水口岡山城 -近世甲賀の起点- 豊臣政権の近江における拠点城郭の一つです
「城山高く有らずとも 今の稚木の生い立たば やがて雲をも凌ぐべき 茂山なる日こそこめ」。巖谷小波(水口ゆかりの児童文学者)の作詞になる水口小学校の校歌ににも歌われる「城山」は、水口市街を見下ろすお椀を伏せたような「古城山」のことです。歌詞の通り標高289メートルと低い山ではありますが、独立丘であることから山頂からは眼下の水口はもとより、鈴鹿峠方面、日野、八幡方面まで一望することができます。
お城のデータ
所在地:甲賀市水口町水口(甲賀郡水口町水口) map:http://yahoo.jp/0cSWF4 http://yahoo.jp/o2o9eb
別 名 :水口古城山城
現 状:城山・公園
遺 構:曲郭・石垣、土塁、枡形虎口。竪堀、堀切
区 分:平山城
築城期:織豊期 天正13年(1585)
築城者:豊臣氏(中村式部少輔一氏)
初城主:中村式部少輔一氏
城 域:300m×200m
標 高:282m 比高差:100m
目標地:水口小学校
駐車場:水口岡山城登城口駐車場http://yahoo.jp/33mkhD
訪城日:2014.8.13
御断り:写真は2011.11.9見学会で撮影したものです。
お城の概要
この山は古くは「大岡山」あるいは「岡山」といい、山上には「岡観音」と呼ばれた大岡寺があったと伝えられますが、
天正13(1585)年に、羽柴(豊臣)秀吉が家臣の中村一氏に命じて城を築かせます。当時は「水口城」と呼ばれていました。近江東南部の支配とともに、鈴鹿峠をひかえ、東海地方への押さえが意図されたのでしょう。城主には一氏に続き増田長盛、そして長束正家と豊臣政権の「五奉行」があてられており、その重要性がうかがわれます。
標高282.9mの美しい山「古城山」と呼んでいますが、地元では「大岡山(おおおかやま)」と称しています。
浸食されにくい石英斑岩からなる山で、廻りの柔らかい部分が浸食され残丘として古城山のみが孤立して残ってできたものです。
天正13年(1585)、羽柴秀吉が甲賀郡と蒲生郡の一部を支配させるために、家臣の中村一氏に命じて築かせた山城で、当時は水口城と呼ばれた。
天正18年(1590)中村一氏の駿河転封の後には増田長盛が、文禄4年(1595)には長束正家と、五奉行の一員があてられていることからも秀吉がこの水口の地を重要視していたことが窺える。
これは秀吉が、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで織田信雄,徳川家康連合軍と和睦に持ちこんだものの、遠江から三河を領する徳川家康への牽制、および水口の地に城を築くことで東海道を押さえることを目的として築いたことは疑うべくもない。
秀吉死後、慶長5年(1600)に関ヶ原戦いが起こると、長束正家は西軍に属したことで池田長吉らに攻められて水口岡山城は落城した
山頂からは広い範囲が一望でき、南に東海道が通るという立地となっています。山上には「岡観音」と呼ばれた行基が開いたとされる「大岡寺」があったと伝えられていますが、寺院の遺構は何も残っていません。
本丸北側に残る石垣
歴史
水口岡山城跡は豊臣秀吉の家臣で三中老の1人に数えられる中村一氏(かずうじ)が築いた城です。一氏の後、五奉行である増田長盛や長束正家の居城となるなど、水口岡山城は豊臣政権の近江における拠点城郭の一つです。
その後関ヶ原の合戦で長束正家が西軍について敗戦後廃城となりますが、現在でも遺構がよく残っており、織豊期に築かれた城郭遺構残存します。
天正13年(1585)7月11日、羽柴秀吉は関白の宣下を請け、9月9日に豊臣姓の下賜を奏請して勅許を得ます。中央での地位を安定させたとはいえ、未だ全国統一は成っていません。
東には北条氏直、上杉景勝、徳川家康、伊達政宗といった面々、四国には長宗我部元親、九州には島津義久といった力を持った大名がいました。特に前年小牧長久手で戦った徳川家康はくせものでかなり気を遣っていたと思われます。
家康とは天正14年(1586)10月に権中納言を襲名させたことで一応講和が確定したとなっています。妹の旭を家康に嫁がせ、母親の大政所を人質に出すなどしたことはご承知の通りです。
さて、この天正13年に秀吉は、近江の国の城割を大きく替えていきます。まず、安土城を廃城として八幡山に城を築き、城下町も移転させ甥の秀次を入れます。自身の居城である長浜城と美濃の境を監視する佐和山城はそのままにし、長浜城には山内一豊を佐和山城には堀尾吉晴を置きます。
西の大溝城と坂本城を廃城とし、天正14年に新たに大津城を築き、浅野長政を置きます。そして、水口岡山城を天正13年に新たに築き中村一氏を置きます。各城に配置された武将は秀吉が信長の家臣時代に早くから部下として養ってきた者達であることが分かります。一説には、八幡山城の秀次の見張りのために諸城を配したと言われています。秀次が近江八幡43万石を領した時の秀次付き家老格に中村一氏・堀尾吉晴・山内一豊・一柳直末・田中吉政が付けられたことからかもしれませんが、むしろ、それぞれ京の入り口の守護、伊勢・伊賀・美濃・北陸に通じる街道の要衝に位置しており東への備えであることが一目瞭然です。
水口岡山城に配された中村一氏ですが、彼は初め瀧孫平次と称しており、元は甲賀53家の一つ瀧(多喜)氏の一族と言われています。秀吉の尾張中村の弥平次一政の家を継承してもらおうとして中村氏を名乗らせたと言われています。甲賀多喜氏の末裔であることが一氏に水口岡山城を守らせた要因であったかもしれません。
次に水口岡山城の構造を見ていきましょう。
山頂部は堀切などで区画された大規模な郭を複数配置し、本丸は北斜面のみ高石垣とし、南斜面は山の地形をそのままにしています。山腹にも郭や帯郭が設けられ、大規模な竪堀が造られています。本丸には天守台があり、山腹の南麓から西麓さらに北側へと堀を廻らせ城内外を区画し、城下との出入り口3箇所には枡形虎口を配しています。
本丸一帯からは多量の瓦が出土しており、瓦葺きの建物があったことが窺われます。瓦の意匠は安土城天主仕(安土城Ⅰ型式)のものと同じですが、金箔は貼られておらず、瓦の胎土が荒く大溝城のものに近いことから大溝城の瓦を再利用した可能性があります。このように、中世の城郭に多用され織豊期から近世にかけて次第に淘汰されていった堀切や竪堀が多く造られる一方で、城下との境に堀を廻らせ出入り口を枡形にするなど、本丸の石垣や天守と併せて中世城郭から近世城郭への過渡期の城といえるものです。しかし、天正12年には、近世城郭の代表格ともいえる秀吉大坂城が完成していることから思うと、時代遅れの城とも言えます。
近江には東からの進入路が幾つかあります。信長などがよく利用していた八風街道などもそうですが、おそらく徳川の大軍が通るとなると中山道か東海道しかないでしょう。秀吉は合戦に備える城として水口岡山城を造ったことは間違いないと思われます。中山道の口を押さえる佐和山城も本丸の天守台のみに石垣が使われています。秀次の八幡山城も山城で、城下町との境を堀で仕切り、いざというときは軍船で琵琶湖を渡り、各方面に挟撃にいける
立地です。大津城・長浜城も琵琶湖と直結する堀を廻らせて同じように軍船で挟撃隊を出せる位置にあります。陸と湖の両方に軍事拠点を置くという意図が見え隠れしていると思いませんか。(どうなんですかねえ秀吉君。)
水口岡山城は天正18年、一氏が駿府に転封の後、増田長盛が入り、文禄4年(1595)に長束正家といった豊臣五奉行が宛がわれています。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦で正家が西軍に与したため池田長吉らに攻められ落城してしまいます。(やっぱり最後は家康軍にやられる運命なんだ。)その後、廃城となり石垣の石は寛永11年の水口城築城で再利用されたと伝えられていますが定かではありません。
この城は大きく、
(1)甲賀郡で最初の大規模な織豊系城郭である。
(2)中世以来甲賀郡各地に割拠した土豪・地侍集団である「甲賀衆」の在地支配が払拭された。
(3)水口が城下町として整備され近世甲賀郡の中心となった。などの歴史的意味がありますが、
慶長5(1600)年の関ヶ原合戦で、三代城主であった長束正家が西軍に与したため破却されてしまいます。
近年の城郭調査により、山頂部には堀切などで区画された大規模な曲輪を複数配置し、とくに本丸には高石垣が築かれていたこと、山腹にも曲輪や帯曲輪、桝形を配し、竪堀なども見られることが分かってきました。また寛永期の絵図(幕府京都大工頭中井家文書)には、山上の「本丸」に「天守」とあるほか、南麓から西麓、さらに北側へと堀がめぐらせて城の内外を区画したこと、城下との出入り口として3カ所の枡形があったことが判明しています。城域の大半は未発掘ですが、本丸一帯からは大量の瓦が出土しており、瓦葺きの建物が並んでいたようです。
このように水口岡山城跡は、豊臣政権による近江南部支配の拠点であるとともに、規模が大きく遺構もよく遺っていることから今後の調査が期待される遺跡です。
市街地から水口岡山城跡を遠望
参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、甲賀市誌7巻甲賀の城
本日も訪問、ありがとうございました!!!感謝!!