも伝えられていますので、実は彦根市内でも古いタイプの山城形式をもった平山城だったのかもしれません。

『肥田城と水攻め』の話で登場しました六角義賢の父親・六角定頼が上坂景宗と対陣した時に平田山を中心に矢を射ち合う“矢戦”が行われて、「江北軍(上坂軍)・磯野源三郎為員の軍勢、が江南軍(六角軍)・吉田安芸守定雄の軍勢と戦った結果、磯野為員が耐え切れずに退却した」という記録が残っています。六角定頼が当主になった永正15年(1518)から磯野為員が山本山で戦死する天文元年(1532)の間である事は間違いありませんので戦国時代前半には城として戦略拠点になっていたことが窺えますね。

元亀元年(1570)に織田信長が磯野為員の甥・磯野員昌が守る佐和山城を攻めた時には、水野信元(徳川家康の伯父)が平田山城に軍を置いて佐和山城を囲む一端を担っています。
そして慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの直後に行われた徳川家康による佐和山城攻めでも平田山に家康の本陣が置かれ、家康はここから佐和山城が落城する様子を眺め、戦いが終わった後に麓の長久寺で休息しました。
家康の佐和山城攻めの時には城としての機能がどれほど残っていたのかははっきりしませんが、彦根市内の戦いでは絶対に必要となる場所だったと言えますね。


江戸時代になると平田山城跡は井伊家の狩場となっていました。
七代藩主・井伊直惟は特に好んで鷹狩を楽しんでいたそうですよ。


参考資料:彦根市教育委員会文化財課、滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

 

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応仁の乱(1467〜77)に始まる戦国時代

2014年08月21日 | 番外編

応仁の乱(1467〜77)に始まる戦国時代は、室町幕府の権力が著しく低下する中で、全国各地に戦国大名と呼ばれる勢力が出現して、戦いを繰り返しました。

その中で近江は東国からの京の都への玄関口という立地条件から歴史の表舞台になってきました。中世を通じて近江を領した佐々木一族の六角氏と京極氏、京極氏の被官から台頭した浅井氏、さらに京をめざす戦国大名などが、在地の土豪たちを巻き込んで近江の地で戦いを繰り広げました。その結果、近江には全国でもっとも多い約1300箇所に城や館・砦などが築かれることになります。

彦根も例外ではありませんでした。

特に、南の六角氏と北の京極氏・浅井氏の境目に位置することから、佐和山城をはじめと高宮城・山崎山城・肥田城など市内全域におよぶ60箇所の地に城や館・砦などが設けられ、幾多の戦場となりました。

「天下布武」を揚げて天下人をめざした織田信長、豊臣秀吉、徳川家康らの戦国大名も彦根を重視し、彦根の地に足跡を残しています。

 

 


尾末山砦  近江国(彦根)

2014年08月21日 | 

 砦山が消失してしまった、まぼろしの城

  

お城のデータ

所在地:彦根市尾末町    map:http://yahoo.jp/ZRJAfX

別 名:尾末山城

現 状:宅地・池田屋敷

遺 構:彦根城築城で消失

区 分:砦・平山城

築城期:織豊期

築城者:織田氏

城 主:河尻与兵衛

廃 城:江戸期・・・彦根城築城時

目標地:池田屋敷・彦根市立図書館

駐車場: 彦根市立図書館前無料駐車場

訪城日:2014.8.20

城下町の景観 尾末町

お城の概要

尾末山砦は、現在の彦根城中堀の外側沿い池田屋敷の北側付近にあったとされる。

彦根城築城以前は当所に尾末山と呼ばれた小山があり、砦が築かれていたというのだが、彦根城築城に際して尾末山は跡形もなく切り崩された。往時の彦根は多くの湿地帯が広がっていたとされるので、城下町建設に尾末山の土は大いに貢献したのであろう。

復元された佐和口門続多聞櫓の向こうに見える一帯が尾末山砦跡という。地形そのものが失われているため遺構はないが、旧彦根藩の武家屋敷である池田屋敷が残っている。

歴 史

 元亀元年(1570)に織田信長は姉川の戦いで浅井長政と朝倉義景の連合軍を打ち破ったが、敗れた浅井氏の残党は磯野員昌の居城である佐和山城へと逃げ込んだ。信長はこのときに佐和山城を包囲して周辺の小山に砦を構築させて家臣を配置したが、その中にある西彦根山(尾末山砦)。

『信長公記』には「七月朔日、佐和山へ御馬を寄せられ、取詰め、鹿垣結はせられ、東百々屋敷(丸山砦)御取出仰付けられ、丹羽五郎左衛門置かれ、北の山(物生山砦)に市橋九郎右衛門、南の山(里根山砦)に水野下野、西彦根山(尾末山)に河尻与兵衛、四方より取詰めさせ、諸口の通路をとめ、…」と・・・『信長公記』に加筆、信長の佐和山城包囲網である。

織田信長の佐和山城攻め時の陣城

 信長公記には佐和山城に対する付城について以下の記述がある。
----------------------------  【信長公記】 (巻三 元亀元庚午)
「木下籐吉郎定番として横山に入置かれ、夫より佐和山の城、磯野丹波守楯籠り相□候キ、直に信長公。七月  日、佐和山へ御馬を寄せられ、取詰め、鹿垣結はされ、東百々屋敷御取出仰付けられ、丹波五郎左衛門置かれ、北の山に市橋九郎右衛門、南の山に水野下野、西彦根山に河尻与兵衛、四方より取詰めさせ、諸  の通路をとめ。七月六日、御馬廻ばかり召列れられ御上洛。」
----------------------------
 上記、記述の「西彦根山」が、この尾末山である。

 江戸時代になり井伊家が彦根築城になって、尾末山を切り崩して、家臣屋敷(池田屋敷が残っている)に使用し、現在は尾末町集落・宅地。

城下町の景観 尾末町彦根城の中濠に面する佐和口多聞櫓は水面に美しく映え、行く人々に安らぎを与えてくれます。
 

参考資料:彦根市教育委員会文化財課、滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

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