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城郭探訪

yamaziro

比留田城 近江国(中主)

2014年06月15日 | 平山城

読みにくい字で「葭地城址」と刻まれた碑 

お城のデータ

所在地:野洲市比留田

別 名:葭地城

区 分平城

現 状:神社・宅地

遺 構:土塁・石碑

訪城日:2014.6.15

 神社周辺(堀・土塁痕跡)

お城の概要

留田城は、旧中主町で城址碑の建つ唯一の城。

比留田の集落の南端のグランゴドの東側に田地のを挟んで小さな藪地が目につく場所がある。

現在は城之神社となっているこの地に、読みにくい字で「葭地城址」と刻まれた碑が建っている。堀跡と思われる水路と土塁が残る。

神社の周囲に水路が堀跡と土塁跡が残る・。神社に「葭地城址」と刻まれた石碑がある。

歴 史

不明

          

城神社の北50mの所の竹林に土塁痕を残している、城域の境か

   

グランドの北側空き地は1mの微高地

比留田城(城神社)遠景・・・南西から

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

 

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


立花城 近江国(守山)

2014年06月15日 | 居城

  

お城の概要

所在地:守山市立田町(旧立花) map:http://yahoo.jp/SKT4l7

現 状:宅地

区 分:平城

遺 構:堀痕、北東部誓願寺境内に土塁

築城期:

築城者:

目標地:西寶寺(田中宅)、誓願寺http://yahoo.jp/28IbRn

訪城日:2014.6.13

 立花城は立田町の東方、旧立花村一帯にあったとされる。現在の立田町は立花村と戸田村が合併して生まれた町名である。

現在は宅地整備されすっきりした町並みになっているが、水路は城郭の堀痕で複雑に流れている

整備前には土塁が残っていたという。

北東端に立つ西寶寺・誓願寺付近に薄い土塁跡のような竹薮が残っている。

 

歴 史

詳細は不明。

江戸期は服部陣屋にあった旗本上田氏の所領地であった。

 上田氏の出自は、甲斐武田氏の支流盛義が信濃上田郷に住み、上田氏を名乗ったのが始まりとされる。

戦国期には丹羽長秀の家臣となり、長秀が没した重安(宗箇)の時に豊臣秀吉に仕え、越前国にて1万石を給わった。関ヶ原合戦は西軍に与したため領地を没収されるが、紀伊和歌山城主浅野幸長に招かれ、浅野氏が安芸広島移封後は亀居城17000石を与えられた。

上田重安の嫡男重秀は、将軍家光に召し出され、寛永12年(1635)近江野洲郡森川原・服部・立花・小浜・木部・比江・小比江・吉川の8ヶ村にて5000石の旗本に取り立てられた。次男の重政は浅野家に残り、その子孫は安芸浅野氏の家老職を世襲して明治維新を迎えた。

旗本上田氏は、のちに上地令により吉川村の替わりに武蔵国高麗郡に分地を拝領した。
以後旗本上田家は、江戸幕府の西丸御留守居・大目付・御留守居・御小性組番頭などを歴任し、高級旗本として10代続いて明治維新を迎えた。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

 

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


服部陣屋 近江国(守山)

2014年06月14日 | 陣屋

壊れかけの移築門までは訪城者の歩いた道が。(門前に自転車・リヤカーが)

お城の概要

所在地:守山市服部町    map:http://yahoo.jp/g6gCtP

区 分:陣屋

現 状:空家敷、東側は竹林

遺 構:土塁、館跡、堀跡、移築門

築城期:江戸期【寛永12年(1635)】

築城者:上田重秀

城 主:上田氏

目標地:法泉寺、守山市埋蔵物センターの南約500m

訪城日;2014.6.13

服部陣屋は、高級旗本上田家5000石の采地陣屋である。

 服部の地は野洲川東岸に位置し、元々は野洲川本流と支流に挟まれた中洲であったが、近年支流は埋め立てられた。

服部町は、大きくは津田集落と服部集落に分かれていて、陣屋は服部集落あった。この集落全体が陣屋地であったと思われ、現在も三方を水路に囲まれた平方形をとどめている。遺構は土塁がらしきものは見当たらないが、外周の水路は堀跡、津田集落内に壊れかけた移築門が残っている。

林の中に建物は見えるが無住で荒れ放題で

  堀痕が周囲に残るが、宅地化で異形化している。

東側に土塁が残るが、土塁の内部は竹林(放置林)で確認出来ない

        

北東から遠景(林部に建物、竹林部に土塁が残る)南から南から遠景

服部陣屋は、高級旗本上田家5000石の采地陣屋である。

 初代・重秀が寛永十二年に賜った知行所は、近江国野洲郡内八ヶ村でした。

現在、守山市域に含まれる森川原、服部、立花、小浜、中主町に含まれる木部、比江、小比江、吉川の各村で、そのうち、木部、小比江は他の領主と相給でした。この辺りは、大名領や旗本の知行地が錯綜していた土地でしたが、拝領高が五千石、三千石、五百石というように整数で表されているのが特徴でした。

 別表の上田氏の知行所でも、斗、升、合まで細かい数を組み合わせて整数に仕上げていることに驚かされます。 また、幕末にはこの辺りの開発が進んで、表高に比べ実高が増加していました。上田氏場合でも天保二年の時点で、実高が五千四百四十石ほどになっており、四百四拾石の剰余がありました。軍役、助郷役をはじめ土木工事のに人夫などは、表高によって負担することになっていたので、領主、村人にとつても表高をずっと据え置くことは有利でした。そたのめ、この辺りでは新規開発された田畑を帳簿外としておく例が多くありました。

 

知行地

寛永高帳

元禄郷張

天保郷帳

旧高旧領帳

近江国野洲郡

森川原

555.213

555.213

555.213

555.213

服部

825.753

814.000

935.785

935.785

立花

369.328

369.328

370.324

370.324

小浜

586.250

586.250

587.470

587.470

木部の内

703.922

703.922

703.922

703.922

比江

1061.740

1061.740

1061.740

1127.346

小比江の内

164.154

182.340

182.340

182.340

吉川

733.640

744.457

1043.000

 服部の地は野洲川東岸に位置し、元々は野洲川本流と支流に挟まれた中洲であったが、近年支流は埋め立てられた。

服部町は、大きくは津田集落と服部集落に分かれていて、陣屋は服部集落あった。この集落全体が陣屋地であったと思われ、現在も三方を水路に囲まれた平方形をとどめている。遺構は土塁がらしきものは見当たらないが、外周の水路は堀跡、津田集落内に壊れかけた移築門が残っている。

 上田氏の場合も近江国野洲郡服部村に陣屋をおき、江戸から派遣した家来と現地採用の者で、その統治を行っていました。陣屋跡地は畑、民家、雑木林、産土神社の境内地などになっていました。そこには手水鉢、鏡石などが残されており、往事を偲ばせてくれま す。 また、近くにある法泉寺境内には上田家に仕え、この地で亡くなった家来の墓が数基残されています。

上田家服部陣屋跡地(2000年頃) 

歴 史

 上田氏の出自は、甲斐武田氏の支流盛義が信濃上田郷に住み、上田氏を名乗ったのが始まりとされる。

戦国期には丹羽長秀の家臣となり、長秀が没した重安(宗箇)の時に豊臣秀吉に仕え、越前国にて1万石を給わった。関ヶ原合戦は西軍に与したため領地を没収されるが、紀伊和歌山城主浅野幸長に招かれ、浅野氏が安芸広島移封後は亀居城17000石を与えられた。

上田重安の嫡男重秀は、将軍家光に召し出され、寛永12年(1635)近江野洲郡森川原・服部・立花・小浜・木部・比江・小比江・吉川の8ヶ村にて5000石の旗本に取り立てられた。次男の重政は浅野家に残り、その子孫は安芸浅野氏の家老職を世襲して明治維新を迎えた。

旗本上田氏は、のちに上地令により吉川村の替わりに武蔵国高麗郡に分地を拝領した。
以後旗本上田家は、江戸幕府の西丸御留守居・大目付・御留守居・御小性組番頭などを歴任し、高級旗本として10代続いて明治維新を迎えた

法泉寺駐車場(門前) 正面の林が「服部陣屋」

 法泉寺  

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

 

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


幸津川館 近江国(守山)

2014年06月14日 | 居城

  

城のデータ

別 名:日向館・幸津川城

所在地:守山市幸津川町 map:http://yahoo.jp/IGkUiq

現 状:幸津川会館・下新川神社

遺 構:堀跡・城址碑

区 分:居館

築城期:江戸期

築城者:日向氏

城 主:日向半兵衛

訪城日:2014.6.13

お城の概要

幸津川館は、野洲川下流西岸の幸津川集落内にあった。かつては野洲川本流と南流に挟まれた中洲に位置し、集落内に環濠を巡らせ湊町として発展した。

  城館は、集落のほぼ中央に鎮座する下新川神社の南西、現在の神社鳥居や幸津川会館付近に所在したとされる。街道(R477)に面し、往時は四方を水路に囲まれていたという。
今も北辺と東辺に堀跡の水路が残り、幸津川会館脇に城址碑が建っている。城館前には船着場跡の石碑も建っていた。

また集落内に「又兵衛屋敷」という石碑が建ち、城主と関連があるのかも知れないが、教委に尋ねても判らなかった。下新川神社の祭りで神輿の最終地点の目印に建てられた石碑だという。

 館の庭園カ?

歴 史

幸津川館は、江戸時代の代官日向半兵衛の居館であったとされる。

 幸津川城は、現在の下新川神社境内一帯にあったとされている。江戸時代の延宝7年の幸津川検地では、幅1間の堀に囲まれた屋敷で表記され、日向館と呼ばれ、代官日向半兵衛の館。

 

 又兵衛屋敷跡碑 県道477線沿いの長屋門

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

      本日も訪問、ありがとうございました。感謝!! 


三上城-出城 近江国(野洲)

2014年06月13日 | 平山城

 三上城出城と北側の水道施設

所在地:野洲市小篠原   map:http://yahoo.jp/d6Uh9g

現 状:山林

築城期:室町期(永享年間 1429~40)

築城者:三上政実

初城主:三上氏

区 分:山城

遺 構:石垣、石列、竪堀、土塁

目 標:東側から野洲水道タンク(茶色)、山麓の天理教琵千代文教会、

駐車場:登り口に墓地(車を駐車5台可)

訪城日:2014.6.14

お城の概要

三上城北西部の山腹(妙光寺山の東側)に三上出城があります。主城より、街道に近く監視用であった。妙光寺山腹の水道タンクの南東山中。

 三上城出城は越前塚古墳の東側、妙光寺山の北の山腹に位置しており、曲輪,竪堀等の遺構は確認できるが、曲輪は削平状態が明瞭・完全で、堅堀などの遺構も石列、土塁、竪堀も明瞭に残存、城郭部分が綺麗に下草整備されている。

中仙道の東から監視のため築城・役割に。また戦いに一時的に使用されたか。

歴 史

永享年間(1429~40年)に三上政実が築城したとされます、その後三上氏の代々の居城となり、観音寺城の佐々木六角氏に従いました。

(三上氏(みかみし)は日本の氏族のひとつで近江国野洲郡三上郷を本拠地とする一族とされる。)

中世の武家。近江国野洲郡三上を本拠とした。代々,近江の守護、戦国大名六角氏の有力家臣で,南北朝期には玄妙が奉行人として活躍した。室町期後半から戦国期の永正年間(1504‐21)ごろまで六角氏領国は守護代伊庭(いば)氏が支えていたが、伊庭氏が二度の反乱で滅びると、六角氏は奉行人体制を確立し、領国支配は奉行人を中心に行われた。越後守頼安は明応~享禄年間(1492‐1532)に多数の奉行人連署奉書にその名が見え、最有力の重臣の一人であった。

 

吾妻鏡

 吾妻鏡 文治元年(西暦1185年)10月9日の条には、源頼朝が命じるも鎌倉御家人の誰もが固辞した源義経討伐令を受けた土佐昌俊の討伐軍に列した弟三上家季の名が見える。三上家季は近江の武士と推定されている

三上城出城は三上氏の築城とされ、三上城の出城と考えられるが、詳細不明。

野洲水道タンクの鉄扉は施錠。鉄扉の東側の獣害フェンスを乗り越え、登城山上目掛けて直登城域は綺麗に下草を刈取りされている頂部の石列・・・郭跡

北側は中仙道だが、雑木で隙間から国道8号線見える。

東側は、城道で自然石と石列を組み合し、また竪堀の明瞭である

駐車は、ゲート周辺、墓地駐車場に。

墓地正面に妙高山(三上山城=詰城)

墓地の西側が城道か

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

      本日の訪問、ありがとうございました。感謝!!


守山城(守山陣所) 近江国(守山)

2014年06月13日 | 陣屋

江戸期の中山道守山宿、かつてはこのお城の城下町守山。

城郭の概要

 守山城は砦を持つ陣屋と考えられ、現在の大光寺と守山幼稚園から金森川にかけて、昭和30年代(1955)頃まで、土塁や竹藪、深い掘割がもこっていたが、今は不詳。(守山市志-地理論より)

所在地:滋賀県守山市守山1丁目 map:http://yahoo.jp/iHgjnZ

現 状:大光寺・守善寺・守山幼稚園・集落

遺 構:大光寺の石垣、内堀・外堀(用水路)

区 分:平城

城 域:5500坪

築城者:宇野一元

築城期:応永8年(1401)

目 標:大光寺

城 主:佐々木の一族種村道成、最後城主稲葉一鉄

訪城日:2014.6.14

 

 守山城は、現在の大光寺と守山幼稚園から金森川にかけての一帯に築かれていた。 城の遺構は何も残っていないが、城域は周囲より一段高くなっていて、昭和の中頃まで土塁跡や堀跡が残っていたとか。

  守山城は、現在の守山1丁目の大光寺・守膳寺・守山幼稚園とその東方集落一帯にあったとされている。ここ一帯は東方から流れてきた金森川が、大きく南方に弧を描き守膳寺西方へ抜け、城域の北側以外三方を囲むように流れている。
昭和40年以前までは付近に土塁や掘割が残っていたというが、現在は市街地化し遺構は確認できなかった。

 守山城という城名は全国各所にあり、尾張・越中・陸奥・伊豆・肥前・肥後などにも確認できる。
    (余談だが、大光寺は第75代首相宇野宗佑氏の墓がある)

歴 史

守山城は、応永8年(1401)に宇野一元によって築かれた。宇野氏は承久の乱(1221)以降栗太郡関津城を本拠として草津・守山地域に勢力を誇っていた。

 やがて六角氏の台頭により、一族の主流で神崎郡種村城主種村氏が城主となっていたが、永禄11年(1568)種村道成の時、織田信長勢の木下藤吉郎・池田信輝によって攻められ落城した。

 織田信長は近江平定後、京と岐阜との通路確保のため守山城を修築したと考えられる陣所を築き、美濃曽根城主稲葉一鉄を守将とした。この時、勝部城に稲葉貞通、浮気城に佐久間信盛が居城したという。 

 鐘楼の下石垣は遺構! 門前の石垣は、算木積みで整然と積んであり笑い積が三ヶ所も、見事でした。

大光寺・・・西側より

大光寺は第75代内閣総理大臣の宇野宗佑元首相の墓所にもなっている寺院。

守山城ですが、日本城郭大系でも軽くしか触れられておらず、天文年間(1532~1555年)に近江で勢力を張っていた佐々木六角氏が築城したとされ、永禄10(1567)年頃に稲葉右京貞通が守備をしていた頃に滅んだとされています。

時代的に、恐らく翌年の織田信長の上洛の際に攻撃されたものだと思いますが、この稲葉右京貞通は信長に仕え本能寺まで一緒にいたとされる人物のはずですが、いかがなんでしょうか・・・

恐らくは信長の命で、貞通が守山城を攻撃したとの誤記、もしくは説明不足だとは思いますが。

元亀元(1570)年に信長が本願寺衆徒と対立すると、勝部城、浮気(ふけ)城とともに信長が奉行を配置したと「金森日記抜」に記されているとのことです。

  現在は城の遺構は残されておらず寺院内も軽く見回しましたが、石碑、解説板はおろか、由緒書きのようなものも見つからず、本当に城跡だったのか。

 この守山駅西側は近代的に開発も進み、地形も変わっているが、現在は完全な平地。地図などを見れば水路なども多いので、往時は防御で強化されていた。

周辺に城跡が多い一帯ですので、それらと連携しあうことで軍事的な治安を維持していた。

中堀

中堀

中仙道道標

   

外堀

 

 


岩坂屋敷 近江国(甲賀・水口)

2014年06月09日 | 館跡

岩坂屋敷は、杣川南西の丘陵地に営まれる岩坂集落内に存在したとされる。

元禄8年(1695)に作成された絵図によると、約60m四方に土塁が描かれている。

現在は宅地化によって全く遺構を確認することができないが、南南東見出し画像の撮影位置付近に虎口が開口していた。

住所 :甲賀市水口町岩坂字屋敷  map:http://yahoo.jp/DS6vqa

現在の状態 :集落・田地

遺構 :なし

形式 :居館

築城者 :山中岩坂氏

築城期:室町期

訪城日:2014.3.14。2014.4.14

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)

本日も訪問、ありがとうございました


井口城 近江国(野洲)

2014年06月09日 | 居城

 

お城の概要

所在地:野洲市井口町(旧中主町井口)

現状:宅地・田畑

遺 構:堀跡カ(用水路)

区 分:平城

城主:井口氏

 

井口集落の北東部に、三方を水路に囲まれた田畑の部分が、井口常之丞の屋敷跡とされる。現在、城遺構はない

 

歴 史 

滋賀県中世城郭分布調査 3 旧野洲・栗太郡の城

調査資料に掲載されています。奈良~江戸時代の集落跡です。

 路上駐車


地頭山(ぢどうやま)城 近江国(米原・三吉)

2014年06月09日 | 戦国山城

 中仙道絵図の「地頭山城」

今回は、番場宿(番場バス停)から、地頭山城の南側から(大手は東側、三吉・日吉神社裏から)直登した!

お城の概要

別 名:鎌刃表の城

所在地:米原市三吉城・寺倉町    (旧坂田郡米原町・近江町) map:http://yahoo.jp/F1IjmT

現 状:山林

区 分:山城

遺 構:曲輪・土塁・堀切・竪堀

築城期:南北朝期カ

築城者:浅井氏ヵ

城 主:堀 秀村 (三吉の門野城の詰め城カ?)

標 高:249m 比高差:130m

面 積 : -

戦 い:天文22年(1553) 六角義賢VS 浅井久政

訪城日:2014.6.4

    

炭窯跡カ

熊の爪跡  

 

約20分ほども登ると、10m×10m程度の曲輪跡が二つ、10m×15m程の曲輪跡が階段状に続く。

 主曲輪部は東西40m、南北15~20mほどの広さがある。周囲に土塁はないが、50~70cmの高さに土壇幾つかあり、郭・櫓跡カ。

 主曲輪の西端に鉄塔があり、ここを起点に北へ尾根が続く。この尾根にも約30m×10m程度の曲輪跡が認められる。この曲輪跡の手前(南側)と北側に堀切があり、なだらかな尾根の防御をしている。

歴 史

 

 天文22年(1553)地頭山合戦で敗れた浅井氏は六角氏に和議を乞い、それ以後、六角氏に対して服属的な立場をとることとなり、浅井久政の嫡男猿夜叉(後の長政)に六角義賢の"賢"をとって賢政と名乗らせられ、六角氏の家臣平井加賀守定武の娘登代を妻に迎えさせられることになる。

 標高249mの地頭山山頂(鉄塔下)からは、東に中仙山道(樹木で見えないが)、西は太尾山城、中山道、菖蒲嶽城・番場城・鎌刃城を、北は天の川を隔てて箕浦街道・顔戸山砦を望む要衝の地、「鎌刃表の城」とも云い、後には堀氏が居城となる。

                     狼煙リレーの備品                 

地頭山城への登り口は幾つかあるようだが、三吉地区の日吉神社本堂裏手から登る。この道は山頂から延びる東尾根の急斜面を直登する。 道筋には、関西電力が打ち込んだ頭の青い杭が一定間隔で山頂まで続いているので目印になる。

  

地頭山城(遠景)南東高速道路下より・・・オレンジの線は右より登城・左へ下城!

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』 、淡海の城

 本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


小浜(こはま)城 近江国(守山)

2014年06月08日 | 居城

 

お城の概要

別 名:進藤屋敷

所在地:守山市小浜町

現 状:小浜集落センター・集落

遺 構:石垣・堀跡

区 分:平城

築城者:進藤山城守貞治

築城期:

城 主:進藤賢盛

集落外周水路

小浜城は、野洲川下流東岸の小浜集落中央付近に築かれていた。小浜地区はかつて野洲川の本流と支流(現在消滅した北流)に挟まれた三角州に位置し、野洲川から琵琶湖へ至る湊が発達していた。これは木浜(このはま)湊に次ぐ要津であった。

かつては集落一帯に水路が取り巻き、縦横にきっちり地割りされた環濠集落だった。集落外周ラインには今も水路がめぐる。

 残存石垣遺構が、集落センターと消防用水槽の台座(下方部分に残存)

集落中央北側にある称名寺門前から南方にかけての路地は、かつて水路だった古写真が残っている。

  また現在集落センターとなっている辺りに城主屋敷があったとされ、水路に面して築かれていた石垣が、集落センターと消防用水槽の下方部分に残存している。

 城主進藤氏は木浜・小浜の要津を領したものの、六角氏の重臣として観音寺城内に上屋敷を構えていたので、小浜には小ぶりな陣屋程度の居館しかなかったと考えられている。

称名寺駐車場     

殿屋敷の向かい「称名寺」

歴 史

 小浜城は江南守護六角氏の重臣で木浜城主進藤氏の支城(下屋敷)であった。

 築城年代は定かではないが、戦国中期に進藤貞治によって築かれた。

貞治・賢盛父子は、後藤氏とともに「六角氏の両藤」と呼ばれて重用された

 また六角義賢の六宿老として、三雲成持・蒲生賢秀・平井定武・後藤秀勝・目賀田綱清とともに進藤貞治の名が挙がり、観音寺城でも一際大きな上屋敷を構えていた。

  進藤氏は六角家臣として、将軍や有力守護大名たちとの外交役で多くの功績を立てたと言われ、浅井氏との合戦にも度々参加したが、観音寺騒動により主家六角氏と不和になり、信長の上洛戦が始まるとこれに従った。

元亀2年(1571)佐久間信盛の与力となり、元亀4年(1573)の越前朝倉攻めや石山合戦に従事した。本能寺の変後織田信雄に属したが、やがて秀吉に転仕した。

 

進藤長久 (*)山城守。野洲郡の豪族。六角高頼の臣。

 進藤貞治 (1497~1551)山城守。野洲郡の豪族。進藤長久の息。六角定頼の側近。12代将軍・足利義晴と細川晴元の和睦の取次ぎ。1537年「法華一揆の乱」に永原重隆とともに上洛。延暦寺と法華宗の抗争を調停。1540年細川晴元の後詰として永原重隆とともに上洛軍。野洲木浜城主。息に賢盛。

<1525年六角定頼の動員に従う譜代家。>

⇔進藤賢盛 (*~*1583)山城守。六角の両藤と讃えられる重臣。進藤貞治の息。観音寺奉行衆。親後藤派。粟太郡の土豪。1560年「肥田城攻略」に従軍。「野良田の合戦」に敗戦。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。織田家に臣従する。佐久間信盛与力。反明智派。木浜城主。

<織田家のなかでは初期に佐久間与力として、信長直参でなく、後藤家が信長に重用されるようになっていた。>

 

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』 、淡海の城

 本日も訪問、ありがとうございました。感謝!

 
 
 
 
 

六条城 近江国(中主)

2014年06月08日 | 陣屋

お城の概要

所在地:野洲市六条町 (旧中主町六条)   map:

現 状:水田

区 分:平城

遺 構:堀(現在、用水路)地割図から。

築城期:

築城者:

訪城日:2014.6.7

 

城域西隣りの三之宮神社

: :城域よりも三之宮神社の方が城らしい。

六条城は、三之宮神社の道を挟んで東側の小字「政所」にあったと考えられる。

城域部分は周囲と地割りが異なっているが、定かではない。

どちらかと云うと、三之宮の周囲を取り囲む「神社土塁」の方が城らしい遺構に見える。旧中主町は、遺構が明確に確認できる城は少ない。近世に野洲川・日野川の下流域で、穀倉地帯。新田開拓で破壊されたカ?。

駐車は三ノ宮神社の参拝者用を利用

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』 、淡海の城

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大槻氏城 近江国(守山)

2014年06月08日 | 居館

お城の概要

別 名:大槻氏館

所在地:守山市木浜町2240

築城期:建久年間(1190-98)

築城者:大槻氏

城 主:大槻光秀・光永

現 状:宅地・畑地

遺構:屋敷跡(末裔大槻氏居住 個人宅)

訪城日:2014.6.7

  

お城の概要

 大槻氏城は、琵琶湖岸に面した(現在は埋め立てられ遠ざかった)木浜集落の中央やや南東にあった。かつて木浜地区は付近最大級の湊町で、幕末期まで守山一番の戸数を誇る集落だったという。

現在城館遺構は何も残らないが、木浜集落全体を水路が囲んでいる。今も城主末裔がお住まいの区画に、往時は3m弱幅の水堀と土塁が廻っていたとされる。

大槻邸だけの外周に比較的広い路地が通っているのは、堀を埋めて道路とした名残なのだ。

 

室町期は距離200mにも満たない西方に進藤氏の木浜城があり、どのように共存していたのだろうか。

  

歴 史

 大槻氏は、鎌倉時代以前から木浜に居住していた名主で、源頼朝の御家人となり、この地に築城を許されたとされる。

室町期に入ると江南守護佐々木六角氏の家臣となり、戦国期の大槻光秀の時には「関所奉行」を拝命し3000石の知行を得た。

 信長が台頭すると織田・羽柴方につき、越前朝倉攻めや賤ヶ岳合戦に従軍したが光秀は柳ヶ瀬にて討死する。

その後光秀の子光永・光定は八幡山城主で関白秀次の家臣となったが、秀次切腹後に浪人となり木浜に帰った。

大坂の陣では藤堂高虎に被官し戦功をあげ、伊勢津城下で3000石の知行を得たが、のちに光永は家督を継ぐため木浜に戻ったという。

 

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』 、淡海の城

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木浜(このはま)城 近江国(守山)

2014年06月08日 | 居城

  

お城の概要

所在地:守山市木浜町

現 状:真正寺・宅地・畑地

遺 構:堀、湊

区 分:平城

築城者:進藤山城守

築城期:室町期

城 主:進藤賢盛

訪城日:2014.6.7

微高地

木浜城は、琵琶湖岸に面した(現在は埋め立てられ遠ざかった)木浜集落の中央やや南東にあった。かつて木浜地区は付近最大級の湊町で、幕末期まで守山市一番の戸数を誇る集落だったという。

城のあった位置は、集落やや南西の真正寺付近の一画であったとされ、すぐ西方には堀跡の水路が残っている。

城主進藤氏は木浜・小浜の要津を領したものの、六角氏の重臣として観音寺城内に上屋敷を構えていたので、木浜には居館を構えていた。

       

室町期は距離200mにも満たない東方に大槻氏城があり、どのように共存していたのだろうか。

歴 史

木浜城は江南守護六角氏重臣進藤氏の下屋敷であった。

 築城年代は定かではないが、戦国中期に進藤貞治によって築かれた。貞治・賢盛父子は、後藤氏とともに「六角氏の両藤」と呼ばれて重用された。また六角義賢の六宿老として、三雲成持・蒲生賢秀・平井定武・後藤秀勝・目賀田綱清とともに進藤貞治の名が挙がり、観音寺城でも一際大きな上屋敷を構えていた。

 進藤氏は六角家臣として、将軍や有力守護大名たちとの外交役で多くの功績を立てたと言われ、浅井氏との合戦にも度々参加したが、観音寺騒動により主家六角氏と不和になり、信長の上洛戦が始まるとこれに従った。

 元亀2年(1571)佐久間信盛の与力となり、元亀4年(1573)の越前朝倉攻めや石山合戦に従事した。本能寺の変後織田信雄に属したが、やがて秀吉に転仕した。

進藤貞治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
 進藤 貞治(しんどう さだはる、明応6年(1497年)- 天文20年(1551年))は日本の戦国時代の武将で、近江の六角氏の重臣。父は進藤長久で、子は進藤賢盛とされる(異説もあり)。

木浜城主であり、後藤氏とともに「六角氏の両藤」と呼ばれて重用された。 貞治は六角高頼・六角定頼の時代に仕えた。外交手腕に優れ、時の将軍・足利義晴と細川晴元の和睦を仲介したりなど、豊後の大友義鑑と書簡のやり取りやその使者の臼杵鑑続とは直に外交役となり、多くの功績を立てたと言われている。

なお、蒲生賢秀や平井定武らとともに、「六角の六家老」と称されることもある。

 

進藤長久 (*)山城守。野洲郡の豪族。六角高頼の臣。

 進藤貞治 (1497~1551)山城守。野洲郡の豪族。進藤長久の息。六角定頼の側近。12代将軍・足利義晴と細川晴元の和睦の取次ぎ。1537年「法華一揆の乱」に永原重隆とともに上洛。延暦寺と法華宗の抗争を調停。1540年細川晴元の後詰として永原重隆とともに上洛軍。野洲木浜城主。息に賢盛。

<1525年六角定頼の動員に従う譜代家。>

 ⇔進藤賢盛 (*~*1583)山城守。六角の両藤と讃えられる重臣。進藤貞治の息。観音寺奉行衆。親後藤派。粟太郡の土豪。1560年「肥田城攻略」に従軍。「野良田の合戦」に敗戦。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。織田家に臣従する。佐久間信盛与力。反明智派。木浜城主。

<織田家のなかでは初期に佐久間与力として、信長直参でなく、後藤家が信長に重用されるようになっていた。>

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』 、淡海の城

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今浜(いまはま)城 近江国(守山)

2014年06月08日 | 居城

 

所在地:守山市今浜町

現 状:樹下神社・集落

築城期:室町期

築城者:進藤氏?

遺 構:堀

区 分:平城

目 標:びわ湖地球市民の森の今浜駐車場

訪城日:2014.6.7

     

今浜城は、今浜町南方の今浜集落南端、樹下神社を中心とした一帯にあったとされる。現在は消失して公園化(びわ湖地球市民の森)されたが、かつては野洲川南流東岸に面し湊町として栄えた地であった。

 樹下神社東側には堀跡の水路が流れるが、集落道路の改変され形状を留めていない。付近で室町期の土器が出土したという。

守山の琵琶湖岸付近には、小浜・今浜・木浜と紛らわしいが、「観音寺城の進藤氏所領」で、湊の地名がついている。

 埋め戻された堀(現在が側溝として)の一部、集落道路に

歴 史

詳細不明

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』 、淡海の城

 

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新宮神社遺構  近江国(守山)

2014年06月08日 | 遺蹟

 

 
 
 
 

 

 

 

 

 

遺構の概要

所在地:守山市立田町(旧戸田町)    map:http://yahoo.jp/IlX0KF

現 状:鎮守の森

目標:新宮神社

築城期:

築城者:

区 分:遺構

遺 構:水堀、土塁

訪城日:2014.6.7

詳細不明

現状

旧堤防跡だったろうと推測される。平坦化され高さは低くなっているが、それでも集落へはゆるい坂を下る。カメラの位置から左を見ると立光寺という寺があり、右を見ると新宮神社がある。どちらも手前の旧堤防跡よりも低い位置に建っていることが分かる。

新宮神社の東にある杜

「鎮守杜」となっている。(国土地理院の地形図には表示なし)

 場所的に「新宮神社」と「鹿嶋神社」の間にあり、新宮神社の杜と続いているように見えるので、境内社か境外社のどちらかだろう。 この新宮神社には境内社に天照大神社があるとのことなので、また確認してみようと思う。

ちなみに新宮神社の祭神は経津主神とのことであるが、経津主神は、鹿嶋神社の建御雷神は対として祀られるという。
その守山市立田町の鹿嶋神社は記載されていないが、 意味のある存在であることが判る。

 鎮守の森に残された「水堀」           本殿裏の遺構

新宮神社「旧戸田町」

   

守山市立田町は古くからある集落なので、道路が狭いため(国道477号線沿い)から歩いてきます。旧野洲川の堤防から、集落南側から迂回すると新宮神社が見えてきます。

現在の立田町は立花村と戸田村が合併して生まれた町名である。

現在は宅地整備され道路になっているが、水路は城構えを呈したように複雑に流れている。整備前には堀・土塁が残っていたという。

新宮神社の鎮守の森に、土塁・水堀が残る。

 

歴 史

詳細は不明。

参考資料:現地で、新発見の城郭カ?

 

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