城郭探訪

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大徳寺(家康宿所) 近江国(水口)

2014年08月14日 | 陣屋

家康も上洛の際に水口に宿泊する時は大徳寺に宿泊。

画像

お城のデータ

所在地:滋賀県甲賀市水口町本町 map:http://yahoo.jp/RvcV9B

現 状:寺院

遺 構:家康が腰掛け石、甲賀騒動義民慰霊五輪石塔

区 分:御茶屋御殿

開 創:1588年

築城者:豊臣氏(中村式部少輔一氏)

開 基:中村式部少輔一氏

開 山:叡誉上人 

目標地:大徳寺

駐車場:水口大徳寺駐車場http://yahoo.jp/33mkhD

訪城日:2014.8.13

山門画像本堂

お城の概要

元は禅宗の林慶寺と言ったが天正16年岡山城主中村一氏が同寺を香花院と定め、小田原の大蓮寺の僧叡誉に寺の建造を依頼し、浄土宗に改め浄慶寺と号しました。

  その後、僧叡誉が家康の幼児の学問の先生だった関係から、関が原の戦いの後、この寺に来て寺領29石余と金品等を寄付し、家康の「家」と松平の「松」の各1字をとって「家松山」と号せしめ、堂の増築もさせました。

 家康も上洛の際に水口に宿泊する時は大徳寺に宿泊をしました。慶長7年(1602)家康が当寺の2世岌誉の法話を聞き香木と法服を与え大徳寺と改めさせました。

 慶安2年(1649)三代将軍家光前例により寺領の永代免除朱印を与えました。江戸時代に2度、昭和に1度火災の難にあっています。

 山門の前の石垣はめずらしい積石法(植石伏)で小堀遠州の作といわれています。

 門を入って右の鐘楼前にある石は、家康が腰掛け叡誉上人といろいろ話し合ったと伝えられています

また境内左隅に大きな五輪塔は第17代僧光誉が刑死者の霊を憐れみその冥福を祈ろうとして弘化元年(1844)に建立したもので「世に尽くす甲賀の民のまごころのかたきしるしの石のあららぎ」と詠まれています。

なお、水口岡山城主長束正家と正妻栄子姫の遺児は、仏門に入って大徳寺の3世の還誉上人(岌閑)に栄進し、北脇に栄照寺を建て父母の霊を弔ったといわれています。

鐘楼前にある石は、家康が腰掛け叡誉上人といろいろ話し合ったと伝えられています

1842年に起こった甲賀騒動の義民の慰霊石塔があり、甲賀の民の赤心に現在も追悼会が営まれている。
<世につくす甲賀の民の赤心のかたきしるしの石のあららぎ>

画像甲賀騒動義民慰霊五輪石塔

歴 史

最初は禅宗の林慶寺であったが天正16年8岡山城主中村一氏が同寺を香花寺と定め、小田原の大連寺の僧「叡誉」に寺の建造を依頼し、浄土宗に改め浄慶寺と号した。
大徳寺と徳川家康との縁は深く、開山の叡誉住職が家康の重臣本多平八郎の伯父だった関係から、家康は上洛に際して水口に宿泊し家康の「家」の字と松平の「松」の字をとって「家松山」の山号を賜り、また慶長7年(1602)、第二世叡誉のとき大徳寺の寺号や香木、寺領等を寄進して大徳寺と改めさせた。大徳寺の寺紋は、徳川家の定紋である葵(あおい9を入れた立ち葵であり、山門には徳川家紋の三葉葵が刻まれている。
また、山門の前の石垣は珍しい積石法で、小堀遠州の手法といわれる。
境内には、鐘楼の傍らには「家康の腰掛石」、天保義民を弔う「五輪塔」が建つ。
1585年秀吉の命により中村一氏が甲賀支配の拠点として水口岡山城を築き、3代にわたって岡山城は続いたが1600年関ヶ原の戦いで西軍が

敗れると同時に廃城となっている。
1588年中村氏の菩提寺として浄慶寺が開創され、以降3代の岡山城主の菩提寺となっている。
1600年徳川家康が上洛の際、家康幼少時に教えた叡誉上人に会うべく浄慶寺に立ち寄り、家松山の山号を与えている。
1602年大徳寺と改名している。


寺名:大徳寺(だいとくじ)

山号:家松山 

宗派:浄土宗

開山:叡誉上人 

開創:1588年 

本尊:阿弥陀如来

石 塔:甲賀騒動義民慰霊五輪石塔

参考資料:甲賀市誌

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水口岡山城(水口古城山城) 近江国(水口)

2014年08月14日 | 戦国山城

水口岡山城 -近世甲賀の起点- 豊臣政権の近江における拠点城郭の一つです

「城山高く有らずとも 今の稚木の生い立たば やがて雲をも凌ぐべき 茂山なる日こそこめ」。巖谷小波(水口ゆかりの児童文学者)の作詞になる水口小学校の校歌ににも歌われる「城山」は、水口市街を見下ろすお椀を伏せたような「古城山」のことです。歌詞の通り標高289メートルと低い山ではありますが、独立丘であることから山頂からは眼下の水口はもとより、鈴鹿峠方面、日野、八幡方面まで一望することができます。

お城のデータ

所在地:甲賀市水口町水口(甲賀郡水口町水口)    map:http://yahoo.jp/0cSWF4 http://yahoo.jp/o2o9eb

 別 名 :水口古城山城

現 状:城山・公園

遺 構:曲郭・石垣、土塁、枡形虎口。竪堀、堀切

区 分:平山城

築城期:織豊期 天正13年(1585)

築城者:豊臣氏(中村式部少輔一氏)

初城主:中村式部少輔一氏

城 域:300m×200m

標 高:282m    比高差:100m

目標地:水口小学校

駐車場:水口岡山城登城口駐車場http://yahoo.jp/33mkhD

訪城日:2014.8.13

御断り:写真は2011.11.9見学会で撮影したものです。

お城の概要

この山は古くは「大岡山」あるいは「岡山」といい、山上には「岡観音」と呼ばれた大岡寺があったと伝えられますが、

天正13(1585)年に、羽柴(豊臣)秀吉が家臣の中村一氏に命じて城を築かせます。当時は「水口城」と呼ばれていました。近江東南部の支配とともに、鈴鹿峠をひかえ、東海地方への押さえが意図されたのでしょう。城主には一氏に続き増田長盛、そして長束正家と豊臣政権の「五奉行」があてられており、その重要性がうかがわれます。

標高282.9mの美しい山「古城山」と呼んでいますが、地元では「大岡山(おおおかやま)」と称しています。

 浸食されにくい石英斑岩からなる山で、廻りの柔らかい部分が浸食され残丘として古城山のみが孤立して残ってできたものです。

 天正13年(1585)、羽柴秀吉が甲賀郡と蒲生郡の一部を支配させるために、家臣の中村一氏に命じて築かせた山城で、当時は水口城と呼ばれた。

 天正18年(1590)中村一氏の駿河転封の後には増田長盛が、文禄4年(1595)には長束正家と、五奉行の一員があてられていることからも秀吉がこの水口の地を重要視していたことが窺える。

 これは秀吉が、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで織田信雄,徳川家康連合軍と和睦に持ちこんだものの、遠江から三河を領する徳川家康への牽制、および水口の地に城を築くことで東海道を押さえることを目的として築いたことは疑うべくもない。

 秀吉死後、慶長5年(1600)に関ヶ原戦いが起こると、長束正家は西軍に属したことで池田長吉らに攻められて水口岡山城は落城した

 山頂からは広い範囲が一望でき、南に東海道が通るという立地となっています。山上には「岡観音」と呼ばれた行基が開いたとされる「大岡寺」があったと伝えられていますが、寺院の遺構は何も残っていません。

本丸北側に残る石垣

 

縄張り図

歴史

水口岡山城跡は豊臣秀吉の家臣で三中老の1人に数えられる中村一氏(かずうじ)が築いた城です。一氏の後、五奉行である増田長盛や長束正家の居城となるなど、水口岡山城は豊臣政権の近江における拠点城郭の一つです。

その後関ヶ原の合戦で長束正家が西軍について敗戦後廃城となりますが、現在でも遺構がよく残っており、織豊期に築かれた城郭遺構残存します。

 天正13年(1585)7月11日、羽柴秀吉は関白の宣下を請け、9月9日に豊臣姓の下賜を奏請して勅許を得ます。中央での地位を安定させたとはいえ、未だ全国統一は成っていません。

 東には北条氏直、上杉景勝、徳川家康、伊達政宗といった面々、四国には長宗我部元親、九州には島津義久といった力を持った大名がいました。特に前年小牧長久手で戦った徳川家康はくせものでかなり気を遣っていたと思われます。

家康とは天正14年(1586)10月に権中納言を襲名させたことで一応講和が確定したとなっています。妹の旭を家康に嫁がせ、母親の大政所を人質に出すなどしたことはご承知の通りです。

 さて、この天正13年に秀吉は、近江の国の城割を大きく替えていきます。まず、安土城を廃城として八幡山に城を築き、城下町も移転させ甥の秀次を入れます。自身の居城である長浜城と美濃の境を監視する佐和山城はそのままにし、長浜城には山内一豊を佐和山城には堀尾吉晴を置きます。

 西の大溝城と坂本城を廃城とし、天正14年に新たに大津城を築き、浅野長政を置きます。そして、水口岡山城を天正13年に新たに築き中村一氏を置きます。各城に配置された武将は秀吉が信長の家臣時代に早くから部下として養ってきた者達であることが分かります。一説には、八幡山城の秀次の見張りのために諸城を配したと言われています。秀次が近江八幡43万石を領した時の秀次付き家老格に中村一氏・堀尾吉晴・山内一豊・一柳直末・田中吉政が付けられたことからかもしれませんが、むしろ、それぞれ京の入り口の守護、伊勢・伊賀・美濃・北陸に通じる街道の要衝に位置しており東への備えであることが一目瞭然です。

 水口岡山城に配された中村一氏ですが、彼は初め瀧孫平次と称しており、元は甲賀53家の一つ瀧(多喜)氏の一族と言われています。秀吉の尾張中村の弥平次一政の家を継承してもらおうとして中村氏を名乗らせたと言われています。甲賀多喜氏の末裔であることが一氏に水口岡山城を守らせた要因であったかもしれません。 

次に水口岡山城の構造を見ていきましょう。
 山頂部は堀切などで区画された大規模な郭を複数配置し、本丸は北斜面のみ高石垣とし、南斜面は山の地形をそのままにしています。山腹にも郭や帯郭が設けられ、大規模な竪堀が造られています。本丸には天守台があり、山腹の南麓から西麓さらに北側へと堀を廻らせ城内外を区画し、城下との出入り口3箇所には枡形虎口を配しています。

 本丸一帯からは多量の瓦が出土しており、瓦葺きの建物があったことが窺われます。瓦の意匠は安土城天主仕(安土城Ⅰ型式)のものと同じですが、金箔は貼られておらず、瓦の胎土が荒く大溝城のものに近いことから大溝城の瓦を再利用した可能性があります。このように、中世の城郭に多用され織豊期から近世にかけて次第に淘汰されていった堀切や竪堀が多く造られる一方で、城下との境に堀を廻らせ出入り口を枡形にするなど、本丸の石垣や天守と併せて中世城郭から近世城郭への過渡期の城といえるものです。しかし、天正12年には、近世城郭の代表格ともいえる秀吉大坂城が完成していることから思うと、時代遅れの城とも言えます。

 近江には東からの進入路が幾つかあります。信長などがよく利用していた八風街道などもそうですが、おそらく徳川の大軍が通るとなると中山道か東海道しかないでしょう。秀吉は合戦に備える城として水口岡山城を造ったことは間違いないと思われます。中山道の口を押さえる佐和山城も本丸の天守台のみに石垣が使われています。秀次の八幡山城も山城で、城下町との境を堀で仕切り、いざというときは軍船で琵琶湖を渡り、各方面に挟撃にいける
立地です。大津城・長浜城も琵琶湖と直結する堀を廻らせて同じように軍船で挟撃隊を出せる位置にあります。陸と湖の両方に軍事拠点を置くという意図が見え隠れしていると思いませんか。(どうなんですかねえ秀吉君。)

 水口岡山城は天正18年、一氏が駿府に転封の後、増田長盛が入り、文禄4年(1595)に長束正家といった豊臣五奉行が宛がわれています。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦で正家が西軍に与したため池田長吉らに攻められ落城してしまいます。(やっぱり最後は家康軍にやられる運命なんだ。)その後、廃城となり石垣の石は寛永11年の水口城築城で再利用されたと伝えられていますが定かではありません。

 

この城は大きく、

(1)甲賀郡で最初の大規模な織豊系城郭である。

(2)中世以来甲賀郡各地に割拠した土豪・地侍集団である「甲賀衆」の在地支配が払拭された。

(3)水口が城下町として整備され近世甲賀郡の中心となった。などの歴史的意味がありますが、

慶長5(1600)年の関ヶ原合戦で、三代城主であった長束正家が西軍に与したため破却されてしまいます。

近年の城郭調査により、山頂部には堀切などで区画された大規模な曲輪を複数配置し、とくに本丸には高石垣が築かれていたこと、山腹にも曲輪や帯曲輪、桝形を配し、竪堀なども見られることが分かってきました。また寛永期の絵図(幕府京都大工頭中井家文書)には、山上の「本丸」に「天守」とあるほか、南麓から西麓、さらに北側へと堀がめぐらせて城の内外を区画したこと、城下との出入り口として3カ所の枡形があったことが判明しています。城域の大半は未発掘ですが、本丸一帯からは大量の瓦が出土しており、瓦葺きの建物が並んでいたようです。

このように水口岡山城跡は、豊臣政権による近江南部支配の拠点であるとともに、規模が大きく遺構もよく遺っていることから今後の調査が期待される遺跡です。

市街地から水口岡山城跡を遠望市街地から水口岡山城跡を遠望

 参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、甲賀市誌7巻甲賀の城

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河瀬城  近江国(彦根)

2014年08月14日 | 平城

お城のデータ

所在地:彦根市川瀬馬場町      map:http://yahoo.jp/ZmSki1

築城期:南北朝時代(1336-1392)

築城者:池田(京極)定信

城 主:河瀬大和守秀宗、河瀬壱岐守とその孫の河瀬隼人正

区 分:城館

現状:集落・宅地

駐車場:川瀬馬場町公民館

訪城日:2014.8.12

 お城の概要

この河瀬神社道路を隔へだ てた西側は1段高くなっており、明治時代初期描かれた「川瀬馬場村地引絵図」 (図参照)を見ると、小字「辻」 (図参照)を見ると、小字「辻辺り一帯が道路や水によって一辺150mほどの方形に区画されています(図破線)。

区画内も東西に並行する2条の細い道など内も東西に並行する2条の細い道などによって比較的整然と区分されいます。あくでも推定しかあ りませんが、現在は住宅となっているこの区画内に、かつて河瀬城が存在した可能 の区画内に、かつて河瀬城が存在した可能性が 考えられます。

由緒

  創祀年代は不詳であるが、江戸時代までは「川桁神社」「桁の宮」「気多大明神」と称されていた。元亀元年(1570年)に河瀬庄の領主河瀬氏が社殿を修造するとともに供米田を寄進し、江戸時代を通じて彦根藩主井伊氏から崇敬され、大祭には奉行を差遣して祭事を警衛するを例としたという。

また、滋賀県教育課編『神社由緒記』によると、延宝3年(1675年)2月に河瀬荘の旧領主であった河瀬壱岐守とその孫の河瀬隼人正が相殿神を勧請して再興したという。

明治になって「河瀬神社」と改称し、明治5年(1872年)1月17日に郷社に列せられ、同9年10月21日に一旦村社に降格したが、同14年2月1日に再度郷社に加列、同41年4月29日に神饌幣帛料供進神社の指定を受けた。2012年の彦根市教育委員会文化財課の調査によると河瀬神社付近の遺構が河瀬城のものと推定されている。

社殿

 本殿は三間社流造。元治元年 (1864年)に京都市にある賀茂別雷神社の社殿を移築したものである。他に、入母屋造の拝殿や神楽殿等がある。

 お城の概要

河瀬城は、河瀬神社西側の集落一帯に比定されている。

元来、南川瀬町の法蔵寺付近一帯にあった城館が河瀬城とされてきたが、最近の文化財課の文献等の調査により、河瀬城と呼ばれた城館は川瀬馬場町に所在したのだと見直されている。

比定地は集落約150m四方の小字辻付近で、近年宅地開発・道路整備で、路地や水路整備によって整然と区画されている。

明確な遺構は鎮守の森に残る。河瀬神社は城主河瀬氏の庇護によって維持された河瀬氏ゆかりの神社であった。

河瀬神社本殿の西(鎮守の森内)に城郭遺構が残る。(近年の排水に開削部分もあるが)http://yahoo.jp/PX9I1Y

歴 史

南北朝時代に京極宗氏の子定信が池田姓を名乗って河瀬城を築き同時に天台宗遠久寺を建立したのが始まりである。貞貫、貞親、貞信と続いて一時期美濃に去るが、京極家5代道誉の活躍を支える大きな力となった。

その後は郡家を勤めていた犬上君の子孫にあたる河瀬大和守秀宗が1500年代前半に居城したとされる。同時期に出城として甘露城・蓮台寺城等を築いた。

駐車場:川瀬馬場町公民館

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、日本城郭体系11、近江の城郭、ウィキペディア(Wikipedia)

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
 
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河瀬城
(滋賀県)
城郭構造 寺院一体型平城
築城主 池田定信
築城年 南北朝時代?
主な城主 河瀬大和守秀宗
廃城年 1500年代後半?
遺構 土塁?
指定文化財 彦根市史跡
再建造物 法蔵寺

河瀬城(かわせじょう)は、滋賀県彦根市にあった日本の城。

 

概要

南北朝時代に京極宗氏の子定信が池田姓を名乗って河瀬城を築き同時に天台宗遠久寺 (おんきゅうじ - 廃寺時期は不明)を建立したのが始まりである。[1]

その後は郡家を勤めていた犬上君 (いぬかみのきみ)[2]の子孫にあたる河瀬大和守秀宗が1500年代前半に居城した。

同時期に出城として甘露城・蓮台寺城を築いた。しばらくは出城である甘露城・蓮台寺城と共に周辺を統治していたが、1552年10月28日に三好長慶に攻められ八木城から敗走してきた香西・波多野連合軍を河瀬氏は匿い周囲を包囲されたため降伏した。

これにより城は荒廃しつつあったが、仏教に厚く帰依していた秀宗は1574年佐目にあった法蔵寺の移転を受け入れ寺院と城郭の一体化したものに変えていった。[3][4]

廃城は諸説あるが、関ヶ原の戦い以前1500年代後半ごろとされている。廃城後は法蔵寺が引き続き当地にあり現在に至っている。2012年の彦根市教育委員会文化財課の調査によると河瀬神社付近の遺構が河瀬城のものと推定され本項の遺構は南河瀬城のものと推定されている。[5]

河瀬氏

上述の犬上君が周辺一帯を治めていた背景からその末裔である河瀬氏は中世末期に多賀大社の大神主として実権を握っていた。

^ 広報ひこね 2012年5月1日号17ページ 連載企画 - わたしの町の戦国第22回 - 河瀬城 - 河瀬氏ゆかりの平地城館 - (PDF)

外部リンク

  • 彦根市立教育研究所 歩いてみよう調べてみよう わたしのふるさと 13.河瀬小(かわせしょう)れきしマップ (4)河瀬城(かわせじょう)跡(あと)

仮称)南川瀬城 近江国(彦根)

2014年08月14日 | 平城

ウィキペディアでも河瀬城として記載されているが別所、(河瀬馬場町の河瀬神社付近)

1337年に、源平の戦いで活躍したといわれる那須与一の子孫の宗政が建てたといわれています。
那須与一は、源義経につかえた勇敢な武士の一人であり、屋島の戦いにおいて、平氏の舟のへさきにたてられた扇の的を見事にうちおとした話が有名)です。
また、俗に「白門」と呼ばれる本門には、左甚五郎が作ったといわれる「龍」の彫刻があり、これにまつわる伝説も残されています。
山門がたてられた当時、彫刻の龍は寺の南にあった堂前川に夜な夜な水を飲みに出かけ、村人たちをおそれさせました。
そこで、和尚さんの指示により龍の頭に五寸釘をうちこんだところ、おさまったということです。
現在は、浄土真宗本願寺派のお寺として、阿弥陀如来を本尊としてまつっています。
また、1603年につくられたといわれる枯山水の名庭が、今も一部が残されています。「ふるさと・かわせ」

 

お城のデータ

所在地:彦根市南川瀬町    map:http://yahoo.jp/nGU4E6

現 状:法蔵寺・宅地など

遺 構:土塁(消失か)

区 分:平城

築城期:南北朝時代(1336-1392)か

築城者:京極宗氏の子:定信が池田姓を名乗り池田定信姓

城 主:河瀬大和守秀宗

目標地:法蔵寺

駐車場:法蔵寺前に法蔵寺参拝者駐車場、妙境寺跡駐車場

彦根市史跡

訪城日:2014.8.12

お城の概要

仮称)南川瀬城は、法蔵寺付近一帯にあったとされる元来、河瀬城とされてきた城である。

最近の文化財課の文献等の調査により、河瀬城と呼ばれた城館は川瀬馬場町に所在したのだと見直されている

南川瀬城は、戦国期に戦場となり荒廃した河瀬城から移転した河瀬氏の新城か。

遺構等は確認出来ないが、法蔵寺は付近と比べ微高地となっている。

歴 史

南北朝時代に京極宗氏の子定信が池田姓を名乗って河瀬城を築き同時に天台宗遠久寺を建立したのが始まりである。貞貫、貞親、貞信と続いて一時期美濃に去るが、京極家5代道誉の活躍を支える大きな力となった。

その後は郡家を勤めていた犬上君の子孫にあたる河瀬大和守秀宗が1500年代前半に居城したとされる。

同時期に出城として甘露城・蓮台寺城等を築いた。河瀬氏は犬上君が周辺一帯を治めていた背景からその末裔である河瀬氏は中世末期に多賀神社の大神主としての実権も握っていた。

京極氏が衰退し、浅井氏が江北で勢力を拡大すると、河瀬氏及び支家は浅井氏の傘下となった。

天文21年(1552)に三好長慶に攻められ八木城から敗走してきた香西・波多野連合軍を河瀬氏は匿ったが、周囲を包囲されたため降伏した。

これにより河瀬城は荒廃したため、新たに南川瀬城に居城を移したと考えられる。仏教に厚く帰依していた秀宗は1574年佐目にあった法蔵寺の移転を受け入れ寺院と城郭の一体化したものに変えていった。廃城後は法蔵寺が引き続き当地にあり現在に至っている。

法蔵寺の門前(南西30m)に、武家屋敷か・・・個人住宅が残存します。

 

 参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、ウィキペディア(Wikipedia)

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

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河瀬城
(滋賀県)
城郭構造 寺院一体型平城
築城主 池田定信
築城年 南北朝時代?
主な城主 河瀬大和守秀宗
廃城年 1500年代後半?
遺構 土塁?
指定文化財 彦根市史跡
再建造物 法蔵寺

 

河瀬城(かわせじょう)は、滋賀県彦根市にあった日本の城。

概要

 南北朝時代に京極宗氏の子定信が池田姓を名乗って河瀬城を築き同時に天台宗遠久寺 (おんきゅうじ - 廃寺時期は不明)を建立したのが始まりである。

[1]その後は郡家を勤めていた犬上君 (いぬかみのきみ)[2]の子孫にあたる河瀬大和守秀宗が1500年代前半に居城した。

同時期に出城として甘露城・蓮台寺城を築いた。しばらくは出城である甘露城・蓮台寺城と共に周辺を統治していたが、1552年10月28日に三好長慶に攻められ八木城から敗走してきた香西・波多野連合軍を河瀬氏は匿い周囲を包囲されたため降伏した。

これにより城は荒廃しつつあったが、仏教に厚く帰依していた秀宗は1574年佐目にあった法蔵寺の移転を受け入れ寺院と城郭の一体化したものに変えていった。[3][4]

廃城は諸説あるが、関ヶ原の戦い以前1500年代後半ごろとされている。廃城後は法蔵寺が引き続き当地にあり現在に至っている。2012年の彦根市教育委員会文化財課の調査によると河瀬神社付近の遺構が河瀬城のものと推定され本項の遺構は南河瀬城のものと推定されている。[5]

河瀬氏 

上述の犬上君が周辺一帯を治めていた背景からその末裔である河瀬氏は中世末期に多賀大社の大神主として実権を握っていた。 

所在していた場所 

  • 近江国河瀬村南川瀬 (現滋賀県彦根市南川瀬町) 

関連項目

  • 法蔵寺 (彦根市)
  • 称念寺 (橿原市)
  • 日本の城一覧

出典

 ^ 日本城郭総覧220ページ 秋田書店

  1. ^彦根市役所 カルタで学ぶひこねのれきし
  2. ^ 『日本城郭大系』11滋賀県 新人物往来社
  3. ^滋賀県教育委員会編「旧愛知・犬上郡の城」(『滋賀県中世城郭分布調査』5 1987年3月)
  4. ^ 広報ひこね 2012年5月1日号17ページ 連載企画 - わたしの町の戦国第22回 - 河瀬城 - 河瀬氏ゆかりの平地城館 - (PDF)

 外部リンク

 彦根市立教育研究所 歩いてみよう調べてみよう わたしのふるさと 13.河瀬小れきしマップ (4)河瀬城跡

 


水口古御殿 近江国(水口)

2014年08月14日 | 館跡

徳川和子入内のために幕府が築いた御茶屋御殿。

 

お城のデータ

所在地:甲賀市水口町水口字御茶後(旧甲賀郡水口町水口字御茶後)    map:

現 状:旧甲賀病院

遺 構:

区 分:御茶屋御殿(宿館)

築城期:江戸期(元和6年)

築城者:徳川幕府

目標地:旧甲賀病院、水口神社

駐車場:旧甲賀病院前の路上駐車場

訪城日:2014.8.13

水口御殿概要図・・・は古城御殿

お城の概要

 水口古御殿は、旧甲賀病院敷地に築かれていた。 遺構は何も残っていないが、単郭方形で周囲に堀を廻らし、東に外枡形を設けた縄張りで、水口城本丸の縄張りとほぼ同じで、ただ規模が一回り小さな御茶屋であったとか。

水口神社参道

歴 史

 水口古御殿は、元和6年に徳川幕府によって築かれた。 徳川和子が上洛・入内する時に築かれてた宿泊施設「御茶屋」で、寛永3年には和子の父徳川秀忠も宿泊している。 寛永11年、三代将軍家光の上洛時に水口城が宿館として築かれ、古御殿は廃城となった。

(徳川 和子(とくがわ まさこ・かずこ、慶長12年10月4日(1607年11月23日) - 延宝6年6月15日(1678年8月2日))は、江戸時代前期の女性。徳川秀忠の娘(五女)で、徳川家康の内孫。後水尾天皇の中宮。明正天皇の生母。また女院として東福門院(とうふくもんいん)。

慶長12年(1607年)10月4日、徳川家康より将軍職を譲られた徳川秀忠と正室・江夫妻の間に7番目の子(5女)として江戸城大奥で誕生する。最初の名は松姫(まつひめ)(和姫(かずひめ)とする説もある)。慶長17年(1612年)には後水尾天皇が即位するが、大御所・家康は和子の入内を申し入れ、慶長19年(1614年)4月に入内宣旨が出される。入内は大坂の陣や元和2年(1616年)の家康の死去、後陽成院の崩御などが続いたため延期された。

元和4年(1618年)には女御御殿の造営が開始されるが、後水尾天皇の寵愛する女官四辻与津子(お与津御寮人)が皇子賀茂宮を出産していたことが判明すると入内は問題視される。翌元和5年には秀忠自身が上洛して参内し、与津子の兄弟である四辻季継・高倉嗣良を含む近臣らを配流し、与津子と所生の皇女梅宮らを宮中より追放することなどで合意した(およつ御寮人事件)。

元和6年(1620年)入内に先立ち、6月2日に従三位に除せられ、同月18日に後水尾天皇の女御として入内する。入内にあたっては主上に袷百と銀千枚、中和門院に袷五十と銀五百枚、近衛信尋と一条昭良(どちらも後水尾天皇の同母弟で、近衛家・一条家に養子に入っている)に、それぞれ帷子及び単物二十と銀百枚ずつの幕府からの献上があったが、土御門泰重はその量が少ないと日記に記している。入内の様子は二条城から盛大な行列を伴い、『東福門院入内図屏風』に描かれている。元和9年(1623年)には懐妊し、同年6月には秀忠と嫡男家光が将軍宣下のため上洛し、禁裏御領1万石を寄進される。同年11月19日には皇女 女一宮興子内親王(後の明正天皇)が誕生する。

寛永元年(1624年)11月28日には冊立され中宮となり、同2年(1625年)9月には女二宮が誕生する。寛永3年(1626年)には秀忠・家光が上洛し後水尾天皇の二条城行幸が行われ、和子は同年11月13日には高仁親王を出産した。

しかし寛永4年(1627年)、高仁親王は夭折。この年生まれた男二宮も誕生直後に没した。寛永6年(1629年)には朝幕間で紫衣事件が発生し、同年10月8日に後水尾天皇は突然譲位し、女一宮に内親王宣下が下され、践祚する。同年11月9日には院号宣下があり、東福門院の号を賜る。翌寛永7年(1630年)9月12日、女一宮は即位し、明正天皇となる。

寛永11年(1634年)には新将軍となった兄の家光が上洛し、姪にあたる明正天皇に拝謁し東福門院の御所も訪れている。延宝6年(1678年)6月15日、崩御、72歳。京都泉涌寺月輪陵域に葬られた。

寛永11年、三代将軍家光の上洛時に水口城が宿館として築かれ、古御殿は廃城となった。 

旧甲賀病院前に



 参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、甲賀市誌7巻甲賀の城

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