フルール・ダンテルディ

管理人の日常から萌えまで、風の吹くまま気の向くまま

『遠い伝言―message―』 9

2008年10月11日 | BL小説「遠い伝言―message―」

 カーブで彼らの姿が見えなくなる。
 たった数日の付け焼刃の練習で、全速力で走る馬を止めることなどできるはずがなかった。
 決断は早かった。落馬覚悟で彼は手綱を引いた。
 ぎりぎりまでコントロールを手放さず粘った甲斐あって、落馬したものの受身を取る余裕があった。馬も転ばずに止まってくれた。
 エドは駆け出した。
 坂道を登り、先ほどの場所まで戻っても、立っている者が誰も見えなくて焦る。なおも走り、見えてきた人影に彼は息が止まりそうになった。
 最初にテスが切った男は仰向けに絶命していた。もう一人の男も腹から血を流し、うずくまるように倒れていた。だがもう一人は。
 テスの上に、男が馬乗りになっていた。そむけたテスの首に、彼自身の刃が迫っていた。手が切れるのもかまわずその刃を摑んだ男が、のしかかって剣を押しつけ、テスの首を掻き切ろうとしている。非力なテスがかろうじて支えていられるのは、すでに男は片手を失い、残った片方だけで押しているからだった。しかし、その手には男の上半身の重みがすべて掛かっている。剣はじりじりとテスの首に食い込みつつあった。
 その光景を見た瞬間、エドは何も考えずに動いていた。ベストの裏に隠していた短剣を抜き、振りかぶった。
 彼に気づいたテスの目が見開く。
「だめだ……!」
 何が何だかわからなかった。硬い抵抗にぎょっとして手を放す。男が仰け反った。
 テスが跳ね起き、その腕と長い刃が一閃した。返り血がテスに降りかかる。男が踊るような動きで地面に倒れこむまで、エドは茫然と立ち尽くしていた。
 男が動かなくなるのを見届けると、テスは力尽きて剣を落とし、がくりと膝をついた。
「…テス!」
 肩で息をする彼にエドは駆け寄り、片膝をついてのぞきこんだ。
「なぜ……」
 テスが呟く。彼は顔を上げた。怒りの表情も露わに。
「どうして戻ってきた!おれは逃げろと言ったはずだ!どうしてこんな……!」
 彼は苦しげに歪んだ顔を、両手で覆った。
「……こんなことなら、剣など渡さなければよかった……!」
 なぜテスがそんなことを言うのか、わけがわからなかった。自分がしたことは何か間違っていたのだろうかとエドは混乱する。
「テス……?」
「おれは……っ」
 うつむいたまま、テスは言葉を搾り出した。
「お前の手を汚したくなかった…!お前の世界では…少なくともお前は、人を殺すことは日常ではないはずだ。お前の話を聞いていて、おれはいつも、同じように悪人や犯罪者はいても、剣で解決するしかないこことは違うし、ましてお前は勉強して学者になろうという人間だ。お前にはここで生きていく知識は教えても、ここのやり方に慣れさせてはいけないと思っていた。もし戻れたら、お前はきっと、人を傷つけたことを悔やんで、自分を責めるだろう。だからお前にこんなことをさせたくなかった。剣を持つ義務のあるおれがやるべきことなんだ!」
「テス!!」
 エドは激情に駆られ、テスの両肩を揺さぶった。
「君は、俺が君を犠牲にして平気で生きていけると思っているのか?君を失って、おれが何とも思わないと思っているのか!確かに俺は、人を傷つけたくなんかない。けれど、自分自身はまだしも、自分の大切な人を傷つけられるくらいなら、自分が傷つくことも、罪を犯すことも、避けたりしない。そんなことのために、その人を失いたくなんかない!だから……」
 抑えることのできない涙が目から溢れる。
「頼むから……二度と自分を犠牲にするような真似はやめてくれ……。俺にちゃんと、君の助けができるチャンスをくれ……」
 くやしくて情けなくて、彼は地面に突っ伏した。みっともないと思いながら、涙を止められなかった。ようやく、テスは無事だったのだと、彼を失わずに済んだのだと安堵して、気が緩んだせいもあった。
「……すまない、エド……」
 テスの呟きが、頭の上からこぼれてきた。
「お前をそんなに傷つけるとは、思わなかったんだ……」
 ひどく後悔した、低い呟きに、エドは顔を上げた。途方にくれた、大人とこどもが入り混じった表情で、血と砂で頬を汚したテスが彼を見つめていた。
「許してくれ……」
「……っ!」
 彼は、テスを抱きしめた。
「…よせ、血が……」
 テスが抗うのもかまわず、もっと強く抱きしめる。愛しくて苦しくて、溺れた人間がなりふりかまわず何かに縋りつくように、そうせずにはいられなかった。
 いつの間にか、テスの抵抗はやんでいた。
「……エド……」
 耳元で、テスのかすれた喘ぎが聞こえた。その声が、彼の血を沸騰させた。
 目が合った。なぜ、と問うような大きな瞳が、彼を見つめ、そして耐えきれずに閉じられた。ふたりにとって初めての、あまりに近すぎる距離に。
 軽く開かれたままの口を、唇を押しつけてふさぐ。重なった小さな幼い唇の意外な熱さに驚く。なおも強く押しつけると、互いの濡れた内側が吸いつくように離れなくなる。
 歯の間から舌で奥を探り、ざらりとした舌の表面と、滑らかな裏側を舐める。テスに拒むそぶりがないことにすら気づける余裕はエドにはなかった。これ以上は自分を止められなくなる、と理性を取り戻すのが精一杯だった。
 離れ難く吸い上げながら唇を離すと、テスは目を伏せたまま顔をそむけ、両手でそっと、しかし断固としてエドを押しのけ、彼の腕から抜け出た。
「…早くここを離れないと。血の臭いでウォルグが集まってくると危険だ」
 彼は剣を拾うと死体のシャツで血を拭い、鞘に収めた。
「急げ。馬を探すぞ」
 テスは振り返りもせず歩き出した。
「あ、ああ」
 そのあとをついて行くエドの足は重かった。テスが何も言わないのが、彼をひどく落ち込ませた。今のキスは、テスには意味のないことだったのだろうか。もしかしたら、友人や家族ならこれくらい当たり前にする習慣があるのだろうか。いや、今まで見てきた限りでは、アメリカに比べたらずっとスキンシップは薄い印象だった。特にテスは、他人に触られるのを避けてさえいる。だったら……なぜ彼は、怒らない?なぜ何もなかったように振舞う?せめて一言、「さっきのはどういう意味だ」と訊いてくれれば、この想いを告げられるのに。
 だからなのだろうか。テスは気づいたからこそ、何もなかったことにするつもりなのだろうか。エドの気持ちに応えられないが、これから先も一緒に旅をしていくのなら、はっきり拒絶したら気まずくなってしまう、そう考えたのだろうか。
 乗り捨てた場所からさほど離れずにいた馬を見つけて、山を降り始める。テスの後ろでエドは唇を噛んだ。衝動に流されて考えなしな行動をした彼より、テスの方がよほど大人ではないか。これが、テスの答えなのだ。このままでいよう、と。その理由が彼がこどもだからかエドが男だからか、異邦人だからかは知らないが。
 その日は国境警備兵に見つかることを警戒して、夜を待ってから完全に下山し、月明かりだけで街道を走った。十分距離を稼いでおいて、夜が明ける前に彼らは池で血を洗い落とし、汚れた服を着替えた。それから短い仮眠をとって昼間も移動を続け、夕方たどり着いた町で宿に入ったときには、ふたりとも泥のように疲れ切っていて、馬の世話だけ頼んでろくに食事もとらずに倒れこむようにして眠り込んでしまった。
 目が覚めたのはすっかり日も高くなった、昼近くになってからだった。珍しくテスはまだ寝ていて、よほど疲れているのだろうと思いエドは起こさないように静かに着替え、そうっと部屋を出ようとした。が、
「エド」
 呼び止められ、振り向くとテスは背を向けた姿勢のままだった。どうやら目はとうに覚めていたらしい。
「悪い……食事をしたら馬の様子を見てくれ。餌がまだのようだったら飼い葉をやって、体にブラシをかけてやってくれ。それから…今日はもう動かないから、お前は出かけるなり何なり適当にしてくれ。夕食も好きにしてくれていい」
 気怠げな口調に、エドはテスのもとまで引き返した。
「具合が悪いのかい?医者を呼ぼうか?」
「……少し疲れただけだ。休めばよくなる」
 のぞきこもうとすると、それを避けてテスは顔をシーツに埋めた。
「食欲はある?何か持ってこようか?」
「…水でいい。喉が渇いた」
「だめだよ。せめてスープとか、ジュースなら飲めるだろう?」
「……任せる」
 エドは急いで宿の人に自分の食事とスープの追加を頼んで、外へ出た。屋台で持参したカップに柑橘類のジュースと蜜を入れてもらい、食事を受け取って部屋へ戻る。
「テス、飲めそうなら少し手をつけて」
 のろのろと身を起こしたテスにエドは皿とスプーンを渡す。少しずつ飲み始めた彼を見守りながら、自分もベッドに腰かけて朝食を摂った。
 もういい、とテスは皿をエドに渡し、夜着のまま靴を履いた。
「テス?」
「顔を洗ってくる」
「ついて行こうか?」
「ばかを言え」
 ひと睨みしてテスは出て行った。エドも食器を片づけ、言われた通り馬の面倒を見てから部屋に戻ったが、テスはいなかった。ずいぶん時間がかかる、と心配になりかけた頃に彼は戻ってきたが、髪が濡れていた。
「水を浴びてきたの?」
「汗をかいて気持ちが悪かったんだ」
「汗って…」
 ベッドに入ろうとする彼の手を思わず?んだエドは、
「……熱があるんじゃないのか」
 水を浴びてきたばかりとは思えない熱い肌に驚く。
「疲れているだけだ。今までにも何度か経験している。心配いらない」
 いつもの自分をコントロールした無表情ではなく、生気のない人形のようなうつろな目のテスを見て、エドは胸を衝かれた。ここ数日の強行軍は、大人の彼でさえきつかった。馬に乗ってといっても、それを操っているのはテスで、ただ落ちないようにしているだけの彼の何倍も疲れるに決まっている。その上おとといの事件。テスが疲労のあまり倒れるのは当たり前だ。
 うつぶせにベッドに突っ伏したテスは、すでに寝息をたてていた。
 エドはカーテンを閉めてテスのために部屋を暗くし、彼の眠りを妨げないように部屋を出た。
 選ぶ余裕もなく滞在することになった小さな町は、今まで訪れたリベラ、ミュルディアの町や村とは違った印象だった。特別ではない普通のいなか町なのだろうが、極めて計画的に造られたことがわかる直線的な道と、それに沿って流れる水路。開墾によって造られた新しい国家だとテスが語った通りだった。土壁の家は、赤いレンガ造りのミュルディアの家々に比べれば質素だったが、きちんと補修され、窓枠には好みの色を塗り手入れが行き届いており、貧しくはない。豊富な水のおかげでずいぶん涼しく感じる気候のせいか、人々は割りときっちりと服を着込んでいる。日射しだけは変わらぬ強さなので、白を基調にした長袖の丈の長いシャツに刺繍を施したベスト、それに細身のパンツというのが男も女も基本的な服装だった。女性のスカート姿が少ないのが特徴だった。
 水路には小魚が銀色の背をくねらせて泳いでいた。底の小石がくっきりと浮いて見えるほど清澄な水が豊かに流れている。段差を落ちる水音が心地良い。一応町の中心街なのでそれなりの人や荷車の往来はあるのだが、やはりのどかな農村の色が濃い。
 エドは1フォルも歩けば田畑か沼地ばかりになってしまう町を、人々の営みを見物しながらあてもなく歩き、川辺に座り込んでぼんやりと水を眺めて時間を潰してから宿へ戻った。
 かれこれ1マーレは経っていたが、テスはまだ眠っていた。飲みかけのジュースがそのままだった。目が覚めたときに水が欲しいだろうと、それを片づけて宿の炊事場で水をもらってきた。
 水差しをサイドテーブルに置き、空気を入れ換えようと窓を開けたとき、
「……エド」
「あ、ごめん。起こした?」
 テスは目をこすった。
「いや……。暗いな。今何時だ?」
「まだ8マルの鐘は鳴っていないよ。カーテン開けようか?」
「ああ……」
 寝返りを打ったテスは、ぼうっとした表情でエドを見上げ、眩しさに目をしばたかせた。
「エド……」
 彼が手招きしたので、エドは彼の枕元に膝をついた。
「なんだい?」
「……お前は何もしていないから……」
「え?」
 視線をシーツに落として、テスは小さく言った。
「お前の与えた傷はたいしたものじゃない。あの男を殺したのはおれだ。お前は誰も殺してはいない……」
「テス……」
 エドは、苦く笑った。
「そんなことを、ずっと気にしてたのか?」
 テスは目を閉じた。
「夜……お前、うなされていた…」
「覚えてないよ。それにきっと、罪悪感のせいなんかじゃない。君を助けられなかったときのことを夢に見ていたに違いないよ」
「覚えていないくせに…」
「わかるさ。俺は、テスが思っているほど優しい男でも非暴力主義でもないからね」
 信じていない顔のテスに、エドは続ける。
「他人を傷つけるような奴にはひとかけらの憐れみだってかけてやる気はないし、まして自分の友人や家族、大切な人を傷つけた奴はただじゃおかない。その倍は返さずにおくものか。俺が優しく見えるとしたら、ただ俺にとって、大切な人がいなかったから、怒りに我を忘れる機会がなかっただけだ。俺は本当は……心から人を愛したことのない、冷たい人間なのかもしれないと思うよ」
 テスは小さく首を振った。
「……お前は……慎重な性質なんだろう。自分の心を開くことに臆病なだけだ。冷たくなんか…むしろ温かくて、真っ直ぐで熱くて……」
 はっと言葉を切ったテスの顔に狼狽の色が浮かぶのを、エドはのぼせたような、思考が停止した状態で凝視していた。その視線をはね返そうと赤い顔で怒ったようにテスが睨み返してくる。おととい、目を閉じてしまったためにキスされたことを警戒しているのかもしれない──と頭の隅では冷静に考えているのに、何一つ言葉が出てこないし、テスの言葉の意味を判断できない。ただエドの自己卑下を救おうとしただけなのか、自分の感想を述べただけで他意はないのか──好ましいと思ってくれているのかいないのか──自惚れていいのかどうか、わからなかった。
 出てきたのは、これだけだった。
「好きだ」
 下げた手を、祈りの形に握り合わせる。
「君が好きだ」
 テスが目を瞠り、息を止めた。
「君にこんな気持ちを抱いてしまったことを、許してほしい。迷惑なことはわかってる。二度とこの間みたいな、君の意思を無視した行動はとらない。君に触れるときは寒いときとか危ないときとか、必要なときだけで、下心で触れることはしない。絶対に…とは、その…必要なときに触れていて、そういう気分にならないとは言えないけど……だからといって、不埒な真似はしない。誓うよ」
 彼の言葉の間に、テスは苦悩に顔を歪ませ、両手で覆い隠してしまった。
「……ごめん。そんなに悩まないでくれ。おとといのことがずっと気になっていて…君はなかったことにするつもりだとわかってはいたけど、俺が何も告げないのに君には知られていて、このまま知らない振りをされ続けるのかと思うと…なんか、その……うまく言えないけど、もやもやして……」
「……腹が立った?」
 くぐもった声が、テスの手の下から洩れた。
「おれは、卑怯だと思った?おれは……お前の気持ちの変化に先回りして動いて、うまく対処しようと思っていた。前に、相手の気持ちを知って、知ったために流されて、取り返しのつかないことをしてしまったから、今度は間違えないようにと……。だが、そんなこと無理に決まっている。感情なんて、隠すことはともかく、こう思おう、こう感じないようにしようなんて、できるわけがない。その上、隠すことさえ…おれと同じ能力を持つお前に対して隠し続けることなんて、不可能だ……」
「……なに……何のこと?」
 テスは前髪をかきあげて手をのけ、泣くのをこらえている顔を見せた。
「おれと…お前の能力のことは話しただろう。相手の気を読むというのは、相手が無意識に発散させている意思や感情を読んでいるということだ。無論、人間というのは多少は自分の感情を隠すことも制御することもできるから、気に表れないものまでは読めないがな。逆に、おれたち自身の感情は、表情や仕種、声の抑揚で相手が感じとれる以上のものは伝わらない。能力を持つ者と持たない者の関係は、ほぼ一方通行だ。では、能力を持った者同士だったら?一族の間でだけ使える力があったら?」
「テス……」
「おれは、一族の人間は母としか接したことがなかったから知らなかった。母は知っていたのだろうが、おれが幼いときに死んでしまって、一族の能力についてあまり教えてもらうことができなかった。他人に触れると気が視えやすくなることには気づいていたから、視たくないものまで視ないよう、うかつに体に触れないよう、触れるときは視線をずらして──目のではなく、力の──視ないように気をつけていた。だが、初めてお前と握手を交わしたとき、ちゃんと用心していたのにあまりにも鮮明に、しかも視えるのではなく感情が流れ込んでくるような感じすら覚えて、衝撃を受けた。あとで冷静に考えて、お前はさほど何か感じた様子はなかったから、お前の能力がおれほど強くないのか、お前が無防備すぎるのかのどちらかだろうと思って、無用心にお前に触れてしまわないよう気をつけることにした。なのに、そのうちそれすら無駄になってしまった。お前がおれに向ける好意が流れ込んでくるのを拒否できないし、おれの気持ちも……お前に伝わらないようにし続けるには強くなりすぎた。触れなくても、お前が無意識だろうと、おれが止めようと必死になっていようと……」
 瞬きしたテスの瞳から、涙がこぼれ落ちた。
「止められるわけがない。伝えずにいられるわけがないんだ。それが一族の……生命線なのだから……」
「テス……?」
 テスのまろやかな頬に伸ばしかけた手を、エドは途中で止めた。
「触れても、いい…?」
「……だめだ……」
 苦痛の下から絞り出すように言い、テスは唇を噛みしめた。
「……どうして?」
 信じられない答えに、エドは唖然とする。テスは一言も好きだとも愛しているとも言わなかったが、そんな言葉よりも情熱的な恋の告白だった。お互いの気持ちが一致しているのに、なぜそれを伝えてはいけないのか。
「おれは、お前に何も応えるつもりはない。今は…サーランに帰って、3年前逃げ出した現実に決着をつけることしか考えられない。…考えたくない。だから今は……サーランでの用が済むまで…一族のところに行くまで、保留させてくれ。お前だって……その方がいいんじゃないか?」
 彼は泣き笑いのような笑みを浮かべた。
「ここで生きると決めるまでは、誰も好きにならないんだろう……?」
「───!」
 固まったエドに、テスは大人びた仕種で髪をかきあげ、寝返りをうって背を向けた。
「9マルの鐘が鳴ったら起こしてくれ。夕食は食べに行く」
 テスだって、眠れるはずがないとわかっていて言ったのだろう、話は終わりにしていつもの生活に戻ろうという意思表示に、エドはおぼつかない足どりでドアに向かった。
 閉じたドアに背をもたせかけ、彼はずるずると座り込んだ。
 そうだった。今、互いの想いを知ったところで何が変わるというのだろう。何も変わりはしない──変えることはできない。テスの存在する未来を望むことはできないのだ。帰れる可能性がある限り、自分はあきらめられないだろう。ささやかな関係と絆しかなくとも、自分の世界には家族と友人と、生活と夢がある。あきらめることなどできない。だとしたらそのとき自分は、テスのことを、いっときの、行きずりの恋だったと捨てていくのか?
 だが、もし帰る望みが絶たれたなら──エドは狂おしく思った──テスと生きていける。テスが承知してくれるなら、こんな放浪生活はやめて、どこかで落ちついて暮らそう。言葉ももっと覚えて、どんな仕事でもいいから働いて、なんとか食べていければいい。5年も経てばテスは立派な青年に成長するだろう。あの不機嫌そうな表情と物言いは変わらないだろうが、その頃にはきっと、ベッドの中で抱き合うこともできるだろう。他のものは失っても、もう二度とないだろう一生一度の恋を、成就することができる。研究だって、この未知の世界のことを一から学んでいくことは、楽しいことに違いない。そんな人生を送ることになっても、たぶん悔いはないだろう。
 けれども今は……テスの言う通りだった。ここで生きていく決心がつくまで、中途半端な想いは彼を傷つけるだけだ。
(もうすでに、十分すぎるほど傷つけてしまった……)
 エドは、最後のテスの泣き出しそうな笑みを思い出した。どうしようもなく好きになって、愛しく思えば思うほど彼を傷つけて、苦しめてしまうだけの自分の想い。
(俺たちは、出会うべきじゃなかったんだろうか……)
 目頭と鼻が熱くなり、彼は涙が流れ落ちる前に目を膝に押しつけてごまかした。ドアが内側から開くまで、彼はその姿勢でずっと、次の鐘を待ち続けた。

 


『遠い伝言―message―』 8

2008年10月04日 | BL小説「遠い伝言―message―」
 ミュルディアの都を離れるにつれ、道は煉瓦敷きから砂利、そして土を踏み固めただけに変わり、道沿いに植えられた木々も、白い花を咲かせた雅やかなものから、背の高い、枝を広げて木陰を作る種類に戻った。
 ダーラン川沿いと海辺に町が発達しているミュルディアは、西のサイス山脈方面には目立った町はない。大陸一豊かな国を誇るミュルディアでも、さすがに山脈が迫ってくる辺りに来ると、「何もない」景色が見渡す限り広がる。
 牧場で買った馬に乗り、ひたすら西を目指した二人は、7日足らずでサイス山脈のふもとに着くという強行軍だった。すでに街道も消えかけている。
 日が落ちる前に野宿の準備を始めた。大きな肉食獣はいないし──1種類、中型の犬くらいの、おそらく狼に似たウォルグという肉食動物がいるらしいが、よほど飢えていたり、興奮したりしていない限り人を襲うことはないそうだ──、夜も寒さを感じることはなくなっていたので、たいした用意はしない。枯れ草や枝を集めて火を起こし、簡単な料理とお茶で夕食をとり、マントにくるまって眠るだけである。
 赤い地面と緑の草がまだらに地平まで続く平らな土地に、ところどころ低い灌木の繁みがこんもりと島のように浮かんでいる。今まで見慣れた黒っぽい肥沃な土地は、山が近づくと次第に赤みを帯び、この辺りではパプリカの粉でも撒いたような鮮やかな赤土となっていた。鉄分が強いのではないかと思っていたら、木に覆われてはいるものの赤っぽい山肌が見えるサイス山脈には、ローディアの鉄鉱山があるとテスは言った。
 山の向こうに沈む夕日は赤く、どこまでも抜けるように高い空を紫や菫色や赤や朱鷺色、そして金色に染め上げた。風は、緑の上を金の波となって、さえぎるものなくどこまでも渡っていく。
 テスが見つけた小川──彼に言わせると、宝石を見つけるより水の流れを見つける方がずっと容易いそうだ──のそばで、彼らは一夜を過ごすことにした。馬は水を飲ませたあと灌木につなぎ、好きに草を食べさせておいて、彼らは焚き火で食事を作った。穀物の粉を水で練ったものと干し肉を入れたスープと、保存のきくビスケットのような硬いパン、レモン風味のお茶が夕食のメニューだった。
 熱いので布でくるんでカップのお茶をすすりながら、テスは小さくなっていく焚き火をぼんやり見つめていた。その頬を染めていた夕焼けも色褪せ、消えかかっていた。それでも、風に揺れる前髪の下の、物思いに耽るテスは、とてもきれいだった。世界中が夕闇の藍色に包まれてゆく今このとき、エドは世界に自分たちふたりきりしか存在していないような気がした。──少なくとも視界に入る360度、集落はおろか人ひとりいない。
 時も空間も超えた異世界。地平線まで続く草原の美しく静かなたそがれ。なぜ自分はここにいるのだろう。なぜやって来たのだろう。なぜ自分だったのだろう。これは、自分の人生に用意された必然だったのか、それとも単なる偶然にしかすぎないのだろうか。
 この出来事が、出会いが何であれ、今自分はここにいて、目の前には初めて本気で恋をした人がいる。それだけは確かなことだった。
 消えかかった火がぱっと燃え上がる。テスが枝で灰をかきまわし、その枝を火の中に投げ入れた。
「……明日は日の出とともに出発する。サイスの山の中では、鉱夫くずれの野盗や、密輸人が出没することがある。出会ったら見逃してはくれないだろう。そのときは、前にも言ったがとにかく逃げろ。金を出したら命は助けてやるとか言うかもしれないが、そんなのは口先だけだ」
「わかってる。だけど逃げるときは君も一緒だよ」
「……」
 彼は黙りこくった。答えたくない、つまりそうするつもりはない、あるいは約束できない、といういつもの彼の意思表示だった。
「テス」
 エドは語気を強くした。
「……相手が二人までなら逃げられると思う。三人なら、微妙だな。ただ、めったに商人や旅行者は通らない道だから、盗賊といっても徒党を組んで大がかりに襲う奴らはほとんどいないはずだ。だからといって楽観はできないがな。おれの短剣を貸すから、いざというときは抵抗しろよ」
 かかえた膝の上から、上目使いに彼を見て、テスはまた目を伏せた。
 テスの返事は肝心なところで答えをはぐらかしていたが、エドは仕方なく引き下がった。こういうときのテスに重ねて問い質したところで、求める答えは返ってこないとわかっていた。
 テスを犠牲にして自分だけ逃げるような真似はしないと、エドは心に決めていた。だが、こどもの頃はともかく、大学に入ってからは殴り合いのけんかすらしていない自分が、武器を持った、本気で殺しにかかってくるような相手に戦えるのか、自信はなかった。テスの言った「逃げられる」は、「殺せる」か、少なくとも動けない状態にできるという意味だろう。テスが剣をふるうところは練習以外見たことはないので、どの程度の腕なのかわからないが、大人相手に2人までならと言うからには、相当の自信があるのだろう。だとすれば、出会った最初のころに言われた「足手まとい」となってしまうことも、ないとは言い切れない。
 自分が戦って生き延びる自信などない。だからこそ、テス一人を危険な目には遭わせない。もし複数の強盗に襲われても、自分がいれば──自分が死に物狂いで抵抗すれば、テスが相手を倒す時間稼ぎはできるかもしれない。テスは、自分を誤解している。
(俺はこどもじゃないし、無知ではあっても、守ってもらわなくてはならないか弱いひなどりでもなければ、君のあとをついて行くだけの子犬でもないんだよ)
 君を守るためなら人を傷つけることも、自分が死ぬことも厭わない──エドは心の中で呟いた。
 翌朝、夜明け前に起き出して曙光の中、彼らは出発した。ディヴァン山脈に比べれば短く、低いサイス山脈だが、それでも千から二千メートル級の山々が連なっている。道は山の頂と頂の間の比較的低い尾根を越えて通っていたが、谷沿いなだけに細くて岩場が多く、彼らは馬に乗っているよりも轡を引っ張り、後ろから馬の尻を押し上げている方が多いくらいだった。
 結局その日のうちに山を越えるどころか、峠にたどり着くのが精一杯なことがはっきりしてくると、一晩山の中で過ごすことを考えて気が重くなった。けれども日が沈む直前に峠に着き、森が切れ、馬の背に揺られていた彼らの視界が開けると、疲れも不安も忘れた。
「……うわあ……」
 感嘆の声を洩らしたエドに、テスもかすれた声で応えた。
「ああ……ローディアだ……」
 そそり立つ山脈のせいで、彼らの立つ尾根よりも早く夕闇が訪れた平野では、人々の営みを示す明かりが灯され始め、空の星が現れるより早く、地上に星空が現れつつあった。緑の大地に大小数え切れないほどある湖が、雨上がりの地面のようだった。その水面が舟や家々の明かりを映し、人工の星を倍にも見せているのである。
 林と、集落と、マス目状の田畑の間を縫って、水路と川が縦横に流れている。ミュルディアが「水の都」ならば、ローディアは「水の国」と呼ぶべきだろう。
 そしてはるか地平近くに、遠すぎてはっきりとはわからないが、ひときわたくさんの光が首飾りのように輝いて、弧を描いて取り囲んでいる湖が、黒々と横たわっていた。
「300年前まで、ローディアは人が足を踏み入れることのない、大湿原だった」
 テスは、薄暮の中に沈んでいこうとするローディアを、眩しいものでも見るように眼を細めて見つめていた。
「大湿地帯から西の内陸部は大沙漠だが、年に一度か二度、大雨に見舞われる。雨水は砂に吸い込まれるが、それらは長い年月をかけて地下を流れ、やがて集まった沙漠中の水は、堅い岩盤のサイス山脈にせき止められ、その手前で地上に湧き出る。それがローディアの湿地を形成していた。だが300年前、ナバディアの一貴族が手柄の褒賞として、利用価値のない土地として捨て置かれていたローディアを領地として望んだ。彼は、一族郎党を引き連れてローディアの開墾に乗り出し、水路を作り、湿地を埋め立て、木を植え、次第に人が住める土地を増やしていった。150年前、ナバディアは失政の続いた王家を追放し、共和制に移ることになったが、ローディアはそれを機に独立し、領主のローディアス候が王位に就き、ローディア候国となった」
 テスの手が上がり、あの湖を指差した。
「ローディア最大の湖サーラ。その湖畔にあるのが首都サーランだ」
 つられて目をやったエドの耳に、テスの呟きが届いた。
「……おれは3年前、あの町を飛び出した……」
 見下ろしたエドの視線を避けるように、テスは手綱を引いて馬の向きを変えた。
「今夜のねぐらを見つけないと」
 その夜は、人目を引くといけないからと火を使えず、冷たい食事をし、山の上だけあってマントをいくらかき寄せても寒さがしみて来るというのに、暖をとることもできなかった。
 岩陰に身を隠し、体を縮こまらせて寝転がったものの、疲労でうとうとしては、寒さで目が覚めることを繰り返す。少し離れて横になっているテスはぴくりともしないが、起きている気配がしていた。体が小さい分、テスの方が寒い思いをしているに違いなかった。
「……テス」
「……」
「起きているんだろう?」
「……眠れなくても目を閉じて横になっていろ。疲れがとれないぞ」
「寒いんだ。そばへ行ってもいいかな」
「……」
 返事がないのは拒否ではない、とエドはごそごそ這っていった。体を丸めて背を向けているテスに自分のマントをかけ、背中からそっと抱き込む。
「……こども扱いするな」
「してないよ。俺が、寒いんだ」
 性的な気持ちではなかった。ただ、ひとりで寒さに耐える彼を暖めたかった。鼓動は速まったが、欲望は感じなかった。緊張と不安がまだ残っているせいかもしれなかった。
 触れ合った胸と背中から、互いの熱が伝わってくる。それだけで、マントの中は暖かくなり始めた。同じ体温しか持たないのに、他人の体はどうしてこんなに温かいのだろう……。
 エドは、腕の中の温もりと、テスの髪に顔を埋め、彼の匂いに包まれる心地良さとで、いつの間にか深い眠りに落ちていた。
 目覚めると、腕の中にテスはいなかった。寝惚けた頭でどうしていないんだろう、とぼんやり考えていると、いきなり顔に冷たいものが落ちてきた。
 仰天して飛び起きると、傾けた水の瓶を持ったテスが立っていた。
「ついでに顔を洗え」
 慌てて両のてのひらで水を受け、顔を擦った。差し出されたタオルで顔を拭き、今度はテスに水を注いでやる。
 水とビスケットだけの簡単な朝食をとって、彼らはすぐに出立した。
 下りは楽かと思えばそうでもなかった。馬に乗って急坂を下るのは登るより難しく、テスはともかくエドにはまだそこまでの技量はなく、傾斜がなだらかになるまでは歩くしかなかった。それが2マーレも続いただろうか。日が中天にかかる頃、ようやくひどかった山道は、人や馬がまともに歩けるものになった。さすがに上りよりは下りの方が短時間で距離を稼げたようだった。
 だが馬に乗り始めていくらも行かないうちに、バランスをとるのに必死になっているエドに、テスは振り返りもせずに言った。
「速度を上げるぞ。前かがみになって馬のたてがみを摑め。ただし引っ張るな。股を締めて、振り落とされるなよ」
「急に、何…」
 言われるまま、前のテスに覆い被さるようにたてがみを摑んだと同時に、テスが馬の腹を蹴った。
「うわ、わ、わ」
「舌かむぞ!」
 テスの怒鳴り声に慌てて歯を食いしばる。
 いくらずいぶんましになったとはいえ、下り坂の岩の多い山道に変わりはない。そこを馬で駆け下りるのである。頭を下にした馬の上で前傾姿勢をとると、ほとんど頭から落ちていく感覚である。それだけならまだしも、馬がバランスをとるために右に左に向きを変えるたび投げ出されそうになり、冷や汗が吹き出た。
「!!」
 背中越しに、テスが息を呑む気配がした。エドはとっさに馬の胴をはさむ両脚に力を込めた。
 馬が抗議のいななきを上げて急停止した。体半分ずり落ちたものの、落馬しなかったのは反射神経のおかげだろう。
「…いったいどうしたんだ、テス…」
 エドは問いかけを呑み込んだ。体を馬の上に戻した彼が見たのは、横の繁みから抜き身の剣を下げて出てきた男と、振り返れば2人の男が斜面を滑り降りてくるところだった。
「残念だなあ、ぼうやたち」
 前方の男はにやにや笑った。
「この道は曲がりくねっているから、崖を降りるのがいちばん早いんだよ」
 エドは、道の上にロープが張られているのに気づいた。このまま突っ込んでいたら、馬はロープに引っかかって倒れ、乗っていた彼らは空中に投げ出されていただろう。運が悪ければ首の骨を折って即死だ。
「荷物と馬を渡せば行っていい…と言いたいところだが、ふたりともすげえべっぴんじゃねえか。少しばかり楽しませてもらってからにさせてもらうぜ」
「な……!」
 かっとなりかけたエドの脚を、彼らに見えない側でテスがなだめるように叩いた。
「さあぼうやたち、おとなしく降りて来い」
「……お前は乗っていろ。手綱を放すな」
 男たちに聞こえないようテスは囁き、地面に降りると前方の男に向かって、
「お金はあげるから、他は勘弁してくれない?」
「他って、なんだ?他には何も盗らないぜ。ぼうやたちはかわいいから、かわいがってやるだけさ」
 男たちはテスを全く警戒していなかった。エドは丸腰だし、剣を下げているテスは同じ年頃の少年に比べても細身で、男っぽさのない顔立ちである。
「かわいがるって…?」
 首を傾げ、一歩踏み出す。男はその可愛らしさにやに下がり、近づいてくる。
「教えてやれよ、ワディ!」
「噛み切られんなよ!」
 残りのふたりから野次が飛ぶ。男とテスの間が3メートルほどになったとき、男は足を止めた。
「おっとぼうや、剣を渡し…」
 その言葉が終わらぬうちに、テスは動いていた。
 踏み込むと同時にマントが跳ね上がった。とエドには見えたが、マントを跳ね上げて剣を抜いたのか、鞘走った剣の勢いでマントが翻ったのかは見極められなかった。
 次の瞬間、男の首から血が吹き上がった。すでにテスは次の目的に向かって走っていた。馬を邪魔していたロープを両断し、
「エド!」
 エドは馬の腹を蹴った。駆け寄るテスに向かい、引き上げようと片手を伸ばす。
 テスは、その手をとらなかった。彼の目が、一瞬エドの目を捕らえ、彼は代わりに剣の腹で馬の尻を叩いた。いきなり全速で走り出した馬から振り落とされそうになって、エドは反射的に馬にしがみついた。
 我に返って首だけ捻って後ろを見やると、テスが男たちに向かって走っていくところだった。
「テ────ス!!」

『遠い伝言―message―』 7

2008年09月28日 | BL小説「遠い伝言―message―」
 国境を越える舟だけはさすがに検査があるからと、リベラからミュルディアへ入るときだけ陸路を使ったが、あとは川を下っての旅は、今までの苦労が嘘のように楽に、たった4日で国名と同じ名の首都ミュルディアに到着した。ダーラン川の本流と支流が合流する地にあるミュルディアは、三国の交易の中心となる商業都市で、網の目のように運河が張り巡らされた、水の都でもある。内陸の都市の中では最も大きく、繁栄した町で、ここに比べればクィでさえはなはだ見劣りするのも当然だった。なにしろ、この世界へ来て初めてエドは、四階建ての建物を見たのだった。
 街の大きな本屋で、テスは宿賃三日分もする地図を買った。本自体、日用品と比べると高価だったが、地図はそれ以上だった。
「これから先が長いぞ」
 宿に入り、休む間もなくテスは床に地図を広げてルート作りに取りかかった。地図にはミュルディア、ダーラン南部、ローディアの国境付近までが書かれている。
「おれたちが目指すのはローディアの北部、だいたいこの辺り(とテスは地図からはみ出した床の上を指差した)だ。そうなると、まずミュルディアから北へ向かってダーランに入り、サイス山脈の終わるところでローディアとの国境を越えるのが最短の陸路だ。ただしサイスの裾野をかすめるこの道は、ダーランの都とローディアの首都サーランを結ぶ重要な街道だから、国境に検問がある。そこで途中で街道を離れ、更に北から越境する」
 言葉にすると簡単だが、ちゃんとした地図で道のりをたどってみると、その距離に気が遠くなりそうだった。越境地点まで直線距離でざっと1,000フォル。ヴォガからミュルディアまでの1.5倍だが、半分の行程を舟で移動できたこれまでと比べ、すべて陸路となる。単純に1日30フォル歩くとして、30日以上かかる。
 1か月、と考えてエドは思った。こちらに来て半月以上が経った。元の世界では、どれくらいの時間が流れたのだろう。同じだけ?それとも数時間、それとも何年……?
 エドは、頬を引きしめて不安を振り払った。今考えても仕方ないことだ。
「お前、ラテルには乗れるか?」
 ラテルというのは馬のことだ。といってもエドが知っているサラブレッドとは違う。もっと背が低く、足は太く、体全体にふさふさと毛が生えている。
 エドは首を振った。
「乗れなくても乗ってもらうぞ。これまでは町や村の間は近かったが、ミュルディアを離れるに従って、町と町の間が開いていく。徒歩では夜までに次の村までたどり着けなくなる。特にローディアは、北部にはほとんど町や村と言えるほどの集落はない。野宿は避けられないだろう。携帯する食料や水も多くなる。ラテルなしでは無理だ」
 顎に指をあてて考えをめぐらし、テスは、
「町なかで馬を連れていると金がかかる。ダーランに入ってから1頭買って、ローディアに入ったらもう1頭買おう。それまでは一緒に乗って教えてやる。…よかったな、おれがこどもで。でなければ二人乗りなどできないからな」
 そう言って目を上げて、いたずらっぽくエドに笑いかけた。そんな生意気な言葉も表情も、エドの胸をひどく騒がせることを、テスは知らないだろうが、エド自身は自覚し始めていた。
(……こどもなんかじゃないよ、君は……)
 少なくとも俺にとって、とエドに柔らかい表情を見せることが多くなったテスに向かい、彼はひとりごちた。この旅が──テスとふたりきりで過ごす日々が、早く終わればいいと思う。一緒にいたいと思うからこそ、早く別れなければいけないと思うのだ。
 帰れるのだろうか、帰れたとしても自分の知っている、自分がいるべき世界であってくれるのだろうかという不安や焦りとは裏腹に、このまま旅が続けばいい、いっそ帰ることはできないとはっきりわかれば……と思い始めている心の変化に、気づかずにはいられなかった。その理由がただ一つ──ただ一人の人の存在であることにも。
 小学生だか中学生だかの少年に、身も心も惹かれているなんて、自分でもどうかしていると思うが、一度傾いた心はもう止められない。自分を助けてくれたから、彼以外に頼る人がいないから、だから好意を恋だと錯覚しているだけだと、自分を納得させようとした。だが、そう考えると、先に眠ってしまったテスの無防備な寝姿に反応した欲望を処理したときの罪悪感は耐え難かった。これが恋でないとしたら、自分は最低の男だ。
「……元気がないな、エド」
 近くの食堂で注文し終わると、テスはテーブルの上に身を乗り出し、小声で切り出した。
「……そうかな」
 エドが笑って見せると、テスは眉をひそめた。
「……無理をするな。お前が…不安に思うのは当然だ。おれはこんなで、お前を安心させてやれるようなものは何も持っていないし、約束できることも何もない。だが、少なくとも一族のところへは必ず連れて行って引き会わせてやる。手がかりを得られるかどうかはわからないが、助けが得られるように……お前だけでも受け入れてもらえるよう、手は尽くすから、それだけは信じてくれ」
「テス……俺は」
 そんなことは思っていない、君が責任を感じることじゃない、とエドが答える前に、テスの意識と視線が逸れた。テスの横顔が、見る見るうちに血の気を失っていく。
「……じゃあ、ローディアは近いうちに代替わりってことか?」
「たぶんな。あのローディア王が摂政を置くなんて、病が重いに違いないってもっぱらの噂だぜ」
 隣りのテーブルで話す男たちを、テスは凍りついたように凝視していた。
「……テス?」
 エドの呼びかけは、彼の耳には全く入らなかったようだった。彼はグラスを引っ掴んで水を一気に飲み干すと、椅子を降りた。
「ねえ、おじさん。おれにもその話教えてくれない?」
「ああ?」
 隣りのテーブルの横に立ち、首を傾げた可愛らしい仕種で話しかける。
「ローディアの王さまの話。おれの父さんがローディアに商売に行ってるんだけど、何かあったの?」
「心配ねえよ。ローディアの王様が病気で、第二王子が摂政に就いただけのことだ。まあそのうち、王様が亡くなってその王子が次の王様になるだろうが、あそこは体制がしっかりしているから内乱だのごたごたは起こらないだろうよ」
 アルコールが入った赤ら顔で、男は機嫌よく答えた。
「待てよ。第一王子じゃなくて第二王子が跡を継ぐっていうなら、第一王子が黙っちゃいないだろう」
「ばーか、第一王子は妾腹の上、病気でいなかに引っ込んだきりここ数年、宮廷にも出てこないらしいぜ。とても王位を継げねえよ」
 男たちがわいわい話し出すのにテスは強引に割り込んだ。
「王さまの病気はいつから?本当に重いの?」
「そこまでは知らねえよ。オレだってローディア帰りの商人に聞いただけだからな」
 男はもう終わりだとばかりに手を振った。
 席に戻ったテスの顔は強張り、声をかけるのもためらわれる雰囲気で、運ばれてきた料理を口にする間も、宿に戻る道すがらも、彼らは終始無言だった。
 部屋に戻ってもテスは言葉少なで、交替で風呂に入ってあとは寝るだけになっても、ベッドの上で片膝をかかえて考え込んでいた。考える、というよりも、悩み苦しんでいた。それでエドもベッドには入ったが眠らずに、テスが心を決めるのを待っていた。
「エド……」
「ああ」
 エドは起き上がり、足を床に下ろした。
「頼みがある」
「うん」
 テスはゆっくりと顔を上げ、エドと向かい合った。決意を固めた、強いまなざしで。
「用ができた。予定を変更して、ローディアの都、サーランを経由して行く。…もしおれの用に時間がかかるようなら、誰か他の者に案内させて、お前が先に行けるようにする。何日か遅れることになるが、許してほしい」
「うん……かまわないよ、テス」
「……サイス山脈を越えてローディアに入る。迂回する時間がない。…野盗が出没する危険な道だ。お前まで危険にさらして、すまない」
「そんなこと。むしろ、俺の方こそ足手まといになるのなら、置いていってくれてかまわないんだ。だけど君が許してくれるなら、一緒にサーランまで行きたいと思うよ」
 それを聞くと、テスは一瞬目を瞠って、泣き出しそうなのをこらえるように唇を噛んだ。
「……おれも、お前とともに一族の村まで行きたいと思っている……」
「俺もだよ、テス。ありがとう」
 テスはうつむいた。
「……理由を訊かないのか。…サーランへ行く──」
「…君は、ローディアの人なんだろう?」
「そうだ……」
「それだけわかれば十分だよ。あとは……君が言いたくなったら言えばいい。君を困らせたくはないんだ」
「……おれは……っ!」
 弾かれたように顔を上げたテスは、けれども言葉を続けることはできなかった。彼はエドを見つめ、唇を震わせた。言うことも、言わないことも彼を苦しめるのだとエドは知り、迷った。いっそ教えてほしいと、強く、無理にでも言わせた方が彼にとっては楽なのではないか。
「……テス」
「すまない……」
 テスは唇をかみしめ、エドに背を向けた。
「もう寝ろ。おやすみ」
 機を失って、エドは、ベッドの中にもぐり込んでしまったテスの背を、苦い思いで見つめるしかなかった。もしかしたら、サーランが、テスとの旅の終わりになるかもしれないと思いながら。


『遠い伝言―message―』 6

2008年09月28日 | BL小説「遠い伝言―message―」

 翌朝は「夏迎え」というよりは「夏本番」の雲一つない良い天気で、気温も上がりそうだった。絶好の祭り日和だったが、洗濯日和でもある──とテスは考えたらしく、彼らは宿の娘とともに、川から水を引いた共同の洗い場に行き、今着ているもの以外、マントから靴まで全部、石鹸の泡にまみれながら洗った。といっても、泡まみれになったのはエドだけで、テスは自分の下着や小物を洗うと「あとはお前がやれ」とエドに命じ、その上、娘の手伝いもしろ、と宿の大量のリネン類も洗わせて、自分は日陰に座って見物していた。
「本当に助かったわ。どうもありがとう」
 エドとともに、川原に張ったロープに洗濯物を干していた娘は、頬を染めて彼に笑いかけた。
「どういたしまして。こんなにたくさん、大変ですね」
 エドは、たぶん自分と同じくらいか少し上かもしれない、化粧気のない素朴な娘に笑い返した。彼女のうっとりしたまなざしに気づきもせず。
「いつものことだから慣れてるわ。でも、おかげで早く済んだから、お祭りに行けそう。……よければ、いっしょに行かない?わたし、案内するわ」
「え……」
 彼は、テスを振り返った。土手の木の下に座っていたテスは、エドと目が合うとそっぽを向いた。
「弟に、訊いてみないと。だけど、弟は興味なさそうだったから」
「そう……」
 彼女のがっかりした様子にエドは申し訳なくなり、「訊いてくる」と言い置いてテスのところへ行った。
「どうした?」
 彼女に祭りに誘われたと話し、「断ってもかまわないよね?」と言うとテスは、
「行けばいいじゃないか」
 と答えた。
「おれ以外の人間と会話するいい機会だ。練習だと思えばいい。…邪魔だろうがついて行って、助け舟は出してやる」
「君がそう言うのなら…」
 内心を見せない無表情のテスの言葉に何か引っかかったが、エドは戻って彼女に行くよ、と告げた。
「じゃあ、急いで掃除とお昼の用意を済ませるわ。お昼ごはんは一緒に食べに行きましょう!」
 彼女は先に戻ってる、と慌てて走って行った。
 エドは、テスの横に座った。
「……出発せずに今日も泊まることにしたのは、ひょっとして俺のため?俺が、祭りを見たいと思って?」
「……別に。強行軍だったから、一息入れようと思っただけだ」
「そう?」
 仏頂面で答えるテスに見えないように、エドはこっそり微笑した。
「エド、手を出せ」
 テスは、ズボンのポケットから摑み出した硬貨を何枚か、彼の手に置いた。
「今朝、洗濯を手伝うかわりに宿賃をまけてもらった。その差額だ。お前の働いた報酬だから、受け取れ。それから、彼女といる間はお前が金を出すことになるから、これはその分だ」
 と、最初に渡した分に上乗せする。
「女性のお供をするんだから、けちけちせずに使え」
 昨日からテスはそのつもりだったのだ。祭り見物をしたそうな顔をしたエドのために連泊することにし、テスに負担をかけまいとする彼が、気兼ねせず自分のために金を使えるような方法を考え…報酬で得た金を持たせて、街へ行って来いと言うつもりだったのだろう。
(だったら、断ればよかった。そしたらテスを誘って、テスに楽しんでもらえたのに……)
 白くはためくシーツの波を眩しげに眺めるテスの横顔を見つめ、エドは心の中でため息をついた。
 午後、彼らは祝祭ムード一色に染まった街へ出かけ、大道芸人に手を叩いてコインを投げ、屋台で買った揚げ菓子を食べながら露店を冷やかし、特別に公開された王宮の前庭(そのほんの一部だが)を見学した。何もかもエドにとって珍しく、心浮き立たせる経験だった。宿屋の娘エリーもとても嬉しそうで、少しばかり緊張して彼女と接していた彼をほっとさせた。ただ、彼女がいるために「エドの弟」を演じ続けているテスのことだけが、気がかりだった。
 西の空に日が傾きかけた夕刻、干しておいた洗濯物を取りに川原に寄って、彼らは一旦宿に戻った。
「エド、夜も一緒に出かけない?10マル頃から広場でみんな踊り始めるわ。若い人はみんな参加するの。ふたりで踊りに行かない?」
 エリーは昼間の余韻で頬を火照らせて、恥ずかしげに誘いかけた。
「あ、でも……」
 見ると、テスは知らん顔で横を向いていた。
「ごめん、夜は…明日発つから早く休みたいんだ」
「そんなに遅くまでいなくてもいいわ。ね?」
 洗濯物をかかえたテスは、さっさと階段を上がって行ってしまう。
「ありがとう、でも、弟をひとりにするわけにいかないから。ごめんね」
 なおも言いかけるエリーを置いて、エドは急いで部屋に戻った。部屋に入ると、テスはベッドに腰かけて服をたたみ始めたところだった。
「……おれに遠慮せずに行ってくればいい。心配したほど会話に不自由はしていなかったようだし」
「いいよ。踊りなんて知らないし。それに、明日は出発だろう?荷作りして休んでおかないと」
 答えながら、彼はテスの表情をうかがった。なぜだかさっき、テスが腹を立てていたような気がしたからだった。しかし、もうテスの感情は読み取れなかった。
 昼間につまみ食いしたので彼らはいつもより遅めの夕食をとりに、すっかり日が落ちてから出かけた。街は夜になっていよいよにぎやかになり、店の軒先に吊るされたランタンが通りを明るく照らし、道を行き交う人々は目一杯着飾って、笑いさんざめいていた。客で溢れかえる食堂でなんとか席を見つけて注文を終えた頃には、陽気な雰囲気に影響されたのか、テスも機嫌を直したようで、目が合ったエドにかすかに微笑みかけたくらいだった。
 店を出て、昼間以上の人通りの中を帰路についた彼らは、何度も通った広場にさしかかった。行きは露店に人がたむろしていたそこは、今は露店はたたまれ、ダンスの輪が出来上がっていた。
 広場は、通りに比べて薄暗かった。中央の噴水の周りに並べ置かれたランプしか明かりがなかった。その中で、いくつもの大小の輪が、歌と手拍子と、ギターをひと回り小さくしたような弦楽器の旋律に合わせて回り、縮み、拡がり、隣りの輪とくっついたり離れたりしている。よく見れば、踊る者も見物している者も、十代から二十代と思われる若者しかいなかった。踊りの輪もしょっちゅう人が加わったり、抜け出していったり、崩れがちだ。
 独特の雰囲気に知らず立ち止まってしまったエドの後ろから、声がした。
「……お前、彼女の誘いの意味を知らずに断ったんだろう」
 振り向くと、テスはエドの視線を避けるように足元を見つめていた。
「え?」
「祭りの夜は特別だ。普段は知り合う機会のない相手と出会える。前から思いを寄せていた相手に心を打ち明ける者もいれば、一夜限りの恋を楽しむ者もいる。今夜出会った相手と付き合い始めて、結婚する者もいる。踊りながら気に入った相手がいれば誘って、相手にされなかったらまた別の相手を探すし、お互いに気に入ればふたりで抜け出していってもいい。……お前も、気に入った相手がいれば中に入ればいい。朝まで帰ってこなくてもかまわない」
 その意味を理解するまでには時間がかかった。わかった瞬間、エドの頬に血が昇った。
「……!!」
 腹が立ったのではなく、恥ずかしくてたまらなかった。テスに気づかれていたのかもしれないと思うと、気恥ずかしくて逃げ出したくなった。
 この世界に来た当初は、精神的にも肉体的にも余裕のない状態だったのだろう、そんなことは感じなかった。だが、ここ数日は、夜半、あるいは明け方、テスが眠っている間に処理するようになっていた。
 茫然と、うつむくテスを見つめているうちに、冷静さが戻ってきた。エドは、テスの表情に気がついた。いつもは感情を表に出さない彼が、自分自身の言葉に傷ついていることを隠しきれずにいた。
 深呼吸して、エドは一歩近づいた。
「テス」
「……なんだ」
「俺は、誰とも踊る気はないよ」
「……」
「好きになった相手は大事にしたいから、置き去りにするような真似はしたくない。俺は自分の世界に帰るつもりだから、そんな無責任なことはしない。戻る方法が見つからなくて、ここで生きる決心をするまでは、俺は誰かを好きになったりしない…好きになってはいけないと思ってる」
 テスは、ますますうつむいた。
「帰ろう、テス」
 エドが歩き出すと、テスのついてくる気配がした。エドは歩を緩め、テスが横に並ぶのを待った。ひどく落ち込んでいる彼に怒っていないと伝えたくて、少しかがんで彼の手を握った。テスは反射的に手を引きかけたが、振り払わなかった。エドは、自分の中になぜか哀しみが満ちてくるのを感じた。
 彼はふと、自分は嘘つきになるかもしれないと、思った。
 


『遠い伝言―message―』 5

2008年09月20日 | BL小説「遠い伝言―message―」

 リベラの首都クィに着いたのは、ヴォガを出発して13日目だった。旅は順調だった。2日目の夜、エドの足のまめが潰れてペースが落ち、野宿する羽目になった以外は、野盗に襲われることもトラブルに遭うこともなく、殊に最終日は、宿泊した町を流れる川の下流にあるクィへは舟ならたった1マーレ(約2時間)だというので、彼らは久しぶりに昼間の苦行から解放されるべく舟に乗り込んだ。
 この川は、ディヴァン山脈の北方を源とし、ダーラン、ミュルディラを潤して南海へ注ぐダーラン川の支流で、リベラを東から西へ横切って、ミュルディラ内でダーラン川に合流する。同じ川の流域にあるこの3国は、川を利用して互いに移動や交易を行っているので、昔から強い友好関係にあるのだと、テスは説明した。
「だからこの3国内なら、国境はほぼ自由に通行できる。おれたちのような個人の旅行者なら通行証も必要ない。ローディアとの国境までは問題なくたどり着けるだろう。だが……」
 大陸一の大河も、この辺りではまだ川幅は狭く、流れも急で浅い。そのため舟は底の平らな、せいぜい5、6人しか乗れない小さなもので、しかも上流から下流への一方通行だった。目的地に着いたあとはいくつかの部分にばらされ、荷車に積まれて出発地に運ばれ、組み立てられるのだ。
 荷を運ぶ舟に便乗させてもらったふたりは、船べりに腰かけて、きらきら輝く川面の光と飛沫を浴びながら、互いにしか聞こえないように声をひそめて話した。
「ミュルディラ、ダーランとローディアはそれほど良好な関係ではない。対立して争うほどではないが。国境を越える主な街道には検問所が設けられ、国境警備隊も配置されている。通行証が要るのはこれらの国境と、ミュルディラとローディアの港の検問だけだ」
「……でも君は、ローディアへ行きたい…?」
 日よけに頭から被ったフードの下の、淡々としているように見せかけながら沈んだテスの顔を、エドは見つめた。彼の母親の故郷がどこにあるとも、彼が最終的にどこの国に行くとも、聞いたことはなかった。しかし今、初めて彼がローディアに言及したその口調から、ようやくわかった。
「君のお母さんの故郷は、ローディアにあるのか?」
 最初のうち、テスはまず行動して、そのあとにエドに説明するか、エドに質問されれば答えるという態度をとっていた。が、それは徐々に変わり、気がつくと、テスは「この世界についての知識を教え」ながら、実際には情報を与えておいてエドの意見や意思を確認するようになっていた。自分が何とかしてやらなければいけない、引っぱっていかなくてはいけない、はっきり言えばテスにとってお荷物でしかなかったエドが、ただ「教えてやる」だけの相手から「話し相手」くらいには格上げされたということだろうかと、エドは密かに嬉しく思っていた。嬉しいからこそ、テスの邪魔にはなるまいと思う。
「俺には通行証はないし、どこにいるのも同じだから、もし君がローディアに行くのなら、その手前で置いて行ってくれて構わない。国境まではまだずいぶんかかるんだろう?その間にもっと言葉も覚えるから」
 この世界へ来て2週間だというのに、すでにエドの会話能力は1年ぐらい勉強した程度にはなっていた。ほとんどの言葉の意味が理解でき、しかも微妙なニュアンスまでわかるというのはこの上ない強みだった。言語体系や発音が基本的にヨーロッパ言語と同じなことも幸いした。英語とは比較にならないほど多い助詞も、慣れてしまえばむしろわかりやすかった。
「……おれもお前と条件は同じだ。おれの通行証は、今のおれには使えない」
 彼は自嘲的に唇の端を引き上げた。
「なぜ?」
 テスは黙ったままだった。テスが何か隠していることを──たくさんの秘密を抱えているらしいことや、彼がただのこどもではないことを、この共に過ごした短い間にでも、エドはいやでも気づかざるを得なかった。
 自然の気を見るという能力だけのことではない。この世界に慣れて見えてくるにつれて、どれほどテスが「普通のこども」どころか「一般的なおとな」からもはずれているかわかってきた。
 テスは、エドの質問に答えてくれる。わからないことばかりの彼は、草木の名前や人々の仕草の意味から、この世界の技術水準、国際情勢まで、後先考えずに質問していたが、よくよく考えてみれば、たとえ自分の世界でも、中学生はもちろん、大のおとなでもよほど教養のある人でないと答えられないようなことを訊いてしまっていたことに気づいた。ましてメディアも発達していない、教育制度も十分に整っていないこの世界で、彼の質問のすべてに答えられる者はほとんどいないだろう。ほんの一握りの、それらの知識や情報を得られる立場の人間以外には。
 だが、テスはたいていの質問に答えてくれた。しかも、抽象的な言葉が通じにくいと、わかりやすく言い換えて説明してくれた。むしろ、市井の民が知っていそうなことが苦手で、法律や政治の分野の方が詳しかった。
 どう考えても、テスは支配階級(この世界ではまだ身分は世襲制で、支配階級として貴族が存在していた)の出身としか思えなかった。なのになぜ、こんなふうに幼い身でひとりきり、あてもなく旅しているのだろう。今、表立って戦争中の国はないと彼は言った。だとしたら、政変か政争に巻き込まれ、国を追われたのだろうか。
 エドにとってテスは、わからないことが多すぎるのに、気持ちの上でも現実の上でも大きすぎる存在になっていた。探りを入れれば肝心の部分はかわされてしまう。知りたくてたまらないのに、しつこく訊けば嫌われるのではないかと二の足を踏む。
 謎なのは、彼の素性だけではなかった。テスと話していると、年上の相手と話している錯覚に陥る。目の前のこの少年の姿こそが嘘だとでもいうように。時折見せる虚無的な自嘲の表情、思いつめた暗くきつい瞳。夜中にテスが眠れない様子で、抱えた膝に顔を埋めて、何十分もそうして過ごしていることがあるのを、エドは知っていた。彼にできることは、寝ているふりをすることしかなかったけれど。
 エド以外の人間には無邪気な表情で、必要とあらば甘えを滲ませて舌足らずに「お願い」してみせておきながら、エドに対しては、テスを外見通りのこどもとしか見えない大人ならば怒り出しそうな、ぞんざいで、エドを目下としか思っていない態度や有無を言わせない命令口調をとる。そんな彼の二面性に面食らい、途惑いながら強烈に興味を引かれていることをエドは自覚していた。時にその芝居が痛々しく、いとおしくて抱きしめたいと思い、時に大人の表情で翻弄し混乱させる彼を押さえつけてめちゃくちゃに抱きしめたいとも思う。その衝動はまだ切実なものではなく、普段は珍しいこと知らないことを見て学ぶのに夢中で、そんなことは忘れていたが。
 今ふたたび、彼の仲に強い疑問が湧き起こっていた。「君は誰なんだ」「どうして旅をしているんだ」「いったい何から逃げているんだ」「君は本当に……見ているままの『テス』なのか?」
 しかし結局、今度も彼は口に出せなかった。
「……ローディアへ……母の故郷へ行くというのは、決めていたことじゃない。あのとき…」
 エドを見上げたテスの目が、川の反射に金色に透けて、眩しげに細められる。
「お前に遇うまでは、迷っていた。目的地もなくふらついていることにも疲れたし、それ以外にあてなどなかったし……だが、ローディア国内に入るのは気が進まなかった。ローディア国境を前にしたら、やはり引き返してしまうかもしれないと思っていた。けれど、お前を見つけて…お前が聞いたこともない言葉を…異世界の言葉を話すのを聞いたとき、これは偶然ではない、おれは一族のもとに行かなくてはならないのだとわかった。おれはお前を、一族のところへ連れて行く役を負っているんだ」
「どうして?俺と君の母親の一族と、何の関係が……」
「おれの力は、母方から受け継いだと言ったろう。おれも、お前も、同じ力を持っている。そして、一族の伝説では、一族の祖先たちは」
 テスは伸び上がるようにしてエドに顔を近づけた。息が頬にかかる。
「この地上にはない場所、この世界ではないどこかから来たという──」

 クィは、首都というだけあって、今まで訪れた町や村とは段違いに賑やかで、立派だった。道行く人々の服装も、華やかで明るい色が多くなった。
 町の基本的な造り自体は規模が大きいだけで同じだった。水場のある(あった)広場を中心に大きな店や食堂が建ち、メインの広場から放射状に伸びる道沿いに宿屋やこまごまとした店が並び、次の広場につながる。次の広場には役所、あるいは神殿がある。こうして広場と広場、それらをつなぐ道とが網目状に広がり、一つの町を構成している。道も中心部はレンガか石で舗装されており、踏み固められただけの土の道を見慣れてしまったエドには、ずいぶんな都会に思えた。そうエドが感想を洩らすと、テスは肩をすくめ、
「七つ国の首都の中では、6番目の大きさでしかない。……だいたいお前の世界では百万人以上住んでいる都市も珍しくないのだろう?何を感心している?」
 テスは積極的にエドの世界のことを聞こうとはしなかったが、エドが話すときには熱心に耳を傾けた。歩きながらの気晴らしに、あるいはベッドに入ってどちらかが先に眠りに落ちるまでのひとときに、エドは思いつくまま、テスの隠し切れない好奇心に輝く瞳や、想像の翼を広げ遥か夢見るようなまなざしに喜びを感じながら、語り聞かせていた。
 飲み物を売っている屋台で、おなじみになったレモネードのようなお茶──ここでは蜜が入れてあって甘かった──を立ち飲みし、ついでに宿が集まっている地区を教えてもらい、彼らは今夜の宿を探した。庶民的な宿から敷居の高そうなホテルまでそろい、旅人を呼び込もうと値段と宣伝文句を書いた看板を道に出しているところも多い。それらを見比べつつテスは何軒かに入って部屋を見、普通の家を改装したらしい小さな宿に決めた。
 荷物を部屋に置いて「待ってろ」と出て行ったテスは、戻ってくるなり「出かけるぞ」と言い、自分の剣をベルトごとはずしてエドの腰に下げさせた。
「テス?」
「手持ちの現金が少なくなったから、換金する。お前は無愛想に突っ立って、せいぜい相手に睨みをきかせろ」
 例によって有無を言わせぬ調子で言うだけ言って、ついて来いとも言わずに踵を返して出て行くテスを追って、エドも宿を出た。
「大陸全土で共通の貨幣を使用していることは話したな?」
「ああ。各国で鋳造しているけど、金属の割合は厳密に決められているとか、各国が発行している補助貨幣はその国内でしか使用できないとか」
「そうだ。ただ、トレス金貨は重いしかさばる。だからそれと同様に全土で通用して、かつ少量で価値が高いものとして、多額の取引や、大金を運ばなければならないときなどに地金がよく使われる。多少の値動きはあるが、これが一番換金性が高い。その次は宝石だが、これはその石自体の価値や加工状態によって値段が大きく変わるから、素人が判断するのは難しい。信頼できる業者と取引することと、交渉が重要になる」
 いくらテスが早足でも、歩幅が違うので並んで歩くのに支障はないが、初めて帯びた剣の重みはどうにも慣れなかった。その上、大勢の人でにぎわう通りを歩くときは鞘の先が人に当たらないよう気をつけなくてはならず、エドは今更ながらに、テスが剣を腰に下げる習慣が身についていることを痛感した。
「ただ、おれだとこどもだと思って安く買い叩かれるのもしゃくだからな。お前がいれば多少は違うだろう」
「…それで、『睨みをきかせろ』?」
「頼むよ、お兄ちゃん」
 いたずらっぽい笑みをひらめかせたテスの、艶めいた瞳にエドの胸はズキンと疼いた。彼は頬の熱さを意識したが、幸いテスは店探しに気をとられていた。
 どうやら宿の人に教えてもらったらしい、飾り細工やアクセサリーを売る店でテスは更に情報を仕入れ、商店街から奥に折れ、問屋や小さな手工業者が集まる一角へとやって来た。倉庫の前には木箱の積まれた荷車が何台も連なり、開け放たれた窓や入口からは、作業台に向かう人の姿が垣間見え、店先で男たちが額をつきあわせて値段の交渉をしている。
 テスは入口の上に掲げられた看板を見て、その小さな戸を引き開けた。
 中は、意外と明るかった。通りに面した小さな窓には格子がはまっていて、そちらからはあまり光が入らないが、建物は中庭を囲む形に建てられ、中庭側は床から天井までの可動式の壁が開け放たれており、光が眩しすぎることなく室内に溢れている。
 この辺りの建物としては珍しい様式だった。今まで見てきたのは、農村のL字型か、市街の凹凸のない四角い建物ばかりだった。だが、奥の棟を見て納得した。何人もの男たちが、それぞれ小さな炉を前に金属の加工を行っている。あれでは風通しが良くないと、暑くて耐えられないだろう。
 どうやらここは宝飾品の工房のようだった。直接販売もしているらしく、入ってすぐに木枠のガラスケースの並んだカウンターがあった。
「何か入り用かね」
 カウンターの向こう側に、日に焼けた肌の痩せた中年の男が立っていた。
「ここはいい石を扱ってるって聞いたんだけど」
 テスは、あまり愛想がいいとはいえない男に、邪気のない笑顔で近づき、
「買ってほしい原石があるんだ。見てもらえないかな?」
 とベルトポーチから取り出したものを、カウンターの上に置いた。男は無言でそれを手に取り、ルーペでつくづくとひっくり返したり光に透かして見たりしていたが、「親方!」と奥に向かって怒鳴った。
「何だ?」
 工房にいた、やはり肌が赤銅色に焼けた押し出しのいい男は、刈り上げた額から流れ落ちる汗を拭きつつやって来た。
「お客さんが石を売りたいんだそうで」
「どれ」
 親方と呼ばれた男は、ルーペと石を受け取ると中庭に出てじっくりとそれを見ていた。
 エドからは、どんな石をテスが渡したのかよく見えなかった。それほど大きな石ではなかった。せいぜい小指の先くらいだろう。かろうじてわかったのは、色はついてなかったことだけだ。
 男はテスのところへ戻ってくると、カウンターの中から黒い布を取り出してその上に石を置いた。それは無色透明だった。
「悪くない。3千サン出そう」
「4千5百」
 エドの感覚では、1サンはほぼ1ドルの価値に相当した。彼は内心の驚きを顔に出さないように、テスに言われた通り腕を組んで突っ立っていた。
 高いカウンターにほとんど背伸びして両肘を載せて、テスは男となおもやり合っている。
「3千7百」
 男の出した数字に、初めてテスは、今までいることを忘れているんじゃないかとエド自身思い始めていた彼を振り返った。つられて男も彼に視線を向ける。エドはどう反応すべきかテスの意図がつかめず、しかめ面のままでいるしかなかった。
「5百は現金で、残りは金。換算はおじさんのところの買い価格で。それでどう?」
 テスは顔を戻すと言った。
「……いいだろう、ぼうず」
 受け取った現金はテスが、金の板はエドがそれぞれ持ち──というか、テスが、ぼーっとしているエドのベルトに皮袋をくくりつけ、彼らは店を出た。もとの表通りに戻ってやっと、エドは口を開いた。
「あの石、そんなに高いものなのか?」
「原石だからたいした値じゃない。加工されて、指輪だの剣の飾りだのになって注文主の手に渡るころには、1万サンにはなっているだろうがな」
「1万……!」
 宝石店どころか、デパートの宝飾品売場にすら足を踏み入れたことのないエドには、それが妥当な金額なのかどうかなどさっぱりだったが、少なくとも彼の金銭感覚からは、たかがアクセサリーに支払うには途方もない金額としか思えなかった。
 夕刻が迫り、街路には人が溢れ始めていた。メインストリートの露店は数を増やし、着飾った若い女性が目につく。
「ずいぶんにぎやかだね。やっぱり都会は違うな」
 エドは腰をかがめてテスに小声で話しかけた。
「今日は──今日と明日は特別だ。夏迎えの祭りがあるそうだ。今夜は前夜祭らしい」
「お祭りかあ。どおりで…」
 食べ物を売る店以外の商店は、まだ明るいにもかかわらずどんどん閉め始め、「営業中」の札を裏返しにする。いつの間にか彼らは、人の流れに逆らって歩いていた。
「向こうに何かあるのかな?」
「たぶん、前夜祭の会場があっちにあるんだろう。祭りは町の守護神が祀られている神殿で、神に感謝と繁栄の祈願を捧げる儀式で幕を開ける。それから神殿前の広場で劇や踊りが奉じられる。みな、それを見に行くんだろう」
「ふうん……」
 人々の行き先を目で追っているエドを見て、テスは、
「……興味があるなら、見に行ってこい。夕食代は渡してやるから」
「え?いや、いいよ。君も行くなら行くけど……」
「おれは興味ない」
 言いながらポケットを探り、5サン銀貨を差し出す。エドはその手を押しとどめた。
「じゃあ俺も行かない。それより君に訊きたいことがあるし」
 テスは苦笑いを浮かべ、銀貨をしまった。
「…わかった。では、早めに食事をして宿へ戻ろう」
 道の端を歩いていく彼の後ろを、並んで歩けなくなったエドがついて行く。と、警告する間もなく、よそ見をしていた男が視界に入らなかったらしいテスに、勢いよくぶつかった。
 よろめいたテスをとっさにエドは抱きとめた。ぶつかった男はちらっと振り返っただけで人混みにまぎれて行ってしまった。しかしエドは、それを咎めることも忘れていた。
 テスが胸の中に倒れこんできた瞬間、あっ、とエドは心の中で声を洩らした。体全体が大きく脈打ったような衝撃が走った。
 何に衝撃を受けたのか自分でもわからなかった。腕の中にテスの体がすっぽりとおさまっていた。彼の体を自分の体で覆い隠してしまえる体格差を、初めて知った。テスは少年で、彼の頭が彼の胸までしかないことは知っていた。知っていただけで、わかっていなかった。自分が彼の小さな頭も細い肩も、何もかも自分の腕と胸で抱き込んでしまえることを。
 驚きと途惑いが溢れてくる。そして、怖れと。
(おそれ……?)
 エドは不思議に思った。
(これは、俺の感情だろうか……?)
 胸を押し戻され、胸の中の温かさが逃げていく。
「……悪い」
 テスはうつむいたまま言い、背を向けた。歩き出す彼を追って、エドは彼の半歩前に出た。
「……こども扱いするな」
 庇われたと知って、彼は呟く。
「してないよ。単に俺の方がでかいから」
 ふたりは気まずい雰囲気のまま食事をして、宿に戻った。
 この世界に来て初めて「たらいに湯」ではない風呂に入ってさっぱりし、ベッドに寝転がってくつろいだおかげで、ぎくしゃくしていたふたりの間も、元に戻った。
 風を入れるため開け放した窓からは、遠い音楽や人々のざわめき、浮き立った町の空気が流れ込んでくる。
「……テス、訊いてもいいかな」
 訊きにくいこと──テスの素性や過去に触れる質問をするとき、エドはいつもテスの反応をうかがいながら、そう切り出した。
「何を」
 それに対するテスの応えもいつも同じだった。答えられることは答える。できないことには黙っているが、とりあえず言ってみろ、ということだった。このやりとりがこの半月の間に何度あったことだろう。
 エドは腹這いの上半身だけを起こし、テスの方へ顔を向けた。
「君はいつも金のことは心配するなって言うけど、どうしてるんだ?」
「……あの宝石のことか?」
 テスは頭の下に腕を組んで、目を閉じたまま答えた。
「お前に会う前は、あちこちの鉱山にいた。金や銀の鉱山は国家が管理しているが、宝石についてはその組合が採掘権を国から買い、人を雇って掘らせている。雇って、といっても日当を払うわけじゃない。採掘料を払わせて一定面積を掘らせ、出てきた宝石は組合と掘り当てた者とで分ける。その割合はその山によって違うがな。当然、たくさん、より価値のある石を掘ったらそれだけ儲かるから、一山当てようとする奴らが群がってくる。何も出なければ大損だ。どこを掘るかの場所は選べるが、見る目のない奴、運の悪い奴は土ばかり掘る羽目になる。前に出た場所の近くにしたり、占いに頼ったり、みな必死だ」
 彼は目を開け、体ごとエドへと向いた。
「自然は、すべてそれぞれ気を発している。もともとその気を読んで気象を予想したり水脈を探したりするのが、母の一族の生業だった。宝石探しもその応用だ。だから…」
 彼は不敵な笑みを浮かべた。
「お前が思っているより、おれは金持ちなんだ。だから遠慮したり、申し訳ながったりする必要はない。こんなこどもの世話になるのはお前のプライドが許さないかもしれないが……」
「俺のプライドなんて…」
 エドは寂しく笑った。
「そんなの、ないよ。今までずっと、人のお情けで生きてきたようなものだし……」
 親に捨てられた自分は、他人の世話になり続けて生きてきたのだという卑屈な思いは、今でも彼の中から消えずにある。
「……なぜ?」
 驚きを表に出して、テスは目を見開いた。
「俺の母は恋人ができて家を出て行った。父は俺を育てられなくて、養護施設に預けてそれっきり帰ってこなかった。そこに何年かいたあと、今の養父母に引き取られた。今だって、国から奨学金をもらっているから学校に通える。今までの人生のほとんどが、他人の援助のおかげだ。そのことに感謝こそすれ、ひがむ理由なんかない。でも……」
 彼はシーツに目を落とした。
「そんな善意やお金を使ってもらう価値が自分にあるのか、自信が持てないんだ。…そもそも、価値があろうがなかろうが、それらはみんな、俺に与えられたものじゃなくて、親から与えられないこどもだから与えられたに過ぎなくて、与えられた分は社会に返さなきゃいけないなんて、当たり前のことに卑屈になっている俺は、本当に……情けない人間だよ……」
 縛っていない生乾きの髪に手を突っ込んでうなだれるエドを、迷う瞳でテスは見つめた。体を起こしかけたのに、そのまま止まってしまう。
「……ごめん。ちゃんと自分の力で生きている君に、こんな甘ったれた愚痴を言うなんて、ますます情けないよな、俺。不愉快にさせて、ごめんよ」
 無理に笑ってみせるエドを、テスはしかめ面で睨みつけた。
「お前、おれがお前を助けたことも、自分にはそんな価値がないなんて思っているのか?」
「え……俺……」
 テスは起き上がって座り込んだ。
「おれは、お前の放つ気を見て、少なくとも心が歪んだり汚れたりした人間ではないと判断して声をかけた。こんな目に遭っても取り乱したり、いたずらに嘆いたり自棄になったりもせず、こんなこどものおれを信用して、対等に接した。だから力を貸す気になった。最初に言ったとおり、どうしようもない奴だったり、一緒にやっていけないと思ったら、途中で見捨てることになっても仕方ないと思ってた。けれどお前は、内心は知らないが、不安を口にしたり、弱音を吐くこともせず、懸命にここに慣れよう、学ぼうとしていた。今まで一緒にやってこられたのはお前のそういう努力があったからだと思う。だけど……たぶん、それだけじゃおれは、こんな……」
 テスの頬が染まる。
「こんなに長い間、一緒にいられなかっただろう。お前だから心を許して、いろんな話もしたり、一緒にいるのが楽だった。お前以外の人間だったら、旅をするのは苦痛になっていただろう。おれは、お前を、単なる旅の道連れだとは思っていない……!」
「テス……」
 彼は、ぷいと顔を背けた。
「少しは自信を持て。お前でなければ、おれはここにはいない」
 照れ隠しか、彼はエドの視線から逃げるように背を向けて、ベッドの中にもぐりこんでしまった。
「テス……」
「………」
「ありがとう。……俺は、君のそばにいてもいいのかな」
 エドは、幸せな笑顔を浮かべ、囁きかけた。テスは頑なに黙っていたが、返事は期待していなかったので、彼は窓を閉め、ランプを消した。
「おやすみ、テス」
 彼もベッドに入り、目を閉じた。しばらくして、聞き逃しそうな小さな声で、おやすみ、と返ってきた。


『遠い伝言―message―』 4

2008年09月15日 | BL小説「遠い伝言―message―」

 目が覚めたとき、驚いた余韻で心臓がどきどきしていた。
「起きろ」
 声のした背後に身を捩り、そこにテスの姿を見つけて頭がはっきりする。テスはすっかり身支度を整えていた。
「先に下に行っている。食事をしたらここを出るから、用意をして食堂に来い」
 エドはかくかくと大きく頷いた。
「荷物、持ってきてくれ」
 そう言って出て行きかけるテスに、慌てて声をかける。
「ごめん!もっと早く起こしてくれて良かったのに」
「……声をかけたが、起きなかった」
 ノブに手をかけて、テスは無表情に答えた。
「昨日も思ったが、お前寝起きは悪いな」
 エドは背中に残る感触で、彼を起こすためにテスがとった手段に思い至った。昨日も今朝も、どうやら蹴りとばされたらしい。きびきびした動作やしつけの良さから、いいところの生まれではないかと推測していたのだが、意外と足癖は悪いようだ。
 洗面を済まし、テスの見た目より重い荷物を持って食堂へ行くと、一人分の食事が残されているだけでテスの姿はなかったが、厨房の入口から彼と宿の女の会話が聞こえてきた。女の言っていることは、半分くらいしかわからなかった。テスの表現によると「気を読む」方法で意味を理解しているらしいので、相手が見えない状態ではよく読み取れないのだろう。それにしてはテスの言葉は完全に聞き取れるのが不思議だった。
 温かいお茶の入ったカップを両手に戻ってきたテスは、片方をエドに渡し、丸椅子を引き寄せて机の角をはさんだエドの横に座った。
「まずは市場で買い物をする。とりあえず、村を出るまでお前がしゃべっていいのはウィ、とネ、だけだ。おれが何か訊くかもしれないが、そのときはどちらかで答えろ。いいな?」
「ウィ」というのがYESで、「ネ」がNOだった。
「ウィ」
 とエドが答えると、テスは満足げに笑った。
 テスはエドが食べ終わるのを、お茶を飲んで待っていた。テスが持ってきてくれたカップの中身は、熱い、砂糖抜きのレモネードのようなお茶だった。飲んだあとにさっぱりした酸味とかすかな苦味が残り、おいしかった。
 宿を出ると、昨日の曇り空とはうってかわって青空が広がっていた。広場には露店が並び、それなりに朝の活気を呈していた。それなりというのは、本当に小さな辺境の村らしく、どうしても寂れた雰囲気が漂うからだった。
 エドはテスのあとをきょろきょろしながらついていった。売られているのは雑貨や食料品から農具、それに武器まで、品揃えや量は豊富とは言いがたかったが、とにかく一通りのものはありそうだった。
 テスはぐるりと市場を一周すると、その間に目星をつけておいたらしく、迷わず目的の店へ向かう。
 携帯できる食料、食事用の肉切りナイフ、フォーク、マグカップ、歯ブラシに櫛などの日用品。古着屋で服や靴も買った。そのときになってエドはやっと、教えられた「ウィ」と「ネ」を使う機会がやってきた。
「この服、大きくないか?」「ネ」「色はこれでかまわないか?」「ウィ」
 しっかりものの弟が兄のために服を選んでいる、という様子でテスは衣類を買い揃えた。買い込んでいた雑貨も、エドのためのものだった。
 エド用のリュックサックも買い、買ったものをひとまずそこに詰めこんで彼らは市場を離れた。共同井戸で水を壜に詰め──テスの袋が重かったのは、このガラス壜のせいだった──入ってきたのと反対側の門から村を出、しばらく草原の中を続く白い砂利道をひたすら歩いた。村がすっかり見えなくなり、人影も、放牧された牛らしい群れも、前後左右地平線まで全く見えなくなるまで。
「──テス」
 我慢できなくなって、エドはテスの後ろ姿に呼びかけた。
「もうしゃべってもいいかな?」
 ずっと、質問したくてうずうずしていたのだ。疑問はそのままにしておけない性質の彼は、昨日のショックから立ち直ると、何もかもわからないことだらけの状態のままではいられなくなってしまった。
「ああ。だが休憩はまだ先だぞ」
「わかってる。あれこれ質問されるのはうっとおしい?」
 テスは、横に並んだ彼を目線だけで見上げた。
「山ほど訊きたいことがあるのは当然だ。答えられる限りは答える」
「よかった…。まずは、ここはどの辺りなんだい?この世界のだいたいの地理を教えてくれないか」
「……我々が頭の中で描く世界は、通常この大陸だけだ。中央部から西海岸にかけては広大な沙漠で、ほとんど人は住んでいない。国や都市は海岸沿いにある。主な国は北海岸にキッサム、アーナム、ノードン。東海岸はすぐ近くにディヴァン山脈がそびえているため、大きな国はなく、独立した都市がいくつかある。西海岸は沙漠が迫っていて、町といえるほどのものはない。南は、東海岸との境であるディヴァン山脈から沙漠がはじまる間の地域に川と湖が集中して、豊かな平野が広がっている。ここに七つの国がある」
 エドは必死で頭の中に地図を作った。全体の形がわからないので、いいかげんな丸を描いて、特徴と国名を書き込んでいく。
「ちょっと待って。方角がわからない。南はどっち?」
 エドは上に昇りつつある太陽の位置が気になっていた。もしかしたら、と。
 テスは太陽を指差した。
「太陽が最も高くなったときの方角が『北』。『北』を向いて太陽が昇ってくる方向──と彼は手を右に動かした──が『東』、沈む方向が『西』、背中側が『南』だ」
 やっぱり、とエドは思った。太陽の動きが逆だった。この世界が「平面」だったり「天動説」でない限り、自転方向が逆か、そうでなければ南半球にいるとしか考えられない。
「……わかった、続けて」
 エドは、南半球にいると考えることにした。太陽が西から昇ると考えることには慣れそうになかったのだ。
「今おれたちがいるリベラと、メルビア、トーリア、ミュルディア、ダーラン、ナバディア、ローディアを称して、七つ国と呼んでいる。そのうちミュルディア、ダーラン、ローディアの三国で全体の七割の領土を占めている。東から海岸沿いにメルビア、トーリア、ミュルディア、ローディア、ナバディア。ディヴァン山脈とトーリア、ミュルディアに接しているのがリベラ、リベラの北にダーラン、ダーランとミュルディアの西にローディア、その西にナバディア。…あとで紙に書いてやる」
 テスは、エドがぶつぶつと国の名前を呟いているのを見かねたのかそう付け加えた。
「ヴォガは、七つ国側からディヴァン山脈を越えて東海岸へ出る峠道の手前にある町だ。といっても、東海岸へは海路を取るほうが各段に楽で安全だから、あの通り寂れているがな。おれは、東から峠を越えてきたところでお前を拾ったわけだ」
 テスの説明に、エドは昨夜、テスが「偶然で片づけられない」といったわけを理解した。人もほとんど通らない場所にいたエドがテスと出会ったことすら奇跡に近いのに、それが特殊な能力を持ったテスだったとは、これは偶然なんかではあり得ない。
(……あれ?)
 エドの中で、何かが引っかかった。「偶然」という言葉が、彼の記憶の何かを刺激した。
(何だったろう……何か大事なことを忘れているような……)
「…他には?」
「あ、えっと、言葉は?それぞれの国で使っている言葉は違うの?」
「いや、方言はあるが、元は同じ言葉だからだいたい通じる。ただ、キッサムはもともと他の大陸から流れ着いた人々が作った国だから、
通じにくいことはある」
「他の大陸?」
「遠く、北の海を隔てて大陸があり、この大陸とは少し外見が異なる人々が住んでいることはわかっている。けれどもその間に常に暴風雨が吹き荒れている海域と激しい潮流があって、そこを越えていくのは困難だ。同じく向こうからやってくるのもな。時折向こうの船がそれに巻き込まれ、奇跡的にこちらに流れ着くことがある。だから純粋のキッサム人は、黒い髪に黒い目と、褐色の肌をしている」
 テスの言葉が途切れたので、エドは訊いてみた。
「君は、そこの出身なのか?」
「……いや。だが、その血は混じっているのかもしれないな。混血も進んで、南海岸でもキッサム系の者は結構いるし」
「ああ、それで」
 エドは声を弾ませた。
「俺たちが兄弟だと言っても不自然じゃないんだ」
「…子連れ同士の再婚か、片親が違う程度にはな」
 テスは肩をすくめた。
「お前もその髪は目立つぞ。そこまで薄い色の者はめったにいない。光に当たるとまるで……」
 太陽は地上にもエドの頭にも強い光を注いでいる。彼を見上げ、テスは目を細めた。
「コーエンの綿毛みたいに透けてしまう……」
「…俺、髪には少しコンプレックスがあるんだ」
 エドは口を尖らせた。
「この色にくせっ毛だろう?短くするとくるくる巻いちゃって、赤ん坊みたいな頭になるんだ。それで伸ばして縛ってる。こうしていれば重みでウェーブが伸びるし、地味になる」
 とエドは信じていた。彼の自分自身のイメージは、地味で目立たない、だったので、派手なプラチナブロンドの巻き毛ほど、自分に似合わないものはないと思っていた。実際には柔和で端整な容貌に、肩甲骨まで伸ばした髪を無造作にまとめて垂らしている彼が、キャンパスでもカフェでも女性たちの視線を集めていることを知らないのは、本人だけだった。
 幸か不幸か、テスの「地味…?」という疑わしげな呟きは、彼の耳には入らなかった。
「だいたい大まかな地理はわかった。それで、俺たちはどこへ向かっているんだい?」
「とりあえず、リベラの首都クィを目指す。人の多いところの方が目立たずに済む」
 目立ちたくない理由があるのだろうか、とエドは思った。異邦人であるエドの正体がばれないようにという配慮よりも、自分自身が目立ちたくないという意識の方が、テスの言葉の端から伝わってきた。
「……君は、どこへ行く予定なんだ?それとも家へ帰るところ?」
「……」
 うつむき、黙り込んだテスの気配にエドは、
「ごめん、事情があるならいいんだ。ただ、君とどこまでいけるのかと思って…」
「……母の故郷に、行ってみようかと考えていた……」
 テスは機械的に踏み出す足先を見つめながら答えた。
「おれの能力は、母から受け継いだものだ。母の一族はこの能力のために、人里から離れ、身を隠して暮らしている。だからはっきりとした場所はわからない。だいたいの位置は知っているが……」
 それだけで、エドは悟った。テスには帰る場所がないか、帰る意思がないのだと。「母の故郷へ行く」というからには、彼の母親は故郷にも、そして家にもいないのだろう。それとも、亡くなったのかもしれない。父親は、他に家族はいないのかと問いたかったが、それ以上立ち入る権利は彼にはなかった。
「そこは、遠いの?」
「ああ」
 テスはフードをかぶった。日が高くなり、日射しも強くなってきた。風はさわやかだったが、日が当たるとじりじりと暑さを感じる。エドもテスに倣うことにした。
 白い道は草の進出に消されかけながらも途切れることなく、周りの景色もちらほら木立が目立ち始めたほかは変わりこともなく、ただディヴァン山脈の青い色は薄くなっていた。
「ここで休もう」
 道の脇で枝を広げ、ささやかな木陰を提供する木の下に座り込み、彼らは喉を潤した。
「さっき買った服に着替えておけ。荷物も重さが片寄らないよう詰め直した方がいい」
 本当にどちらが年上かわからないなと思いつつ、エドはTシャツとジーンズを脱ぎ、生成りの長袖シャツと上から被るくすんだオリーブ色のベスト、揃いのゆったりしたズボンを身につけた。テスは剣を吊るすための専用の太いベルトをしているが、エドはそれより細い、皮袋などを引っかける金具がついているだけのベルトを結んだ。
「……そういえばテス、君は剣を持っているけど、ここではそれが普通なのか?ヴォガでは、剣を持っている人は見かけなかったけど…」
「剣を持つのは、それを生業にしているか、それが必要な立場の者だけだ。例えば徴兵された者、傭兵を稼業としている者、職業軍人、身を守る必要のある富裕階級、旅の者、それに……野盗」
 エドはぎょっとした。
「野盗?!」
「ああ。お前の世界にそういう輩はいないのか?」
「いや…いるけど、警察……取り締まる役人もいるから…」
「大きな町には警備兵がいるし、自警団を組織しているところもある。だが、待ちの外に出れば基本的に自分の身は自分で守らなくてはならない。大人数で移動したり、金のあるものは私兵を雇ったりする。…お前は何か武器が使えるか、それとも武術ができるか?」
 テスに見上げられ、エドは赤面した。
「……すまない、何もできない」
「だろうな」
 彼はあっさりと言った。
「向こうでは何をしていた?」
「学生……学校で、勉強していた」
「学者になるのか?」
「なりたいと思っている」
「そうか。それはいい」
 テスはかすかに表情を和らげたが、すぐに引き締めた。
「この辺りは旅人も交易の輸送団もめったに通らないから、かえって安全だ。しかしこの先、もし襲われるようなことがあっても、おれを助けようとか戦おうとかは思わなくてもいいから、最低限、足手まといにならないようにさっさと逃げろよ」
「……わかった」
 とても不本意だったが、不承不承エドはうなずいた。その納得していない表情を一瞥して、テスは立ち上がった。
「行くぞ。次の町まではまだ20フォルト以上ある」
「20フォルト…」
 座っている間はずしていた長剣をベルトに付け直したテスは、両手を目の前にかざした。
「フォルトは距離の単位。『20』は両手の指の合計である『10』の2倍。『2』は腕の本数。まずは数の数え方から始めよう」
 それから町に着くまで、テスによる数字と単位のレクチャーは続き、宿に入ってからもエドはまるで小学生のように、その日の学習の成果のまとめと復習をやらされたのだった。おそろしく厳しい教師のもとで。


『遠い伝言―message―』 3

2008年09月13日 | BL小説「遠い伝言―message―」
 ヴォガに着いたときには、とっぷりと日が暮れていた。町、といっても、生まれ育ったサンフランシスコと、今住んでいるバークレーしか知らない都会育ちのエドにとっては、それこそ見渡す限りの牧草地か、小麦畑を突っ切る国道の途中にある小さな集落ほどにしか見えなかったが。それでも一応、外敵を防ぐためか境界を示しているのか、石を積み上げた壁に囲まれて、一個の独立した町の体裁を保っている。
 町へ入る門は閉ざされていたが、門というほどのものではないそれは、引けば簡単に開いた。出入りを制限するためのものではなく、やはり単なる境界にしか過ぎないのだろう。
 ぽつりぽつりと小さな家の中に灯った明かりしかない町は暗く、ひっそりとしていた。こんなところに泊まれるようなところがあるのかとエドは心配になったが、中心部らしいちょっとした広場までやってくると、人の姿もあり、飲食店や商店らしい建物が広場を囲み、ざわめきや明るい光が洩れていた。
 エドは、中世の村に迷い込んだような気がした。どことなく違和感はあるが、本や映画、でなければゲームで見た中世ヨーロッパの町並みや風俗にいちばん近いように見えた。
「……いいか、お前は口をきくな。おれが何を言っても適当にうなずくだけにしろ」
「あ、ああ」
 テスの緊張が伝わってきて、エドも、いよいよこれが、この異世界の文明とのファーストコンタクトなのだと思って心臓が高鳴った。緊張だけでなく、わくわく感が混じっているのは、まだ実感が本当には湧かないせいかもしれなかった。自分では、埋もれた文明を探し出し、明らかにしたいという志で考古学を学んでいるつもりだが、考古学者や探検家たちが活躍する映画や冒険小説に夢中だった子供時代を忘れたわけではない。
 テスは広場から伸びる路地の、一軒の食堂らしい店に入っていった。狭い店の中に客は男が二人、黙って食事をしていた。
 ドアに付けられたベルの音で、厨房から中年女性が出てきた。彼らを見て、愛想笑いを浮かべる。
「いらっしゃい。泊まりなら、空いてるよ」
「二人でいくら?」
 テスは、さっきまでの尊大な、厳しい口調とはうって変わった、声の高さまでも違う話し方をし始めたので、エドは思わず彼の横顔をまじまじと見てしまった。表情もにっこりと、実に可愛らしい少年ぶりである。
「朝食つきで二人部屋30サン。体を洗うのに湯を使うなら、一人につき1サン上乗せだよ」
「うーん、部屋を見せてもらえる?」
「いいよ」
 長いスカートをからげ、手燭を持って女が階段を上っていくあとに二人も続く。
 木のベッドが二つ並び、その間に小さな木の台があるだけの、質素極まりない部屋だった。が、今のエドには、この部屋がこの世界ではどの程度のものなのか、安いのか高いのか妥当なのか、さっぱりわからなかった。
「うん、決めた。一晩借りるよ。お湯ももらえるかな?」
「ああ、いいよ。すぐ使うかい?」
 テスはベルトにつけたポーチからコインを取り出した。
「うん。あと、食事も頼みたいんだけど、ここで食べてもいい?」
「構わないよ。定食でいいかい?だったらあと4サンおくれ」
 女は受け取ったコインを数え、スカートのポケットにしまった。
「食事はすぐに持ってくるよ。お湯はちょっとかかるから、あとで沸いたら呼んでやるよ」
「食事は取りに行くよ。…兄ちゃんは休んでて」
 テスは目顔でエドにそこにいろ、と合図して、女と一緒に出て行った。
 女が置いていった手燭一つの薄暗い部屋に残され、エドは緊張を解いて硬いベッドに腰かけた。
「…兄ちゃん、って……兄弟というにはちょっと苦しいよな…」
 東洋系のテスと、北欧系の金髪碧眼の彼とでは、人種的に違いすぎる気がするが、ここではそういうこともありなのか、それとも養子とか…などと埒もないことを考えていて、思い出した。下にいた男たちと案内してくれた女、それに広場で見た人々は南欧のラテン人種に近い顔立ち、体格だった。テスとは明らかに違う。ということは、テスは、少なくともこの近辺の出身ではないのだ。
「……エド、開けてくれ」
 テスの声に、急いでドアを開ける。テスは食事を載せたトレーを両手に持って入ってきた。
 彼は、一つを台の上、もう一つをベッドの上に置いた。腰に帯びたままだった剣をはずし、ベッドに立てかけてその横に座る。
「食べろよ」
 彼は膝の上にトレーを載せ、スプーンを手にしてさっさと食べ始めた。膨らんでいないパンのような、スコーンのようなものと、肉と野菜の煮込み、ピクルスらしいもの、それに水という食事を、テスは驚くほど上品に食べていく。こんな簡単な食事の仕方に差が出るとは思えないのに、しかもセッティングされたテーブルと椅子についているわけでもない。なのに上品としか言いようがなかった。思わずエドが見惚れていると、テスが思いっきり眉をひそめて顔を上げた。
「何だ?食べられないのか?」
「い、いや、そうじゃなくて…」
 エドは、暗くて自分が赤面しているのが見えないだろうことに感謝した。色素の薄い彼は、シャワーを浴びても興奮しても、すぐ首から上が赤くなってしまうのだ。
「ありがとう…こんな、俺みたいな得体の知れないやつに親切にしてくれて。たまたま俺を見つけたばっかりに、こんなやっかい事に巻き込んでしまって、すまないと思ってる」
「………」
 テスは、スプーンを置いた。
「……偶然……ではない」
「え?」
「お前は、街道を行く人間からは全く見えないほど離れたところに倒れていた。おれは、お前を探して街道を外れた。…正確には、お前がいると知っていたわけではないが、何かがあると思ってあそこへ行った。そしてお前を見つけた」
「……何かって……どうして……」
「…おれには、お前の言葉はわからない。だから、お前の気を読んで、お前が伝えようとしている意味を理解している。動物や植物、この大地や大気、水、すべての自然の気を読む能力の応用だ。……わからないか?お前だって、その方法でおれの言葉を理解しているんだぞ」
 エドは絶句した。
「そんなばかな…!君は英語をしゃべっているじゃないか!」
「頭の中で勝手に変換しているだけだ。おれの話す音だけに意識を集中してみろ。全くわからないはずだ。……だから、自分が知らない概念の言葉は理解できない。今、お前は『英語』と言ったが、おれはその言葉がわからない。たぶん、お前の母国の言語のことなのだろうと想像はつくが。例えば…距離や時間、物の単位を表す言葉は翻訳できない。おれが、このヴォガまでの距離を12フォルトと言ったとき、わからなかっただろう?」
「………」
 テスの言うとおり、彼は英語を話してはいなかった。頭の中で流れる意味と、耳がとらえている音とが二重に聞こえる。
「大気が、大きくねじれるのが視えた。これまで見たこともない大きな力……巨大な嵐や、激しい雷雨のときでさえ比べものにならないくらいの力が、動くのが視えた。それはほんの2分の1フォルも経たずに唐突に消えたが、そのあとに何かが出現しているのを感じた。まるで、小さなつむじ風のような気が地平に立ち上っていて……おれは確かめずにいられなかった」
 彼は深いため息をついた。
「……それに…よりによって、おれから視える範囲にお前が現れたことを、偶然で片づけることはできないだろうな……」
「……テス?」
 テスは、エドより十歳も年上のような、苦い笑みを浮かべた。が、彼の視線に気づくと、すぐに表情を消した。
「そのうちわかってくるだろうが…おれたちみたいな力を持っているものはほとんどいない。つまり、おれはお前の言っていることを理解できるが、他の人々には理解できない。だから、当分言葉を覚えるまでは、人前でしゃべるな」
「覚える……」
「おれが教える。他にも、我々の習慣や一般的な知識。おれもまだ世間知らずのうちに入るが、お前に教える程度なら十分だろう」
「……それって…しばらく俺と一緒にいてくれるってこと…?」
 エドは、信じられない気持ちで訊ねた。こんなお荷物、テスは放り出したってかまいはしないどころか、そうするのが当然なのに。
「仕方ないだろう。ここでおれが見捨てれば、一週間以内にお前は盗賊に殺されるか、餓死か病死、でなければ牢屋に入れられているだろう。それではさすがに寝覚めが悪いからな」
 そっけなく言い捨てて、彼はまたスプーンを口に運び始めた。
 意識せず、エドの口に微笑みがのぼった。どうやら、自分はとても運がいいらしい──こんなとんでもない目にあって、元の世界に戻れるかどうかもわからない状態を、運が悪いの一言で片づけることなどできそうにないが──と思って。関わりあいを避けて無視されたり、警察だか何だかに突き出されたり、そうでなくても言葉も分からない人々の中に放り込まれたりすることなく、テスが見つけてくれて、テスに出会うことができたなんて、百万ドルの宝くじに当たるより運が良かった。
 テスが彼をだましたり、密告したりするつもりかもしれないとは、これっぽっちも思わなかった。そのつもりならとうにそうしているだろうとか、命以外に取れるものなんかないだとか、そういう論理的な帰結ではない。テスの冷たくさえ思える物言いや、厳しい態度は、むしろ無意味なごまかしをせず、現状を直視させ、十分な判断の材料を与える、相手を対等に扱い尊重する彼の姿勢を表している。
 エドにはそれが感じ取れた。彼はこどもだが、その中身は幼くはない。知識も、人格も。
(きっと、俺なんかより苦労して、いろんな経験をしてきたんだろうなあ……)
 そう思うと、なんだか心が痛かった。宿の女性と接したときの「年相応」の演技も、生きていくための知恵なのだろう。生きることに困難を抱えている者ほど、いろいろな役を演じなければならない。無邪気なふり、傷ついていないふり、知らないふり、楽しそうなふり……。エドは、そのことを知っていた。彼もいつだってそうしてきたからだ。
 親の保護を受けられなくなったこどもが収容される施設で、彼は「適度に」職員を困らせ、ほどほどにいい子で、引き取られた先の家庭でも「普通に」養父母とぶつかりあい、それなりにいい親子となったあと、大学入学と同時に独立した。
 一人で生活するようになったからといって、何もかも思い通りにできるわけでもないし、必要とあらば「相手の望む姿」を演じることもあるけれど、少しずつ、自分が素のままでいられる場所を作りつつある。
 エドは思い出してしまった。あの場所に帰れるのだろうか?学びたいことを学ばせてくれる大学、狭くて古いが、彼の「城」であるアパート、いろいろな人がやってくるバイト先のカフェ、青い空と赤い土の発掘現場……。
 帰れないかもしれない。一生、ここで暮らすことになるかもしれない。何の手がかりもない。偶然ここへ来たのなら、それともどこかに帰る道があるのなら、偶然を待つか、道を探さなければならない。それまでここで生きていかねばならない。ここで生きていく方法を学んで、一人で生活できるようにならなくては。
「テス」
「…なんだ?」
 不機嫌そうに──そういえば、目が覚めて、初めて彼を見たときもこんな表情だった。もしかしたら、笑うと損だとでも思っているのだろうか?普段愛想笑いしている分──テスは顔を上げた。
「俺、君にものすごく迷惑をかけてしまってる。ありがとうなんて言葉じゃ済まないくらい。どうしたら君の役に立てるのかわからないけれど、俺に出来ることがあれば何でもする。早く言葉を覚えて、習慣も覚えて、一人でやっていけるように努力する。それで、君に恩返しをするよ」
「……」
 テスは、やや呆れたらしい沈黙を返した。
「……ずいぶんと、前向きだな」
「悲観してたって、やらなければいけないのは同じだろう?」
「まあな。おれとしてもその方が助かる。少なくとも、途中で頭に来てどこかに捨ててくる手間は省けるからな」
 口の端だけで意地悪げな笑みを彼は作った。そうすると彼の美貌はひどく大人びたものになり、なぜだかエドは直視できず、熱くなった頬をこすってごまかした。
「君に手間をかけさせないようがんばるよ。これからよろしく頼むよ。…こういうとき、どうするものなのかな?」
 エドの差し出した手を、テスはとまどったように見やった。
「握手の習慣はない?お願いしますって頼むとき、どうする?」
「……いや、たぶん、ほとんどの国でそうする。ただ、おれは…」
 テスの語尾は口の中に消えた。彼は食事のトレーを膝から下ろすと、ためらいがちに手を出した。
 自分よりひと回り小さな手を、エドは力を加減して握った。少し湿った熱い手のひら。
「……っ!」
 不意に、テスは手を引いた。
「テス?」
 彼は取り戻した手を胸に当てて握りしめ、驚愕を顔に貼りつけてエドを凝視した。
「……テス?」
 何か自分は禁忌にでも触れたのだろうかと、エドは不安になる。テスは気まずげに目をそらし、
「……すまない。人に触られるのは苦手なんだ」
「あ、ああ……そう、か……」
 それ以上取り繕うことも思いつかないように黙って食事を続けるテスに、エドも冷めかけた料理に手をつけた。テスの言い訳がごまかしでしかないことはわかっていた。だが、いったい何が彼をあんなに驚かせたのだろうか。いきなり手を?んだわけでもない。手が触れて、自分は熱さを感じただけだったが、テスは他のことを感じたとでもいうのだろうか?静電気とか?
 エドは自分で考えたことに苦笑した。そんなことより、考えるならこれからのことだ。生活のあらゆることを初めは彼に頼らなくてはならないとしても、どうしたって彼はまだ幼いこどもだ。本当は、自分が彼を助け、守らなければならない立場なのだ。自分に、何ができるだろう。テスのために、生きていくために。彼にはまだ、何もわからなかった。

『遠い伝言―message―』 2

2008年09月07日 | BL小説「遠い伝言―message―」

「いたっ!」
 彼は自分の声で目が覚めた。
「……大袈裟な奴だな。そんなに力は入れていないぞ」
 彼の目の前に、足があった。それを上にたどっていくと、雨でもないのに長いマントを体に巻きつけた少年が、不機嫌そうに彼を見下ろしていた。
「…あれ?君は……?」
 体を起こそうとして、彼は体中に走った痛みに「いたたた…」と情けない声をあげて転がった。
「けがをしているのか?」
「わ、わからない……」
 少年の声に戸惑いの色が混じった。
「出血はしていないと思ったんだが、骨をやられているのかもしれない。見せてみろ」
「大丈夫、たぶん……」
 彼は自分であちこちひどく痛む部分を探ってみた。
「単なる打ち身だと思う。骨折までの痛みじゃない」
 これならフクロにされたときに比べればたいしたことはない。だが、いったいいつこんなひどい打撲を負ったのだろう──そうだ、洞窟の穴に落ちたせいに違いない。すると、ここはどこだ?
 うずくまっていた彼は目を上げ、あたりを見まわした。
 そこは、何もかもが違っていた。渓谷の底では決して見ることのなかった地平線。首が痛くなるほど見上げなくても、目の高さに空がある──あいにく雲がひろがっていて、青空はところどころに覗いているだけだったが。そして、赤茶けて乾燥したアリゾナの大地とは正反対の、どこまでも続く草原。緑の中に黄色やピンク、青い色が混じるのは花だろう。
 そんな見知らぬ風景よりも、彼の視線を吸い寄せ、強く心を惹きつけたのは───
 本当に、まだ幼い少年だった。ジュニアハイスクール入学前と言ってもいいくらいだ。体のほとんどを覆い隠す厚地のマント越しでも、その成長期の手前らしい、優しい体の線と華奢さがわかる。けれど、唯一露わになっている顔の表情は、その見かけの年齢を裏切っていた。
 初対面の相手への警戒の色は当然としても、観察するような冷静な視線や、唇を引き結んだ厳しい表情は、十かそこらのこどものものではない。
 彼は、座り込んだまま、ぼうっと少年を見上げた。
 なんて瞳だろう──と、魅入られたように少年の目を見つめた。漆黒の瞳は、美しくカットされた黒曜石のように冴え冴えと輝き、やや眦のきついアーモンド形の大きな目のほとんどを占め、鋭すぎる印象を和らげている。目に比べると鼻や口は小ぶりで、筋の通った細い鼻梁もピンク色の薄い唇も、こどもの可愛らしさよりは陶器の人形の整ったそれを感じさせる。──その繊細な花びらのような唇がほころべば違うのかもしれないが、少なくとも今は、むしろ冷徹さすら漂わせていた。
 少年は絞りたての濃いミルクのような、白よりは黄みがかった肌で、そのわずかに癖のある黒い髪からも、東洋系ではないかと思われた。純粋な、ではないだろうが。
 なんにせよ、その少年の容姿が整っていて、しかも非常に印象的なことは間違いなかった。何しろ彼にとって、人に見惚れて目を離せなくなるという経験など、生まれて初めてだったのだから。
「…君は、だれ?」
 ぴくりと、少年の片眉が上がった。
「……人に名を訊くときは、自分から名乗るものだ」
 どうやら気分を害させたと知って彼は慌てて言った。
「俺はエドワード・ジョハンセン。エドか、エディと呼んでくれ」
「……テス」
「えっ?」
 小さな呟きを聞きとれず、エドは首を傾げた。
「テス、だ。ジョハンセンというのは姓か?」
 少年は、硬い表情を崩さず言った。
「ああ、そうだけど……」
「ここでは、特別な場合を除いてむやみに姓を名乗る習慣はない。覚えておくといい」
 ここ、ってどこだ?と訊こうとしてやっと彼は現実を理解した。ここは洞窟の底でも遺跡の谷でもない。いったい、どこにいるというんだ?
「……テス……ここは、どこなんだ?」
 真っ青になった彼の顔色に気づいたのだろう、テスは顔を曇らせ、言いにくそうに唇を湿した。
「…リベラの東端の町、ヴォガまで12フォルトというところだ」
「……なんだって?」
 ぽかんと訊き返したエドに、テスは大人びた吐息を洩らした。
「お前の生まれた国は?お前がいた場所はどこだ?」
「……アメリカ合衆国。さっきまで、アリゾナ州コロラド高原で…遺跡の発掘をしていたんだ……」
「…そんな国も、そんな名前の土地も存在しない。少なくともこの大陸には」
 そう告げながら、すでに現実を把握したテスの表情は暗かった。
「ここは、お前のいた世界じゃない。たぶん…。信じられないかもしれないが」
「……なんだって……」
 茫然としているエドを尻目に、テスはマントを脱いでエドに投げ渡した。
「お前には小さすぎるが、少しは寒さがしのげるだろう。行くぞ。ぐずぐずしていると日が暮れる」
「行くって…」
 エドは、ぶるっと震えた。言われて初めて、コロラドとの気温差に気づいた。見れば、Tシャツから剥き出しの腕に鳥肌が立っている。
「ヴォガの町へ行く。今夜、ベッドの上で寝たければ、痛むだろうが我慢して歩け」
 言うなり、彼は踵を返してすたすたと歩き始めた。
 背中に大きな袋を背負った後ろ姿をぼんやり見送りかけて、エドは我に返った。テスの腰にぶら下がるのは、長い剣。幼い彼がそんなものを持ち歩いているということは、人間だか獣だかはわからないが、それだけの危険があるということだ。
 立ち上がる動作だけで体中が悲鳴をあげたが、エドはそれをだましだまし、テスのあとを追った。

 


『遠い伝言―message―』 1

2008年09月06日 | BL小説「遠い伝言―message―」

 吸いこまれそうな濃紺の空。カラカラに乾いた空気は喉だけでなく眼球から涙まで干上がらせていくようで、目がシカシカする。唯一の救いは、張り出した崖が容赦ない日射しを遮ってくれていることだった。おかげで発掘現場はとりあえず、人間が耐えられる温度でとどまっていた。
「グランドキャニオン」の名で知られる大渓谷を、数万年かけて削り出し、アメリカの中西部から太平洋へ流れ込むコロラド川。その支流を遡り、遥か昔に涸れた更にその支流跡の近くで、ネイティブアメリカンの祖先たちのものと見られる遺跡が、国定公園のレンジャーによって偶然発見されたのは、ほんの三年前のことだった。あまりにも辺鄙で厳しい場所のため、予備調査と予算獲得に三年の準備期間が費やされ、ようやく今年、カリフォルニア大の人類学研究室に発掘チームが結成され、本格的調査が始まったのだ。
 キャンプの貯水タンクから詰め替えてきた水筒の生ぬるい水で、砂でざらつく喉を潤しながら、彼は、崖下に造られた住居跡や祭壇を、飽きず眺めやった。
 彼──エドワード・ジョハンセンは、カリフォルニア大学の歴史人類学科二年に在籍し、将来は学者を目指していた。だから、自分が在籍中にこんなプロジェクトが行われると知ったときは、信じられない幸運に興奮して、喜び勇んで総指揮者のキンバリー教授に売り込みに行ったのだ。発掘メンバーに選ばれたときは天にも舞い上がる心地だった。同じ学科の友人たちは、マスターコースの先輩たちと違って、調査報告書に名前を載せてもらえるわけでもない、ただの作業要員じゃないか、と彼を止めたが、そんなことは問題ではなかった。もう発掘されつくした遺跡を柵や金網越しに眺めるのではなく、まだ誰も見ていない未知の遺跡を、この手で掘り出し、この手で触れ、その空気を嗅ぐことができるのだ。カフェのウェイターより安い日給でこき使われることなど、その経験と引き換えなら構いはしなかった。正直言って、奨学金とバイトで生活をまかなっている彼としては、前期試験後の二週間の秋季休暇が全部潰れるのは痛かったが。
 この集落跡は何世代にもわたって使用されたらしく、石積みの建物の下にも石床の層が掘り出され、調査は予定を延長される方向に傾いているのが彼には悔しくてならなかった。彼が参加できるのは休暇中だけ。この先どんな発見があるかもしれないのに、それに立ち会うことはできないのだ。
 今、遺跡にいるのは彼ひとりだった。最も暑い正午から二時間は食事と休憩の時間なので、皆、発電機で冷房を入れたテントで昼寝をしているところだろう。もちろん、彼も午後の作業に備えてひと眠りするつもりだったが、テントの中より、もっと気持ちよく眠れるところを知っていた。
 崖には人工的に掘られた穴や、自然の窪みがあちこちに口を開けている。それらの多くは食料などの貯蔵庫として利用されていたらしいが、その理由はそこが涼しいからに他ならない。水分を多く含む地質なので、昼間はその水分が蒸発することによって気化熱が奪われる。だからこの場所は、日陰という条件以上に、過ごしやすくなっているのだ。
 すでに調査が終わり、遺物が運び出されて空っぽとなっている穴にもぐりこみ、岩壁に体をくっつけて寝るというのが、彼の発見した最高の昼寝法だ。
 今日も彼は、昼寝場所と決めた穴へ向かってぶらぶら歩いていった。
(ん?)
 彼は足を止めた。目的の場所より更にずっと向こうの壁の、不自然に黒々とした影が、彼の目を引いた。
 単なる岩の影とは思えなかった。その闇色は、光の届かない深い穴があることを感じさせた。それに、その形はこの辺りにあるような横に拡がったものではなく、縦に細長かった。
 水によって岸壁が削られてできた穴や窪みは、削られた表面は滑らかで、入口が横に広く、奥行きは浅い。なのに、その穴は(穴だとすれば、だが)縦長で、ごつごつした輪郭だった。第一、昨日までそんな穴はなかったはずだ。
(夜のうちに…岩が崩れて、隠れていた洞窟が出てきたとか?)
 確かめようと、彼はいつもの場所を通り過ぎ、崖に沿って歩いていった。それほど遠くなく見えたのに、穴にはなかなかたどり着かない。彼は張りついた前髪ごと、額を腕で汗をぬぐった。
(気のせいか…?全然近づいてこないように見える……)
 彼は振り向いて、さっきまでいた遺跡からたいして来ていないように思え、首を捻った。そして前に向き直り、あっと叫びそうになった。穴は、すぐそこにあった。
 不思議な気がしたが、崖が大きく弧を描いているせいで錯覚したのだろうと考えた。
 人ひとりがやっと通れるくらいの割れ目が、唐突に口を開けていた。前に立つと涼しい風が吹き出して、彼の伸び気味の前髪を揺らした。入口は狭いが、中は相当深そうだった。覗き込んでも全く何も見えない。
(空気が流れているということは、どこかに繋がっているはずだ)
 彼は、懐中電灯を持ってこなかったことを悔やんだ。遺跡と関係あるかどうかはなんとも言えないが、もしこの入口が昔は開いていたとしたら、先住民たちが利用していた可能性はある。その痕跡くらいないだろうかと、彼は壁に手をついて中へ足を踏み入れた。
 風が真正面から吹きつけてくる。どこまで続いているのか、奥はもちろん足元も、手を触れていなければ壁の存在さえもあやふやになるほど、洞窟の内部は闇に閉ざされていた。
 一向に暗さに慣れてこない目に、彼はこれ以上進むのをあきらめ、引き返そうとした。だが、動かした視線の先に、彼はぼうっと浮かぶ光を見つけた。
 隙間から光が射しこんでいるのとは違う。すりガラス越しに弱い電球の光が漏れているような感じだった。
(向こうに枝道があるのか?)
 相変わらず鼻先すら見えなかったが、その光に誘われて彼は壁から手を離した。
 明かりの落ちた、夜のビルの非常灯のように、闇に滲む光の中に文字か記号らしきものがあるのに彼は気づいた。
 それはアルファベットに似ているようでいて、アルファベットに当てはめようとすると全く違うようにも見え、読めそうで読めないもどかしさを彼に与えた。彼は「音」で読もうとするのをやめ、その形全体を頭に入れようとした。
(また……)
 近づいているはずなのに、その光は少しも近づいてこない。先ほどこの洞窟を目指したときのように。
 ──……と出会え。
 ふっ、と言葉が浮かぶ。彼は目を凝らした。読めたわけではない。何の連想だろうと思い、足元の危うさを忘れた。
 ──と出会え
 その文字を音ではなく、翻訳された意味で理解したのだ、と彼が驚きに打たれた瞬間、止まらなかった最後の一歩は、着くべき地面を見出せなかった。
「!!」
 声にならない叫びをあげ、まっさかさまに暗闇に落ちていく彼の目が、その文字が遠く小さくなっていくのを見届ける前に、彼の意識は闇に包まれた。 


 


オリジナルBL小説再録?予告~♪

2008年09月03日 | BL小説「遠い伝言―message―」

 何年前だったかに発行したオリジナルBL小説。もう売ることもないので自分のサイトにアップしたいが、フロッピーに入れておいたデータがぶっ壊れて(正確には壊れてはいないようだが、読み出しができなくなっているのだ。マイク○○フト社のサイトでそういう場合の対処法を見ていろいろ試したが、どれもこれもだめだった・・・)、見本誌を見ながら打ち直すしかないという羽目に。
 だったらついでというか、サイトに載せるにはあまりにもページ数が多すぎて誰も読んでくれないかもしれないし、打った分だけブログにアップすることにしました。他の記事のついでに読んでくれるかも、というせこい考えもありますが(笑)
 というわけで、今週末から少しずつ連載(つーかテレビでいえば再放送かねー。映画でいうとデジタルリマスター版(爆)みたいなもんですか?)開始します。本日は「読みに来てねv」という宣伝です
 そういえばHシーンもあるんだよな・・・。ぷららはアダルトブログ禁止だったよなあ?そこだけぬる~く変えるか、ほかにリンクさせるか・・・?(それもまぬけ・・・
 それでは是非是非お読みくださいますよう、よろしくお願い致します!