城郭探訪

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田附城(田付城) 近江国(彦根)

2014年08月17日 | 平城

徳川家三大砲術の田付流の祖である「田付氏の城館」

「地券取調総絵図」(明治6年)描かれた田付城跡

豊田神社から南の埋葬地(墓地)に向って伸びる道沿いであり、現在は圃場整備で水田に改変・消失したが明治6年の絵図にと周囲の田より一段高い畑地して描かれます。この地が、田付氏の平地城館が存在した所。 

お城のデータ

所在地:彦根市南三ツ谷町字増見  map:http://yahoo.jp/8eWVfI

別 名:田付城

現 状:田地

遺 構:石碑、現地説明板

区 分:平城

築城期:室町期

築城者:田付小孫太宗重

城 主:田付景澄

廃 城:天正元年(1573)景輔の時に織田信長の攻撃により

目標地:豊田神社、田附集落北西の墓地

駐車場: 豊田神社参拝者駐車場

訪城日:2014.8.17

田付城は、北隣りに位置する南三ッ谷町字増見の地一帯に存在したと伝えます。

 
お城の概要
 
豊田神社から南の埋葬地「墓地」に向って伸びる道沿いであり、現在は圃場整備で開削・消失し水田に変わってます。明治6年の絵図には外周に水路がめぐる周囲より周囲の田より一段高い畑地して描かれます。この地が、田付氏の平地城館が存在した。
 
地元では当所一帯を「上屋敷」とも呼んでいた、その一隅には稲荷山という 丘があって稲荷神社が祀まつ られていました。かつは田付城の鎮守であったと伝わる。。稲荷神社御神体は、現在豊田神社に合祀しされています。
 
そのほか当所北には「裏門」「上出口」「下出口」「堀ノ角」「上堀ノ角」な ど 、田付城に関係すると考えられ地名が散見さます。
 
田附城は、田附集落北側の南三ツ谷町字増見にあったとされる。字増見は田附集落北西の「埋葬地」と称される墓地北隣の田園付近である。
 
また墓地の隣地に城主田付氏の祖、守房親王の碑・説明板が建っている。
 
 墓地内に建つ「守房親王之碑」現地説明板親王なので、墓地とは南隣の一角

 歴 史

田附城は田付小孫太宗重によって築かれたとされる。田付氏の祖は、淳和天皇の子守房親王とされ、守房親王は田附町の八幡神社の神官として当地に赴いたことに由来するという。

田付氏は代々近江守護佐々木六角氏に仕えた。文亀3年(1503)9代重房の時に軍律違反を理由に領地を没収された。

その翌年六角氏は配下の伊庭景治に田付氏を継がせた。

以後景澄・景輔と六角氏に仕え、天正元年(1573)景輔の時に織田信長の攻撃により落城し、田付城は廃城となった

景輔は落城後、安芸広島城主福島正則に取り立てられた。正則改易後は砲術指南役として徳川幕府に召された。これがのちの徳川家三大砲術のひとつとなった田付流である。

また賤ヶ岳の七本槍の1人、脇坂安治の出自は田付家であるという。
安治の父安明は田付景治(春)の妹を妻にしていた。その義妹が田付源(孫)左衛門との間にもうけていた男子を養子としたが、その男子が脇坂安治だという。

■ 田付氏 ■
この田付城を築いたされるのが田付小孫太宗重です。彼の先祖は淳和天皇の子守房親王と伝えており、守房親王が田附町に所在する八幡神社(若宮八幡)の神官として当地に赴 おもむいたこ とに由来するまのとを記念する「守房親王之碑」が、田付城跡に隣接埋葬地記念する「守房親王之碑」が昭和 45 年に建立されました。

宗重以降、代々が田付城主と して近江源氏佐々木一族に従ったようですが、宗重より9代の重房の時、 文亀3年(1503 )の春に軍律を犯しため佐々木一族の六角氏綱によって城と領地を没収され蟄居を命ぜられます。  因に房の子安重は、日野 音羽城主 蒲生賢秀に仕えました。 

参考資料:彦根市教育委員会文化財課、滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

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平流(へるい)城 近江国(彦根)

2014年08月17日 | 平城

 平類城跡の小字「殿屋敷」

お城のデータ

所在地::彦根市稲里町小字殿屋敷   map:http://yahoo.jp/8eWVfI

現 状:グランド・稲里公民館及び横の公園

遺 構:グランドの段丘1m

区 分:平城

築城期:

築城者:

城 主:

目標地:稲里公民館

駐車場: 稲里公民館駐車場

訪城日:2014.8.17

 

平類城跡の小字「殿屋敷」

お城の概要

現在の稲里町公民館の西側にあったと云われているが、遺構は現存しない。稲里公民館及び横の公園は、今でも「殿藪」と云われ、数年前までは竹藪であったと云。

上平流村の小字図を見ていただくと 、域全体に整然と碁盤目に描かれた条里地割が広っています。  条里地割は、古代から中世にけて行なわれた土地区画制度基づくで地割で縦横の一辺を1  町(109m)に区画する大事業でした。

上平流村の内は条里地割が卓越して残 り 、北東の突出部を除いて村域直線の村界で限られた典型的な条里景観の村でした。

その景観は、近年の圃場整備で大きく変化しまたが、それでもほ場の方位や区画のあり方など 条里地割の面影を残しています。

歴 史 ■ 平城跡 ■

再び上平流村の小字図を見ていただくと、北東の突出部小字が「殿屋敷」なっています。現在はグラウンドとして整備されていますが、かつて一 段高い畑地や藪地が広っていました。当地は「 下街道 (古代の巡礼街道・江戸期の朝鮮人街道)に近く、街道を押える意図もあって平地城館が存在したと考えられますが、詳細は不明です。

平流荘 「上平流」の地名は古く、その起源 は当地に存在した 川原寺(弘福寺) の荘園であった 「平流荘」に由来しています。平流荘は大宝年間(701 ~704 年)以前天智天皇の勅施入 によって成立した荘園 伝えており、平流荘は当地一帯に広がる条里地割に先行して開発された荘園であった可能性も考えられます 。

■ 屋中寺廃寺と下 岡部廃寺■
上平流の西方には、古地図のよう に屋中寺廃や下岡部とい白鳳時代 ※3 にさかのぼる  寺跡が存在したと推定されています。これらの白鳳寺院は、日本に仏教が伝来して間もな く有力古代氏族※4 が建立した寺院で、門や 回廊によって四角く区画された内、 瓦葺の金堂や塔 、講堂どなどが整然と建ち並んでいました。

屋中寺廃は、上岡部町字一帯に所在した寺跡です。昭和2年の耕地整理際、礎石※5や 柱根 ※6そして多量の瓦が出土しまた。下岡部廃寺は、町東北にある墓地周辺の小字 「大村 」 の地に想定される寺院です。 天平勝宝3年( 751 年)に描かれた「近江国覇流村墾田地図」には「大村寺 」と記されており、下岡部廃村寺 」かつて大村寺と呼ばれいたようです。 やはり耕地整理で多量の瓦が出土しました 。屋中寺廃と下岡部廃寺から出土した瓦には、飛鳥の川原寺に葺かれていた瓦と同種の瓦が多く含まれており、平流荘に関連して川原寺の影響もと建立された古代寺院であったと考えられてます。

参考資料:彦根市教育委員会文化財課、滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

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