環濠集落の小字名に城関連地名が数多く残る
お城のデータ
所在地::彦根市甲崎町 map:
現 状:集落・田畑
遺 構:環濠
区 分:平城
築城期:室町期
築城者:甲崎氏
城 主:神崎氏高・高昌・昌信・賢昌・昌氏と5代に渡り甲崎に城館
目標地:川桁神社
駐車場:川桁神社の駐車場
訪城日:2014.8.17
お城の概要
甲崎城は、現在の甲崎町にあったとされる。明確な遺構は残っていないが、城関連の地名を小字名で数多く確認できる。
甲崎集落内は南から「上屋敷」「城屋敷」「中屋敷」、集落から北西へ向かうと田園地帯の中に畑地の一画があり、ここは「本拠地」「馬屋」「土居」などの小字が集中し、地元ではこの畑地を城館跡だと伝えている。また畑地の西側にも「下屋敷」「代ノ屋敷」などがあり、甲崎町全体に何らかの城館施設が広がっていたと思われる。
往時の愛知川は現在の流路ではなく、甲崎町から薩摩町へ向かい琵琶湖へそそいでいた。集落や畑地の前を流れる水路が旧愛知川の名残りだと思われ、甲崎城は愛知川が堀の役割を果たし、湖上交通をも利用できる立地であったと想定できる。
歴 史
近江愛智郡志には、
神崎氏は甲崎町に住す、甲崎は轉訛なりといふ。「新開略記」に神崎右近太夫氏高は佐々木頼綱の嫡流なりといへば宇多源氏歟。頼綱は頼明・宗信・成綱・宗綱・時綱の五見あれば子孫にや。
神崎高昌、下総守昌信右近太夫賢昌、與太郎昌蛆、五代高崎に館に住し応仁の乱には當主高昌戦死し子息昌信相續せりと。
永禄二年肥田城戦の後、浅井長政の将磯野丹波守員昌當城に攻め来たらんとす。附近諸城主、本庄村、新村、小川、山崎、山脇等の諸将馳せ集まり員昌を追い敗り事無きをえたり・・・云々
甲崎町は、江戸時代以前まで神崎村と称した。甲崎城主は近江守護佐々木六角氏の支流・神崎氏であったとされる。以後神崎氏は六角氏の配下で、氏高・高昌・昌信・賢昌・昌氏と5代に渡り甲崎に城館を構えた。
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、彦根市教育委員会、愛智郡志
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