城郭探訪

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明智左馬之助 湖を駆ける!

2014年06月24日 | 武将

 

明智左馬之助湖水渡りのところ 

 天正10年(1582)6月2日、明智光秀は主君・織田信長を本能寺に攻めて自害させ、天下を奪ったが、山崎の合戦で秀吉に敗れ、その野望は消え失せた。光秀の弟左馬助光春は、信長の居城・安土城を攻めていたが、兄の死を聞いて急ぎ坂本城へ引き返す途中、打出浜より路を湖水に求め愛馬にまたがりびわ湖を渡り坂本に帰った。しかし、時すでに遅く、秀吉の軍勢に囲まれ、6月14日、光秀の妻子らとともに、城と命運をともにした。湖水渡りの勇姿は、今も講談などで語りつがれている

  

明智左馬助の湖水渡り(歌川豊宣画「新撰太閤記」)

 
明智左馬助湖水渡りの碑(滋賀県大津市打出浜)

坂本城の推定城郭部分/国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成

 
 

前半生

『明智軍記』などによると、秀満(同史料では「光春」)は明智氏の出身とされる。明智光秀の叔父である明智光安の子(「明智氏一族宮城家相伝系図書」によると次男)であり、光秀とは従兄弟の関係にあったとされている。別号として三宅氏を名乗った時期もあるとされている。

秀満の前半生は『明智軍記』を始めとする俗書でのみ伝わっている。

明智嫡流だった明智光秀の後見として、長山城にいた父・光安に従っていたが、弘治2年(1556年)斎藤道三と斎藤義龍の争いに敗北した道三方に加担したため、義龍方に攻められ落城する。その際、父は自害するが、秀満は光秀らとともに城を脱出し浪人した。

後半生

天正6年(1578年)以降に光秀の娘を妻に迎えている。彼女は荒木村重の嫡男・村次に嫁いでいたが、村重が織田信長に謀反を起こしたため離縁されていた。その後、秀満は明智姓を名乗るが、それを文書的に確認できるのは、天正10年(1582年)4月である。

天正9年(1581年)、丹波福知山城代となる。

天正10年(1582年)、光秀が織田信長を討った本能寺の変では先鋒となって京都の本能寺を襲撃した。その後、安土城の守備に就き、羽柴秀吉との山崎の戦いでは光秀の後詰めとして打ち出浜で堀秀政と戦うが敗れ、坂本城に入った。

  秀吉方の堀秀政軍に城を囲まれた秀満は、光秀が所有する天下の名物・財宝を城と運命を共にさせる事は忍びないと考え、それら名物をまとめて目録を添え、天守閣から敵勢のいる所に降ろした。そして「寄せ手の人々に申し上げる。堀監物殿にこれを渡されよ。この道具は私物化してはならない天下の道具である。ここで滅してしまえば、この弥平次を傍若無人と思うであろうから、お渡し申す」と叫んだ(『川角太閤記』)。しばらくの後、直政と秀政が現れ「目録の通り、確かに相違ござらぬ。しかし日頃、光秀殿が御秘蔵されていた倶利伽羅の吉広江の脇差がござらぬのは、如何いたしたのか」と返すと「その道具は信長公から光秀が拝領した道具でござる。

 吉広江の脇差は貴殿もご存じの如く、越前を落とした際に朝倉殿の御物奉行が身に差していたもので、後に光秀が密かに聞き出し、これを求めて置かれたもの。お渡ししたくはあるが、光秀が命もろともにと、内々に秘蔵されていたものなので、我が腰に差して、光秀に死出の山でお渡ししたく思う。この事は御心得あれ」と秀満は返事し、秀政・直政らも納得した。

6月15日の夜、秀満は光秀秘蔵の脇差を差したまま、光秀の妻子、並びに自らの正室を刺し殺しあるいは介錯し、自ら城に火を放って自害したとされる。享年は俗書に従えば47。『兼見卿記』では、同年に処刑された秀満の父(名は不明)は享年63とされる。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、Wikipedia

 

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


安村館  近江国(八日市)

2014年06月23日 | 居館

お城のデータ

所在地:東近江市今代町   (八日市市今代町)   map:http://yahoo.jp/mzUoBU

区 分:居館

遺 構:川石多数!末裔は安村家19個を数える。

現 状:集落

築城者:安村盛清

築城期:

目標地:今代バス停・今代会館

訪城日::2014.6.23

お城の概要

今田居の地名に、「浄土ノ屋敷」「下屋敷」「堀前」の名が残る

末裔か、表札に「安村」家19を数える。

愛知川中流左岸の集落で、集落内に愛知川の川石が多数、地割石、敷石・台石(川の氾濫時の流石カ)と多用。集落内は狭く迷路のようで。

愛知川の堤防と旧河川敷を開墾・水田化、さらに500m左岸に5mの段差、丘上を八風街道が通り、また千種街道の起点も存在する。

末裔は表札は「安村」、集落に19家

   

   

  

お城の歴史

長寿院の由緒   滋賀県東近江市今代町374

開基:承応年間(1652-1654)足利家家来志賀郡青山城城主安村備中守盛資の曾孫盛仙

神埼郡志由緒記によると、足利家家来安村備中守盛資は志賀郡青山城の城主で長寿院福王寺を建立、薬師佛を安置し庇護したが孫盛清は天文の役(天文8年-1539)に敗れ、青山城を去り采地御園郷今代に移住した。その後盛清の曾孫に当たる安村備中守の代の承応年中頃(1652-1655)、この地に一宇を建立し正覚山長寿院と称した。
 以来歴代の住職が守護し現代の住職で16代目である。幾度となく災禍にあいながらも、ご本尊の薬師如来像は災火をまぬがれ秘仏として現存されている。御本尊は木造の薬師如来座像で鎌倉時代の造りである。
 伝え聞くところによると、本堂は文久3年(1863)全焼し仮本堂として住宅を移築、長年風雨を凌いできたが、16代坪内智依住職の発願により新築される。上棟平成2年5月24日、落慶法要平成3年6月2日。
 新しい本堂に安置された仏像は、鎌倉時代からの時代の変遷を見、その時々の深き信仰心のもと現在に至っている。

『神崎郡志』は、「安村盛清邸址 御薗村大字今田居にあり、面積一段九畝二十八歩、天文の比、志賀青山城主安村盛清が戦に敗れ、所領なる此地に潜居したとういふ。」としている。

安村管左衛門

安村氏は江戸時代に入り氏を志賀と改めた。系譜よると甲斐源氏で新羅三朗義光の裔(すえ)である。安村備中守盛資足利氏に仕へ、志賀郡青山城主となり、他地と御薗郷とに采地を有し、応仁二年十月歿した。玄孫城ノ助盛清、御薗郷今田居に移住し天正五年正月歿し、長子管左衛門盛繁を襲うた。即ち贇済盛政の祖父に當る人で、織田氏の安土時代に出仕いたやうで、天正五年の文書で傳はつてある。(御薗志賀氏文書)

安村忠次郎

安村忠次郎、安村籐十郎と如何なる続柄か、系譜にも名が見えぬ。慶長5年の関ヶ原戦に當り長束正家に属して伊勢津城攻撃に参加し藤十郎は討死した。この時正家は感犹に・・・云々、(御薗志賀氏文書)

 津城は冨田信高の居城で関ヶ原開戦以前八月甘三から、長束政家、毛利秀元等が包囲し甘六日、終に略取したが、九月十五日関ヶ原決戦で西軍は潰え、中村正家は身を脱し、居城水口に逃げ帰り、十九日桜谷で自害した。

集落内に墓地・? バス停「今代」

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、『神崎郡志』、長寿院の由緒

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!

 


瓜生津城 近江国(八日市)

2014年06月22日 | 居城

お城のデータ

所在地:東近江市瓜生津町      map:http://yahoo.jp/Mr8NKL

  (旧八日市市瓜生津町

別 名:瓜生城

目標地:弘誓寺・瓜生津バス停

区 分:平城

標 高:200m  比高差:0m 

現 状:寺院

遺 構:土塁・堀痕

築城期:室町期

築城者:布施氏

訪城日:2014.6.23

第二番札所 金剛山 弘誓寺 滋賀県東近江市瓜生津町 1314-1

 門前に二本の松の木が在り、茅葺きの山門の柱を新しくする改修をし古きを守る姿は好い景色で在る 山門を過ぎれば親鸞聖人像が在り此処も松の木が在る 大本堂は軒柱を立てる真宗によく見る姿で向拝を廣く取って堂横には大庫裏を置く

     

弘誓寺裏・国道307号の間の竹林内の土塁残存する。

お城の概要

 集落内に「横堀」の名が、小字西大野・小字大久保・小字下り松に、またがり残る。

現在は、集落内は迷路のようにで、道路も狭く屋敷町の様相であり、西側は蛇砂川であり、東側は堀痕、弘誓寺北側の竹林に土塁が残る。

歴 史

 布施氏邸  

 布施氏は市邊村布施を本據とすれども一族繁茂して後は瓜生津に住めしものあり、佐々木南北諸士帳に瓜生津城主布施九朗 布施九郎左衛門 布施新藏人等名を記す大字布施にも城屋敷と偁する所あり、布施氏在住の邸と傳ふ。・・・蒲生郡誌八巻三八八頁

竹林(土塁)と弘誓寺(館跡)国道307線下東側より

 

向かいの「慈願寺」

佐々木六角の重陣、「狛氏の持念仏」が慈願寺会館に

金柱という仏像は、現在、東近江市瓜生津町にある慈眼寺の国指定重要文化財 「聖観音金銅像」 であるという説があるのです。
 その訳は、慈眼寺の仏像縁起庸約によると、西天竺の毘首羯摩(びしゅかつま) (伝説化された架空上の仏工)の作で、 その頃までは佐々木六角一族が安置し、 城の名も観音寺城とし朝夕参拝していた。

 しかし信長の上洛戦で落城し、その際、家臣毛利知行が仏を滋賀県愛知郡の当時天台宗東光寺(現浄土宗)に預けるべく、背負いながら多
 勢の敵に迫られ愛知郡平柳村の池に飛び込み死亡した。

 その後相当な期間を置いた慶長年中(1596~1615)のこと、 夜な夜な光るものがあり、ある男が仏像を拾い上げてそれを自宅で供養していたところ、ある日僧が現れ、その仏像を慈眼寺に移して安置した旨が記されてあるそうです。

                
         聖観音金銅像 (高さ40.2㎝ ・ 国指定重要文化財)八日市市史等掲載

   狛の長者達渡来人が小脇郷に住み始めたのが天智天皇の大津京時代となる西暦669年頃からとされています。その後、約340年に亘り地域の開拓、繁栄を築いていたところ、 大凡(おおよそ)1010年頃から佐々木六角一族の三代目となる佐々木経方の時代に支配下の小脇の館に住むようになったのです。 その三代後の秀義の時に平治の乱が起こり、平氏の天下となった20数年間は関東に流れていたものの、源平合戦での功績を認められて復活し、その後約400年間の安泰が続きました。
 
   しかし盛者必衰の例えの如く織田信長の上洛戦により1568年9月12日滅亡となったのです。 それまでの約550年の間金柱の仏像は佐々木六角一族が祭っていたのではないか ・ ・ ・ 歴史的な資料が無く、気の遠くなるような遠い昔の話です。  

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、蒲生郡誌、ウィキペディア

 本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


殿屋敷城 近江国(永源寺)

2014年06月22日 | 居城

お城のデータ

所在地:東近江市上二俣町・高木町の中間      map:http://yahoo.jp/uIibhk

  (旧神崎郡永源寺上二俣小字鍛冶屋(かじや)・高木小字林)  

目標地:交差点の八大龍三

区 分:居館」

標 高:203m  比高差:0m 

現 状:水田

遺 構:不明(破壊・移設?)

築城期:室町期カ

築城者:高木氏カ

訪城日:2014.6.23

中央の多段の比高差が気になる

お城の概要

 高木と上二俣の間500m程の中間、標高203mの水田地帯。縦・横120mの概ね方形に一区画あり、この一画は小は2~3㎡、大は10㎡の畑無数にあり。周囲はすべて100~120坪の区画水田。・・・・

現在は、圃場整備で、水田に改変された。滋賀県中世城郭分布調査4(1986.3)の31頁「殿屋敷城」の稿・・・約30年で大きく様変わり。

歴 史

高木町小字林の鍛冶屋(かじや)、上二俣小字かじや・・・共に「かじやの畑」と呼ばれ、畑作のみであった。

 蒲生郡誌の古蹟名勝誌編では「大字高木に在り、此の区域不規律なれども三方堀を回らし、南側は道路なり、是れ後半道路改修のため土手と堀を壊ちしものならん、住者の氏名詳ならず今に城跡又は殿屋敷と称す」区域は明確たが、城主は言伝え。

 淡海温古録の高木の項には、「高木助六、蒲生家ニ出ズ」と記すは高木助六朗盛重であるが、居所は不明。現今の城郭史家が「高木左近義清、右京亮義賢は佐々木六角の家臣にて、高木城主であった・・・」高木の地名は近江八幡金田地区高木、野洲群篠原高木・・・・。

   

「下司(かじ)殿屋敷跡」とする根拠は、文亀元年4月記書、複写之、慶長12年と標記された、「玉緒郷市原野荘絵図」の中で、白鳥神社別当東大寺荘厳寺の位置(堂堤)の南方で、高木と二股里(上二俣)の丁度地点に下司館、隣りに鍛冶屋が描かれている。・・・・。

 「永源寺町 歴史探訪Ⅰ」に、高木の刀匠貞宗・伝(80頁)刀鍛冶の巨匠五郎正宗の高弟、高木貞宗について、蒲生郡誌は、「貞宗は近江高木村の人。初名は「弘光、又は助貞とい、彦四郎と称す、相模の五郎正宗諸国周遊の際、師弟の契約をなし鎌倉へ移住の後遂に其の養子となり名を貞宗と改む。聖和年間の人、元応、建武年間の人、或いは永仁六年に生まれ、貞和五年に没し年五一なり」「市原村高木は高木彦四朗貞宗の出でし村なりと伝う。上二俣に小字鍛冶屋あり、慶長検地もこれを記す。小字カコヤ藪の竹は刀剣用に賞味された」とある。徳川時代に伊井藩は課税免除された。

 

近くに「八大龍王」が神社土塁、堀池が

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%A4%A7%E9%BE%8D%E7%8E%8B%E7%A5%9E

      交差点に「八大竜王」

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

 

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


佐治城三の丸 近江国(甲賀)

2014年06月19日 | 平山城

県道127号線、小佐治公民館の路地を北に入る。右手に常楽寺を見て十字路も北進すると標識が見える。

 
 

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町小佐治城殿  map:http://yahoo.jp/GlQ5FF

現 状:森林・竹林・

遺 構:曲輪・土塁・水堀・空堀・説明板

区 分:山城

築城者:平業国

築城期:南北朝期(泰平5年(1062))

城 主:佐治氏

標 高:250m   比高差:30m

目標地:常楽院・第二鹿深の家

    市指定史跡

訪城日:2014.6.17

 中腹の常楽寺を奥に進む

主郭跡の大半は牧場の放牧場となっている。  桝形池(水堀)に『佐治城跡』の説明板を奥に進む 

牧場の中央、道路沿いに、更に進み、池の手前をV字に左折

・・・三の丸は、この上 

お城の概要

城は愛宕山の山頂にあり、道路沿いに「桝形池」と呼ばれる堀跡が残り、山頂には祠が奉られている。

 日本城郭体系では本丸付近は畑として開墾され、余り遺構が残っていないような記述がなされている。

確かに本丸付近は「桝形池」および愛宕山付近に堀跡が残されている程度で、その西側は牧場となっている。

西側には土塁や堀切があり、二の丸、、に相当するような遺構が明確に残る。

一番西側の堀切には土橋が架かっている。

愛宕山の南側は、竹林で削平地・土塁が残る、城の遺構

歴 史

康平5年(1063年)平業国によって築かれたと云われる。 康平5年(1063年)平業国が伊豆国より佐治郷に移り佐治城を築いて佐治氏を名乗った。南北朝には某氏・国氏が武功を上げ、長亨の乱(1487年)では河内守が活躍しました。

建武4年・延元2年(1337年)足利尊氏の命によって、小佐治右衛門三郎は守親親王を攻めるために出兵して感状を受けた。

永禄11年(1568年)六角氏が滅亡後、佐治為次は織田信長より安堵され、元亀2年(1571年)に一万四千石を領した。

  天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いにおいて羽柴秀吉は甲賀武士を七番備えに配したが、徳川家康からの内応を求める書状に秀吉が怒り、翌年根来寺攻めに置いて紀伊川治水の命を受ける。更に領地没収の命が下されると一族は佐治城に籠城して滅亡した。 <現地案内板より>

 佐治氏は甲賀郡・佐治郷から発祥し、佐治城を本拠として中世の近江を生きた豪族である。

甲賀は近江国甲賀郡の地をいい、伊賀と並んで忍者のことが思われる。戦国時代の甲賀には、甲賀五十三家と称される大小の武士団が割拠していた。そのなかでも佐治氏は、伴一族と並んで古い歴史をもつ武士であった。

 佐治氏の出自を探ると、平安時代末期の康平五年(1062)、平維時の子業国が佐治郷に住して小佐治を名乗ったことに始まるという。その伝を信じれば、平氏の分かれということになる。

業国は小佐治、神保、隠岐、伊佐野、平野の佐治郷五ケ村を領して佐治城を築いたと伝えられる。以後、佐治氏は佐治郷にあって激動の中世を生きたのである。

廃車置き場の向かい入口 いきなり井戸?武者隠し           車駐車スペース(ここからも、入城出来ます)    

佐治城遠望(三の丸・二の丸・主郭)・・・佐山小学校より 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


佐治城二の丸 近江国(甲賀)

2014年06月19日 | 平山城

  

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町小佐治城殿  map:http://yahoo.jp/GlQ5FF

現 状:森林・竹林・

遺 構:曲輪・土塁・水堀・空堀・説明板

区 分:山城

築城者:平業国

築城期:南北朝期(泰平5年(1062))

城 主:佐治氏

標 高:250m   比高差:30m

目標地:常楽院・第二鹿深の家

    市指定史跡

訪城日:2014.6.17

 中腹の常楽寺を奥に進む

主郭跡の大半は牧場の放牧場となっている。  桝形池(水堀)に『佐治城跡』の説明板を奥に進む 

牧場の中央、道路沿いに、更に進み、池の手前をV字に左折

・・・二の丸への入り口

 

お城の概要

城は愛宕山の山頂にあり、道路沿いに「桝形池」と呼ばれる堀跡が残り、山頂には祠が奉られている。

 日本城郭体系では本丸付近は畑として開墾され、余り遺構が残っていないような記述がなされている。

確かに本丸付近は「桝形池」および愛宕山付近に堀跡が残されている程度で、その西側は牧場となっている。

西側には土塁や堀切があり、、三の丸に相当するような遺構が明確に残る。

一番西側の堀切には土橋が架かっている。

愛宕山の南側は、竹林で削平地・土塁が残る、城の遺構。

 

歴 史

康平5年(1063年)平業国によって築かれたと云われる。 康平5年(1063年)平業国が伊豆国より佐治郷に移り佐治城を築いて佐治氏を名乗った。南北朝には某氏・国氏が武功を上げ、長亨の乱(1487年)では河内守が活躍しました。

建武4年・延元2年(1337年)足利尊氏の命によって、小佐治右衛門三郎は守親親王を攻めるために出兵して感状を受けた。

永禄11年(1568年)六角氏が滅亡後、佐治為次は織田信長より安堵され、元亀2年(1571年)に一万四千石を領した。

  天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いにおいて羽柴秀吉は甲賀武士を七番備えに配したが、徳川家康からの内応を求める書状に秀吉が怒り、翌年根来寺攻めに置いて紀伊川治水の命を受ける。更に領地没収の命が下されると一族は佐治城に籠城して滅亡した。 <現地案内板より>

 佐治氏は甲賀郡・佐治郷から発祥し、佐治城を本拠として中世の近江を生きた豪族である。

甲賀は近江国甲賀郡の地をいい、伊賀と並んで忍者のことが思われる。戦国時代の甲賀には、甲賀五十三家と称される大小の武士団が割拠していた。そのなかでも佐治氏は、伴一族と並んで古い歴史をもつ武士であった。

 佐治氏の出自を探ると、平安時代末期の康平五年(1062)、平維時の子業国が佐治郷に住して小佐治を名乗ったことに始まるという。その伝を信じれば、平氏の分かれということになる。

業国は小佐治、神保、隠岐、伊佐野、平野の佐治郷五ケ村を領して佐治城を築いたと伝えられる。以後、佐治氏は佐治郷にあって激動の中世を生きたのである。

                                         佐治城遠望(三の丸・二の丸・主郭)・・・佐山小学校より

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城

 

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!

 


佐治城 近江国(甲賀)

2014年06月19日 | 平山城

県道127号線、小佐治公民館の路地を北に入る。右手に常楽寺を見て十字路も北進すると標識が見える。

 
 

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町小佐治城殿  map: http://yahoo.jp/yD4sLk

現 状:森林・竹林・牧場

遺 構:曲輪・土塁・水堀・空堀・説明板

区 分:山城

築城者:平業国

築城期:南北朝期(泰平5年(1062))

城 主:佐治氏

標 高:250m   比高差:0m

目標地:常楽院・第二鹿深の家

    市指定史跡

訪城日:2014.6.17

 中腹の常楽寺

 常楽院

 応仁2年(1486)佐治美作守為定が蒲生郡黒橋の合戦で討死したので、その追善のために建立された。
 永正年間に天台宗から浄土宗に改宗した。
 佐治氏の墓地が寺裏の高台にある。

桝形池(水堀)に『佐治城跡』の説明板 

 

お城の概要

城は愛宕山の山頂にあり、道路沿いに「桝形池」と呼ばれる堀跡が残り、山頂には祠が奉られている。

 日本城郭体系では本丸付近は畑として開墾され、余り遺構が残っていないような記述がなされている。

確かに本丸付近は「桝形池」および愛宕山付近に堀跡が残されている程度で、その西側は牧場となっている。

西側には土塁や堀切があり、二の丸、三の丸に相当するような遺構が明確に残る。

一番西側の堀切には土橋が架かっている。

愛宕山の南側は、竹林で削平地・土塁が残る、城の遺構。

 佐治城とますがた池

 天正13年美作守佐治為祐は佐治城に篭って抗戦し、落城する。為祐は自害し、奥方は枡形池に身を投じた(伝承)。
 夏の干天が続くと住民はたいまつをかざし降雨を願ってこの池の周りをめぐり、夜を徹して踊ったという。このようにしてすいりょう節の歌や踊りが生まれたそうである。近くに八大龍王碑がある。
 

歴 史

康平5年(1063年)平業国によって築かれたと云われる。 康平5年(1063年)平業国が伊豆国より佐治郷に移り佐治城を築いて佐治氏を名乗った。南北朝には某氏・国氏が武功を上げ、長亨の乱(1487年)では河内守が活躍しました。

建武4年・延元2年(1337年)足利尊氏の命によって、小佐治右衛門三郎は守親親王を攻めるために出兵して感状を受けた。

永禄11年(1568年)六角氏が滅亡後、佐治為次は織田信長より安堵され、元亀2年(1571年)に一万四千石を領した。

  天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いにおいて羽柴秀吉は甲賀武士を七番備えに配したが、徳川家康からの内応を求める書状に秀吉が怒り、翌年根来寺攻めに置いて紀伊川治水の命を受ける。更に領地没収の命が下されると一族は佐治城に籠城して滅亡した。 <現地案内板より>

 佐治氏は甲賀郡・佐治郷から発祥し、佐治城を本拠として中世の近江を生きた豪族である。

佐治與九郎と江(崇源院)との婚姻について

<大野佐治とお江の方
 「お江」は2代将軍秀忠の正室であり、家光の実母である。徳川時代、最高の位に到達した女性といえる。しかし、その人生は正に波乱万丈であった。生まれは小谷城主浅井長政と信長の妹お市の方の3女で、落城ののち柴田勝家に嫁した母に連れられ北の庄に移るが、ご存知のように秀吉に攻められてここも落城し、母と養父を失うこととなる。

秀吉に引き取られたお江の最初の夫は母の妹(お犬の方)の子で、従兄弟の「佐治與九郎」であった。與九郎は18歳、お江は16歳であった。大野城でしばらくは幸せな日々を過ごしていたと思われるが、天正12年(1584)秀吉によって離縁させられてしまう。

その理由は、小牧長久手の戦いで、家康・信雄の陣営に加わって秀吉の怒りをかったからという説が有力である。
その後秀吉の姉の子羽柴秀勝に嫁ぐが、秀勝は朝鮮出兵で戦死することになる。

そして3番目の夫が秀忠であった。この大野佐治氏は佐治本家の為継が、文明年間(1470頃)に伊佐野に住んでいた3男の佐治上野介為綱を知多郡の一色氏の要請に応じて派遣したことに始まる。しかし、為綱についてはさしたる記録がなく、その弟の駿河守宗貞が大野佐治の始祖となり、為定、為興(信方)、与九郎一成と続く。伊勢湾の海上交通を握る水軍の実力が信長に評価されたと思われる。
 與九郎はその後叔父の信包(母の兄)を頼って伊勢へ逃れ、後に信長の娘である於振を正室に迎えたと伝えられている。寛政11年(1634)京都にて死去。享年66歳

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E6%B2%BB%E4%B8%80%E6%88%90

甲賀は近江国甲賀郡の地をいい、伊賀と並んで忍者のことが思われる。

戦国時代の甲賀には、甲賀五十三家と称される大小の武士団が割拠していた。そのなかでも佐治氏は、伴一族と並んで古い歴史をもつ武士であった。

 佐治氏の出自を探ると、平安時代末期の康平五年(1062)、平維時の子業国が佐治郷に住して小佐治を名乗ったことに始まるという。その伝を信じれば、平氏の分かれということになる。

業国は小佐治、神保、隠岐、伊佐野、平野の佐治郷五ケ村を領して佐治城を築いたと伝えられる。以後、佐治氏は佐治郷にあって激動の中世を生きたのである。

主郭の土塁(桝池上部) 

主郭跡の大半は牧場の放牧場となって、堀跡といわれる桝池には説明板が。桝池の奥に高台に愛宕社の祠があり、この下に堀跡ある。

 

  

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城

 

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!

 

打越城 近江国(甲賀)

2014年06月18日 | 平山城

  隠岐地区には佐治川南岸に隠岐支城Ⅰ~Ⅳ・打越城・砂坂城と城館が密集

 

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町隠岐    map:http://yahoo.jp/HfWyAD

区 分:丘城 

現 状:竹林、雑木林

遺 構:削平地、土塁

築城期:室町期

築城者:隠岐左近大夫

目標地:香蓮寺

訪城日:2014.6.17

お城の概要

 隠岐地区には佐治川南岸に隠岐支城Ⅰ~Ⅳ・打越城・砂坂城と城館が密集していて、これらはすべて隠岐氏の関連城館群。

その中で名称を見る限り、隠岐城が本城のように思えるが、隠岐城だけが佐治川北岸に単独で位置しているため防御性に乏しく、中心的な役割とは考えられない。

・同名中惣
 これは五十三家の各氏族ごとに代表者(同名奉行という)を選出し、本家・分家等同名の一族が参加して多数決によって氏族ごとの行動を決定したとされる。本家・分家の発言力にはほとんど差がなかったという。

「近江守護佐々木秀義五男佐々木五郎隠岐判官義清城跡。元弘年中義清十一世孫佐々木兵庫頭
清三再城跡。義清領地故隠岐村名付山下一円門之内云々。」
                               ー 城跡に立つ大岡寺石柱裏の碑文 ー

  香蓮寺 西側から城内に  

駐車 石仏前(交差点ゴミ集積所):甲賀市甲賀町隠岐map:http://yahoo.jp/dYK5bA

歴 史

「近江守護佐々木秀義五男佐々木五郎隠岐判官義清城跡。元弘年中義清十一世孫佐々木兵庫頭清三再城跡。

  義清領地故隠岐村名付山下一円門之内云々。」
                               ー 城跡に立つ大岡寺石柱裏の碑文 ー

この地を本拠としていた隠岐氏の隠岐支城群の1つで、詳細は不明。

甲賀二十一家の1つ、甲賀五十三家の中でも六角氏より感状を貰うほど信頼の厚かった二十一家を指し、後の甲賀流忍術の中心となった家々である。

甲賀郡中惣(ちゅうそう)
 甲賀は六角氏の傘下に属しながらも「惣」と呼ばれる独自の地域連合体を形成し、郡に関わる全ての案件を多数決によって決定する「合議制」によって運営されていたいう、この時期では全国的に見てもきわめて珍しい里である。

・同名中惣
 これは五十三家の各氏族ごとに代表者(同名奉行という)を選出し、本家・分家等同名の一族が参加して多数決によって氏族ごとの行動を決定したとされる。本家・分家の発言力にはほとんど差がなかったという。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城

 

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!

 甲賀郡中惣(ちゅうそう)
 甲賀は六角氏の傘下に属しながらも「惣」と呼ばれる独自の地域連合体を形成し、郡に関わる全ての案件を多数決によって決定する「合議制」によって運営されていたいう、この時期では全国的に見てもきわめて珍しい里である。

  「惣」には三種類あり、それぞれ「郡中惣」「地域連合惣」「同名中惣」と呼ばれていたが、各氏族はこのいずれにも属し、それぞれの大小の事案に応じた適切な「惣」の決定により足並みを揃えて行動したという。それぞれの「惣」は以下の通りである。

 ・郡中惣
 これは、五十三家の中から代表として十家を選出し、その合議による決定に従って郡全体の行動を起こしたとされるものである。家柄による身分差はなく、全ての家々は平等に扱われたという。

 ・地域連合惣
 これは二十一家をそれぞれ「柏木三家」「北山九家」「南山六家」「荘内三家」の四地区に分け、その下に地域ごとに残りの五十三家の各氏族が従い、それぞれの地域に関する案件を合議によって決定したとされるものである。

 ・同名中惣
 これは五十三家の各氏族ごとに代表者(同名奉行という)を選出し、本家・分家等同名の一族が参加して多数決によって氏族ごとの行動を決定したとされる。本家・分家の発言力にはほとんど差がなかったという。

  しかしこれらの惣も、次第にその機能は弱まっていった。一枚岩の団結を誇っていた甲賀衆といえども、もはや斜陽の六角氏を主に据えている限り、押し寄せる織田信長の侵攻をくい止める程の力はなかった。

  1563年10月、六角義治が重臣の後藤賢豊父子を殺害したことから世に言う「観音寺騒動」と呼ばれるお家騒動が起こり、六角氏はますます弱体化していく。そして1568年9月、足利義昭を擁して進撃してきた織田信長の前に家臣達の離反もあってひと支えもできず六角父子は甲賀へ逃れ、ここに近江六角氏は事実上滅亡した。

  承禎(義賢)・義治父子もしばらくの間はわずかに残った甲賀衆を使い、世上に名高い杉谷善住坊の信長狙撃未遂事件を起こすなど多少の抵抗はあったものの、やがて信長が安土に築城して覇権を確立するとともに近江から完全にその姿は消えた。


隠岐支城Ⅰ 近江国(甲賀)

2014年06月18日 | 平山城

  隠岐地区には佐治川南岸に隠岐支城Ⅰ~Ⅳ・打越城・砂坂城と城館が密集

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町隠岐99 map:http://yahoo.jp/HfWyAD

区 分:丘城

現 状:竹林、雑木林

遺 構:削平地、土塁

築城期:室町期

築城者:隠岐左近大夫

目標地:香蓮寺

訪城日:2014.6.17

お城の概要

 隠岐地区には佐治川南岸に隠岐支城Ⅰ~Ⅳ・打越城・砂坂城と城館が密集していて、これらはすべて隠岐氏の関連城館群。

その中で名称を見る限り、隠岐城が本城のように思えるが、隠岐城だけが佐治川北岸に単独で位置しているため防御性に乏しく、中心的な役割とは考えられない。

・同名中惣
 これは五十三家の各氏族ごとに代表者(同名奉行という)を選出し、本家・分家等同名の一族が参加して多数決によって氏族ごとの行動を決定したとされる。本家・分家の発言力にはほとんど差がなかったという。

「近江守護佐々木秀義五男佐々木五郎隠岐判官義清城跡。元弘年中義清十一世孫佐々木兵庫頭
清三再城跡。義清領地故隠岐村名付山下一円門之内云々。」
                               ー 城跡に立つ大岡寺石柱裏の碑文 ー

 

所在地:甲賀市甲賀町隠岐99 map:http://yahoo.jp/B4FLxs

 最高所の愛宕社 愛宕社の北・・(南側)街道側には土塁が残存。北側は開削宅地化で大きく改変され・・・。

駐車 石仏前(交差点ゴミ集積所):甲賀市甲賀町隠岐map:http://yahoo.jp/dYK5bA

歴 史

「近江守護佐々木秀義五男佐々木五郎隠岐判官義清城跡。元弘年中義清十一世孫佐々木兵庫頭清三再城跡。

  義清領地故隠岐村名付山下一円門之内云々。」
                               ー 城跡に立つ大岡寺石柱裏の碑文 ー

この地を本拠としていた隠岐氏の隠岐支城群の1つで、詳細は不明。

甲賀二十一家の1つ、甲賀五十三家の中でも六角氏より感状を貰うほど信頼の厚かった二十一家を指し、後の甲賀流忍術の中心となった家々である。

甲賀郡中惣(ちゅうそう)
 甲賀は六角氏の傘下に属しながらも「惣」と呼ばれる独自の地域連合体を形成し、郡に関わる全ての案件を多数決によって決定する「合議制」によって運営されていたいう、この時期では全国的に見てもきわめて珍しい里である。

・同名中惣
 これは五十三家の各氏族ごとに代表者(同名奉行という)を選出し、本家・分家等同名の一族が参加して多数決によって氏族ごとの行動を決定したとされる。本家・分家の発言力にはほとんど差がなかったという。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城

 

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!

 甲賀郡中惣(ちゅうそう)
 甲賀は六角氏の傘下に属しながらも「惣」と呼ばれる独自の地域連合体を形成し、郡に関わる全ての案件を多数決によって決定する「合議制」によって運営されていたいう、この時期では全国的に見てもきわめて珍しい里である。

  「惣」には三種類あり、それぞれ「郡中惣」「地域連合惣」「同名中惣」と呼ばれていたが、各氏族はこのいずれにも属し、それぞれの大小の事案に応じた適切な「惣」の決定により足並みを揃えて行動したという。それぞれの「惣」は以下の通りである。

 ・郡中惣
 これは、五十三家の中から代表として十家を選出し、その合議による決定に従って郡全体の行動を起こしたとされるものである。家柄による身分差はなく、全ての家々は平等に扱われたという。

 ・地域連合惣
 これは二十一家をそれぞれ「柏木三家」「北山九家」「南山六家」「荘内三家」の四地区に分け、その下に地域ごとに残りの五十三家の各氏族が従い、それぞれの地域に関する案件を合議によって決定したとされるものである。

 ・同名中惣
 これは五十三家の各氏族ごとに代表者(同名奉行という)を選出し、本家・分家等同名の一族が参加して多数決によって氏族ごとの行動を決定したとされる。本家・分家の発言力にはほとんど差がなかったという。

  しかしこれらの惣も、次第にその機能は弱まっていった。一枚岩の団結を誇っていた甲賀衆といえども、もはや斜陽の六角氏を主に据えている限り、押し寄せる織田信長の侵攻をくい止める程の力はなかった。

  1563年10月、六角義治が重臣の後藤賢豊父子を殺害したことから世に言う「観音寺騒動」と呼ばれるお家騒動が起こり、六角氏はますます弱体化していく。そして1568年9月、足利義昭を擁して進撃してきた織田信長の前に家臣達の離反もあってひと支えもできず六角父子は甲賀へ逃れ、ここに近江六角氏は事実上滅亡した。

  承禎(義賢)・義治父子もしばらくの間はわずかに残った甲賀衆を使い、世上に名高い杉谷善住坊の信長狙撃未遂事件を起こすなど多少の抵抗はあったものの、やがて信長が安土に築城して覇権を確立するとともに近江から完全にその姿は消えた。


隠岐支城Ⅱ 近江国(甲賀)

2014年06月18日 | 丘陵城

 隠岐地区には佐治川南岸に隠岐支城Ⅰ~Ⅳ・打越城・砂坂城と城館が密集

 

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町隠岐字佐坂 map:http://yahoo.jp/v_EBA5

区 分:丘城

現 状:竹藪

遺 構:削平地、土塁、堀切

築城期:室町期

築城者:隠岐左近大夫

目標地:法蔵寺

訪城日:2014.6.17

お城の概要

 隠岐地区には佐治川南岸に隠岐支城Ⅰ~Ⅳ・打越城・砂坂城と城館が密集していて、これらはすべて隠岐氏の関連城館群。

その中で名称を見る限り、隠岐城が本城のように思えるが、隠岐城だけが佐治川北岸に単独で位置しているため防御性に乏しく、中心的な役割とは考えられない。

「近江守護佐々木秀義五男佐々木五郎隠岐判官義清城跡。元弘年中義清十一世孫佐々木兵庫頭
清三再城跡。義清領地故隠岐村名付山下一円門之内云々。」
                               ー 城跡に立つ大岡寺石柱裏の碑文 ー

グランドの南側の山填が城址

歴 史

「近江守護佐々木秀義五男佐々木五郎隠岐判官義清城跡。元弘年中義清十一世孫佐々木兵庫頭清三再城跡。

  義清領地故隠岐村名付山下一円門之内云々。」
                               ー 城跡に立つ大岡寺石柱裏の碑文 ー

この地を本拠としていた隠岐氏の隠岐支城群の1つで、詳細は不明。

甲賀二十一家の1つ、甲賀五十三家の中でも六角氏より感状を貰うほど信頼の厚かった二十一家を指し、後の甲賀流忍術の中心となった家々である。

甲賀郡中惣(ちゅうそう)
 甲賀は六角氏の傘下に属しながらも「惣」と呼ばれる独自の地域連合体を形成し、郡に関わる全ての案件を多数決によって決定する「合議制」によって運営されていたいう、この時期では全国的に見てもきわめて珍しい里である。

・同名中惣
 これは五十三家の各氏族ごとに代表者(同名奉行という)を選出し、本家・分家等同名の一族が参加して多数決によって氏族ごとの行動を決定したとされる。本家・分家の発言力にはほとんど差がなかったという。

 グランド駐車場

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城

 

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!

 甲賀郡中惣(ちゅうそう)
 甲賀は六角氏の傘下に属しながらも「惣」と呼ばれる独自の地域連合体を形成し、郡に関わる全ての案件を多数決によって決定する「合議制」によって運営されていたいう、この時期では全国的に見てもきわめて珍しい里である。

  「惣」には三種類あり、それぞれ「郡中惣」「地域連合惣」「同名中惣」と呼ばれていたが、各氏族はこのいずれにも属し、それぞれの大小の事案に応じた適切な「惣」の決定により足並みを揃えて行動したという。それぞれの「惣」は以下の通りである。

 ・郡中惣
 これは、五十三家の中から代表として十家を選出し、その合議による決定に従って郡全体の行動を起こしたとされるものである。家柄による身分差はなく、全ての家々は平等に扱われたという。

 ・地域連合惣
 これは二十一家をそれぞれ「柏木三家」「北山九家」「南山六家」「荘内三家」の四地区に分け、その下に地域ごとに残りの五十三家の各氏族が従い、それぞれの地域に関する案件を合議によって決定したとされるものである。

 ・同名中惣
 これは五十三家の各氏族ごとに代表者(同名奉行という)を選出し、本家・分家等同名の一族が参加して多数決によって氏族ごとの行動を決定したとされる。本家・分家の発言力にはほとんど差がなかったという。

  しかしこれらの惣も、次第にその機能は弱まっていった。一枚岩の団結を誇っていた甲賀衆といえども、もはや斜陽の六角氏を主に据えている限り、押し寄せる織田信長の侵攻をくい止める程の力はなかった。

  1563年10月、六角義治が重臣の後藤賢豊父子を殺害したことから世に言う「観音寺騒動」と呼ばれるお家騒動が起こり、六角氏はますます弱体化していく。そして1568年9月、足利義昭を擁して進撃してきた織田信長の前に家臣達の離反もあってひと支えもできず六角父子は甲賀へ逃れ、ここに近江六角氏は事実上滅亡した。

  承禎(義賢)・義治父子もしばらくの間はわずかに残った甲賀衆を使い、世上に名高い杉谷善住坊の信長狙撃未遂事件を起こすなど多少の抵抗はあったものの、やがて信長が安土に築城して覇権を確立するとともに近江から完全にその姿は消えた。


隠岐支城Ⅲ 近江国(甲賀)

2014年06月18日 | 丘陵城

 隠岐地区には佐治川南岸に隠岐支城Ⅰ~Ⅳ・打越城・砂坂城と城館が密集

  隠岐支城2の背後(グランド)

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町隠岐 map:http://yahoo.jp/SuBm0P

区 分:丘城

現 状:春日神社

遺 構:削平地(曲郭跡カ?後世の開削カ?)、土塁、

築城期:室町期

築城者:隠岐左近大夫

訪城日:2014.6.17

お城の概要

 隠岐地区には佐治川南岸に隠岐支城Ⅰ~Ⅳ・打越城・砂坂城と城館が密集していて、これらはすべて隠岐氏の関連城館群。

その中で名称を見る限り、隠岐城が本城のように思えるが、隠岐城だけが佐治川北岸に単独で位置しているため防御性に乏しく、中心的な役割とは考えられない。

「近江守護佐々木秀義五男佐々木五郎隠岐判官義清城跡。元弘年中義清十一世孫佐々木兵庫頭
清三再城跡。義清領地故隠岐村名付山下一円門之内云々。」
                               ー 城跡に立つ大岡寺石柱裏の碑文 ー

春日神社から、隠岐城を谷川挟んで遠望

歴 史

「近江守護佐々木秀義五男佐々木五郎隠岐判官義清城跡。元弘年中義清十一世孫佐々木兵庫頭清三再城跡。

  義清領地故隠岐村名付山下一円門之内云々。」
                               ー 城跡に立つ大岡寺石柱裏の碑文 ー

この地を本拠としていた隠岐氏の隠岐支城群の1つで、詳細は不明。

甲賀二十一家の1つ、甲賀五十三家の中でも六角氏より感状を貰うほど信頼の厚かった二十一家を指し、後の甲賀流忍術の中心となった家々である。

甲賀郡中惣(ちゅうそう)
 甲賀は六角氏の傘下に属しながらも「惣」と呼ばれる独自の地域連合体を形成し、郡に関わる全ての案件を多数決によって決定する「合議制」によって運営されていたいう、この時期では全国的に見てもきわめて珍しい里である。

・同名中惣
 これは五十三家の各氏族ごとに代表者(同名奉行という)を選出し、本家・分家等同名の一族が参加して多数決によって氏族ごとの行動を決定したとされる。本家・分家の発言力にはほとんど差がなかったという。

 Ⅲの郭・グランド駐車場

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城

 

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!

 甲賀郡中惣(ちゅうそう)
 甲賀は六角氏の傘下に属しながらも「惣」と呼ばれる独自の地域連合体を形成し、郡に関わる全ての案件を多数決によって決定する「合議制」によって運営されていたいう、この時期では全国的に見てもきわめて珍しい里である。

  「惣」には三種類あり、それぞれ「郡中惣」「地域連合惣」「同名中惣」と呼ばれていたが、各氏族はこのいずれにも属し、それぞれの大小の事案に応じた適切な「惣」の決定により足並みを揃えて行動したという。それぞれの「惣」は以下の通りである。

 ・郡中惣
 これは、五十三家の中から代表として十家を選出し、その合議による決定に従って郡全体の行動を起こしたとされるものである。家柄による身分差はなく、全ての家々は平等に扱われたという。

 ・地域連合惣
 これは二十一家をそれぞれ「柏木三家」「北山九家」「南山六家」「荘内三家」の四地区に分け、その下に地域ごとに残りの五十三家の各氏族が従い、それぞれの地域に関する案件を合議によって決定したとされるものである。

 ・同名中惣
 これは五十三家の各氏族ごとに代表者(同名奉行という)を選出し、本家・分家等同名の一族が参加して多数決によって氏族ごとの行動を決定したとされる。本家・分家の発言力にはほとんど差がなかったという。

  しかしこれらの惣も、次第にその機能は弱まっていった。一枚岩の団結を誇っていた甲賀衆といえども、もはや斜陽の六角氏を主に据えている限り、押し寄せる織田信長の侵攻をくい止める程の力はなかった。

  1563年10月、六角義治が重臣の後藤賢豊父子を殺害したことから世に言う「観音寺騒動」と呼ばれるお家騒動が起こり、六角氏はますます弱体化していく。そして1568年9月、足利義昭を擁して進撃してきた織田信長の前に家臣達の離反もあってひと支えもできず六角父子は甲賀へ逃れ、ここに近江六角氏は事実上滅亡した。

  承禎(義賢)・義治父子もしばらくの間はわずかに残った甲賀衆を使い、世上に名高い杉谷善住坊の信長狙撃未遂事件を起こすなど多少の抵抗はあったものの、やがて信長が安土に築城して覇権を確立するとともに近江から完全にその姿は消えた。


砂坂城 近江国(甲賀)

2014年06月17日 | 平城

室町時代の城跡

砂坂城の主郭に法蔵院

 隠岐地区には佐治川南岸に隠岐支城Ⅰ~Ⅳ・打越城・砂坂城と城館が密集

 

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町隠岐字佐坂 map:http://yahoo.jp/Rg4hIa

区 分:丘城

現 状:竹藪

遺 構:削平地、土塁

築城期:室町期

築城者:隠岐左近大夫

目標地:法蔵寺

訪城日:2014.6.17

お城の概要

 隠岐地区には佐治川南岸に隠岐支城Ⅰ~Ⅳ・打越城・砂坂城と城館が密集していて、これらはすべて隠岐氏の関連城館群。

その中で名称を見る限り、隠岐城が本城のように思えるが、隠岐城だけが佐治川北岸に単独で位置しているため防御性に乏しく、中心的な役割とは考えられない。

「近江守護佐々木秀義五男佐々木五郎隠岐判官義清城跡。元弘年中義清十一世孫佐々木兵庫頭
清三再城跡。義清領地故隠岐村名付山下一円門之内云々。」
                               ー 城跡に立つ大岡寺石柱裏の碑文 ー

 

Ⅱの郭

 

 

Ⅲの郭

主郭に法蔵院

歴 史

「近江守護佐々木秀義五男佐々木五郎隠岐判官義清城跡。元弘年中義清十一世孫佐々木兵庫頭清三再城跡。

  義清領地故隠岐村名付山下一円門之内云々。」
                               ー 城跡に立つ大岡寺石柱裏の碑文 ー

この地を本拠としていた隠岐氏の隠岐支城群の1つで、詳細は不明。

甲賀二十一家の1つ、甲賀五十三家の中でも六角氏より感状を貰うほど信頼の厚かった二十一家を指し、後の甲賀流忍術の中心となった家々である。

甲賀郡中惣(ちゅうそう)
 甲賀は六角氏の傘下に属しながらも「惣」と呼ばれる独自の地域連合体を形成し、郡に関わる全ての案件を多数決によって決定する「合議制」によって運営されていたいう、この時期では全国的に見てもきわめて珍しい里である。

・同名中惣
 これは五十三家の各氏族ごとに代表者(同名奉行という)を選出し、本家・分家等同名の一族が参加して多数決によって氏族ごとの行動を決定したとされる。本家・分家の発言力にはほとんど差がなかったという。

 Ⅲの郭・グランド駐車場

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城

 

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!

 甲賀郡中惣(ちゅうそう)
 甲賀は六角氏の傘下に属しながらも「惣」と呼ばれる独自の地域連合体を形成し、郡に関わる全ての案件を多数決によって決定する「合議制」によって運営されていたいう、この時期では全国的に見てもきわめて珍しい里である。

  「惣」には三種類あり、それぞれ「郡中惣」「地域連合惣」「同名中惣」と呼ばれていたが、各氏族はこのいずれにも属し、それぞれの大小の事案に応じた適切な「惣」の決定により足並みを揃えて行動したという。それぞれの「惣」は以下の通りである。

 ・郡中惣
 これは、五十三家の中から代表として十家を選出し、その合議による決定に従って郡全体の行動を起こしたとされるものである。家柄による身分差はなく、全ての家々は平等に扱われたという。

 ・地域連合惣
 これは二十一家をそれぞれ「柏木三家」「北山九家」「南山六家」「荘内三家」の四地区に分け、その下に地域ごとに残りの五十三家の各氏族が従い、それぞれの地域に関する案件を合議によって決定したとされるものである。

 ・同名中惣
 これは五十三家の各氏族ごとに代表者(同名奉行という)を選出し、本家・分家等同名の一族が参加して多数決によって氏族ごとの行動を決定したとされる。本家・分家の発言力にはほとんど差がなかったという。

  しかしこれらの惣も、次第にその機能は弱まっていった。一枚岩の団結を誇っていた甲賀衆といえども、もはや斜陽の六角氏を主に据えている限り、押し寄せる織田信長の侵攻をくい止める程の力はなかった。

  1563年10月、六角義治が重臣の後藤賢豊父子を殺害したことから世に言う「観音寺騒動」と呼ばれるお家騒動が起こり、六角氏はますます弱体化していく。そして1568年9月、足利義昭を擁して進撃してきた織田信長の前に家臣達の離反もあってひと支えもできず六角父子は甲賀へ逃れ、ここに近江六角氏は事実上滅亡した。

  承禎(義賢)・義治父子もしばらくの間はわずかに残った甲賀衆を使い、世上に名高い杉谷善住坊の信長狙撃未遂事件を起こすなど多少の抵抗はあったものの、やがて信長が安土に築城して覇権を確立するとともに近江から完全にその姿は消えた。

 


高木館 近江国(野洲)

2014年06月16日 | 居館

県道沿いの堀痕 不動堂は道路改修で野洲川堤防側に

お城のデータ

所在地:野洲市高木町 (旧野洲郡野洲町高木)  map:http://yahoo.jp/PYHf4c

目標地:高木バス停・不動堂と石仏群

形 式:平城

比 高:0m

現 状:竹林・宅地

遺 構:曲郭・土塁・堀痕

築城期:

築城者: 氏

訪城日:2014.6.15

お城の概要

道路脇の竹薮に低い土塁と堀の跡の窪みが確認でき、竹薮の中には西側より入れます。土塁も中から確認出来ます。

日野川を堀に防御態勢の、居館だったのしょうが、天井川だったのでは?

  城域~県道への階段 

 高木館の遠望(西より)  

高木館(竹藪内)、土塁・曲郭

  一部整備竹藪内への入り口(内部より) 竹藪内への入り口竹藪内への入り口 

歴 史

詳細不明

高木集落内の堀痕

  目標展:バス停・不動堂と石仏群

県道整備で、日野川堤防側(反対側に移動された不動堂と石仏群)

 篠原商事のトラック駐車場の、向かいお竹藪がお城です。

 

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、

 

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小比江城 近江国(中主)

2014年06月16日 | 平山城

お城の概要

所在地:野洲市小比江  (旧中主町小比江)  map:http://yahoo.jp/tfLmcK

現 状:畑地ほか

区 分:平城

遺 構:墓碑・堀跡

築城期:

築城者:

目標地:小比江バス停

訪城日:2014.6.15

お城の概要

調査中

 

歴 史

調査中

 

 

歴 史

江戸期の上田家の知行地

初代・重秀が寛永十二年に賜った知行所は、近江国野洲郡内八ヶ村でした。現在、守山市域に含まれる森川原、服部、立花、小浜、中主町に含まれる木部、比江、小比江、吉川の各村で、そのうち、木部、小比江は他の領主と相給でした。

高級旗本上田家5000石。 初代・重秀が寛永十二年に賜った知行所は、近江国野洲郡内八ヶ村でした。

 

現在、守山市域に含まれる森川原、服部、立花、小浜、中主町に含まれる木部、比江、小比江、吉川の各村で、そのうち、木部、小比江は他の領主と相給でした。この辺りは、大名領や旗本の知行地が錯綜していた土地でしたが、拝領高が五千石、三千石、五百石というように整数で表されているのが特徴でした。

 

 別表の上田氏の知行所でも、斗、升、合まで細かい数を組み合わせて整数に仕上げていることに驚かされます。 また、幕末にはこの辺りの開発が進んで、表高に比べ実高が増加していました。上田氏場合でも天保二年の時点で、実高が五千四百四十石ほどになっており、四百四拾石の剰余がありました。軍役、助郷役をはじめ土木工事のに人夫などは、表高によって負担することになっていたので、領主、村人にとつても表高をずっと据え置くことは有利でした。そたのめ、この辺りでは新規開発された田畑を帳簿外としておく例が多くありました。

 

 

知行地

寛永高帳

元禄郷張

天保郷帳

旧高旧領帳

近江国野洲郡

森川原

555.213

555.213

555.213

555.213

服部

825.753

814.000

935.785

935.785

立花

369.328

369.328

370.324

370.324

小浜

586.250

586.250

587.470

587.470

木部の内

703.922

703.922

703.922

703.922

比江

1061.740

1061.740

1061.740

1127.346

小比江の内

164.154

182.340

182.340

182.340

吉川

733.640

744.457

1043.000

 

 
 
 

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、菩提寺歴史散歩

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権吉屋敷 近江国(中主) 

2014年06月16日 | 陣屋

 

お城の概要

所在地:野洲市比江   (旧中主町)

現 状:比江自治会館・集落

遺 構:堀痕(集落水路)、土塁痕

区 分:

訪城日:2014.6.15

 

お城の概要

 

調査中

 

 

 

歴 史

 

調査中

 

  

集落の西部の土塁上に祠あり (物見櫓カ?)

     古い石積も、削岩です。

比江正蓮寺(真宗木部派) 下積石垣   

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

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