城郭探訪

yamaziro

野良田表の合戦 近江国(彦根)

2014年08月19日 | 古戦場

■ 肥田城水攻 ■
「肥田城の水攻め」は「野良田表の合戦」前年である永禄 2年(1559)に起きました。肥田城は六角氏の命により築かれた高野瀬氏代々の平地城館ですが、高野瀬秀隆の代に浅井氏通じため、 六角承禎の攻撃を受けました。肥田城守りは堅く、そこで一計を案じた承禎城下手帯に堤を築き(裏面地図参照 を築き、近くの宇曽川や 愛知川の水を堰き入れるという挙に出ました。こが「肥田城の水攻め」です。
 水かさは日に増して一帯が湖面のようなあり様となり、城中も水浸びた しとな ったようですが、洪水により堤が切れ、水攻めは失敗終わったと伝えています。

このとき築かれた堤は、近年の圃場整備で無くなるまで、その姿を見ることがきました。 で、その姿を見ることがきました。 で、その姿を見ることがきました。

■ 野良田表の合戦 ■
水攻めの失敗により、一時は退却した六角承禎ですが、翌年8月再び軍を整えて高野瀬秀隆攻めます。秀隆から知せを聞いた浅井長政は、 肥田城の西に所在する野良田集落の東南一帯で相対することになりました。

『江濃記』(近江と美濃の戦国時代抗争を記した軍記物)によると、浅井方は先手が百々内蔵助・磯野丹波守・丁野若狭守 、後手には浅井長政が諸将を 率いました。一方六角先手を蒲生右兵衛大夫 ・長原太郎左衛門、進藤山城守・池田次郎左衛門 らが務め、後手には楢崎壱岐守・田中治部大夫 、そして六角承禎自らが指揮に当たりました。

戦いは 、先手の百々内蔵助と蒲生右兵衛大夫によって火蓋が切って落とされました。当初、両者は互角の闘いを繰り広げましたが 、やがて 六角方の側面攻撃が加わって百々内蔵助は討死。このとを知った長政は檄を飛ばし、総攻撃命じました。

長政自らが先頭に立ち、野良田一帯が 大戦場になったようですが 、やがて六角方は総崩くずれとなって敗走しまた。 れとなって敗走しまた。 れとなって敗走しまた。
「肥田城の水攻め」と「野良田表の合戦」の2度の勝利により、浅井長政は犬上・愛知の2郡を手中納め、湖東平野に大きく勢力を伸張させることになりました。

彦根市教育委員会 文化財部課 文化財部課
0749 -26 -5833

参考資料:彦根市教育委員会文化財課

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清水城 近江国(彦根)

2014年08月19日 | 平城

堀痕は畑に・土塁痕の一部に竹が!

 畑地は一段低地になっており、堀が廻っていた跡を埋め、畑地としている 

お城のデータ

所在地:彦根市清崎町835 map:http://yahoo.jp/JUgiKk

現 状:民家(S家宅)・畑地

遺 構:堀痕、土塁痕

区 分:居館(平城)

築城期:南北期

築城者:

城 主:

廃 城:江戸期(一国一城令)・・・彦根藩

(一国一城令は慶長20年(1615)閏6月13日(1615)に江戸幕府が制定した法令である。土井利勝、安藤重信、酒井忠世の連判の元、徳川秀忠が発令したが、法令の立案者は大御所徳川家康であった。その内容は、一国(この場合の「国」は令制国でもあり、大名の領国(後の藩)のことでもある)に大名が居住あるいは政庁とする一つの城郭を残してその他の城はすべて廃城にするというものである。

目標地:慈光寺・清崎町公民館

駐車場: 清崎町公民館に駐車場

訪城日:2014.8.18

お城の概要

清水城は、清崎町集落の東寄り、慈光寺の南東の一画にあったとされる。清崎町公民館の広場の東南(ヘンス越に見える)

比定地のほとんどは現在S家邸の敷地で、宅地は一般的な大きさだが、周囲の畑地や庭が異常に広い。

この周囲の畑地は一段低地になっており、堀が廻っていた跡を埋め、畑地としている

南西に土塁痕の竹藪が残存。

土塁痕 

歴 史

朝鮮人街道であった沿道に、旅人の道先案内として心強く建っていた道標も今は、歴史の一部としてひっそりと残っています。

詳細不明だか、日夏氏の所領地。

街道と宿場町の景観 清崎町

城址の巨大サボテン

慈光寺 慈光寺

江戸期の武家屋敷?

 清崎町公民館の広場の東南(ヘンス越に見える)

参考資料:彦根市教育委員会文化財課、滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

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越川城 近江国(彦根)

2014年08月19日 | 居城

肥田城の支城として築かれたとされる城館

お城のデータ

所在地:彦根市三津町 map:http://yahoo.jp/XWyIat

現 状:集落・田畑

遺 構:城石碑 

区 分:居館(平城)

築城期:南北期 

築城者:高野瀬氏

城 主:久木氏

廃 城:江戸期(一国一城令)

 (一国一城令は慶長20年(1615)閏6月13日(1615)に江戸幕府が制定した法令である。土井利勝、安藤重信、酒井忠世の連判の元、徳川秀忠が発令したが、法令の立案者は大御所徳川家康であった。その内容は、一国(この場合の「国」は令制国でもあり、大名の領国(後の藩)のことでもある)に大名が居住あるいは政庁とする一つの城郭を残してその他の城はすべて廃城にするというものである。

目標地:宇曽川左岸の三津町南信号

駐車場: 城祉碑前に駐車

訪城日:2014.8.18

肥田城の北側を流れる宇曽川の左岸道の北下に城址碑

お城の概要

越川城は、彦根市内の平地城館において最も著名な肥田城の北側を流れる宇曽川に対峙する位置にあった。

現在は三津集落が営まれ、比定地の田地は圃場整備されたのか城館の面影は全く残っていないが、平成22年集落南端の宇曽川堤防直下に城址碑が建てられた。

有名な肥田城水攻めは有識者によって何度か検証されているが、その時支城の越川城はどうだったのか登場することすらなく、本当に同時期に存在していたのか疑問が残る。

 城館比定地付近 圃場より2mの段丘上城祉碑前に駐車

歴 史

越川城は、築城年代等は不明だが肥田城の支城として築かれた。守備したのは肥田城主高野瀬氏の重臣久木氏とされているが、久木氏の居城は太堂城とも云われていて、その辺りも不明な点が多い。

 久木氏は高野瀬氏とともに江北浅井氏の傘下として、永禄2年(1559)肥田城水攻めや、その翌年の野良田表の合戦に従軍した。

 浅井氏滅亡後は主君高野瀬秀隆とともに柴田勝家に従った。天正2年(1574)信長の命により、勝家が越前一向一揆の鎮圧に出陣したため、久木氏もこれに従軍した。しかし安居の戦いで高野瀬秀隆とともに久木定邦・隆致は自害して果てた。

宇曽川と左岸の堤防道

参考資料:彦根市教育委員会文化財課、滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

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甘呂城(甘露城) 近江国(彦根)

2014年08月19日 | 居城

河瀬大和守の碑甘呂神社の石碑の向こう側河瀬大和守の碑

お城のデータ

所在地:彦根市甘呂町 map:http://yahoo.jp/LiyM80

別 名:甘露城

現 状:集落

遺 構:城主石碑・池跡碑(甘呂神社内)、水堀痕、天九郎井戸

区 分:居館(平城)

築城期:南北期

築城者:河瀬大和守高秀

城 主:河瀬大和守高秀

廃 城:江戸期(一国一城令)

(一国一城令は慶長20年(1615)閏6月13日(1615)に江戸幕府が制定した法令である。土井利勝、安藤重信、酒井忠世の連判の元、徳川秀忠が発令したが、法令の立案者は大御所徳川家康であった。その内容は、一国(この場合の「国」は令制国でもあり、大名の領国(後の藩)のことでもある)に大名が居住あるいは政庁とする一つの城郭を残してその他の城はすべて廃城にするというものである。

目標地:甘呂神社・甘呂公民館、願宗寺

城 域:願宗寺の南側集落一帯

駐車場: 甘呂神社前に駐車場

訪城日:2014.8.12

お城の概要

甘露庄
 甘呂は犬上川の下流に位置し、西は野田沼に接しています。甘呂は古くは甘露とも書きました。

京都の三千院に伝わる古文書には、正中2年(1325)の西南院新御堂領の1つとして「近江国甘露庄」と記されています。西南院は高野山の別格本山西南院のこと。当時、甘呂は西南院の新御堂の荘園でした。その後、甘呂の地は梶井門跡領の荘園として維持されたようです。

▲甘呂地図が、この辺りに町屋が形成されていた可能性が考えられます。

 城 域:願宗寺の南側集落一帯(遠望)

歴 史

河瀬氏、この甘呂城の築城期は不明だが、南北朝期か。

『江州佐々木南北諸士帳』に「甘呂住佐々木随兵 河瀬大和守秀宗」と見ゆ。

河瀬氏が築城。河瀬氏は、荘園の現地管理を委だねられた荘官であった。しだいに甘呂の地を本拠に築城し武士化した。
『江州佐々木南北諸士帳』を見ると、河瀬氏の名は甘呂のほか北河瀬や多賀の地にも認めることができ、一族とあろう。

江戸時代の地誌である『淡海木間攫』には、河瀬氏・蓮台寺・大宇の3家が「犬上衆」と呼ば 浅井氏に従って姉川合戦で活躍したこと織田信長に よる小谷城総攻撃では浅井氏一族ともに討死したことなど が 記されています。 (彦根市教育委員会 文化財部文化財課)

地図を概観して最初に気づくのが、整然と碁盤の目に区画された土地です。この区画は、古代の土地区画制度である条里制地割で、1町(約109m)四方を基本単位としており、これを「坪」と称しました。坪には、それぞれ小字名が与えられていますが、小字名にはその土地の歴史を秘めたものが少なくありません。

甘呂城では、甘呂のどの辺りに城が存在したか?小字名に留意しながら甘呂集落の南端に「城畑」「城田」「城南」「城ノ西」といった小字名が集中しています。「城畑」「城田」の辺りを中心に、かつて河瀬氏ゆかりの平地城館と推測されます。

 さらに、現在の集落の中心付近は坪の地割をさらに南北に二分するように走る直線的な道路や水路が設けられ、間口を等しくする計画的な屋敷割となっています。規模はそれほど大きくありません。

集落の周囲には現存する甘呂神社のほか、「雪待寺」「善福寺」「大地庵」「光勝寺」「一町寺」「朱雀院」など社寺にちなんだ小字名が存在する。

 甘呂神社の南方に存在した細長い藪は、城を取り囲んでいた土塁の一部であり、甘呂神社の北方に現在も流れを刻む水路は、堀の役割を担っていた。
 甘呂集落の南端付近に城館を構え、その北に町屋を形成し、周囲には社寺を点在させ土塁や堀で囲った城。

 甘呂の地は、すぐ東南側を直進する下し も街道(古代の巡礼街道)が走っており、戦国時代には下街道に面して佐和山城や安土城・八幡山城など
の城が築かれ、幾多の武将が往来しました。

甘呂城も規模は小さいですが、下街道沿いの重要な位置に築かれた城。

願宗寺・・・願宗寺前を南に100m集落端に「天九郎井戸」

なお、小字「城南」の地には天九郎井戸と呼ばれる井戸が残っています。甘呂に住んだ刀工の天九郎俊と し長ゆかりの井戸と伝えています。

甘呂神社

 

甘呂神社の南側藪地・蓮池跡蓮池跡の碑

集落の西に竹藪残存、土塁痕・堀痕が確認できる。

集落の北側の水掘(犬上川~野田沼へ)、現状は灌漑水路、排水路。

参考資料:彦根市教育委員会文化財課、滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

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