高い土塁が残る多喜氏の戦国時代の本城。
この城は多喜北城と呼ばれていましたが、現在は「多喜城遺構」と変更されました。
お城のデータ
所在地:甲賀市甲賀町滝字南平・滝迫 (旧甲賀郡甲賀町滝字南平・滝迫) map:http://yahoo.jp/HryD7v
現 状:山林
遺 構:曲輪、土塁
区 分:丘陵城
築城期:鎌倉期中頃(1280年前後) 弘安7年
築城者:多喜彦太郎家継
城 主:多喜彦太郎家継
城 域:東西130m×南北100m
標 高:220m 比高差:20m
目標地:元龍寺
駐車場:愛宕社・元龍寺
訪城日:2014.8.8
お城の概要
多喜城には、5つの支城(多喜北城・多喜南城・梅垣城・青木城東城・西城)があり、今回訪れた多喜城が戦国時代の本城と云われている。
多喜城は、甲賀:多喜の片山集落の南方に位置し、祠(若宮社)があり。100m先の左手に山に登る石段があります。(登る口に滋賀県教育委員会の「文化財を大切に」という石柱が立っています。) これを登ると墓地があり、この墓地の背後をすこし登ると城址の堀切に出ます。堀切の左手が主郭です。
墓地周辺は寺跡だったようです。墓地の北側(城址とは反対側)も10mほどの高台になっていて、頂部は削平された感じで櫓台のような気がします。墓地より南側に20mほど登ると堀切状の箇所にでます。この左手の高まりを越えると主郭の削平地です。高まりは土塁で、主郭をコの字で巡ります。高さは5mほどあり、山肌を削り込んで作られているようです。主郭内は幅50mほどありそうで、奥行きは30mほどありそうですが、竹薮状態で見通せません。北側は崖になって落ちています。この城は多喜北城と呼ばれていましたが、現在は「多喜城遺構」と変更されました。滝公民館前に設置されている滝の史跡案内板では多喜城となってます、墓地まで城域。
城は滝集落の南側の丘陵の北端に築かれている。 北側から登って行くと墓地があるが、そこも城域で北側に土塁が残る。更に登ると竹薮となった平坦地があり、南側に高土塁が残っている。
滋賀県中世城郭分布調査には、多喜城の記載なく、多喜城は多喜北城の縄張りを。多喜北城はこの多喜城の南東側にあります。
甲賀市誌7巻(甲賀の城)には、多喜城・多喜南城・多喜北城の3城の標記があり(1984.3には現・多喜北城は踏査されていなかった)。
多喜城は山の山腹にあり、主郭部にはコの字状に土塁が残っていて、特に主郭部東側の土塁は高さ約5m程の高さがある。 更に主郭部東側には2段の削平地があり、そこは現在竹藪と墓地になっていた。
墓地から、登城し曲郭Ⅰの土塁上を南側の櫓台10m×5mを残す、此の南側は大堀切で遮断・・・・ここから元龍寺に下城した。
歴 史
多喜城は、弘安7年に多喜家継によって築かれた。 多喜氏は、伴四党(大原・上野・伴・多喜)の一つで、家継が多喜氏の祖とされている。
多喜城は鎌倉期中頃(1280年前後)に多喜彦太郎家継によって築かれたと伝えられます。家継が多喜氏の祖と言われています。 多喜氏は伴四党(大原氏・上野氏・伴氏・多喜氏)の一つと伝えられます。 <梅垣城 現地案内板より参考>によって築かれたと伝えられます。
家継が多喜氏の祖と言われています。 多喜氏は伴四党(大原氏・上野氏・伴氏・多喜氏)の一つと伝えられます。 <梅垣城 現地案内板より参考>
多喜一族には、水口岡山城初代城主であった中村一氏(かずうじ)がいる。 多喜(滝)家 - 一族の著名人物として中村一氏・多喜勘八・瀧飛騨守がいる。
甲賀五十三家の1つは、「鈎の陣」にて六角氏に味方した甲賀の地侍五十三家のことであり、甲賀二十一家の1つは、甲賀五十三家の中でも六角氏より感状を貰うほど信頼の厚かった二十一家を指し、後の甲賀流忍術の中心となった家々である。
祠と元龍寺・・・多喜城と多喜北城の繋ぎ道(後世)
愛宕社横に駐車しました元龍寺にも駐車可
見学訪城には、登城路・土塁上は明確だが、曲郭内は竹林で不明瞭であった。墓地(北西側)から登城をおススメ。
参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌7巻甲賀の城
本日も訪問、ありがとうございました!!!感謝!!