城郭探訪

yamaziro

甲崎城 近江国(彦根)

2014年08月22日 | 平城

環濠集落の小字名に城関連地名が数多く残る

お城のデータ

所在地::彦根市甲崎町 map:

現 状:集落・田畑

遺 構:環濠

区 分:平城

築城期:室町期

築城者:甲崎氏

城 主:神崎氏高・高昌・昌信・賢昌・昌氏と5代に渡り甲崎に城館

目標地:川桁神社

駐車場:川桁神社の駐車場

訪城日:2014.8.17

お城の概要

甲崎城は、現在の甲崎町にあったとされる。明確な遺構は残っていないが、城関連の地名を小字名で数多く確認できる。

甲崎集落内は南から「上屋敷」「城屋敷」「中屋敷」、集落から北西へ向かうと田園地帯の中に畑地の一画があり、ここは「本拠地」「馬屋」「土居」などの小字が集中し、地元ではこの畑地を城館跡だと伝えている。また畑地の西側にも「下屋敷」「代ノ屋敷」などがあり、甲崎町全体に何らかの城館施設が広がっていたと思われる。

 往時の愛知川は現在の流路ではなく、甲崎町から薩摩町へ向かい琵琶湖へそそいでいた。集落や畑地の前を流れる水路が旧愛知川の名残りだと思われ、甲崎城は愛知川が堀の役割を果たし、湖上交通をも利用できる立地であったと想定できる。

 

歴  史

近江愛智郡志には、

神崎氏は甲崎町に住す、甲崎は轉訛なりといふ。「新開略記」に神崎右近太夫氏高は佐々木頼綱の嫡流なりといへば宇多源氏歟。頼綱は頼明・宗信・成綱・宗綱・時綱の五見あれば子孫にや。

神崎高昌、下総守昌信右近太夫賢昌、與太郎昌蛆、五代高崎に館に住し応仁の乱には當主高昌戦死し子息昌信相續せりと。

永禄二年肥田城戦の後、浅井長政の将磯野丹波守員昌當城に攻め来たらんとす。附近諸城主、本庄村、新村、小川、山崎、山脇等の諸将馳せ集まり員昌を追い敗り事無きをえたり・・・云々

 甲崎町は、江戸時代以前まで神崎村と称した。甲崎城主は近江守護佐々木六角氏の支流・神崎氏であったとされる。以後神崎氏は六角氏の配下で、氏高・高昌・昌信・賢昌・昌氏と5代に渡り甲崎に城館を構えた。

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、彦根市教育委員会、愛智郡志

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


彦根館  近江国(彦根)

2014年08月22日 | 館跡

お城のデータ

所在地:彦根市元町   map:http://yahoo.jp/N9TGyJ

現 状:宅地・駐車場

遺 構:Ζ(鍵)字形路地・水路(堀痕)彦根城下町地割で消失カ

区 分:居館

築城期:南北期

築城者:彦根氏

城 主:彦根口郎兵衛

廃 城:江戸期(一国一城令)・・・彦根藩

目標地:彦根市役所

駐車場:彦根市立図書館前無料駐車場、彦根市役所無料駐車場

訪城日:2014.8.20

お城の概要

彦根館は、現彦根市役所の北側付近に所在したとされる中世城館である。現在は市街地化され、駐車場等となっているため城館であった雰囲気は微塵もない。彦根館の立地は、江戸期の彦根城下では彦根道と呼ばれる佐和山を切通し道で山越えし、中山道鳥居本宿へ至る脇街道に面しているが、中世にこの街道があったのかは判らない。

歴 史

「佐々木南北諸士帳」には、彦根口郎兵衛なるものの居館があったとされているが、詳細は不明である。

彦根館は彦根口郎兵衛という武士の居館と伝わる。近江源氏佐々木氏に仕えた武士である。

 の比定地は東側一帯

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

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洲越館 近江国(彦根)

2014年08月22日 | 平城

お城のデータ

所在地:彦根市須越町   map:

現 状:宅地・畑地

遺 構:近年の宅地化で消失

区 分:居館

築城期:南北期

築城者:

城 主:

廃 城:江戸期(一国一城令)・・・彦根藩

(一国一城令は慶長20年(1615)閏6月13日(1615)に江戸幕府が制定した法令である。土井利勝、安藤重信、酒井忠世の連判の元、徳川秀忠が発令したが、法令の立案者は大御所徳川家康であった。その内容は、一国(この場合の「国」は令制国でもあり、大名の領国(後の藩)のことでもある)に大名が居住あるいは政庁とする一つの城郭を残してその他の城はすべて廃城にするというものである。

目標地:光淵寺

駐車場:光淵寺駐車場

訪城日:2014.8.20

お城の概要 

洲越館は、琵琶湖に面した須越町の安食川西岸集落一帯にあったとされる城館である。

彦根市北東部に位置し、町中央部には安食川が流れていて、南部には宇曽川が流れている。 琵琶湖が見え、町内部には野田沼がある。 宇曽川の河口付近には磯田漁港がある。

中世城郭分布調査によると、光淵寺の東側付近に比定されている。南方の田園地帯から見ると、一段高い位置に集落は営まれている。集落全体は碁盤状に平然と区画されているが、光淵寺の北側だけは道幅が広くなっている。

比定地には、「林常吉住宅跡」「疋田常吉住宅跡」などの石碑が建っているが、碑が新しく近年の元地主土:地寄贈者カ?不明である。

歴 史

詳細不明。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

 

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大藪城(大藪館) 近江国(彦根)

2014年08月22日 | 平城

 

 

お城のデータ

所在地:彦根市大藪町   map:http://yahoo.jp/LB1wnm

別 名:大藪館

現 状:宅地・畑地

遺 構:近年の宅地開発や圃場整備で消失

区 分:居館(平城)

築城期:南北期

築城者:武田氏

城 主:武田氏

廃 城:江戸期(一国一城令)・・・彦根藩

(一国一城令は慶長20年(1615)閏6月13日(1615)に江戸幕府が制定した法令である。土井利勝、安藤重信、酒井忠世の連判の元、徳川秀忠が発令したが、法令の立案者は大御所徳川家康であった。その内容は、一国(この場合の「国」は令制国でもあり、大名の領国(後の藩)のことでもある)に大名が居住あるいは政庁とする一つの城郭を残してその他の城はすべて廃城にするというものである。

目標地:

駐車場:路上駐車

訪城日:2014.8.18

お城の概要 

大薮城は、中世城郭分布調査によると、大藪町の南西、琵琶湖岸にほど近い旧大藪集落の南端水路の南岸付近に比定されている。

辺りは田園地帯となり圃場整備により地形は誡改変。水路沿いに倉庫と空地があるが、水田より1m程の段差はあるが、圃場整備後盛土?。

県道信号付近に城があったとか、江戸時代までは堀跡が残っていたと伝わっている。(旧大藪集落の南端水路は大薮城の名残りかも?)

 

歴 史

「佐々木南北諸士帳」には、大藪館主に武田氏の名がみえるが詳細は不明。

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

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