城郭探訪

yamaziro

土田館  近江国(多賀)

2014年08月27日 | 館跡

お城のデータ

所在地:犬上郡多賀町土田 map:http://yahoo.jp/gl05x3

現 状:集落・田畑

遺 構:曲輪

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:土田縫殿助

城 主:土田縫殿助

目標地:土田公民館・正福寺

駐車場:正福寺無料駐車城

訪城日:2014.8.27

集落の北部・・・北土田集落の中に【土塁と曲郭】残存・・・http://yahoo.jp/gl05x3

集落の北部・・・北土田の東端

微高地1.5mの石垣50mと畑地

北端竹薮内には低土塁のような痕跡が残るhttp://yahoo.jp/rVeZg5

 お城の概要

土田館は、芹川南岸の土田集落の北方の一画にあったとされる。

周辺は田園が広がるが、集落の北部の中央に・・・北土田集落の中に【土塁と曲郭】残存・・・http://yahoo.jp/gl05x3

北側から集落を眺めると宅地は見事に微高地なのが判る。

集落北側の微高地は円形に張り出し、北端竹薮内には低土塁のような痕跡が残る。また集落内の路地は「くい違い」「どんつき」の城館特有の通路が雰囲気を留めている。

また、200m北は芹川、集落内は堀川(現在は用水路)、集落全体が微高地の【土塁と曲郭】城館、中央付近の食い違い路、往時が残る。

 

集落中央付近の食い違い道路
長屋門の住宅

歴 史

 「大洞弁天当国古城主名札」に、土田縫殿助の名がみえる。

土田公民館横

専光寺

正福寺駐車地

集落西出入口に

 土田氏は近江国の出身で

宇多源氏の流れを汲む名門・佐々木六角氏の旗本を務め、土田氏(近江佐々木氏庶流建部氏)は代々「近江守」を称していた。

 4代目の近江守秀定の頃、文明年間(1469年~1486年)に近江国蒲生郡より東美濃木曽川河畔の土田村に移り住んだ。渡り田の大井戸渡しを支配して土田村や下畑や川原田を拓き、開墾領主として当地の土豪へと生長した。

 近江佐々木義詮の末裔が、この地来て明智氏に属して土田に築城し土田と名乗ったのが始まりである。弘治2年(1556年)3代城主土田源太夫の時に明智城が斎藤義龍の命を受けた関城主長井道利に攻められ落城時討死し土田氏の直系は絶えてしまった。

 2代城主泰久の2男勘助は母方の尾張丹羽郡小折城主生駒家広に嫡子がなかったので養子となっていたが、親重と改名し土田・小折城を領した。生駒親重は初め犬山城主織田信清に属していたが信長と信清が手切となり犬山城は落城し親重は土田城で謹慎し後信長に仕えた

 親重の嫡男親正は信長・秀吉に仕え、戦功を重ね天正13年赤穂6万石の大名となり15年には17万石を拝領し四国丸亀目城主となり土田城は廃城となった

美濃・土田城は、標高181mの城山にある規模270m×100mの城。この城はあの織田信長の母、土田御前の出生地である

中世の武士団  東山道近江

  三河伴氏の富永兼網を女婿とし、その子吉弘が頼弘の後 ... 馬杉-中井の諸氏となっており、さらに、頼男の子孫は、代々もと伴氏の庶流ないしは伴部の裔であって、善男との関係は後世の付会に過ぎないであろう。 ... 遺胤が、三河伴氏となったという伝承については前述したつた生駒親正の父親重は、土田氏から出て、生駒氏を継いだのである。 ... 光基の弟澄覚のの子光助は建部大夫に復し、承久の乱で京方に属したため誅殺された

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

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大堀城 近江国(彦根)

2014年08月27日 | 居城


お城のデータ 

所在地:彦根市大堀町      map:http://yahoo.jp/obtdrr

現 状:宅地

遺 構:

区 分:平城

築城期:室町期 

築城者:大堀弥右衛門

城 主:大堀弥右衛門

目標地:旭森公園・岩清水神社

駐車場:旭森公園の空地に駐車

訪城日:2014.8.27

大堀城址周辺:現況(かごやと井戸跡)。

お城の概要

大堀城は、中世城郭分布調査によると、大堀山のすぐ南側、中山道の沿い東側一帯に比定されている。目印としては水路が流れている南岸付近だが、特に城館らしい区画はない。ただ水路があることにより雰囲気はある。この水路は往時のままなのだろうか。

大堀町は、彦根市街地を流れる芹川の中流にあります。彦根市教育委員会による埋蔵文化財一覧によれば、大堀城遺跡は現在石清水神社の中山道を挟んだ反対側近辺とされています。

芹川と(亀甲(きっこう)山に隣接していますが、要害性は乏しく、東山道に面した在地領主の館なのだと思われます。

亀甲山は、詰め城か?

頂部10m四方西側中腹に墓碑4基

歴 史

「古代地名記」に大堀弥右衛門の屋敷があったとされているが詳細は不明。

中仙道

中仙道北側

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

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上南(かなみ)城  近江国(蒲生)

2014年08月27日 | 平城

 

お城のデータ

所在地:東近江市上南町  (旧蒲生郡蒲生町上南)     map:http://yahoo.jp/E7h_fA

現 状:集落・畑地

遺 構::曲輪、

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:安部井右衛門太夫長弘(後二因幡守秀家氏)

城 主:安部井右衛門太夫長弘(後二因幡守秀家氏)

城再建:安部井秀家

目標地:誓安寺

駐車場: 路上駐車

訪城日:2014.8、28

お城の概要
 川南城は蒲生町上南集落の北側の「学校畑」と呼ばれる畑地一帯で、1901(明治34)年に朝日野西尋常高等小学校が置かれていた所で、それまでは「城山」と呼ばれる山林であったといい、現在も側溝の下から最大高さ3mほどの比高差があり、面影をとどめている。

 当時の城域は60m×60m(滋賀県教育委員会の調査では東西75m、南北80m)ほどで方形館であったとされ、周囲に6mほどの堀があったというが、現在では埋められ田圃になっている。以前は堀のまま田圃として使われていて、「堀田」と呼ばれていたともいう。

 

歴 史

 近江蒲生郡志に、安部井氏の條

安部井氏は蒲生舊跡記に丹波氏にして後宇多源氏に改むと記す佐々木氏の臣なり、安部井氏(西桜川村)に住し因て氏となす佐々木氏亡びて蒲生氏仕ふ。安土浄厳院過去帳に天正十年十二月二十六日安部井武右衛門女中とあり、吉田兼卿記天正十二年正月十六日の條に安江井彌左衛門と見ゆる日野人は安部井氏の誤ならん氏郷が會津を領するに及び行て所領を得しもの一族八人あり安部井武右衛門は八百石を領し、清左衛門六百石、」孫右衛門は五百石、久右衛門は四百石、数馬助、三之助、宗右衛門、新之允の四人は各三百石つゝを食あり。

川南城の東250mにある浄土宗誓安寺には「道場掟」が保存され、天文14(1545)年には「城主右衛門太夫長弘後二因幡守秀家」と見え、元禄12(1699)年の記録にも「安部井因幡守秀家」と見えることから、安部井氏の館城だと考えられている。田園の中に建つ誓安寺は小さなお寺であるが、地域の人々に護持されているお寺の典型であろう。

東近江市の旧蒲生町にある誓安寺は、995年頃花山法皇によって開創されたと伝わる。
1492年六角征伐の兵火によって焼失したが、1545年上南城主の安部井秀家一族によって再興され、安部井氏の菩提寺となった。

 

 市子殿の観音寺にも「平井城主安部井因幡守秀家」の位牌があるという。http://yahoo.jp/gxtWt5

また城跡の北100mの八幡神社http://yahoo.jp/eXrAvaは、文和4(1355)年に平井長秀が勧請し、明応2(1493)には安部井因幡守綱重が再建したともいわれる。

 八幡神社の東の立善寺http://yahoo.jp/XG9Ssz

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、近江蒲生郡志、淡海の城、近江の城郭

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