フルール・ダンテルディ

管理人の日常から萌えまで、風の吹くまま気の向くまま

ようやく終わりました!

2008年11月30日 | BL小説「遠い伝言―message―」
 ようやく打ち終わりました・・・。これでCDに保存できます(笑)
 この話を書いたのは2002年のこと。もう6年経ったのか!・・・でも、それ以来オリジナルはちゃんとエンドマークつけたの書いていない・・・。2、3年前に「書きかけのオリジナルを終わらせる」という新年の抱負をブログに書いたような気がするが・・・気のせいにしておこう。
 10代の頃からちまちまとオリジナル、パロディとも書いておりましたが、自分の代表作(自信作)をあげろと言われればやはりこれ!と思っております。(次がエスカフローネのパロだなー)しかし、書き始めた動機が「年下攻めが好きだーっ!でもショタも好きなんだーっ!」という腐った嗜好だったとか、テスのモデルは実は「江○川コ○ン」だったとか言ったら、いい話(←自分で言うか!)が台無しですな!(いや、あそこまでチビこくないよ・・・私の下限は小学6年生ですから!・・・などと書くと、またnao.ちゃんから「十二分に犯罪です!」と突っ込まれるんだろーなー
 今読み返すと、思っていたよりエドがヘタレで驚く・・・。そして目まいがするほど楽天家だ・・・。それはアメリカ~ンだから!(←アメリカ人に対する偏見です)だからエドはアメリカ人という設定なの!(←某BL新人賞に応募したとき、「主人公が米国人でなくてもよいのでは」と評されたことを根に持っている・・・。あん?フィンランド人にした方がいいってのか?一応北欧系アメリカ人という設定だ!・・・要するに日本人にしろってことか・・・
 それはともかく、ちょっとだけ反応ほしいなーと思っておりますので、コメントでなくとも直メールで結構ですので「最後まで読んでやったぜ!」でも「長くてちーともエロに突入しないから途中で挫折した」でも構いません、一言くださいませ。「哀れな悪魔・・・じゃない、腐女子に魂の救済を!」つーわけで、よろしくお願い致します
 

『遠い伝言―message―』 18(最終回)

2008年11月30日 | BL小説「遠い伝言―message―」

 傍らの気配とぬくもりの喪失に目を覚ます。真っ暗でほとんど何も見えない。衣擦れの音だけが聞こえた。
「テス……?」
「……起きたのか」
 窓の木戸を閉め忘れていたので、月の光で窓がぼんやり四角い形に暗闇の中に浮き上がっていた。そのかすかな光でかろうじて人影が見える。
「……すっかり眠り込んでしまったみたいだね。もう夜……?」
「それほど遅くはない。が、夕食は食べそこねてしまったな」
「いいよ……とにかく眠くて……」
 まぶたが重く、またとろとろと眠りかける。
「少し出てくる。お前は寝ていろ」
「ん……」
 パタン、と戸の閉まる音をエドは夢うつつに聞いた。しかし、まどろみの途中、階段を踏み外した落下のショックで覚醒した。飛び起きて夢だとわかっても、リアルな感覚に心臓が激しく打っている。
 もう一度寝直そうと目を閉じたが、今ので眠気は吹っ飛んでしまった。動悸もなかなかおさまらない。テスが戻ってきたら、抱きしめて気持ちよく眠れるのに、などと考える。
 そう思って待っていたが、なかなかテスが戻ってくる気配はなかった。もしかしたら体を洗っているのかもしれないと思いつき、自分も汗を流そうと起き上がった。
 電気などないこの世界では、人々の就寝は早い。それでもテスが言ったとおり、まだ廊下にはランプがぽつぽつ灯され、部屋には人が起きている気配があった。
 風呂場には誰もいなかった。どこへ行ったのだろうと屋敷内をうろついてみたが、どこにもいない。首を捻りながら、まさか散歩とか、と渡り廊下から外へ出る。
 屋敷は川と崖の中間の、傾斜地に建っているため、川やその近くの畑や家々が眺められる。その畑の中の道を、光が揺れながら動いていくのが見えた。家々の閉ざされた窓からわずかに明かりが洩れている。人々は寝る前のひとときを過ごしているのだろう。こんな時間にはめったな用事でもなければ出歩くものはいない。
(まさか、テス?)
 半信半疑で、エドはその光を追った。夜風は冷たく、体がぶるっと震えた。マントを持ってくればよかったと思ったが、今更面倒だった。
 灯りは持っていなくとも、月に照らされた砂の道は白く、夜目にもよく見える。光は時々家や木立に遮られたが、見失うことはなかった。
 それは谷の中心部を通り過ぎ、さらに川の上流へと向かっていた。その先は聖地しかない。エドは、姿はまだ見えなかったが、それがテスだと確信した。だが、何のために聖地に向かっているのだろう?
 エドが崖下にたどり着いたときには、とっくに光は穴の中へ入っていた。真っ暗に口を開けた中をのぞきこむと、遠くに小さくランプの光が見えた。
 奥に向かって叫んでみたが、川の轟音にかき消されて届いた様子はなかった。仕方なく、穴の壁にしっかりと手をつけて、中に入っていった。
 昼でも夜でも真っ暗なことに変わりはないが、灯りを持たずに入るのはなんとも心細く、恐怖感を増すものだった。昼間一度来て、壁沿いは浅く危険はないとわかっていても、流れが足を浸すとそのまま足をさらわれ激流に呑み込まれるのではないかという恐怖に捕らえられる。テスはもう聖地に着いたらしく、見えなかった。
 聖地の中には、月光が射し込んでいた。壁面に白い光が映り、昼間とは違う表情を見せている。テスの姿はなかった。エドはさらに奥の岩穴に足を踏み入れた。
 足元に置いたランプに照らされて、テスが立っていた。
「……テス?」
 テスは背を向けたまま、
「なぜ来た?」
「君が戻ってこないから、探して追ってきただけだよ。君こそ、こんな時間にどうしてここに?」
「……確かめに来た」
「何を?」
 エドは、彼の横に並んだ。地下水路が見える穴の際に。
 テスは足元を見つめて微動だにしない。
 静かだった。川の音も遠い。穴の中は真っ暗で、何も見えない。──何も。
「お前の世界へ戻る道が、開いている」
「………」
「感じないか?お前の気も、この中へ引き込まれている」
「……別に、何も……」
「相変わらず、鈍いな」
 テスはくす、と笑った。
「わたしの感情は、ちゃんと感じてくれるのに」
「それは、君だから……」
 エドは頬を赤らめた。
「君の気持ちを知りたいから」
「……」
 テスは彼に向き直った。両手を上に差し伸べる。エドは腰をかがめて彼の背中を抱いて、口づけた。唇を離したときテスはひどく哀しげな瞳をしていたように見えたが、彼はすぐエドの胸に顔を埋めてしまってそれを確かめることはできなかった。
「……時至れば、道が示される……」
「え?」
 エドはテスの呟きがよく聞き取れず聞き返したが、テスは答えなかった。
「……本当に、帰らなくてもいいのか?もう…二度と、この道は開かないかもしれないんだぞ……?」
「帰らない。……今まで、たくさんのことを後悔した。これからも何度だって後悔するだろう。だけど死ぬとき、これでよかったんだって……俺の人生は、そんな数え切れない後悔があっても、それでもこれでよかったと思えれば、それでいいんだ」
「……そうか。……そうだな」
 テスは顔を上げた。彼の黒い瞳がわずかな光を反射して、強い光を放った。
「……わたし、テリアス・エルサイス・ローディアスは、エドワード・ジョハンセンを愛している。永遠に……たとえ……どれほど遠く離れようと……」
「……!?」
 何が起こったのか理解できなかった。仰向けにバランスを崩し、とっさに体をひねって手をつこうとしたが、そこに地面はなかった。光の見えない闇の中に落ちていく。すさまじい落下感。
「I love you……!」
 遠い叫びが聞こえたと思ったとき、彼はそれきり意識を失った。



 

 パリはすっかり冬模様だった。昨日の朝もTシャツにジョギングパンツで公園を5周した身としては、信じられない寒さだった。まだ10月だというのに、人々はウールのコートにマフラーをしている。
 エアポートバスから降りたエドワードは、慌ててボストンバッグから上着を出してシャツの上に着た。衿の中に入ってしまった束ねた髪を、無造作に引っ張り上げる。
 リヨン駅から郊外へ1時間ほどの小さな町で下車し、地図を片手に歩き始める。途中道を尋ねながらたどり着いたのは、小学校だった。夕闇迫る校庭には生徒の姿はない。もうとうに生徒は帰った時刻だった。明かりが点いているのは職員室だけだ。
 彼は守衛に来意を告げて、応接室に通された。
 間もなく、扉がノックされた。エドワードは立ち上がって、待っていた相手を迎えた。入ってきたのは口ひげも巻き毛もごま塩になった初老の、よく太った、人の良さそうな男性だった。
「おお……!あなたが、ジョハンセンさん……!」
「ルコントさん…」
 彼らは初対面だったが、互いに感動して固い握手を交わした。
「お招き、本当にありがとうございます。何とお礼申し上げてよいか…」
「いやいや、こんなところまでやって来させて、こちらこそ申し訳ない。年のせいか飛行機に長く乗るのは体にこたえてね。あなたも長旅で疲れておいででしょう。私の家までもう少し辛抱してください。では行きましょうか」
 ルコントは、小学校の校長を務めるかたわら、詩やこども向けの小説を書いているらしい。エドワードは1冊だけ読んだことがある。1か月前、突然大学に送られてきた国際小包の中身が、彼の詩集だった。中には3つの抒情詩と、1つの叙事詩が収められていた。その叙事詩を読んで、彼は驚いた。詩は、異国に迷い込んだ青年と、異国の王女の冒険と悲恋を描いたもので、題材としてはやや陳腐だが、言葉や表現の巧みさでなかなか格調高く仕上がっていた。だが彼を驚かせたのは内容ではなく、そこに使われていた固有名詞だった。
 王女の名はテス。彼女の祖国はローディア。青年と王女が出会った場所はヴォガ、旅する国々はリベラとミュルディア、とまるでエドワードたちの足跡をたどるようだった。もう一度、その詩の冒頭の献辞を読み直した。詩を読む前には意味を持たなかったそれ。「黒い瞳の美しき王兄へ」。同封されていた手紙には短く、「あなたが私の探しているエドワード・ジョハンセンならば、至急連絡を乞う」
 エドワードはすぐに手紙を書いた。あなたもあの世界に行き、テリアス王子──あなたが会ったときには彼の弟レジオンが王位に就いていたと思われるが──と会ったのか、と。それに対する返答は、書き添えたEメールアドレス宛てに来た。YES──ルコントのメールには、続けて驚くべき事実が打たれていた──私があの世界へ行ったのは、もう20年も前のことだが──。
 よくよく見れば、その詩集の発行日は15年前で、紙も黄ばみがかっていた。
 ルコントはさらに長いメールを送ってきた。20年前、迷い込んだあの世界でテリアスに会ったこと、そして彼が30年前出逢ったという「エドワード・ジョハンセン」への伝言を頼まれたこと、戻ってからすぐに「カリフォルニア大学の卒業生」「考古学関係者」の中にその名前がないかと数年にわたって探し続けたが、全く見つからなかったこと。それでも折に触れ、その名を気にかけて探し、そしてとうとう、インターネットのカリフォルニア大学のホームページ上の、博士論文一覧の中に彼の名を見つけたこと……。
「あまりに時が経ち過ぎていたので、99%別人だと思った」が、こちらの時間と向こうの時間法則がずれているかもしれないという望みを託し、試しに本を送ってみたのだという。20年前、ルコントが55歳のテスと会ったとき、エドワードはまだ5歳だったのだ。見つかるはずがない。
 小学校から10分くらい歩いたところに、ルコントの古い、ツタの絡まる家はあった。溌剌としてよく笑う、こちらも少々ぽっちゃりの夫人に温かく歓迎された。居間には暖炉まであり、今も屋根裏のような狭い下宿暮らしのエドワードにとっては、夢のように居心地のいい家だった。
 話は夕食後にゆっくり、と言うルコントを、早く聞きたいのでと押し切り、荷物を客用寝室に置くなりすぐに彼は居間に戻った。
「……本当に、自分と同じあの信じられない体験をした人に巡り会えるなんて、思ってもみなかったよ」
「私もです。…そういう人間は何人もいたのだと向こうで聞かされてはいましたが、まさかこちらで出会うことができるなんて」
 夫人はコーヒーと菓子を運んでくると、ルコントの横に座った。
「妻には話してある。なにしろ当時、私は半年も行方不明になっていて、妻や家族には大きな心配をかけてしまった。私が向こうで過ごしたのは20日間だけだったというのに」
「私のときは……4か月は経ったはずなのに、戻ってみたら1日しか経っていませんでした」
 エドワードは思い出す。発掘現場の崖下で目が覚めたのは、夜が白み始めた頃だった。あの世界に通じていた岩の割れ目など跡形もなく、ショックで茫然と座り込んでいた彼を、起き出してきた先輩たちが発見した。昼にいなくなって、夜になっても戻ってこないから、その日は町へ戻って捜索隊を依頼しに行くつもりだったそうだ。彼の服装や日焼けした肌、伸びた髪を不思議がられ追求されたが、覚えていないで押し通した。覚えていないのではなく言いたくないのだと彼らにもわかったのだろう。理屈のつかない現象を彼も他の人々も説明できる術はなく、1日だけの行方不明ということで大事にもならなかったので、それはうやむやにされた。
 下宿へ戻ってから1か月は、心は麻痺して淡々とバイトと講義とレポートをこなしていた。じわじわと「二度と会えない」「最愛の人を失った」ということが現実だと実感されてきた次の1か月間は、毎夜泣き暮らした。涙が減り、埋めようのない喪失感を受け入れ、その空虚さに慣れて再び考古学に本気で取り組み始めたときには、帰還から半年近くが過ぎていた。
 あれから5年──たった5年しか経っていないのだ。今でも思う。あのとき、どうしてテスを追いかけてしまったのだろう。あのまま眠ってしまえば、テスにあんな選択をさせずに済んだのに。この世界で生きる未来を失っても、テスのいる世界で生きる未来を失うことはなかったのに──
「……あなたは、テリアスに直に会われたそうですが……どうしてそのような機会を得られたのですか?」
「私は幸運にも、ローディアのある町に出現したのですよ。いったいどうなったんだとパニックしている私を町の人が役所へ連れて行ってくれて、あとはとんとん拍子に王宮へ招かれました。役所には、私のような者が現れたら全面的に助力し、帰れるように支援するよう徹底されているそうです。役人たちも本当にその命令が実行されることがあるとは思っていなかったと驚いていましたよ」
 ルコントはにこにこと笑った。
「それで……テリアスは」
 エドワードは答えを怖れながらも聞かずにはいられなかった。
「あなたが会われたテリアスは……どんな方でしたか……?あの詩には美しい、と献辞がされていましたが……」
「ええ、国王の兄だと聞かされていたので、お会いしたときには国王の息子の間違いじゃないかと思いましたよ。国王は肖像画では壮年でいらしたのに、その兄がせいぜい20代、下手をすると10代でも通るような青年だというのですからね」
「20代の青年?幼い少年ではなく?」
 エドワードの勢いに、ルコントは小さな茶色の目を丸くした。
「そうです。長い髪を水色のリボンで1つに束ねて、少女のように大きな瞳が印象的な、穏やかな口調と物腰の青年でした。彼は特殊な体質の一族の出身で、30年前時からずっとその姿のままだと言っていました」
 30年前、とエドワードは心の中で呟いた。俺と別れてから……すぐ?誰が?誰と?レジオンと?
 彼は胸の痛みを、うつむいた影の中に隠した。
「それから彼は、30年前に、私と同じように異世界から来たエドワードという青年と出会い、旅をして…恋に落ちたことを話してくれました。彼は、向こうに戻ると言ったあなたを、あの穴に突き落としたそうですね」
「ええ……別れを告げることさえできなかった……」
 ルコントは優しい目で彼を見つめた。
「私は彼から、もしあなたに会えたら伝えてほしいと頼まれたことがあります。私が聞きとった内容ですので、正確な言葉ではないかもしれませんが、その時書き留めたメモをそのまま持ち帰ることができました。読み上げてよろしいですか?」
「……お願いします……」
 エドワードはうなずいた。
 ルコントは、今でも白さを保つ、透かしの入った美しい紙を広げた。
「──『エド、この伝言がお前に届いたならば、わたしの望みは叶ったか、かないつつあるということだろう。伝言を託したルコント殿の住むところとお前の住むカリフォルニアは、この大陸の端から端までの倍以上離れているという。わたしの知っていることだけでお前を探し出すのは難しいだろう。しかし、お前が自分の道を歩み続けているならば、不可能ではないと思う。』
 ……私は、生きている限り、あなたをきっと探し続けるとテリアス殿に約束しましたよ。学生名簿は学校が存続する限り残るので、アメリカへ行く機会があれば探せるだろうし、あなたが……考古学者になれば学会の会員にもなるだろうし、論文が雑誌に載るだろうし、そうなれば見つけ出せると思いましたのでね。
 ……『わたしは、お前の夢をかなえてほしかった。お前の世界でしかかなえられない夢であり、お前が自分の世界で果たすべき役割だと思う。わたしも、自分のなすべきことは王族としてローディアの繁栄のため、この大陸全体の安定と発展のために尽くすことだと思っている。この世界に生きる限り、放棄することは許されないわたしの使命だ。それは、この身と心を、国民と国と国王に捧げるということでもある。だからわたしにはお前と共に行くか、お前だけを帰すかの選択肢しかなかった。
 わたしの裏切りがどれほどお前を傷つけたか考えると、許してくれとは言えない。わたしも自分の選択を死ぬほど後悔した。今でも後悔している。だが、間違っていたとは思わない。
 お前は覚えているだろうか。ただ一度、わたしたちの心が溶け合った瞬間を。あの経験が、わたしを年相応の姿まで成長させた。残念ながらそこで止まってしまった原因が、中途半端な交感だったからか、わたしの体質のせいなのかはわからない。
 わたしはすべてをレジオンに話した。それでも彼はわたしを許してくれ、わたしは彼に敬愛と忠誠を捧げている。彼とローディアに捧げられているのは、心の半分だけだが。なぜならわたしの心の半分はお前のもので、お前と共に行ってしまったからだ。
 今でもわたしはお前を、エドワード・ジョハンセンを愛している。
 心よりお前の幸福を願う。テリアス・エルサイス・ローディアス』……彼の直筆の署名です」
 夫人は頬に涙を伝わらせ、両手で鼻を押さえていた。ルコントの目もうるんでいる。
「これはあなたに差し上げましょう」
 ルコントは封筒ごと便箋を彼に渡した。フランス語の少々癖のある字の下に、まだ覚えているむこうの世界の文字。署名なので崩してはあるが、確かにテリアスの正式名が記されていた。
「テス……」
 堪えきれない涙で視界がぼやけ、エドワードは便箋を濡らさぬよう胸に抱いた。
 長い髪を水色のリボンでしばっていたという。テスが贈ってくれた水色のひもは、こちらへ戻ってきたときズボンのポケットに入っていたのを見つけた。それは着ていた服とともに大切に保管してある。自分にとってあのひもがテスとの忘れられない恋の形見であるように、テスにとってもまた、変わらぬ愛の証だったのだ。
 見知らぬ世界で彼を救い、導き、教えてくれたテスが、今また教えてくれる。そばにいて、愛情を与えあい、幸福に浸ることだけが愛することではない。だから間違えずに、自分自身の道を行け、と。
 胸の空虚な穴は埋まることはないだろう。一生後悔し続けるだろう。それらを抱えたまま、自分がこの世界に生まれた意味を確かなものにしていく。それが、テスの示してくれた深い想いに応えるただ一つの方法だった。
「……ありがとうございます、ルコントさん……本当に、感謝します……」
 ありがとう、テス──エドは祈るように胸の奥で囁いた──俺を、俺の未来を信じてくれてありがとう。
 もう君はどこにも存在していないかもしれないけど、今も、これからも、君を愛している。


                                        end


『遠い伝言―message―』 17

2008年11月24日 | BL小説「遠い伝言―message―」
注意!!これはいわゆるボーイズラブというジャンルの女性向け小説であり、同性間の恋愛を扱っており、性的表現を含みます。このジャンルに興味のない方、そのような内容を苦手とする方はお読みにならないよう願います。


 * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
 



 族長の屋敷に戻ると、夫人が彼らを出迎えた。
「お帰りなさい。お昼の用意はしてありますけれど、先に砂を落とした方がよろしいわ」
「…族長殿は?」
「村会議に行っております。何かご用事でも?」
「いえ、出かけておられるならいいんです」
 ふたりは砂まみれの体を洗い、軽い食事をとって部屋に戻った。
 まだ濡れている髪を縛っていたひもを解き、タオルで拭き直すエドに、テスは「わたしがやってやる」と言い出した。ベッドに腰かけたエドの後ろにまわり、ひと房ひと房丁寧に水気を取りながら、彼は「金髪の羊がいたら、こんな感じかな」と笑った。「せめて巻き毛の麦の穂と言ってくれよ」とエドは苦笑を返した。
「……テス、昨日聞きそびれたけど」
「なんだ?」
「族長殿と、話はできたのか?」
「……ああ。…予想通りの答えだったがな」
「君の、体のこと?」
「ああ。こうなったのと同じ早さで元に戻すことはできない。再び齢をとるには……一族に与えられた条件と同じだろうと」
 テスの声には落胆も、苦悩も含まれなかった。
「それって……」
 エドは少し頬を熱くして口ごもった。
「本当に心から愛しあうってこと?」
「ああ」
 テスの手が髪から離れ、彼はエドの横に座った。
「……いつか、俺たちそうなれるかな……?」
「…お前は、わたしが大人の姿の方がいいか?」
 真剣な目で問われ、エドは考えてから答えた。
「俺が好きになったのは今の君だから、昔の君がいいとか比較はできないよ。君が苦しむのがいやだから、元に戻れるものならその方がいいとは思うけど……戻ろうと思って戻れるものじゃないんだから、焦ることはないよ。もちろん、君を変える男になりたいとは思っているけれど」
「族長は、体質によっては変化を経験しないまま一生を終える者もいれば、たとえ相手とどれほど心が通じていようが、変化できない者もいると言っていた。世間で信じられているほど、一族の体質は確実なものではないとも……。だとすれば、わたしも一生この姿のままかもしれない」
 テスはエドを見上げた。睦言というにはあまりにも真剣な表情で。
「それでも、いいか?」
「いいよ、テス」
 エドは彼の背に腕をまわした。
「君が好きだ。君がいくつでも、どんな姿でも」
 軽く、テスの唇をついばむ。
「……わたしもだ、エドワード……I love you……」
 エドが驚いてまじまじと見つめると、テスは頬を染めた。
「わたしの発音、おかしいか?」
「全然……。とてもきれいだ。嬉しいよ、テス……テリアス」
 言い直したのは、出会ってすぐにテスが「特別な場合を除いて姓を名乗る習慣はない」と言ったことを思い出したからだった。テスが今までエドを愛称以外で呼ぼうとしなかったのに、初めて今日、「エドワード」と呼んだのも、たぶん同じような意味なのだろう。「特別な場合」──「特別な関係」になったという。
 テスは自ら服を脱ぎ始めた。エドもすべて脱ぎ捨て、彼らはベッドに横たわって抱き合った。乾いた素肌が触れ合う心地良さに、どちらからともなく甘いため息が洩れる。
「……不思議だな。旅の間に川とかで一緒に水浴びして、君の裸は何度も見ているのに、今日ばかりはすごくどきどきして…興奮してる」
「…わたしはいつも、お前の視線が気になって仕方なかったぞ。お前はわたしのことをこどもだと思って、遠慮なしに見ていただろう」
 胸にテスの息がかかってくすぐったかったが、エドのそれが硬度を増したのはそのせいではなかった。
「…そんな前から俺のこと意識してた?」
「ばか。そういう意味じゃ……」
 エドを振り仰いで抗議しかけたテスは、口をつぐんで彼の胸に顔を伏せた。
「……そうかもしれない。最初にお前が気を失っているのを見つけたとき、こんなに優しくて強くて、きれいな気の人間は見たことがないと思った。お前が目覚めて、わたしを見上げたとき……お前がとても……きれいな金の髪と薄い色の瞳をしているのに気づいた……」
「その割には、ずいぶん乱暴な起こし方だったよ」
 エドは嬉しくて、テスをぎゅっと抱きしめた。
「仕方ないだろう。お前に直に触れるのが怖かったんだ」
 くぐもった返事が胸の中から返った。
「お前の気に触れてしまったら、自分がどうかなってしまいそうな気がしたんだ……」
「……!」
 小さな音をたてて胸に触れた感触に、エドは息を呑んだ。彼の胸に口づけたテスは、そのまま舌を這わせ、場所を移してまた肌を吸ってキスをする。
「テ…ス……」
 腕が緩むとテスは体を起こし、エドを仰向けに押し倒した上に乗った。
「テ……」
「じっとしていろ」
 テスはエドの胸に跡を残しながら唇を滑らせ、てのひらで彼の肌をたどっていく。テスの幼い姿とは裏腹の行為に、エドは背徳的な快感を覚えて思わず目を閉じた。だが、
「テス…!だめだ」
 自分のそれが濡れたものに包まれるのを感じて、エドは飛び起きた。彼のものを口に含んだテスの顔を上げさせる。テスは眉をひそめた。
「…お前がさっきしたことではないか」
「だめだよ。俺は君には…誰にも跪いてほしくないんだ。たとえ俺に対しても。君のお父上は除いてね」
 こちらでも同じ意味を持つのかどうかわからなかったが、エドは崇拝の気持ちをこめてテスの手をとり甲に接吻した。ところが、その手を逆にテスに摑まれ、手首にキスをされた。
「……では、お前が跪くのはわたしにだけだ」
 テスに引き寄せられるまま、エドは口づけて横たわった彼の上に体を重ねた。
 テスの髪の先から爪先まであますところなく触れ、舐めて、吸い上げる。「声を聞きたい」と言うとテスは、噛み殺していた声を手で塞ぐのをやめた。我慢できずに上げた彼の喘ぎは、エドの欲望をたまらなく刺激した。
 うつぶせた背筋を舐め上げると、背中が波打った。その下へと視線を動かすと、細く引き締まった彼の体の中で、頬のほかには唯一柔らかな線を描く、白い2つの丘がある。その間の深い影の奥に、さきほどは触れることも見ることもしなかった場所がある。
「……テス、少し恥ずかしいことするけど、我慢して」
「……いちいち言うな……っ」
 かすれた声で返されて、エドは笑みを洩らした。テスの片膝を曲げさせて、谷間を空気にさらさせる。左手の中指を口に入れて湿らせ、それだけでは足りないかと自分のものの先端のぬめりを指先に塗りつけた。
 くぼんだそこに指で触れても、テスは一度肩を揺らしただけで、枕に顔を埋めてじっとしていた。
 ゆっくりと、引くことなくテスの中へ指を挿し入れていく。痛みを与えないように、抵抗する壁を無理に開かず、呑み込むのを待ちながら。
 最初の関門をくぐると、急に指先に伝わる抵抗がなくなった。エドは驚いて動きを止めた。
「……エド……?」
 いつまでも動かないエドに、テスが困惑した声で呼びかける。
「……こんなに」
 エドは怯えたようにテスを見た。
「こんなに柔らかいなんて、思わなかった。ふわふわで、毛足の長い絨緞に包まれているみたいで……下手なことをしたら傷つけてしまいそうで……怖い」
「……」
「君がだんだん慣れてくれたら、それとも成長したら、ここに、俺のを入れて、1つに繋がりたいと思っていたけれど、指どころか……俺のなんか入れたら、ひどいけがをさせてしまいそうだ……」
「……エド」
 体をひねった苦しい姿勢で、テスは精一杯振り返ってエドの腕に触れた。
「わたしも、そうしたいと思っている。そんなに怖がらなくていい。それほど人の体というのは繊細じゃない」
 彼は笑おうとして、あ、と声を上げて枕に突っ伏した。エドはその理由を自分の指に与えられた強い締めつけで知った。慌てて抜こうとしたが抵抗に躊躇する。
「……抜かなくていい…!……大丈夫……初めてじゃないからコツはわかっている。もっと……奥まで……」
 テスは不自由な体勢でエドの手首を?み、導いた。
 エドの指をぴったりと押し包んでいる柔らかな粘膜は、まるで喉が食物を嚥下するように指を奥へと呑み込んでいく。途中で狭い場所があったが、そこに道を作るとあとは難なく付け根まで入った。
 テスは手を離し、緊張を解いて大きく息を吐いた。
「…テス、大丈夫?」
「平気だ……」
 エドは気をつけて自分も横になり、片腕をテスの腰の下にまわして背後から抱きしめた。
「んっ……」
 テスの前をさすってやりながら、指を少しだけ抜き差しする。それだけでも自分の無骨な指が入口に強い摩擦を与えているのを感じて、慎重にならざるを得ない。
 乱れるテスの息づかいに、エドの息も荒くなる。
「……いい、エド……っ」
 腕の中で、若木のような体がしなり、彼の胸に後頭部を押しつけた。なのに、後ろを犯している手を、テスは止めさせた。
「テス?」
「やっぱり……お前のが欲しい……」
 目元を手で隠し、テスはせっぱつまった泣きそうな声で言った。
「……でも、テス……」
「香油を塗れば……」
 香油は、いわゆるハーブオイルのようなものだ。もちろんマッサージや芳香剤にも使うが、こちらでは主に冬に体が濡れて冷えるのを防ぐために漁師が体に塗ったり、沙漠を旅するときに肌の乾燥を防ぐために使われている。実際エドも、ここへ来る旅で、肌が乾燥に慣れるまでの最初の2、3日、頬の皮膚がぼろぼろに剥けてしまったので塗っていた。
「レジーとも……いつも使っていたから……」
「それでも体が小さい分、きついかもしれないよ?」
 答えながらも、エドはこの柔らかいテスの中に自分を打ち込みたい欲望が膨らんでいくのを自覚していた。それはたぶん、テスも感じているだろう。
「……痛くてもいい……」
 テスの声も、欲望にうわずっていた。
「お願いだ……」
 これ以上、エドも自制を続けることはできなかった。
 瓶の香油を自分のものに塗り、テスの入口の壁にも塗りつける。先程と同じ横向きの姿勢がいちばん楽だろうと、折り曲げさせた彼の脚に自分の脚を添えて、腰を引き寄せた。
 テスの狭い器官は、油の助けでエドのものを受け入れていった。さすがに指のときよりも時間がかかった上に、テスが痛みを訴えるときにはエドも苦痛を味わわなければならなかった。
 体勢的にすべてというわけはなかったが、ふたりの腰が密着するぐらい奥までエドのものは収まった。
「痛くない?」
「ああ……」
 テスの中は、呼吸やちょっとした拍子に微妙に締めつけてきて、女性とは全く違う快感をエドにもたらした。激しい動きは無理そうだったし、そんなことをしなくても十分に悦かったので、軽く突きながら揺さぶるだけにする。
「うん……んっ、んっ…」
 動きにあわせて、テスの喉から声が押し出される。
「テス……すごくいいよ……」
「……わ…たしも……っ、だめだ、もう……!」
 かつて体験したことのない強烈な締めつけがエドを襲った。血が止まるんじゃないかと思うくらい強すぎて、快感を通り越して最初は痛みしかわからなかった。収縮の波が何度か訪れて、悲鳴を押し殺したらしいテスの長い呻きが聞こえ、彼が自分に貫かれながらいったのだと実感した。
 外に押し出そうと痙攣する動きとは逆に、内部はエドのものに隙間なく吸いついて離れない。抜き出そうとしてそのことに気づいたときには、テスの抗議が上がっていた。
「動くな…!……力を緩められないんだ。抜かなくていいから、そのまま続けてくれ……」
「……だけど、つらそうだよ」
 エドはテスの濡れたまつげを指でぬぐった。
「無理に抜かれる方が痛い。じきにおさまるから、心配するな」
 言葉とは裏腹に、絶頂の余韻に震えてうわずった声で気丈に答えるテスがけなげでいとおしくて、力一杯抱きしめて口づけたかったが、どちらもできなかったので、まわした腕に力をこめた。
「……エド、続けてかまわないんだぞ?」
 テスが囁く。
「ああ。…でもその前に、君の顔を見て、キスをしたい」
 テスは、自分の腹にあてられたエドの手に、自分の手を重ねた。
「わたしもだ……」
 テスが少し落ちついてから一旦体を離し、仰向いたテスの中に、エドは再び押し入った。
「ああ……エド……」
 体を倒したエドの髪が、テスの顔にかかる。ふたりは互いの背に腕をまわし、情熱的なキスを交わした。身長差のせいで、そのままでは動けないので、仕方なく口づけを解いてテスを胸に抱きこむようにした。
 小刻みに腰を入れ、時に円を描き、テスの快感と同時に自分の快楽を追う。エドの胸にテスの熱い息が当たっていた。それに泣いているような声が交じり、ふたりの間で押し潰されていたテスのものも、硬さを取り戻す。
 エドが欲望の階をのぼりつめるまでに、長くはかからなかった。その兆しを感じて奥を突いたところで動きを止め、テスの深いところに欲望を解放する。自分の精を受け入れてもらった満足感が体を満たしていくとき、テスも達し、なおも絞り出されるようにすべてを放出し尽くした。テスは、胸の下で泣いていた。
「……つらかった?」
「そう…じゃないことぐらい、わかれよ……っ」
 テスは両手で顔を覆って激しく泣き出した。おろおろとエドは彼を胸に抱きしめて、泣き止むのを待った。
 やがて、静かになった胸の中からテスの声が聞こえてきた。
「……離してくれ」
 わかった、とエドは体を起こして、慎重にテスの中から自身を抜き出し、毛布を引き上げて彼の横に寝転んだ。手だけは彼の腕に触れさせて。
「……都に戻ったら」
 テスは寝返りをうってエドに体を寄せ、彼の胸にてのひらを乗せた。
「レジオンにはすべてを話すつもりだ。お前を愛していること……お前と寝たことも」
「テス……」
「彼に隠しておくのは、卑怯だ。わたしは彼に、もう隠しごとはしない」
 テスのてのひらから、切ないほどの幸福感と、哀しみと不安、そして静かな決意が伝わってくる。どうして彼は哀しいのだろう、とエドは思った。さっきも──彼が愛を告げたときも、喜びよりも哀しみを表した。不安ならばエドにもある。この先後悔しないとは言えない。いやきっと、後悔するだろう。けれど向こうに戻ったところで、死ぬほど後悔するだろう。こんなにも愛した人を、愛してくれた人を置いてきたことを。愛する人もなく、自分の夢をかなえたところで、いったいそれに何の意味があるだろう?
「ああ。きっとその方がいいよ。……お父上がおっしゃってくださったように、王家を離れるつもりなのか?」
「……」
 手をそっと離し、テスは仰向けになって天井を見つめた。
「……最初、必ず戻ってこいとおっしゃっていた陛下が、最後には戻るか戻らないか選んでもよいと言われた。戻らないというのは、都や王家に戻らないというだけの意味じゃない……。わたしが……お前について行く…お前の世界へ行くという選択肢もあるということだ」
 エドは驚いてテスの横顔を見つめた。そんなことは一度も思いつかなかった。一瞬その選択もあったか、と興奮しかけたが、すぐにその困難さに思い至った。
「だがそれはできない」
 エドが口を開く前に、テスが冷徹に言った。
「お前の話を聞いて断片的にだが多少は、お前の世界がここより技術も知識も制度も進んでいることは理解しているつもりだ。我々の世界には、少数でしかないネルヴァ族やお前のような存在を受け入れる余地がある。悪く言えば何もかもまだまだいいかげんだから、わたしのようなこどもが各国を渡り歩き、金を稼いで生きていくこともできるし、野盗が勝手に住みつくこともできる。しかし、お前の世界では、いつまでもこどもの姿のままの人間や、どこで生まれたどういう人間なのか証明できない人間は存在を許されない。違うか?」
「……いや」
 国籍はともかく、齢をとらないのはごまかしきれない。一生アメリカ中を転々としなければならないだろう。
「陛下はご存知でなかったからそう仰せられたのだろう。そうでもしない限りわたしが……」
「テス?」
 テスはその先を言わなかった。言いたくないことを言わせる気はなかったし、テスも言わないとわかっていたので、エドは追求しなかった。それに、疲れのせいで強烈な眠気を感じて意識が朦朧とし始めていた。エドは、そのまま眠りに引き込まれてしまった。

『遠い伝言―message―』 16

2008年11月23日 | BL小説「遠い伝言―message―」

注意!!これはいわゆるボーイズラブというジャンルの女性向け小説であり、同性間の恋愛を扱っており、性的表現を含みます。このジャンルに興味のない方、そのような内容を苦手とする方はお読みにならないよう願います。


 * * * * * * * * * * * * * * * * *
 



 翌日は朝食が済むなりエドは屋敷を出て、興味津々のこどもたちに村を案内してもらったり遊んだり、畑仕事にいそしむ村人に頼み込んで手伝わせてもらったりして、一日中テスと顔を合わせるのを避けていた。夜も、テスの物言いたげな視線に気づかぬ振りをして、ベッドに入って狸寝入りを決め込んだ。
 その次の日は、ビュイスたちが帰っていく日だった。エドとテスは、村人たちとともに崖下の登り口まで彼らを見送った。三々五々散っていく村人に交じって戻ろうとすると、族長が近寄ってきて耳打ちした。
「今から聖地へご案内します。ついていらしてください」
 村を抜け、川上の崖に近づくと、まだ風化していない崩れ落ちた岩がごろごろと転がっていた。そこを乗り越えて川が流れ出てくる大きな浸食穴にたどり着くと、若者が1人待っていた。
「ご苦労だった」
「お気をつけて行ってください」
 族長は青年が用意していたランプを1つずつ彼らに渡した。
「……わたしも、行ってよいのか?聖域だと言っていたが…」
 明るい陽光の下では点いているのかいないのかわからないランプに目を落とし、テスが呟いた。族長は笑った。
「一族以外にはその存在を口外しない掟はありますが、一族の者が入ることを禁じているわけではありません。ただ、近づきにくい場所ですので、村人がわざわざ訪れることがないだけです。行ってみたところで、地下水を見ることができるだけで何の変哲もない場所ですし」
「そうか……」
 テスはあまり気が進まない様子だった。正直言えば、エドも気が重かった。行きたくないとすら思った。
 水量が多いときはおそらく穴の幅いっぱいに川が流れ、水位も上がるのだろう、砂利だらけの穴の端を、転ばないように族長の背中を頼りに歩いていく。穴の中は水の音が反響し、風が吹きつけてくる。剥き出しのろうそくなどではすぐ消されてしまうだろう。
 ところどころ洞窟の端を水が洗い、足首まで水に浸かって歩かねばならなかった。奥へ行くにつれ入口からの光は届かなくなり、轟々という音や闇に取り囲まれ、閉所恐怖症ではないエドも、ここを1人で歩くのはとても耐えられないだろうと思った。村人が近づかないのも当然だ。行く手にランプ以外の光が見えたときは、心底ほっとした。
 光は、上から川面を照らしていた。彼らは岸に上がった。そこは見上げるとぽっかり丸い穴が開いていたが、内部の空間は逆すり鉢状になっていて、ちょっとした広間のようになっていた。周囲の赤みを帯びた黄色の砂岩の壁は、上部は崩れた痕がごつごつと残っていたが、膝辺りから下は水の浸食を受けてなめらかで、地面にはさらさらとした砂が溜まっていた。
「雨季にはここまで水が上がってきます。その水の一部は、この奥の穴から下の水流に流れ込むのでしょう」
 洞窟の奥の壁に、割れ目が黒々と口を開けていた。ちょうど人が1人通れるほどのそれを見たとき、エドは既視感に襲われた。
「……入ってみますか?」
「え、ええ」
 促されるまま、エドは穴に近づいていく。青褪めたテスが彼を凝視しているのにも気づかずに。
「足元をよく照らして、気をつけてください」
 穴の外から族長が声をかける。
 中は真っ暗で、ランプの光がなければ伸ばした手の先も見えないほどだった。
「……水音は、聞こえますか」
 はるか後ろから聞こえてきた声に、ぼうっとしながら答える。
「はい……ああ、でも川の音が耳についてよくわかりません……」
 そう答えた途端、どうどうと流れる水音が不意に大きくなった。
 足元で、何かが光った。ランプを差し出し、目を凝らす。光ったのは、足元に開いた穴から見える、すさまじい激流の水しぶきだった。
「……すごい……」
 呟いた自分の声も、その音にかき消される。暗いせいですぐ下を流れているように見えるが、実際には水面まで5、6メートルはありそうだ。穴は大人でも跳び越せないほど大きく、これ以上奥へ行くのは無理だ。すると、水音が止むというのはこの穴のことに違いない。しかし、この圧倒的な流れが止まることなどあり得るだろうか?
 彼はよく見ようと、足を進めかけた。
「……エド!」
 急に後ろへ引っぱられ、驚く。振り返ると、テスが立っていた。彼の必死な表情を、不思議に思う。エドを引き戻したのは、彼のシャツの裾を?んだテスの手だった。
「……あ、危ないと思って……わたしは……」
 エドは理解した。テスが彼を、「行くな」と止めたことを。
「テス、待ってくれ!」
 テスはもう踵を返して入口に向かっていた。外へ出ると、明るさに目がくらんだ。ランプを置いて手をかざし、テスの姿を探す。彼は背を向け、広間の中央に立っていた。
「エドワード殿?」
 族長がふたりの様子に不審げに声をかけるが、耳に入らない。
 エドは、拳を握りしめた。
「俺は、ここにいたら君に迷惑をかけてしまうから、帰らなくちゃいけないと思っていた。そうするのがいちばんいいんだと思っていた。だけど…だめだ、俺は……ここに残る。愛してるんだ、テス!君がほしい!」
「………!」
 ゆっくりと、テスは振り向いた。体ごと。その目から静かに涙が流れ落ちた。くいしばった口元以外には感情を出さずに。
「……エドワード……」
 天井から降り注ぐ光が、テスの髪と頬と瞳を金色に染めていた。足元にはくっきりと影が落ちて、エドの目には彼しか映らなかった。彼が、「それ」だと思った。
 ───と出会え。
 そんなものはないと思っていた。そんなものに人間は縛られてなんかいないと思って生きてきた。それに、「彼」はそんな陳腐な言葉で言っていいような存在じゃない。たった一人の、ただひとりの───。なのに、そうとしか言えなかった。
 ───お前の運命と出会え。
 テスが、彼を見つめている。
「お前が……そう言ってくれるのを、ずっと待っていた気がする……」
 彼は哀しい微笑を浮かべた。切なくて、はかなくて、抱きしめずにはいられないような。
 テスの両手が上がるのと同時に駆け出していた。テスが、彼の胸に飛び込んできた。求める腕がエドの首に巻きつき、自ら引き寄せる。
「エド、愛して…んっ……あ…してる……っ、エド……」
 何度も、言葉を綴ろうとする唇をふさぎ、向きを変え、舌を絡め、喘ぎしか洩らせなくなった口を奥まで蹂躙する。
 激しい口づけに夢中のふたりを残して、族長はそっと川へ戻っていった。
 砂の上に膝をつき、互いの背をまさぐり、髪をかき乱す。押しつけあった互いの体の変化を感じる。
「……テス…、触ってもいい……?」
 テスは荒い息をつきながらうなずいた。エドは彼の下穿きを膝まで引き下ろし、露わになった幼い、けれど硬く突き出したそれに指をからめた。テスは真っ赤な顔をうつむけて、両手でエドの肩につかまっていたが、震える肢では支えきれず、次第に腰を落とし座り込んでしまった。
「エ…エド、もう放してくれ……」
 エドは手を引いたが、それは彼の背を支えて横たわらせるためだった。そうして片脚ずつ下穿きを脱がせてしまい、開かせた脚の間に膝をつく。
「……!よせ、エド…っ」
 股間に顔を寄せた彼は、その先端を軽く口に含んで、すぐ離した。
「こうするのは、君たちの禁忌に触れる?」
「……そんなことは……ないと思うが、でも……」
「いや?…俺はしたいけど」
 エドは、安心させようと笑ってみせ、そっと、下の果実を手ですくった。テスが息を詰める。
「俺……同性とは初めてだし、同性趣味もないと思うけど……今まで、どの女性に対しても、その人をかわいいとか愛しいとは思っても、ここそのものにそう感じたことはなかった。それは単なる……快感を得るための場所だとしか思わなかった。なのに……君のこれは、とても可愛らしくて、愛しくて、だからキスしたいし、かわいがりたくてたまらない。だめかな?」
「……おれはこどもだからな。どこもかしこも」
 拗ねた目で睨まれ、彼は苦笑した。
「25の君でも、同じようにできると誓えるよ。たぶん、今の君の体に対してみたいに、こんなことしていいんだろうかとか、ためらわない分、遠慮なしにね」
 エドは痛々しいようなそれをすっぽりと口に含み、舌で愛撫した。とっさに口をふさいだ手の下から、テスがこらえきれない声を洩らす。両脚が硬直する様子に胸が痛まないわけではなかったが、それよりもテスのそこを慈しみ尽くしたい欲望の方が勝った。青い茎に舌を這わせ、まだ熟す前の実を揉みしだき、吸い上げ、甘噛みする。
「んっ──……、ああ……」
 腰が浮くほどテスの背が反り返った。エドの口の中にあったそれからは何も出はしなかったが、それでもテスが彼の愛撫で達したことはわかった。
 手で顔を覆ってしまっているテスの髪を撫で、シャツの裾から手を入れて、激しく上下する白い腹から胸をそっとさすった。
「テス……?」
「……」
 テスは、汗と涙で濡れた顔をのぞかせた。
「……こんな恥ずかしいことをされたのは初めてだぞ……」
「ごめん。でも、もっと恥ずかしいことをするかも……」
 絶句して、テスは小さくため息をついた。
「……お前が、おとなしげに見えても実は自分の意思を押し通す頑固者だってことは、よく知っている……」
 彼は体を起こし、膝立ちでエドにキスをした。
「……テス?」
 きついので前をくつろげていたエドの下腹に、テスが触れてきた。彼はもちろん、テスの息も再び速くなっていく。
「エド……どうしたい……?」
 耳まで赤く染めて、テスがかすれ声で言った。
 自分がどうしたいのかは、エドにはわかっていた。ただ今のテスの体にそんな行為はとても無理に思われた。
「もう一度…そこに寝て」
 少し不安な瞳をしたテスの上に体を重ね、片腕で背を抱いて口づけた。緩く開いた脚を自分の脚ではさみ、閉じさせる。
 熱く脈打つものを太腿に感じたテスは、意図を察して自ら膝に力を入れた。
 最初はゆっくりとそれを、テスの閉じた脚の抵抗を受けながら後ろまで貫き、引き抜いてはまた押し込む。その動きを繰り返し、次第に速め、円を描くような動きを加える。
 エドの反り返ったそれは不意にテスの双丘の間を擦り上げ、入口をかすめ、その手前の皮膚の薄い部分を突く。そのたびにもどかしい快感を与えられたテスは、くいしばった歯の間から声を洩らす。
 荒い息を喉で堰き止め、エドは自分の中で生まれた激しい流れを迸らせた。熱いしぶきがテスの脚を濡らした。
 テスを潰さないよう、かろうじて両肘で上体を支えたエドは、弾む息の下から「ごめん」と呟いた。
「……いちいち謝るな」
 テスは、彼の頬を両手ではさんで引き寄せた。
「忘れるな……お前にされることはなんでも、わたしにとって喜びだということを……」
「テス……」
 ふたりは唇を重ね、快楽の余韻に身を浸した。だが、エドが半ば立ち上がったテスのものに触れようとすると、テスは彼の胸を押しのけた。
「いいかげんに戻らないと。族長にも置いていかれたし。……さぞかし呆れられたことだろう」
「でもテス、そのままじゃ…」
「ばか。お互いきりがないだろう」
 彼はエドの下から抜け出し、起き上がった。
「髪も服の中も砂だらけだ」
 彼は体をはたき、砂で汚れをこすり落とした。それが自分のせいだと思ってエドは赤くなりながら、服を直した。
「行くぞ」
 身支度を整えたテスは、ランプを拾ってもと来た洞窟の中に入って行った。続いてエドが暗い影の中に足を踏み入れるとそこに、テスが待っていた。片手を差し出して。照れ隠しに、怒ったような顔をして。
 エドはその手を握った。先に立って、意地になったように振り返らずにテスはどんどん歩いていく。行きはあれほど不安で恐ろしい感じがした暗闇も轟音も、足を濡らす速い流れも、少しも気にならなかった。長かったはずの道のりも、あっという間に出口にたどり着いてしまった。


『遠い伝言―message―』 15

2008年11月15日 | BL小説「遠い伝言―message―」

 2人はテスの前まで来ると、両膝を折って深く頭を垂れた。
「殿下のご来訪を心より歓迎申し上げます。陛下の親書には使者の方々が帰都されるまでご身分を明かされてはならないとございましたが、ともかくもご挨拶のみでもと参上いたしました」
「…わたしの方こそ、突然このような面倒を持ち込み、心苦しく思っています。どうかお力添えいただきたい」
「私どもでお役に立てるのでしたら喜んでお力になりましょう」
「ありがとうございます、族長殿。……どうかお立ちください。あちらで話しましょう」
 部屋の角には、毛足の長い絨緞が敷かれ、クッションが置いてある。その接客用スペースに彼らを案内し、テスはエドを手招きした。
 4人は向かい合って座った。
 族長の深い皺の刻まれた口元は穏やかだが、若い頃はそうでもなかっただろうと思われた。その力のある目は思慮深く、2人を見つめる。伏目がちに控えている夫人は、言われてみればテスにどことなく面差しが似ていた。テスの祖母としてはとても若い。まだ40代にしか見えず、控えめだが凛とした雰囲気のある美しい女性だった。
「紹介が遅れました。こちらはエドワード・ジョハンセン。…他の世界から迷い込んでしまったため、帰る方法を探しています」
「初めまして。お世話をおかけします」
 と挨拶を返しながら、エドは改めて自分の境遇の奇妙さを認識した。こんな話をあっさり信じる人間がそうそういるとは思えない。すぐに信じた──というよりは、テスがそう判断したのだが、そういう発想ができ、かつ受け入れるテスは、この世界でももとの世界ででも、極めて稀な思考の持ち主なのだと感嘆する。
「……わかります」
 族長は、目を細めてエドを観察して呟いた。
「彼の気は大変特異です。普通の人間が持つものとしては強すぎますし、何というか…この世界全体の気の波長とは違っています」
「わたしにもそう見える。そのおかげで、彼を見つけることができたのだが……」
 テスもエドを見やる。
「……殿下は、一族の血を強く受け継いでおられる」
 テスの顔が強張った。族長は静かに続ける。
「一族の者でも、気を視る能力には差があります。殿下は高い能力をお持ちのようです。体の変化が極端だったのは、一族の血の影響が強すぎたためでしょう」
「……」
 彼は居住まいを正し、目を落とした。
「……ずっと、お訊きしたいと思っていました」
 意を決したように、族長と目を合わせる。
「わたしの存在は、一族の恥ですか。母が…一族の掟を破った罪は、許されないものですか」
「殿下……?」
 横顔の顎が震えていた。
「一族のために差し出された身でありながら、その相手を愛してしまい、一族の誇りを傷つけたと、母は死ぬまで自分を責め続けていました。両親にも許してもらえないだろうと……。わたしが一族の力を受け継いだことも、母にとっては嘆きの対象でした。確かに、今の私のありさまでは、一族からもそれ以外の人々からも、忌避されても仕方がありません。ですが……母は、ただ父を愛してしまっただけです。それは一族にとってどうあっても許されぬ罪なのでしょうか?」
 テスは必死に感情を抑えようとしていたが、最後まで保つことはできなかった。言い終えた途端に彼は、堪え切れずうつむいた。
「許すも許さないも……!」
 悲痛な叫びが夫人の口から迸った。
「愛しい娘が真に人を愛し、愛されたと知って、むしろ喜んでいたのに、どうしてあの子はそんなことを……!」
 彼女は泣き崩れた。その背に手を当てた族長も、苦悩に顔を歪めた。
「……掟は、余計な苦しみを背負って生まれてくる子をなくすためのもの。そして我々のささやかな抵抗の証でもありました。…しかしながら、我々にとって最大の悲劇は、真に愛しあえる相手とめぐり逢えないことです。私たちがセイファを手放したとき、あの子は若すぎて、十分にそのことを教えられないままだった。私たちは、ファビウス殿がセイファの後見人に立ってくださったと聞き、あの子の立場が宮廷で不利にならぬよう差し出たことはするまい、今や妃でありファビウス殿の養女となった娘に、実の親だからと会ったり手紙を出してはいらぬ憶測を呼んで、一族にとっても良くないだろうと我慢することを決めた。……それがあの子を、追いつめていたとは……」
 彼はクッションをはずし、両膝両拳を床についた。
「殿下、我々一族には、セイファと殿下が一族の名誉を傷つけたと思うものは誰一人としておりません。どうかご自身を卑下なさらないでください。我々は殿下がローディアに必要な方として活躍することを期待しております」
「殿下……」
 夫人はスカートの端で涙をぬぐいながら、唇を噛みしめるテスに呼びかけた。
「どんなことがあろうと、あなたは私たちの可愛い孫です。どんなにかお会いしたかったか…抱きしめたかったことか!愛する娘の忘れ形見を、愛さないわけがありましょうか。愛しい大事なテリアス!私にあなたを抱きしめさせてちょうだい……!」
 差し伸べられた腕を前に、テスはためらった。が、夫人の彼を見つめる強い、慈しみに満ちた瞳に、彼の心の堰が切れた。
「……!」
 なおも嗚咽を噛み殺して夫人の膝に顔を埋めたテスを、彼女は優しくその背を撫で、滂沱の涙を流した。
「……ああ、テリアス……かわいそうに。どうか愚かな私たちを許してちょうだい。ずっとひとりで、母親の分まで苦しんできたのね……」
「……おばあさま……」
 抱き起こした彼の頬を両手で包んで、涙に濡れた顔をのぞきこむ。
「……もうちゃんとした大人だとわかってはいるけど、こうして私の胸に抱きしめることができるなんて、こどもの頃にできなかった分を取り戻せるような気がするわ……」
 そう言って彼女はテスをしっかりと抱きしめた。そのふたりを抱きこむように、族長も両腕を彼らの背にまわした。
「すまなかった、テリアス。セイファにも、何の力にもなれず、悔やんでも悔やみきれない。せめてお前には、できる限り力になろう。さあ……ふたりとも、これからのことを話そう」
「……ええ、あなた」
 夫人は名残惜しげに腕を解いた。
 頬をぐい、とこぶしで拭ったテスは、エドを振り返って驚きと困惑をその表情に浮かべた。
「エド……?」
「ご、ごめん、俺ってば……」
 エドは拭いても拭いても溢れてくる涙と格闘していた。当事者でもないのに当事者たち以上に泣いている自分が恥ずかしくて、なんとか止めようと思うのだが、どうしても止まらない。悲しいのではない。その逆で、ほっとして、嬉しくて、テスを力一杯抱きしめて笑いたいような気持ちだった。
「良かった、テス…。俺、嬉しくて……本当に、良かった……」
「エド……ありがとう」
 彼が笑ってみせると、テスも微笑み返した。まだその陰は完全に払拭されてはいなかったけれど。
 彼はつと立ち上がり、タオルを手に戻ってきた。
「これで顔を拭け。袖がぐしょ濡れだ」
「あ、ありがとう」
 こすり過ぎて鼻の頭と目の周りを赤くしたエドは、照れ隠しに顔をタオルで覆った。だが、話が始まらないのでどうしたのかと顔を出すと、テスが彼を見つめていた。
 かつて、これほど熱く、いとしくてたまらないという瞳で彼を見つめてくれた人がいただろうか?
 今まで幾人かの女性とつきあったことがあったが、最初の、ハイスクールでよく授業が一緒になり、親しくなってなんとなくステディな関係になった少女以外は、相手からアプローチされてのことだった。好意は持っていたし欲望も感じたし、自分は情熱的に相手を好きになるタイプではなかったから、お互いに一緒にいるのがいやでない関係であればいいと思っていた。たぶんそのせいでいつも自然消滅してしまった。相手をこんなふうに見つめたことも、見つめたいと思ったこともなかったことは認めるが、相手に見つめられたこともなかった。セックスの最中でさえ、決してなかった。
 視線が合っただけで、心も体も磁石のように彼に吸い寄せられていく気がする。まして見つめられれば、心臓を手で摑まれ、血液さえも混じりあい互いの体を巡っていくような感覚を覚える。
 気づかぬうちに、彼らの距離が縮まっていた。しかしテスは取り上げたタオルで乱暴にエドの顔をぬぐった。
「もう、止まったな?」
 一見したところ不機嫌そうな顔は、内心を隠すためのいつものことだが、それがエドに対してではないことに気づいた。
 族長と夫人が、複雑な表情で彼らを見ていた。強い危惧と懸念がそこに読み取れた。エドは、申し訳ないような肩身の狭い心地がした。自分がテスに相応しくもなければ、プラスにもならない人間だとは、いやというほど承知している。
「……わたしは、母からも誰からも、一族のことを詳しく教わらなかった。母の話や本からの知識だけで……だが、信憑性はあると思った。ネルヴァ族の祖がこの世界以外のどこかから来たという伝説は、一族の特殊な能力から作り出された空想ではなく、そう信じさせる出来事が実際にあったのではないか。記録に残されているわけでもなく、それでも数百年にもわたって伝えられてきたのは、それも遠い昔に一度だけあった…最初にやって来た祖先だけの話ではなく、その後も同じような人々がいたからではないのか。……わたしは彼と出会って、その考えを強めました。外で育ったわたしの知らない、一族の間では当然の、何かがあるのではないかと。…ですから、彼をここへ連れて来たのです。
 族長殿、どうか教えてください。彼を、彼の世界へ帰す手がかりはここに、或いは一族の知識の中にあるのではないですか?」
 なぜネルヴァ族の(最初はその名を知らなかったが)村を訪ねるのかとかつて訊いたとき、テスは母の一族の祖先が他の世界から来たという伝説があると答えた。そのときは手がかりが皆無ではないと知って慰められもしたが、雲を?むような話だと半信半疑どころか八割方あてにせずにいた。だがテスには決して一時しのぎや慰めのつもりなどなかったのだと、エドは初めて知った。
 いつもテスは彼を驚かせる。その考えの深さ、物事を洞察する能力、現実に立ち向かい、乗り越えていく勇気と行動力。彼の本当の年齢を知ったところで、それらへの感嘆と尊敬は変わらない。自分が25歳になったとき、彼のようになれるとは、とても思えなかった。
(俺はほんとうに……いつも、君の考えがわからなくて、ただついて来ただけで、情けない。内心呆れていただろう。俺は君よりも先に帰れないとあきらめてしまって、どんなに歯がゆく思っていただろうね。ごめんよ、テス……君は俺よりも帰れる方法があると信じてくれていたのに……)
「一般に記されている一族についての記述は、ほとんどが推測や伝聞、思い込みや偏見によるもので占められていて、客観的に、学術的に記録されているものはないに等しい。殿下はその中から真実と思われるものを拾い出し、組み立て、推測し、そう思われたと…」
 族長は、テスを見つめて話し始めた。
「この谷は、大陸のほぼ中央にあります。我々にとって聖地として、たとえどこの国の虜囚となろうと、どの土地を放浪していようと、その位置と意味を次の世代へ伝え続けてきました。沙漠の中に隠されたオアシスだからではありません。ここは確かに水に恵まれた場所ではありますが、あまりに他の集落から離れすぎ、かといって一族全員を自給自足で養えるほど広くもない。しかし、ここは我々にとって、この大陸でたった1か所しかない、特別な土地なのです。
 大沙漠の地下には無数の水路が走っています。この谷を流れる川は、その中でも最も大きく豊かなものの1つでしょう。そしてその水量のために岩盤を削り、とうとう上が崩れて地表に露出した。この谷の周囲には、いくつか同じような地形が見られます。ただし、皆とても小さい。中には、地面に井戸くらいの穴が開いていて、暗い底から水音が聞こえるだけのものもあります。地下にはその穴の何十倍の空洞が広がっており、それらはすべて、水路で繋がっています」
 テスは目を伏せて聞き入っている。
「この谷は絶壁に囲まれており、川もその崖に開いた穴から流れ出ていますが、水量の少ないときには穴を通り、隣の空洞へ行くことができます。その空洞の壁にはまた割れ目があり、中へ入っていくと地面に穴が口を開け、更に下層を流れる水脈の流れる音を聞くことができます。だが……その水音が止むときがあります。…いえ、あると、伝え聞いています」
 言葉が途切れた。テスが目を上げる。
「……私の両親も、実際に体験したことはないと申しておりました。父の代には誰も…『故郷』から、エドワード殿の世界から来た者はいなかったからです」
 テスの呼吸が早まった。
「異世界の人間が来たときだけ水音が止まる。それはその穴が異世界につながったことを意味する。そういうことか?」
 族長はうなずく。
「我々の祖先たちが『故郷』からやって来て、何代か後にここを発見し、そしてエドワード殿のように幾人も迷い人が現れては、ある者は残り、ある者は去っていった。長い長い伝承が口伝えられておりますが、今はお話しする必要はないでしょう。けれども『故郷』よりやって来た人々を受け入れ、望むならば聖地へ案内することは、我々の役目です。時至れば、その人の前で水音は止み、帰るべき道が示される。そう聞いています。ただ……それが本当に元の世界への道なのかどうかは、私たちには断言できません。帰っていった者で、再びここへやって来た者は1人もいないのですから」
「……時至れば、道が示される……」
 テスは口の中で呟いた。
 エドは喜びよりも途惑いの方が大きかった。本当に帰る方法が見つかるとは思っていなかった。ここで無理だとはっきりさせて、この世界で生きていくスタートを切るつもりだった。まさか、帰るか残るかの選択を本当にすることになるとは、思ってはいなかったのだ。
「幸い今は乾季で行くことができます。明後日、ビュイス殿たちが出発されたらご案内いたしましょう」
「は、はい。ありがとうございます」
 エドは慌てて答える。ちらりとテスを見ると、彼は暗い表情で床を見つめ、振り向いてはくれなかった。
「すっかり夜も更けてしまいました。今宵はもうお休みいただいた方がよろしいでしょう。殿下、もう1つの件につきましてはまた明日、お話しいたしましょう」
「……すまぬ。そなたの都合のいいときでかまわない」
「かしこまりました。では、お休みなさいませ」
 族長たちは深々と頭を下げた。
 エドは彼らを廊下まで出て見送り、手に提げた手燭の明かりがゆらゆらと角を曲がるのを見届けてから、部屋に戻った。
 テスはもう、寝台にもぐりこんで頭の先しか出していなかった。
「……灯り、消すよ」
「ああ」
 壁のランプとサイドテーブルの燭台の火を消す。窓は板戸を閉めてしまっているので、部屋の中は月明かりも入らない暗闇になり、手探りでベッドに入った。
「……テス、少しいいかい?」
 横になる前に、並んだベッドの方に向かい話しかける。
「……何だ」
「言いそびれてごめん。ここまで連れてきてくれて、ありがとう。本当に帰る方法が見つかるなんて、君のおかげだ。心から感謝してる」
「……まだ確かなわけじゃない。それに、族長も言っていただろう。お前のような者をここへ連れてくるのが、一族の役目だと。だったらおれは、すべきことを果たしただけだ。それにもともとおれはここに来ようとしていたのだし」
「そうだね……君も、お祖父さんお祖母さんと和解できてよかったね。お祖母さまもとても喜んでいらしたし…」
 それに、テスも泣くことができた。父親との対面に続いて2度目の涙。旅の間中、後悔と自責に苦しんで、自分を許す涙を流せなかったテスは、父の許しに涙し、祖父母に彼ら母子に罪はないと告げられ泣いた。そうして彼の負った重荷が減っていくところに立ち会えて、自分は幸福だと思う。たぶん、最後の1つ──レジオンとの行き違い──だけは、見ることはできないだろうが、代わりに彼が喜びの涙を流すところが見られたら、それを流させるのが自分ならばどんなに幸せだろうか。
(俺が……残ると言ったら、君は嬉しい?それとも……迷惑?)
 テスは、今のこどもの自分を愛せるのかとレジオンを突っぱねたが、あれは今の自分でも愛してほしいという気持ちの裏返しかもしれない。テスが自分を愛してくれていることは疑っていない。ただそれでも……レジオンをより愛していて、彼のもとへ戻りたいのではないかとは思う。そうだとしたら、自分が残ったらテスに余計な迷いと苦悩を与えてしまう。
(言えないよな……。残るしかなければ俺がプロポーズしたってテスは断ることができる。だけどテスのために俺が残るなんて言ったら……彼は俺にそんな選択をさせたことにも、レジオンを選ぶことにも罪悪感を持ってしまうだろう。そんなこと……できやしないよ……)
「ああ……おまえのおかげだ……」
「俺は何も……」
 胸が痛い。息が苦しい。エドは毛布を被ってテスに背を向け、体を丸めた。今更ながらに、どうして自分はこんなに愚かなのだろうと思った。
 わかっていたはずなのに。「誰も好きになってはいけない」。絶望的にその事実がのしかかってくる。どんなに好きでも、愛していても、残ることは許されない。
「……エド?」
 どんなに教えられても意識的に他人の感情を読み取ったり、気を視ることも下手だった彼と違い、テスにはこの感情が伝わってしまっているかもしれないが、隠す術などエドは持っていなかった。
「なんでもない。おやすみ」
 本当につらくて絶望にかられたときには涙など出ないということを、エドは知った。テスが夜中に、乾いた瞳で膝をかかえていた姿が目蓋の裏に浮かぶ。元の世界に戻れたなら、きっと自分も毎夜ああするだろう。それでも、テスのそんな姿を見るよりずっといい。
 彼らは、互いの寝息が聞こえてこないのを知りながら、背を向け合って夜明けを待ち続けた。


 * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

 あと3回で終わります~!というか、切りにくいので長めに3回に分けるつもりです。次と次は7割方ラブシーンが続くので、やばいなー


『遠い伝言―message―』 14

2008年11月09日 | BL小説「遠い伝言―message―」

 5日後、ネルヴァ族の長へ宛てた国王の親書を携えた使節の一行に交じり、テスとエドは旅立った。それが公式ではなくあくまで国王の私信扱いであることを示すように、任命式も見送りの行事もない、ひっそりとした出発だった。一行は彼らを除いてたった5名だった。役人が2名、道案内と馬の世話係が1名、食事や身の回りの世話をする者が2名。役人以外は兵士で、護衛を兼ねていた。
 宿に泊まることができたのは最初の3日だけだった。そこから先は大陸の大部分を占める大沙漠地帯で、あとはオアシスと井戸伝いに村を目指す。途中で西に方向を変えればネルヴァ族の村だが、真っ直ぐ北上すればノードン、アーナムにたどり着く。それがローディアと北の国々との交易路でもあった。何年か経つとオアシスなどは枯れたり位置を変えたりするが、それにも関わらずその交易路が確保できているのは、ネルヴァ族の協力によるものだった。
 沙漠だから暑いことは暑いが、予想していたほど酷くはなかった。彼が発掘調査をしていたコロラドとあまり変わりはなく、植物も結構多い。最も暑くなる真昼こそ体力の消耗を防ぐためにテントを張って昼寝をするが、それ以外は日中に移動した。それも地図と磁石があるおかげだろう。
 移動の間はそれぞれの馬に乗っているため内緒話ができないので、夜、あてがわれたテントの中で、ふたりは話をした。
「一族が迫害されたことは話したな。だから彼らはしょっちゅう住処を追われ、ばらばらになり、住むには条件の悪い場所を転々としていた。だが30年前、ローディア王は彼らと協定を結び、自国内での保護を約束する代わりに、交易路の水源の探索と保全を依頼した。もちろん、彼らの能力を知ってのことだ」
 野営となった最初の夜、まだその辺りは草地で、テントの中に寝転がるとかすかに虫の音が聞こえてきた。
「それで、彼らは沙漠に住んでいるんだ」
「ああ。交易路からはずれたオアシスに村を作って住んでいる。ただしその場所は一般の地図には載っていない。おれも機密になっている地図を一度見たことがあるだけだ。今回の出発前に見た以外はな」
 虫の音が聞こえるくらい、彼らは小声で会話した。他の一行には彼らの正体は知らされておらず、「他国で見つかったネルヴァ族の遺児を、一族のもとに送り届ける」という偽の任務が与えられているのだ。
 旅の間、昼間は必要以外の口をきくことができない分、彼らはテントに入ってから寝るまでの時間、今までのように──出会って、ともに旅をし始めた頃のように、エドが質問し、テスが答え、エドがたわいもない話をし、テスはそれに耳を傾けて過ごした。
 1本のろうそくの灯りの中、身を寄せ合って話しながらも、エドが性急なせっぱ詰まった衝動に駆られずに済んだのは、すべては到着してからだという思いがあったからだろう。柔らかな揺れる灯りに照らされたテスの穏やかな表情を見て、なんてきれいなんだろうと見惚れ、これから先のすべての夜が、こんなふうに彼と共にあればいいと願った。
 お互いのこどもの頃の話もした。
 テスが話してくれたのは、モスカーティ家で過ごしたときのことだった。幼い頃から週の半分は、彼の母の親代わりを引き受けていたファビウスの屋敷で、遊び相手のルキスと一緒に勉強したり、武術を習ったりしていた。母の死後は完全にモスカーティ家に住むようになって、ふたりでよく街へ出かけて遊んだ。わずかな小遣いをもらって買い物したり、屋敷では絶対出されないようなものを屋台で飲み食いするのが楽しみだった。しかし15歳になると父の命で公務に就くようになり、めったに王宮を出ることができなくなってしまった……。
「おれは、父や家臣たちの前ではいい子だったから」
 テスはいたずらっぽく笑った。
「ファビウスのところにいたときのように、こっそり抜け出すなんてことは、もちろんしなかったぞ?」
 エドは苦笑した。国王の前での、気品と知性に溢れ、なおかつ少女のようにたおやかな態度と、自分と旅していたときの、ぶっきらぼうで少々足癖の悪い、外見通りの少年の顔との落差を思い返して。
 エドは、養護院での生活や、学校のことを話した。年長の男の子たちとはけんかばかりしていた。一度などは寝ている間に髪をめちゃくちゃに切られ、丸坊主にしなければならなかったこと。中学生のときはちょっとぐれていたが(ぐれる、の意味がテスにうまく伝わらず、説明に苦労した)、考古学に興味を持ってからは必死に勉強して何度か学校で優等賞をもらい、養子の話もまとまったこと。
「お前がけんかっ早かったなんて、今では想像できないな」
「こどもだったんだよ。自分は不幸だと思い込んでいた」
 テスの目が今は?と訊いていた。
「両親や、俺を目の敵にしていた彼らの仕打ちを許せるようになったってことは、今が不幸じゃない証拠だと思うんだ。それどころか、いつも幸運に恵まれていた気さえする」
 父親は少なくとも自分を養護院に連れて行ってくれたし、新しい家族もできたし、好きなものに出会えて、大学では好きなだけ学べるし……と数えていると、テスが彼を見て微笑んでいた。その瞳があまりに優しくて、エドは鼻の奥がつんとなった。
「……も、もう寝ようか?」
 彼はそれをごまかそうとして体を起こして、吊るしたろうそくを吹き消した。
「…そうだな。おやすみ」
「おやすみ、テス」
 本当は、幸運の中にテスと出会えたことが入っていたのだが、それは言わずにおいた。旅の間は、その話題──互いの気持ちや、レジオンのこと──は、お互いに慎重に避けていたからだ。エドにとって人生最大の幸運は、テスと出会ったことだと思っていたが、今はまだ、そう伝えることはできなかった。
 

テスに言わせれば「役人に合わせた牛より遅いペース」で進み、サーランを発って15日目、岩と砂と枯れた草だけの大地の様子が変わった。黄土色の乾いた地面の色は濃くなり、ところどころに生えた草も緑の色を取り戻した。案内の兵は「今日中に着く」と言ったが、地平線まで岩の平野が続くばかりで、何も見えなかった。
「……大規模な水源が近い」
 馬を寄せてきたテスが呟いた。
「見えるの?」
「ああ」
 テスは遠く目をやった。
「しかも、地表に出ている。緩やかな流れと速い流れ……池と川がある。だが……変だな。高さが……地平より低い……?」
 テスの疑問は、日が傾く前に解けた。
 彼らの前に唐突に広がった緑の谷。深い谷底には滔々たる流れがあり、その両岸は青々とした畑と果樹園となっている。川の一部は細い支流に分かれて小さな池に流れ込み、池の上では舟が網を引いている。広大な沙漠を渡って来た目には、まさに別天地と映る豊かな光景だった。
「あそこから降りられそうです」
 地層の露出した崖をジグザグに降りていく細い道があった。小さな荷馬車がやっと通れるほどの幅しかなく、馬の扱いを間違えればたちまち道を踏み外して命を結びつけ、エドの馬に乗り込んで代わりに手綱を握った。
 下から彼らの姿を見つけたらしい人々がわらわらと動き回るのが見えた。その中から1頭の馬が男を乗せて、道を駆け上り始めた。さすがに慣れた様子で馬を操り、彼らが3分の1も降りないところで出会った。
 彼らの先頭の兵は使者を意味する青い帯を結んだローディア候国の旗を掲げている。それと一行を一瞥して、青年は下馬した。
「ローディア候国の方々とお見受けする」
「いかにも。ローディア候王陛下よりネルヴァの族長殿への親書を持参申し上げた。私は内務省地方部のビュイス二等官と申す者。お取次ぎをお願いしたい」
「歓迎いたします、ビュイス殿。私は族長に先触れしてまいりますので、代わりに案内するものを寄こします」
 青年は再び坂道を駆け下りていった。
 一行は、木々に囲まれた族長の館に案内された。物珍しそうにそのあとをこどもたちがついて来る。特にエドの髪は注目の的らしかった。それも無理はない。ここの住民たちに金髪の者は1人も見当たらなかった。そして、確かにテスとの共通の血を感じさせた。黒い髪に黒い大きな目、エキゾティックな、美しい顔立ち。しかし、その中に交じってもおそらく、テスは誰よりも一目を引くだろう。その圧倒的な存在感と美貌で。
 館の前では、族長らしい痩せた老人と、村の主な顔役らしい者たちが待っていた。
 彼らは馬から降りた。ただ1人、ずっと日除けのフードをかぶっていたテスは、ようやくそれをはずした。
 集まった人々の間にざわめきが起こった。その理由に気づいてエドははっとテスを見た。うつむいたままのテスの表情は見えなかった。
 族長の目も、テスに釘付けになっていた。が、それをもぎはなして儀礼的な笑顔を彼らに向けた。
「よくおいでくださいました、ビュイス殿。私が族長のエルサイです。長旅でお疲れでしょう。どうぞおくつろぎください」
「お気遣いありがとうございます。しかしながら、陛下より早急にお返事をいただいて帰るようにとの厳命でございますゆえ、まずは親書をご覧いただきたく存じます」
「それでは早速拝読することにいたしましょう。ともかくお入りください」
 周りの土と同じ色の壁でできた館の内部は、沙漠の中だというのに開口部が大きくとってあり、川からの風が入るようになっていた。よく見れば、夜は閉め切ってしまうらしく、すべての窓や出入口に木の戸が付いていた。それによって砂と冷気の侵入を防ぐのだろう。
 廊下でつながれた各部屋は、廊下よりも一段高くなっており、床には絨緞が敷きつめられ、靴を脱いで上がるようになっている。彼らが通されたのは、様々な会合や宴会に使われるのだろう広い部屋だった。床に置かれた厚いクッションの上にあぐらをかいて座るところが、他の国々との文化の違いを強く感じさせた。
 ビュイスが膝行して両手で捧げ持った書状を、族長は一礼し、受け取った。
 彼は書状を読み終えると、元通りに折り畳んだ。
「陛下よりの御文、しかと承りました。返書は明日中にお渡しできますが、ビュイス殿はいつのお発ちを希望されますか。旅の疲れを癒されてからご出立されたがよろしいかと存じますが…」
「いえ、陛下のご命令ですので、ご返書をいただければすぐにでも」
「では、明日中に食料などを準備いたしますので、明後日でいかがですか」
「かたじけない」
「そちらのおふたりは……」
 エドは顔を上げた。だがテスは、顔を伏せたままだった。族長の目は、まっすぐにテスに注がれていた。
「陛下のお考えに従い、私が責任を持ってお預かりしましょう」
「ありがとうございます」
 ふたりは頭を下げた。
 会見は終わり、彼らは与えられた部屋に入った。夕食前に久しぶりにたっぷりの水を使って体を洗い、髪の中まで入り込んだ砂を落として、新しい服に着替えた。
 歓迎の夕食会には族長夫妻と村の主だった人々が出席し、賑やかではないが終始和やかだった。表向きの主役は内務省の役人2人だったため、村側の出席者は彼らとばかり話していて、無表情に機械的に食事を口に運ぶテスにはらはらしていたエドは、ほっと胸を撫で下ろした。
「……テス、着替えて寝ないの?」
 部屋に戻り、何を食べたかろくに覚えていないなどとため息をつきつつ、夜着に着替えかけたエドは、ベッドの端に腰かけているテスに声をかけた。
「ああ。……族長に、会いに行こうかと思って……でも…」
 エドは、テスがためらっている理由を知っていた。テスの母親は、一族の掟に反して一族以外の者と子をもうけた。その子である自分がこの村に来ることが許されるのか、話をしてもらえるのか、不安なのだ。それでも一縷の望みをかけて、ここまでやって来たのだ。
 エドは、彼の隣りに腰かけた。
「君のお母さんのご両親は、この村にいらっしゃるんだろう?きっと君の味方になってくれると思うよ。孫がかわいくない祖父母なんていないよ……」
「…今日、お前も会っただろう」
 そう言われて、思い当たる人物は1組しかいなかった。
「……族長と、奥方?」
 テスはうなずいた。
 国王からの手紙で、少なくとも族長はテスが孫のテリアス王子だと知ったはずだ。だが、それらしい態度を表すことはなかったように思う。テスが会うのをためらうのも無理はなかった。
「……ばかだな、おれは。はなから覚悟の上のことだったのに」
「テス……」
 ノックの音に、彼らは顔を見合わせた。エドが戸口に近づき、耳を澄ます。
「どなたですか?」
「夜分、大変恐れ入ります。エルサイと妻でございます。是非殿下にお目通りをお願い申し上げます」
 振り返ると、テスは硬い表情でうなずいて立ち上がった。
 エドは、戸を開けた。


『遠い伝言―message―』 13

2008年11月02日 | BL小説「遠い伝言―message―」
やっと、ようやく、BLらしいラブシーンがございます。まだたいしたことはありませんが、それなりの単語が出てまいりますので、苦手な方はご遠慮くださいませ

  * * * * * * * * * * * * * *

 静かな夕食のあと、テスは早々に入浴を済ませてまた部屋に引き取ってしまった。「明日はいつも通り馬の練習をするからな」と言うことは忘れずに。ここに滞在し始めてからは、ネルヴァ族の村へ行く旅に備え、午前と夕方をもっぱらエドの乗馬の練習にあてていたのだ。
 エドは自分まで部屋に閉じこもる気にならず、居間で読書をした。本は、テスが選んでくれたこども向けの歴史書だった。読書というより辞書を引きながらの翻訳といった方がよかった。ただし、フランス語の本を訳すのにフランス語の国語辞典を使うようなものなので、四苦八苦しながらだったが。
 ふと人声に気づいて、彼は本から顔を上げた。廊下から洩れ聞こえてくる、言い争うような声。一方はコルネリの、もう一方は屋敷の使用人ではなく、無論ルキスでもファビウスでもない知らない男の声だった。それがだんだんと近づいてくる。
「……おやめください、殿下!たとえ殿下といえどここはモスカーティ家の私邸、そのようなお振舞いは許されることではございません!」
「だから、客人に目通り願いたいだけだと申している…!」
「ですから、お取次ぎいたしますまでお待ちください!」
 殿下、という呼びかけにエドは驚いて立ち上がり、その拍子に椅子が倒れて大きな音をたてた。
「レジオン殿下!」
 コルネリの叫びと同時に、彼らの部屋の扉は乱暴に開け放たれた。
 エドと青年の目が合う。青年のまとった激しい気に、エドは息を呑んだ。
 青年は、ここの住人としては珍しくエドよりも背が高く、鍛えられた堂々とした体格の持ち主だった。齢はエドと同じか少し上くらいだろうか。短く刈り込まれた黒髪は無造作にはね、きかん気そうに結ばれた口元にまだ少年の面影を残している。目鼻立ちは父親に似ているのに、あまり似ていない印象を受けるのは、切れ長だが少し目尻の下がった灰色の瞳に滲み出る、生来の優しい性格のためだろう。
 正装の上に軽いマントを羽織った彼は、立ち竦むエドを眉をひそめて見つめた。
「殿下、こちらは当家の客人、エドワード・ジョハンセン様です。エドワード様、こちらにおいでになりますのは…」
 彼らの間に割って入ったコルネリをレジオンは手を上げて制し、
「もう1人いると聞いている。奥か?」
「…もうお休みのご様子です。どうかこれ以上は……」
 レジオンは歩を踏み出した。とっさにその前に立ち塞がろうとしたエドの目の端に、テスの部屋のドアが開くのが映った。
 レジオンは足を止めた。
 ドアはゆっくりと、だがためらいなく開かれた。
 寝巻きと、裾からのぞいた裸足に室内履きという姿のテスは、後ろ手にドアを閉めながら言った。
「…コルネリ殿、席をはずしていただきたい」
「しかし…」
「殿下は私に会いにおいでくださったのだ」
 コルネリは困惑したまま一礼して出て行った。
 レジオンの凝視を、テスは黙って受け止め続けた。その冷静な表情とは裏腹に、彼の指先は小刻みに震えていた。
 エドは、レジオンの怒りや口惜しさや期待や怯えが入り混じった気が、急速に弱まっていくのを感じた。
「……兄上……?」
 テスの仮面が剥がれ、苦悶の表情が一瞬だけのぞいた。
「……ああ。久しぶりだな、レジオン……。立派になって……見違えるほどだ……」
「……」
 茫然としていたレジオンの顔が、次第に歪んでいく。こどものように泣き出してしまうのではないかと、エドは自分まで胸が痛むのを感じた。それはレジオンの味わっている痛みだった。なんという激しい、かつオープンな心の持ち主だろう。この世界へ来て他人の気をある程度感じとれるようになったとはいえ、これほどはっきりとわかるのはテス以外では初めてだった。こんな相手に愛されたなら、彼よりもはるかに鋭敏なテスが影響されずに済むわけがない。
「……兄上は、私をお疑いになったのですね……」
 王太子であり、摂政でもある一人前の男の顔が、純粋で傷つきやすい、真っ直ぐな心の少年の顔に戻っていく。
「私の心は本物ではないと……私ではだめなのだと、お思いになったのですね……」
「…それは違う、レジー!」
 テスの目に必死な色が浮かぶ。
「お前のせいだと思ったなら、逃げたりしない!わたしは…自分の心を疑ったんだ…!お前を愛しているつもりになっていただけで、わたしの心はお前を裏切っていたのだと思って、それをお前に知られるのが怖かった……。お前を守り、導くべき兄であるわたしが、無力で幼いただのこどもになっていく惨めなさまを、見られたくなかったんだ!」
 彼はうつむいて、自分の体を抱きしめた。
「……今だって、こんな姿をお前の前にさらして……情けなくて恥ずかしくて、怖くてたまらない……。今のわたしは、お前の知っている……お前が愛してくれたわたしとは違いすぎる……。わたしにはもう……お前の許しと心を請う資格などない……」
「……」
 立ち尽くしていたレジオンが、突然膝を折った。テスは、自分の目線より下となった彼のうなだれた頭を驚いて見つめる。
「…兄上が望むなら、見はしません。……兄上がいなくなって、私はようやく気づきました。兄上を追いつめたのは自分だったと。弟という弱い立場と、王太子という強い立場を利用して、あなたが拒めないことを知っていたのに私は……強引にあなたを我がものとした。どれほどあなたが私を愛そうとしてくださっても、私の卑怯な心が応えることができなかったのは当然です。兄上のご自分を責められた言葉は、そのまま私に向けられるべきものです」
 ちがう、という声にならないテスの唇の動きに、レジオンは気づくことはできなかった。
「ですが……もしお許しいただけるのならば、もう一度……あなたの心を得るための努力をする時間をください。私は今も変わらずあなたを…愛しています」
 テスは、唇を噛んでレジオンを見つめていた。彼はゆっくりと腕をおろし、背筋を伸ばした。
「立ちなさい、レジオン」
 立ち上がっても、テスを見ないように足元を見ている彼に、
「顔を上げて。…目をそらす必要はない」
「……」
 レジオンはもう落ちついて、しかし食い入るような目つきで少し背をかがめて、テスと視線を合わせた。
「……わたしは一生、このままかもしれない。今お前に言えることは、それだけだ。……王宮へ、戻りなさい」
「…お返事は、くださらないのですか」
「お前こそ、よく考えなさい。……王太子妃となる女性はもう内定していると聞いた。その方を愛する努力をするのが先ではないのか」
「──!」
 レジオンが振り下ろした手はテスの頬で高く鳴り、彼をよろめかせた。かっとして駆け寄ろうとしたエドは、かろうじて自分を抑えた。自分が出て行く幕ではなかったし、それに、テスは予期していたのにあえて避けようとしなかった。
「あっ…」
 自分の行為に青褪めたレジオンが床に両膝をついた。
「兄上、申しわけ…」
「謝るな」
 彼は手の甲で頬をこすった。
「わたしも、謝らない」
「……それは、私に応えてくださるつもりはないという意味ですか」
「応えるもなにも……」
 テスは、痛みを隠した苦い笑みを浮かべた。
「ネルヴァ族のことは知らないわけではないだろう?…お前は、以前と同じ気持ちを抱けるのか?このわたしに?」
「それは……」
 口ごもり、レジオンはテスのほっそりとした、どこから剣を振るう筋力が出てくるのかわからない、幼い肢体を上から下まで何度も眺め、結局目をそらした。
「まだ、私も混乱しておりますし、そのお姿にも慣れておりません。それに……そのようなお体の兄上に、そんな無体な……」
「ならば、よいではないか。わたしがお前を兄として愛し、第一の臣下としてこの命を捧げていることに昔も今も変わりはない。わたしは誰よりも……レジー、お前を大切に、愛しく思っている」
「………」
 レジオンは立ち上がった。唇を強く引き結んで、
「今夜は、帰ります。ですが、兄上のおっしゃることに納得したわけではありません。私は兄上ほど賢くはありませんので、どう反論すればよいのかわかりませんが、私は…弟として、王太子として兄上に愛されたいわけではありません……!」
 来たときと同じ強い気を発散させ、彼はマントを翻すと恭しくテスに礼をし、思い出したようにエドにも会釈して出て行った。
 邸内の人声や物音が完全に聞こえなくなると、テスは疲れ切った動作でソファに身を投げた。伏せた目蓋の下の目はぼんやりと、何も見てはいなかった。
「……テス」
 エドは、そっと声をかけた。
「俺が邪魔なら部屋に戻るけど、もし…迷惑でなければ、君の側にいたいんだけど、だめだろうか?」
「……なぜ?」
 テスは、力なく呟き返した。
「君は、彼を傷つけるよりも、自分自身を傷つけていたから、君を慰めたいんだ」
「…だったら、自業自得だろう」
「君が傷ついている事実に変わりはないよ。それに、俺が、そんな君を放っておけないんだ」
「……」
 返事をしないのは拒まない、という意味だった。エドは彼の横に座った。体を投げ出してソファに沈み込んでいるテスを、エドは見つめる。
「……彼と、やり直したかったんじゃなかったの?…国王陛下もそうしろとおっしゃっていたのに、どうしてあんなことを……?」
「……父は、その方がローディアの利益にかなうとのお考えなのだろう。もちろん、わたしのことも心配した上でだが。王や王子が愛妾を持つことは、政治と無関係ではいられない。王にそのつもりがなくとも、周囲が愛妾やその実家に権威を認めるようになる。子が生まれれば、後継争いを引き起こす可能性もある。だがレジオンがわたしをそばに置けば、余計な争いの種を作らずに済む。他に寵愛する相手ができたとしても、わたしが兄として唯一王を諌めることができる立場で、彼をうまく御することを王は期待しているのだ」
「……そんな、自分を貶めるような考え方は、よくないよ」
「貶めているつもりはない。事実を言ったまでだ。そんなことは、レジオンに求愛されたときからいずれそうなるだろうとわかっていた。わかっていて受け入れたのだから、今更反発したり不満に思ったりはしない」
 反論するテスの目に光が戻ったのを見て、エドは安堵した。あんな傷ついた目をした彼を見るより、怒っていてもこの方がよほどいい。
「だけど、君自身の気持ちは?……3年間、夜も眠れないほど苦しみ続けたのは、彼を今でも好きだからじゃないのか?」
「……どうしてお前がそれを言うんだ…っ!」
 床を踏み鳴らして立ち上がったテスに、エドはただ驚いた。怒りと口惜しさでうるんだ瞳が、射るように激しい光を放って彼を睨みつける。
「おれが他の男を好きだなどと、どの口でお前は言えるんだ……!!」
 怒りのあまり息を切らし、こぶしを震わせるテスの体から、初めて抑制のはずれた感情がエドに向かって迸った。真珠のような虹色の突風が、体を突き抜けたような気がした。
 それは、怒りよりもむしろ哀切な想いだった。とまどい、おそれ、罪悪感、愛しさ、陶酔、哀しみ、あきらめ……それは、まぎれもなくテスの、エドへの恋心だった。
 エドの心を駆け抜けた風は彼の中で新たな風を起こし、彼自身の意識さえ攫うほどに激しく渦を巻き、加速した。
 何もかもがスローモーションに見えた。
 目を見開いたテスの腕を摑み、ソファに押し倒す。自分の下で、テスの口がエド、と動いた。声は聞こえなかった。
 彼を抱きしめた。髪から耳、頬を唇でたどり、探し当てた小さな唇に唇を重ね、歯をこじ開け、舌をからめ、吸い上げる。情熱的に応えてくる唇と、自分を抱きしめ返す手の熱を背中に感じた。
 重なり合った胸が、1つの胸腔を共有していた。肺の代わりに空があった。それは黙々とふたりで歩いた草原の上に広がる青空であり、夕立のあとの灰色と黄金色の入り混じった空であり、眠りに落ちるまで語り合いながら眺めた星空だった。ふたりはその空を渡る風を感じていた。
 ひときわ強い風が彼らの間を走り抜け、そのまま意識を吹き飛ばした。高く舞い上がり、ゆっくりと落ち始める。耳元で風が鳴っていた。それが次第に耳障りなほどうるさくなり、息が苦しくなる。
 風だと思ったのは自分の荒い呼吸音だった。エドは、完全に自分の下敷きにしてしまっているテスに気づいて慌てて身を起こし、同じように荒い息をついているテスを茫然と見つめた。
 上気した頬、目尻にたまった涙、赤く腫れた唇……それが自分のせいだと知って、彼の体の奥がずきんと疼いた。その刺激で、とんでもないことに気がついた。
「ご、ごめん、テス!」
 彼はソファから飛び降りた。薄く目を開けたテスが、のろのろと起き上がる。
「ちょっと、そのまま待ってくれ。ちゃんと謝るから、その前に、その、着替えさせてくれ」
 返事も聞かずに大急ぎで部屋に戻り、下穿きを脱いだ。わかってはいたが、実際にテスを腕に抱きしめて達してしまった証拠を目にすると、彼を思いながら自慰をしたときよりもひどい罪悪感に襲われた。しかも、熱に浮かされていたようによく覚えていないというのがますます情けなかった。
 これ以上ないくらい落ち込んで、どう謝ろうかと出て行くと、ソファの上で膝を抱え込み、丸くなっているテスがいた。
「テス……ごめんよ」
 泣いているのではないかとうろたえながら、ソファの手前で立ち止まる。
「君に触れるなと言われていたのに、こんなことをしてしまって、本当にすまない。どうか、許してほしい。君の気の済むようにしてくれ。もし俺がそばにいるのがいやなら……ここを出て、町の宿に移るから……」
「……そんな必要はない」
 顔を伏せたまま、テスが答えた。
「ここにいろ……いてくれ」
 ゆっくりと顔を上げたテスは、泣いていた。ただその紅潮した頬は、羞恥と苦い後悔だけでなく、抑え切れない甘い幸福感に照り映えていた。
「テス……」
 エドの胸に、安堵と愛しさがこみ上げる。
「許してくれるの?」
「……悪いのはおれだ。こんなことになるなんて、知らなかったんだ……。自分たちの能力を全然把握していないくせにかっとしてしまって……」
「こんなことって……」
 訊きかけ、エドは口ごもった。敏いテスには、自分がキスだけで射精してしまったことを知られているかもしれないと思い、恥ずかしくなる。
「君はその……体は、大丈夫?なんともない……?」
 テスは耳にまで血を昇らせた。あまりにも明白な答えだった。
 お互いがエクスタシーを感じるような体験をしたというのに、よく覚えていないなんて、もったいなくてたまらなかった。表現しようがないほどの昂揚感、充足感だったことは覚えているのに、具体的にどんな感覚だったかまるで思い出せない。2度目の口づけだったのに、その感触さえガラス1枚で隔てられているようで、悔しくてたまらない。せっかく初めてテスが応えてくれたキスだったのに。
「……隣に座ってもいい?」
 テスは小さく頷いた。彼は脚を引き寄せた姿勢を解こうとはせず、その姿はこんな出来事のあとだというのに──あとだからこそなのか、幼く見えた。いままではその姿であっても大人の雰囲気を隠しきれなかったのに、今は逆に、その本当の年齢を知っているのに、外見よりも頼りなく、いとけなく見える。
「……ごめん。慰めたいだなんて言っておいて、かえって君を追いつめるようなことをして」
 エドは、テスを見ないように話した。
「ただ……俺が言いたかったのは、君は自分がどうすべきかとか周りの期待とかを考えすぎて、自分自身の気持ちを見失っているんじゃないかってことなんだ。君が何を望んでいるかが大事であって、それ以外のことは考えなくていいと思う」
「………」
「君が自分の立場や相手のためを考えないではいられないことは、みんな……王様だってわかってる。だからこそ、王様は王としては君が言ったようなことを望んでいるかもしれないけど、父親としてはどんな道を選んでもいいと言ってくれたんだろう?君が自分の本当の気持ちを見極めた上で決めたことなら、どんな結論でも許してくれると思うよ。……君の弟もね」
 視線を頬に感じて、エドは目を上げた。
 訴えるような、切ないまなざしに、再び体温が上昇するのを感じる。
「テス……訊いてもいい?」
「何だ?」
「……まだ、君に触れることは許してもらえないのか?」
 テスは赤い目元を膝に押し当てて隠した。
「言ったはずだ。お互い何の結論も出ていないのに、そんなことをすべきじゃない。おれよりも……お前の方が、そのことに縛られてしまうだろうから……」
「…俺に触られるのが嫌なわけじゃないよね」
「…当たり前だ…!」
「ごめん、最初のキスのとき、君が迷惑そうだったから……」
「最初…?」
 不審そうな表情を向けたテスは、
「山越えのとき、野盗に襲われたあと……」
「……あれか」
 思い出したらしく顔をしかめ、
「あのときおれは、返り血を浴びていた。顔にもついていたから、お前がうっかり舐めてしまうんじゃないかと気が気じゃなかった。血で感染する病気だってあるんだ。だからとにかく動かないようにして、早く離れてくれとばかり考えていたし、それにあのときはまだ……」
 テスは口をつぐんだ。
「まだ……なに?」
「……どういう意味なのか、半信半疑だったんだ。おれを心配したあまりの衝動的なものなのか、こんな…こどものおれに、本当にそんな欲望を感じているのか……」
「……ずっと前から、感じていたよ。…気づいていたんじゃないの?」
「……」
 テスは首を振った。それは、エドの問いに答えての仕種ではなかった。
「……この話はやめよう」
 彼はソファから降りた。
「おれは寝る」
「……うん。おやすみ、テス」
 気のせいか、エドの視線を避けるように自分の部屋に向かう彼の後ろ姿に、声をかける。それに対し背を向けたままテスは、
「……今日はありがとう。迷惑をかけてすまなかった。おやすみ」
 と、ドアを閉めた。
 沈んだ声音に、また彼を傷つけてしまったのかもしれないと、自責する。自分がテスに抱いている肉体的な欲求が、彼の重荷になっていることは確かな気がした。さっきの出来事も、テスの意思を無視して──自分の意思もあったとは言い難いが──肉体的な接触はほとんどなかったものの、精神的にはセックスしたも同然だった。実際は23歳のテスには、第二次性徴前だろう少年の体であの快感を味わうことは却ってつらかったかもしれない。たとえ心が「好き」だと、同じように「したい」と思っていても、欲望を向けられることも欲望を感じることも、負担でしかないだろう。
 頭を冷やそう、と彼は庭へ出た。テスの気持ちを確認できたことで浮ついてしまっていた。それ以外にも国王との対面、レジオンの来訪によって、考えなくてはならないことは十分すぎるほどあるというのに。
(彼の弟は……俺みたいにふらふらしてなくて、彼を愛することに迷いはなかった。テスを兄としてとても尊敬しているし、今度はテスを大事にしよう、守ろうとしていて、今の彼に手を出すなんてとんでもないという感じだった。テスが……彼のもとに帰るのがいちばん自然で、テスのためだって、わかってはいるんだ)
 レジオンにはかなわないという思いは、彼と会ってますます強くなった。何一つかなわない、だけど……だからといってあきらめられるほど軽い想いではないし、自分から彼のもとへ送り出してやれるほど大人でもない。かといって恋のためにすべてを捨てられるほど、盲目にもなれない。
「だから……誰も好きになってはいけないと思っていたのにな……」
 クィでの祭りの夜、テスに告げた言葉が甦る。あのときすでに、嘘になりそうな予感はしていた。本当に恋をしたことがなかったから、自分の心を禁じることができると思っていた。
 早く決着をつけてしまいたい。ネルヴァ族の村へ行く目的はもう、帰る方法を探すことではない。この恋に結論を出すことだ。
 降るような星空を見上げ、彼は一日でも早く終着地に着くことを、願った。

『遠い伝言―message―』 12

2008年10月27日 | BL小説「遠い伝言―message―」
 エドは、寝室から出てきたテスの姿を知らず目で追った。
「……なんだ?」
 テスは振り向いて眉をひそめた。
「あ、い…いや、それ……似合うね」
「こどもの頃の服だ。王宮に入るのに平服というわけにはいかないからな。お前は仕度できたのか?」
「……うん。…ねえテス、俺も行かなきゃだめかい?」
 今日のために用意された服は、普段用に与えられた上等なものよりいっそう高価そうだった。ベストもいつもとは違い、前から見ると変わりないが、後ろがシャツと同じくらい長い。テスも色が違うだけで──エドは薄い青で、テスは若草色だった──同じ型のベストを着ていた。
「見学に行くと思えばいいだろう」
「でも……俺は本当は王宮に入れるような立場じゃないし……」
 立ってみろ、というテスの手振りでエドは立ち上がった。テスは彼の格好を点検すると、部屋に引き返した。
 戻ってきた彼が手にしていたのは、ブラシと水色の編ひもだった。
「そこに膝をついて」
 言われるままにすると、髪を結んでいたひもが解かれて、広がった髪が頬にかかった。
「テス?」
「動くな。こういうのは得意じゃないんだ」
 背後から髪をブラシで梳かれ、ひとまとめにされる。
「……立っていいぞ」
 エドは後ろに手をまわして結び目に触れてみた。
「靴ひもではあんまりだからな」
 この世界に来たとき髪を束ねていたゴムは、とうの昔に切れてしまっていたので、代わりに荷物の底にしまってあるスニーカーのひもで縛っていたのだ。
「テス……」
 たまたまあったひもを使ったのではないことはすぐわかった。ひもの色は水色で、彼の瞳の色──髪と同じで色素が薄いアイス・ブルーの瞳──に合わせて買ったものだろう。
「ありがとう……」
「たいしたものじゃない。お前は、いつもわたしが言わない限り自分のものは何も買おうとしないから、気になっていただけだ」
 素っ気なく答えるテスが愛しくて、エドの口から自然に微笑みがこぼれる。
「嬉しいよ。大切にする」
「…大袈裟だな、お前は」
 彼は仏頂面で椅子に腰かけた。間もなく王宮へ行く迎えが来ることになっていた。黙って待つテスは、押し隠してはいるが神経質になっているように見えた。
「失礼致します。お迎えが参りました」
 ノックの音に肩を揺らしたテスは、肘掛けを摑んで大きく息を吸うと、勢いよく立ち上がった。彼の後ろを支える気持ちで、エドも続く。テスは「一緒に来てほしい」とは言わなかったが──当然のように行く話の流れになっていたのだ──何も言わなくとも、「父と対面する勇気が持てるよう、見守っていてほしい」というテスの気持ちが、髪を直している間に伝わってきたからだった。
 外から中はほとんど見えない、天蓋つきの2頭立ての馬車で、彼らは王宮へ向かった。途中モスカーティ家でファビウスと、昨日再会を果たしたルキスが乗り込み、4人を乗せた馬車は王宮の正門ではなく、裏手の王族の住まいである後宮の、王族専用の門へとやって来た。ファビウスは許可証と自分の顔を衛兵に見せてそこを通過した。
 モスカーティの本宅の方がよほど広いだろうこじんまりした後宮は、ひっそりとして、淋しげな雰囲気すら漂っていた。それも無理はない──今ここに住むのは国王夫妻と第二王子だけで、しかも主である国王は病に臥せっているのだ。病床の王を憚って静寂を保っていることもあっただろうが、第一王子の失踪に続き国王の病という不幸が、宮全体を沈ませているのだろう。
「王妃様はお部屋でお休み中、レジオン殿下は政務中ですので、今ならば顔をあわすこともありません。今日は私が遠縁のものと陛下のお見舞いに訪れることになっておりますから、邪魔は入りません」
 ファビウスが先頭に立ち、ルキスとエドがテスをはさんで見えないようにして、彼らは廊下を急ぎ足で進んだ。
 植物を図案化した彫刻が美しい両開きの扉の前に立っていた兵士たちは、ファビウスの姿を見ると剣を掲げ敬礼した。ファビウスは軽く手を上げて答礼する。
 兵士がノックして扉を開けると、そこはソファとテーブル、小さな飾り戸棚がある小部屋になっており、側仕えの女官が1人詰めていた。濃い金髪をきっちり結い上げた彼女はファビウスに向かい一礼した。
「すまないが、陛下と大切なお話がある。席をはずしてほしい」
「かしこまりました」
 彼女は再度お辞儀をし、退室した。
「君たちはここで待つように」
 ファビウスは奥のドアをゆっくりと叩き、扉を静かに引いた。
「失礼いたします、陛下。ファビウス・モスカーティにございます」
「入れ」
 病人の声とは思えない、しっかりした深みのある声が響いた。扉の前に立つテスは、はっと顔を上げ、胸元を握りしめた。
「……殿下」
 テスは小さくうなずくと、明るい部屋の中へ足を踏み入れた。それに続けて入ったファビウスが振り返り、ドアを閉めた。
 間もなくファビウスだけが出てきて、黙って彼らとともにソファに座った。扉の向こうからは、かすかに人の話し声は聞こえてきたが、何を言っているか聞きとれるほどではなかった。ふたりはずいぶんと長い間話し込んでいた。
 やがて声が途切れると、扉が開いてテスが顔をのぞかせた。まだまつげの濡れた、泣き腫らした赤い目で。
「エド、来てくれ」
「え?お、俺?」
 突然のことに面食らう彼に、テスは硬い表情でうなずいた。
「お前に礼を言いたいそうだ」
「礼って…」
 また彼のことを説明するのに「命の恩人」を使ったのか、とエドは恥ずかしかった。他に一緒にいることを納得させられる説明をひねり出せないので仕方がないが、助けられた覚えはあっても助けた覚えのない彼としては、どうにも居心地が悪かった。
 寝室、というよりは執務室にベッドを持ち込んだような、衣装戸棚があり、円卓があり、大きな机や本棚がありというちぐはぐなインテリアは、おそらく倒れてからここで政務を行うために急遽持ち込まれたせいだろう。そしてその、中庭に面した窓を背景に、クッションに支えられて背を起こした、厳しい顔の初老の男性が、ベッドの上に座っていた。
 男は──国王は、じっとエドを見つめていた。エドも見つめ返した。言われなくとも、おそらく街中で会ったところでこの男がただ者ではないとわかるだろう、威厳と強い意志のオーラを発散させている。
(似てる……)
 面長で四角い顎や秀でた額、その下の鋭い褐色の目やがっしりした鼻、やや大きい口、どれをとってもテスと似たところはない。なのに似ていると感じたのは、その相手を射抜く冷徹な視線、厳しさと強烈な意志を感じさせる引き結ばれた唇は、初めて会ったときのテスとそっくりだった。
「……父上、こちらがエドワード・ジョハンセンです」
 心配げに、テスはちら、とエドを見上げる。
 エドはあまり緊張を感じなかった。こんなに「偉い人」に直接会うのは大学の学長以外には初めてだなどと、とりとめのないことを考えていた。
「初めまして、お会いできて光栄です」
「テリアスの父、クラウディウス・ローディアスです。事情はテリアスから聞きました。さぞ不安でいらしたことでしょう。ネルヴァ族の村へは必ずお送りしますので、ご安心ください。もし残念ながらすぐには国へ戻れないようでも、ローディア国内で暮らせるよう取り計らいましょう」
「……身に余るご厚意、深く感謝いたします、陛下」
 敬意をこめた言い回しがわからなかったので英語で答えると、テスがすばやく通訳した。王は頷いた。
「物怖じせず度胸がある。順応性もあり、教養もある。見所のある青年だ。可能ならばじっくり話をしてみたいものだが、引き止めるわけにもいきますまい。村まではテリアスを同行させますので、どうかこれをよろしくお願いいたします」
「いえ、私の方こそお世話をおかけします」
「父上……」
 テスが意外そうに王を見つめる。
「行きなさい。一族のことは彼らに聞くしかあるまい。だが…それで何も方法が見つからなかったとしても、必ず戻ってきなさい。お前は自分の価値を軽んじすぎる。お前がいなくとも将来のローディア王府に支障はないかもしれぬ。しかしそれが最善の体制だとは決して私も大臣たちも思ってはおらぬ。どうしても王子として、未来の王兄としての義務と責務を果たすことができないというにしても、大臣たちへの説明もせずにおくことは許されない。それはわかっているな」
「……はい」
 彼は唇を噛みしめた。
「もっとも、お前は王家の人間としての義務から逃げたいわけではなかろう。問題は、レジオンのことではないか?」
 目を上げたテスの顔から血の気が引いた。
「父上…っ」
 対照的に王は冷静そのものだった。
「公言するほど慶ばしいことではないが、母が違うのだから咎められる謂れもない。そう思って黙認していたが……」
「父上!その話は今はおやめください…!」
「この男の前では、か?」
 王の鋭いまなざしが自分に移ったのはわかっていたが、それよりもエドにはぼんやりとしていた疑問がはっきりしたことの方で頭がいっぱいだった。「レジオンを裏切った」とは、レジオンを愛していたつもりだったのに体の変化がそれを否定した、本当は愛していなかったのではないかと気づいたことだったのだ。テスは王の失望や自分の将来を悲観して国を出たのではない。ただレジオンに、その事実を知られたくなかったのだ。
「……この男の前だから、言うのだ。お前はこの男に惹かれている。だから、お前の口からは言えないことを言っておる」
 テスは必死にエドから顔をそむけていた。
「お前たちは恋に目がくらんで、自分自身も相手のことも見えなくなっていた。お互い、初めての恋愛で、レジオンも若すぎた。あれはお前を手に入れたと有頂天だったし、お前はあれの情熱に巻き込まれて冷静さを失っていた。お前たちは、互いの気持ちと考えをもっと話し合うべきだった。その上お前は自己卑下が過ぎた。結局お前はレジオンの愛情を失うことを恐れるあまり、打ち明けるよりも逃げることを選択した。違うか」
 口調には責める響きは全くなかったが、内容は厳しかった。
「いいえ……」
 テスはうなだれて答えた。
「おっしゃるとおり……わたしは彼の気持ちを…信じることができませんでした……」
「……テリアス」
 王の声音に、愛しさが混じった。
「私がそなたの母の愛情と信頼を得るのに、何年かかったと思う。一目惚れをして、いくら口説いても一顧だにされず、焦るあまり権力づくで連れてきてしまった。結局セイファと褥を共にするまでに、3年かかったのだぞ」
 テスは驚いて王を見た。
「お前を身ごもるまでにさらに1年。テリアス、真実の愛情は一瞬で生まれることもあれば、育んでいかねばならないこともある。一方の中にあってももう一方はこれから変わっていくところかもしれぬ。お前は結論を出すのが早すぎたのではないか。機が熟すのを待つことも時には必要だ。お前は、過去現在、そしてこれからのことも、レジオンに正直に話すべきだ。それに対するレジオンの答えを聞いてから、結論を出してはどうだ」
「……おっしゃることはよくわかります。しかし今は……自分がどうなるかわからない状態で、わたしは誰にも何も約束はできません…。レジオンとは、一族の村から戻ってから……」
「戻ってくるのか?」
 静かに、王は尋ねた。テスは答えられず、苦しげに王の視線を見返すだけだった。
「……お前を身ごもったセイファは、私に早く王妃を迎え、嫡子をもうけるよう強く勧めた。あれは、お前に一族の体質が受け継がれているのではとひどく恐れていた。だからお前には決して王位を継承させてくれるなと嘆願し続けた。理由は、わかるな」
「……はい……」
「王としては、お前に望むこと、許せること、許せぬことは多々ある。しかし父としては、お前は私の最愛の子だ。レジオンもかわいいが、生涯ただひとり愛した女の、その面差しも気質もそっくりな子であるお前をより愛しく、不憫にも思うていることは否定できぬ。だからこそ、お前をこの男と共に行かせる」
 テスの体が揺れた。
「……父上…っ」
「行き、選ぶがよい。父としてお前に一度だけ機会をやろう。戻るも戻らないも、王子として義務と責任に一生を捧げるも、臣籍降下し王家から離れるも、どの道を選ぼうと許す」
「父上……!」
 彼の目から涙があふれ、それを隠すように彼は膝をつき、ベッドに顔を突っ伏した。
「お許しください……っ」
 つと伸ばされた王の手が、テスの頭を撫でる。太くごつごつとしたその手は、その人生の平坦でない道程と、越えてきた数々の困難を物語っていた。テスを見つめる慈愛と悲哀のまなざしは、しかしエドに向けられたときには、嘘偽りを許さない、峻厳なものになっていた。
「エドワード殿」
 反射的に彼は背筋を伸ばした。
「はい」
「テリアス同様、あなたもこの旅で大きな決断を迫られることになる。それにあたり、私から1つだけ助言を差し上げたい」
 顔を上げてテスが不安そうに王を見る。
「あなたがこの世界にいらしたのは間違いでも偶然でもない。あなたは今この時、この世界に来なければならなかった。この世界で経験したこと、出会った人はすべてあなたにとって大きな意味がある。ここが単なる仮初めの地、仮初めの出会いとなるか、そうでないかは、あなた次第だ。それを決して忘れぬように」
 王の言葉はエドを動揺させた。父上、と小さく叫んだテスは、咎めるように王を睨んだ。
「彼を迷わせないでください……!」
「またお前の悪い癖だ。お前の選択は彼の選択となり、彼の選択はお前の選択となる。お前ひとりで決めてよいものではない。3年前と同じ過ちを繰り返すつもりか」
 王の叱責に、テスは目を伏せてシーツを握りしめた。
「…ネルヴァの族長宛に私からの親書を送る。その使いの一行にまぎれて行けるよう、ファビウスに手配させた。テリアス……立ちなさい」
「…はい」
 腹の上で重ねていた手を、王は開いた。
「行く前に、お前を抱きしめさせてはくれまいか」
「父上……」
 目を瞠ったテスは、すぐに苦笑まじりの大人びた微笑で口元を綻ばせた。
「わたしは結構重いですよ?」
「何を言う。お前などよりよほど私の方が鍛えてあるわ」
 それでも王の体を気遣って遠慮がちにベッドに腰かけたテスを、王は言葉通り筋肉の浮いた太い腕で膝の上に抱き上げた。
「お前をこうして腕に抱くのは20年ぶりくらいか。…レジオンが生まれてからは、マルティアに気兼ねしてどうしてもセイファとお前のもとを訪れるのが間遠くなってしまった。セイファが亡くなってからはお前を叔父上に預け、公式の場でしか会うことができず……お前には父として十分に接してやることができなかった。許せ」
「そのような……。母上もわたしも、事情は理解しておりました」
 だがその答えは余計に王の心を刺激したらしく、彼はこみあげた感情のままにテスをがば、と抱きしめた。
「……だからこそ、お前たちに負い目があるのだ、私は」
「……」
 テスはそっと王の背に両腕をまわした。彼らはこれが最後だとでもいうように、固く抱き合っていた。
「……もう、行きなさい。お前の顔を見て元気が出た…と言いたいところだが、さすがに疲れた。出たら女官を呼んでくれ」
 名残惜しげにテスの身を離した王は、テスが床に降りると力を抜いてクッションにもたれかかった。
 テスは軽く膝を折り、優雅な礼をした。
「かしこまりました。陛下、どうかお体をおいといください」
「うむ。そなたもな」
 そのままの姿勢で2、3歩下がると、テスはくるりと身を翻して扉へと向かった。慌ててエドも深々とお辞儀をして彼のあとを追った。振り返らなかったテスの代わりに扉を閉めるため後ろを向いたエドは、王へと目を走らせた。王もまた、目を閉じ、テスを見送らずにいた。
 ファビウスはそのまま王宮に残り、ルキスが彼らを別邸まで送り届けた。帰り道の馬車の中でテスは、黙り込んで、物思いに沈んでしまった。テスとは乳兄弟だという、実年齢でも年上だろうルキスは、物静かで控えめな青年で、臣下の立場を崩そうとはせず、時折気遣わしげな目を向けても自分からテスに話しかけることはなかったので、馬車の中の沈黙は別邸に着くまで破られることはなかった。
「……今日はすまなかったな、ルキス」
 別邸の玄関まで供をしたルキスに、テスは言った。ルキスは栗色の真っ直ぐな髪を振った。
「とんでもない、殿下。国王陛下にお会いになることができて、ようございました」
 使節派遣の詳細が決まったら連絡をすると言い置いて、ルキスは帰っていった。
 部屋に戻って着替え、エドがリビングに出てきても、テスが自室から出てくる気配はなかった。彼といるのが気詰まりなのか、考えごとをしたいのか、おそらく両方だろうと思い、石を飲み込んだような重い気分で部屋に戻った。彼にも考えたいことはあった。
 国王の言葉はどういう意味だったのだろう。彼が示唆したことは、果たして自分が受け取った内容で合っているのだろうか。
 この世界に迷い込んで以来、元の世界に帰れるか帰れないかしか考えたことはなかった。帰れるものならば帰りたい、いや、帰る以外の選択肢がある可能性すら思いつかなかった。なのに、国王は何と言ったのか。
 国王は、彼には「この世界に来なければならなかった」「仮初めとなるかならないかはあなた次第」と言い、テスに対しては「エドの選択はお前の選択」「宮廷に戻ることも戻らないことも、臣籍降下も許す」と言った。それは……
(ここに残れと……ここに残るという選択肢もあるいうことなのか?そして……テスが望めば、テスは王子の身分を捨て、俺と……)
 にわかに鼓動が速まり、てのひらに汗が滲んだ。
(俺と生きていくこともできると……?)
 胸の動悸は、その可能性への期待と喜びのためだけではなかった。ここに残るという選択のもたらすだろう結果への重圧のせいでもあった。
(テスは、俺の気持ちを考えて、戻れなかったら、戻る方法が見つからなかったら、とは一言も言わないけど……戻るには奇跡を待つしかないなんてこと、俺だってわかってる。ネルヴァ族が昔、他の世界から来たという伝説があったって、つまりは彼らも戻ることができなかったということだ。だからこの旅は、俺が諦めてここに住む決心をするためのものでしかない。テスだって、最初からそのつもりで言葉や習慣や知識を教えてくれていたのだろうし)
 帰れないだろうとわかってはいても、認めるには覚悟がいる。どこかで生きているだろう両親、引き取ってくれた養父母、友人たち、バイト先の仲間、今までであったすべての人々と、二度と会えないということ。考古学者になり、知られざるかこのページを埋めたいという夢を捨てなければいけないこと。
 電気や水道のある便利な生活や、映画にスポーツ、ドライブにゲームにインターネット…、溢れかえっていた遊びにはたいして未練はない。もともと「生活の豊かさ」への欲はあまり感じたことはない。ここでの生活も慣れればさほど不自由とは思わなくなった。
 だから本当につらいのは、たとえ少なくても細くても、彼がたどたどしく結んだ人々とのつながりと、夢を失うことだった。そして彼に残されるのは……
(君と出会って、まだ3ヶ月も経っていないんだね、テス……)
 店で買い物をしたり宿をとったり、見ず知らずの他人には愛想を振りまくくせに、笑うのが罪悪だとでもいうように、エドに見せるのは眉間にしわを刻んだ仏頂面ばかり、めったににこりともしなかった。
 けれどもその作りものの表情の下にある厳しくも優しい心は、出会ったときからエドを支え続けてくれた。でなければいくら楽観的な彼といえど、もっと落ち込み、絶望し、やけになっていたことだろう。この世界に興味を持ち、楽しむ余裕さえ持てたのは、テスがいたから、出会ったのがテスだったからだ。
 テスを愛している。彼がずっとあの姿のままでもかまわない。彼を失いたくない。──だがもし、帰れるとなったら、自分は元の世界を捨てて、彼を選べるだろうか?彼と永遠に別れて、帰ることを選べるだろうか?
 エドは膝の上に肘をつき、祈るように握った手に額を押しつけた。
 選べない。選べるわけがない。
 彼は自嘲して唇を歪めた。
(こんな……百万分の1の可能性で悩む前に、テスが俺を選んでくれるとは限らないよな。恋人だった……弟王子よりも……)
 テスが国を出る原因となった彼の弟。未来のローディア国王。会ったことなどなくても、エドは、自分と彼とを比較できるとすら思えなかった。何も持たない、テスの負担にしかならない、異世界の人間である自分では、比較の対象にすらなれない。気持ちだって、彼がテスをまだ愛していると主張したら、元の世界を捨てると言い切ることもできない自分が何を言えるだろう?ずっと一緒にいて、恋をして愛し合っていた相手より、出会って3ヶ月にもならない自分の方を好きになってもらえた自信など、どこを引っくり返しても出てきやしない。
(一族のところへ行くまで返事は保留してくれとテスは言った。それまでに俺も、心を決めよう。……そして、ここで一生を終える覚悟ができたら……そしたら、テスにもう一度好きだと言おう。……彼の返事がどうだろうとも……)

『遠い伝言―message―』 11

2008年10月20日 | BL小説「遠い伝言―message―」
 ファビウスの到着は少し遅れ、召使いの女性が、主はただ今参られます、と告げにきたのは、間もなく9マーレという時刻だった。
 やってきたのは、濃い緑の長いマントを肩からかけた、威厳と親しみを同時に感じさせる、背の高い、がっちりした体格の老人だった。
 彼はまず、立って迎えた彼らのうちエドに目を留め、だがすぐに視線をずらしてその横のテスを見た。
 彼の眉が寄せられ、テスを見つめる。エドはテスの手が固く握りしめられているのに気づいていた。強張った頬にも。
 ファビウスの口がぽかんと開き、次いで目が見開かれる。
「まさか……」
 彼はふらふらと2、3歩進んだかと思うと、力を失って膝をついてしまった。
「テリアス様……?まさか、まことにテリアス様で……?!」
「久しいな、ファビウス殿」
 テスは苦いものの混じった笑みを口元に浮かべた。
「それともこの姿なら、昔のようにじい、と呼んだ方がよいか?」
「テリアス様……!」
 ファビウスはまろびながらテスに駆け寄り、片膝をついてシャツの裾にすがりついた。
「なんというお姿に…!それでは、ようやく…ようやく合点がいきました。あのとき、国を出るか、それができねば自害するとまでおっしゃった訳が……!」
 テスは涙ぐむファビウスの手をとった。
「3年前、そなたには迷惑をかけた。…ネルヴァ族の血は、わたしには特殊な影響をもたらしたらしい。わたしはそれを……どうしても知られたくなかった。今も、だ。ローディアに戻ってきたのは、ただ陛下のご病状を確かめたかっただけだ」
 ファビウスの顔が厳しいものになる。
「王家にお戻りにならないおつもりですか!」
「こんなこどもが第一王子だと言って戻ったところで何になる?陛下を失望させるだけだ」
「……それは私には断じることはできませぬが……、そのことについては後ほどじっくりお話しいたしましょう。ところで殿下、こちらは?」
 エドの頭の中では、1つの単語がぐるぐると回っていた。……第一王子?第二王子より年上の、第一王子が誰だって……?
「ああ、紹介しよう。事情があってここしばらく共に旅をしてきた、エドワード・ジョハンセン。わたしの命の恩人だ。大切な客人としてもてなしてほしい」
「おお、もちろん、テリアス様のご友人とあれば」
 ファビウスは手を差し出した。
「テリアス殿下をお助けくださり、お礼申し上げます、エドワード殿」
 エドは混乱を押し殺しつつその手を握り返した。
「とんでもない……助けられたのは俺の方です…」
「紹介が遅れてすまないな、エド。ファビウスはわたしの大叔父、つまり父方の祖母の弟にあたる」
 難しい話を突っ込まれる前に、テスが助け舟を出した。簡単な日常会話以上になると、エドはお手上げになるからだ。
「とにかく……そなたがわたしだと判ってくれて助かった」
 テスは椅子に腰かけ、手振りでファビウスにも座るよう示した。
「セイファ妃亡きあと、テリアス様をお育て申し上げたのはこの私でございますよ。わからぬはずはございません」
「だからこそわたしも、陛下と弟を除けばそなたを最も信頼している。……教えて欲しい、陛下のご容態はいかがなのだ?」
「殿下……」
 ファビウスはちらりとエドに視線を走らせたが、テスが彼に席をはずさせるつもりがないと理解して続けた。
「2か月前、閣議の最中に陛下は意識を失い、倒れられました。医者の話では、心労と過労が積もって心臓が疲弊されたためとのことです。何より休養と…心労を取り除くことが大事かと」
 テスはつらそうに額に手を当て、肘かけに寄りかかった。
「…ローディアを取り巻く環境は決して楽ではございませんが、陛下のお力により、国内外とも安定しております。大きな問題もここ数年起こってはおりません。それなのに陛下がお倒れになった……。陛下を悩ませている問題が何か、おわかりになりますか」
 ファビウスの口調の変化に、テスがぴくりと身じろぎする。
「3年前、テリアス様が出奔されたあと、陛下はどれほど気落ちされ、悩まれたことか。レジオン殿下がどれほどご自身を責められたことか。陛下は私が手を貸したことに気づいておられましたが、一言も責められず、ただ『そこまで思いつめるとは思わず、放置しておいた私に非がある』と洩らされました。陛下は、私などよりずっと、あなたのご気性を理解しておいでになる。当時の私にはテリアス様が何を悩んでおられたのかがわかりませんでしたが、陛下はきっとお気づきになっておられたのでしょう」
「気づいて……?」
 テスはひとりごちた。
「……まさか……」
「陛下にお会いなされませ、テリアス様。ネルヴァ族のセイファ様を愛され、テリアス様のご誕生を心よりお喜びになられた陛下なら、今のテリアス様を御覧になられても失望などなさいますまい。こう申しては不敬に当たるかもしれませぬが、陛下はレジオン様よりテリアス様を溺愛されておられた。王位はレジオン様にと決められたのも、それはむしろテリアス様のご気性やお体のことを考えて、いらぬ苦労をさせたくないとの親心。その陛下が3年も、あなたの生死を知るすべなく、後悔と心配でお苦しみ続けられた結果がこたびの病と言って間違いありますまい。今もっとも陛下に必要な薬は、テリアス様の無事なお姿でございましょう…!」
 顔をそむけ、目を閉じて唇を噛みしめたテスの姿から、彼の苦悩と迷いが伝わってくる。エドは息を殺して自分の存在を消そうとつとめ、ファビウスもテスの答えを、鋭いまなざしで見つめながら忍耐強く待ち続けた。
「……会おう」
 ファビウスがほっと表情を緩めた。それとは逆に、テスの表情は苦悩に満ちていた。
「陛下には、幾重にもお詫びせねばなるまい。申し上げねばならないこともある。このまま黙って行くよりは……」
「殿下」
 ファビウスは身を乗り出す。
「あなたのご無事でのお帰りを願っておりましたのは陛下だけではありません。我々臣下一同も、心よりお祈り申し上げておりました。レジオン様は確かに王としての器を備えておいでですが、まだお若く未熟でもあり、欠点も多い御方。それを補佐し、支え、ときに叱ることができるのはテリアス様のみ。外見で殿下の能力を疑うような者は我が王府には不要。陛下が倒れられた今、ローディアは切実に殿下を必要としているのです」
 かきくどくファビウスに、テスは心動かされた様子はなく、ぼんやりと呟いた。
「……レジオンにはそなたたちがついている。わたしなどがいなくとも大丈夫だ……」
「何をおっしゃいます。レジオン様は陛下よりも妃殿下よりもあなたをお慕いし、頼られておられた。あれ以来レジオン様はすっかり憔悴され、人が変わられたように打ち沈んでばかりおいでになる。テリアス様も、レジオン様をあんなにも慈しんでおられたではありませぬか。レジオン様にお会いになりたくはないのですか?」
「会いたいに決まっている!」
 初めて、テスは感情も露わに声を荒げた。
「だが、会うことはできない……!会えるはずがない……っ。わたしは彼を裏切った。彼がそれを知れば、決してわたしを許すまい。彼に知られるくらいなら、いっそわたしは死んだと告げてくれた方がましだ…!!」
 両手で顔を覆ったテスが、だが泣いてはいないことをエドは知っていた。夜中に膝をかかえ、じっと苦痛に耐えていたテス。彼には泣いて苦しみを吐き出すことさえできないのだ。
「……レジオンには会わぬ。会えば、彼はわたしの裏切りを知り、わたしを憎むだろう。わたしを側に置くことはない。……どのみち、わたしは王宮に戻ることはできないのだ……」
「テリアス様……」
 ファビウスは、何かを察したらしかった。眉間にしわを寄せ、ひどく難しい顔をして、
「……他には知られぬよう、陛下のもとにお連れする段取りを整えましょう」
「……頼む」
「その前に、殿下のお小さい頃の服が私のところに保管してございますので、こちらに運ばせましょう。何か不足はございませんでしたか?」
「特には──」
 振り返ったテスに、エドは小さく首を振った。
「──ないが……そうだ、剣を預けたときに研いでくれるよう頼んだのだが、その剣、そなたから借りたものだ。それで、謝らなくてはならないと思っていた」
「何をでございますか?」
「せっかくの名剣を、見事な細工の柄は売り飛ばしてしまった上、わたしの背に合わせて相当短く打ち直してしまった。すまなかった」
「そのようなこと」
 ファビウスは破顔した。
「あれはテリアス様に差し上げたもの。お役に立ちましたのなら、それでよろしいのです。…ところで、剣を預けられたというのは、当家の者が要求したのでは?」
「気にするな。主人より家を預かる家令として当然のことだ。ましてこんな得体のしれない客ではな」
 テスはようやく苦笑とはいえ笑みを見せた。
「こちらにはテリアス様のお顔を知らぬ者を急遽寄こしましたものですから、申し訳ございません。研ぎ上がりましたらすぐお返しするよう命じておきます」
「よい。ここにいる間は必要になることもあるまい」
「いえ、そのようなわけには……。おお、もうこんなに暗くなって。すっかり話し込んでしまいました。お食事の用意をさせましょう。私もご一緒したいのは山々ですが、今晩は会食の予定が入っておりますので、失礼させていただきます。明日は必ず、すべて断って是非ともお供させていただきます」
「右大臣ともあろうものが、感心しないな」
「かわいい孫が帰ってきたのですから、それくらいのことは大目に見てもらいませぬと」
 椅子から立ち上がり、再びファビウスは床に片膝をついた。
「明日にはなんとかよいお知らせができるように致しましょう。今宵はゆっくりとおくつろぎくださいませ。では」
「そなたの忠心に感謝する」
 ファビウスが退出してしまうと、不自然な沈黙が続いた。エドは何から訊いたらいいのか、訊かずに今まで通りにすべきなのか迷い、テスは眉を寄せてエドから目をそらしていた。
「……テス、あの……テリアス王子?」
「テスでいい」
 不機嫌そうな返事がテスから返ってきた。
「お前との間に、国だの生まれだのそんなものはなかっただろう」
「そう…だけど」
 確かに、互いに異世界の住人だということに比べれば、「身分違い」などたいした問題ではない気がした。
「確認したいんだけど……君は、俺より年上なのか?」
「そうだ。次の誕生日で25歳になる」
 つまり、今23歳ということだった。この世界での1年が365日前後で──ということは、ここは「もう1つの地球」なのだと、それを知ったときに思った──、生まれたときを1歳と数えるほかは、誕生日ごとに年齢を増やしていくことに変わりはなかった。
「わたしも、20歳のときまでは普通に成長して、普通に成人した。だがある日、今まで着ていた服が大きく感じることに気づいた。それが単に痩せたわけではなく…身長が低くなっているせいだと気づき……信じられなかった。ネルヴァ族といえど、そんな例は一度も聞いたことはなかったからだ」
 ネルヴァ族の血が何か関係あるのか、と訊き返す前にテスは淡々と続けた。
「ネルヴァ族がこの大陸の民と違うのは、特殊な能力だけではない。肉体的にも…大きな違いがある。わたしも……母の話や文献程度の知識しかないので、正確ではないかもしれないが、一族は、成人すると外見上は年をとらなくなる。体が再び時を刻むには……誰か…愛する相手と、精神的にも肉体的にも一体となる……結びつく経験が必要だという。ただ、そういう精神的な感応力を持っている一族同士でないと難しい。ほとんど不可能だ。…わたしが生まれたのは、奇跡に等しいと言われた。それに、一族以外と愛し合うことは、一族の掟で禁じられている。わたしの母だとて、最初は単なる…一族を保護してくれたローディア王への感謝と忠誠の証として、王に差し出されただけだ」
 テスは皮肉な冷笑を浮かべた。
「いつまでも若く美しい妾としてな」
「……だけど、君のご両親は本当に愛し合って、それで君が生まれたんだろう?」
「……一族の掟を破って。ネルヴァ族は恋をし、心より愛し合わなければ死ぬまで若い姿のままだ。そのために昔は強欲な者に狩られ、美しい男女は売笑宿や権力者の奴隷として高値で売られた。だからこそ決して、金や権力で自分を買った者に心まで売らないことを誇りとしてきた。母は……父を愛しながら、いつもわたしに向かって泣きながら言ったものだ。自分は一族の掟を破り、誇りも汚した。一族の者は……自分の父も母も、決して自分を許してはくれないだろうと」
「そんなこと…!たとえどんな立場で出会おうと、心を自分の思い通りに動かすことなどできないよ……!」
 言ってから、エドは胸の痛みを感じた。少年のテスと出会った自分は、彼が本当は大人だとも王子だとも知らなかった。自分が同性の、しかも少年を好きになるなんてことは、夢にも思わなかった。けれども、口では冷たいことを言いながら気を使いすぎるほど使ったり、感情を表に出さないのは逆に激情家なのを隠すためだったり、可愛らしいこどもの顔と艶めいた大人の表情が同居する彼に、どうしようもなく恋をしてしまった。生まれも、過去も、何者であるかも、「本当のこと」すら関係ない。彼らが彼らとして出会ったことが、すべてだ。
「……そうだな。お前の言うことは正しいとわたしも思う。だがわたしは、その掟がなぜあったのか、自分の体の変化を知ったとき、わかった気がした。……成人した姿のままでいるのなら、まだ何年かは自分自身をごまかすことはできただろう。しかし、体が退行し始めたことで、私は相手を愛しているつもりで本当は……自分でも疑っていたとおり、打算と欲望混じりの愛情でしかなかったことを思い知らされた。その上、どこまで戻るのか──15歳?10歳?それとも幼児まで?…そうなってしまったら、もし私が誰かを愛したところで、相手に愛されることなどあり得ない。家族や周囲の人々が人生を過ごしていくのに、わたしだけが誰にも顧みられずこどもの姿で取り残され……死んでいくのだと絶望し……そんな姿を誰にも……わたしに愛情を注いでくれる人には絶対に見られたくなくて、出て行くことを決めた」
 苦しむことに疲れ切った感情を交えない口調で、テスは話し続けた。
「どこで野垂れ死んだってかまわないと自暴自棄になっていた。なのに……食料も尽きて無人の荒野で行き倒れかけて、このまま死んでしまえと思いながら、最後の最後でやはり立ち上がって歩き始める。無謀に野盗たちを挑発して斬り合いになっても、ぼろぼろになるまで必死で戦って生き延びようとする。結局……わたしはまだ生きることに未練たらたらで、あり得ない希望にみっともなくしがみついているのだと、気づかざるを得なかった。世間の水にも慣れて、生活することが楽になり、どうやら退行するのは止まったらしいと気づくまでのわたしは、相当荒んでいた。国を出て1年ぐらいの間だったか、その間にもしお前を見つけていたら、近寄りもせず見捨てて行ってしまったことだろうな」
 話し終え、追憶を見ているのか遠い目のテスに、エドは何も言うことができなかった。抱きしめたかった。自分は今の君を愛していると言いたかった。君が生きていてくれて、そして出会えて良かったと伝えたかった。
 だが、そのどれもできなかった。「お前は帰るんだ」とテスに拒まれたように、無責任に想いを伝えたり慰めたりはできない。それに、知らされた事実が彼の自信を失わせていた。テスは、以前に愛し合っていた恋人がいた。だから理由を明かさず姿を消した。その人を、今でも愛しているのだろうか?その人は今でも、テスを愛しているのだろうか?もし彼らが再会したら……その恋は終わるのだろうか。それとも再び始まるのだろうか?

『遠い伝言―message―』 10

2008年10月19日 | BL小説「遠い伝言―message―」
 ローディアの首都サーランは、首都というよりは湖畔の避暑地といった風情の、静かでこじんまりした、美しい町だった。整然とした町並みと、道の両側には必ず水路が配されているのは、今まで通ってきたローディアの町や村と同じだった。違うのは、水平線が見える広大な湖と、それに面した王宮と──城、と言われると真っ先にディズニーランドのシンデレラ城を思い出してしまうエドだったが、そこは「王の居城」というよりは実務的な政治の中心、という硬い場所で、いくつもの地味な石造りの建物が連なり、まるで博物館か図書館が集まっているように見えた。ただし湖側から見れば多少違うらしいが──、それを取り囲んで立派な屋敷が集中して建っていることだった。ローディアの経済の中心は海に面したベイードだが、政治の中心であり、国全体を動かすという誇り、自負といったものが町全体に漂っているような、確かに他の町にはない風格がある気がした。
 ここへたどり着くまで、テスは日に日に無口に、陰鬱になっていった。よほど帰りたくない、帰りづらい事情があると思われたが、それなのに予定通り速度を緩めることなく次の町へ次の町へと進んでいく彼の意志の強さは驚嘆に値した。サーランの町並みが地平線上に見えてくると覚悟を決めたのか、表情から暗さが消えた。代わりに瞳の思いつめた色は濃くなって、エドを内心はらはらさせた。
 午後に宿に入って荷物を解くと、テスは「買い物に行くぞ」とまた出かけた。テスはこれまでのように人に訊いたり探したりすることなく、勝手知ったる様子で繁華街の中の一軒の店に入っていった。そこは「紙」屋で、文房具店より高級な雰囲気だった。そこでテスは2種類の便箋と封筒を買った。
 次にテスはいつも古着で済ましているのに、新しいローディアの服を一揃い買った。そのあとはウィンドウショッピングで時間をつぶし、夕食をとって宿に戻った。
 エドがベッドにもぐりこんだ横で、テスはランプの明かりで手紙をしたためた。考えている時間は長かったが、手紙自体はずいぶん短いようだった。テスは封をした封筒を、更に手紙とともにもう1つの封筒に入れた。
 翌朝は例によってふたりして宿の水場で洗濯をし、裏庭に干させてもらった。それが終わるとテスは「散歩に行かないか」とエドを誘った。
「散歩?」
「宿にこもっていても退屈だろう?おれは寄りたいところがあるから、お前も一緒に来るか?」
 あの手紙を届けに行くつもりだろうと察しがついて、エドは意外に思った。
「…俺も一緒に行っていいのか?」
 テスは片頬だけで笑みを作った。
「妙な気をまわすな。お前に何も隠すつもりはない」
 そう言ったとおり、彼は昨日買った服に着替え、エドとともに手紙を持って屋敷街へ向かった。
 ローディアの建築物は貧富を問わず平屋か2階までしかない。地盤が軟らかいので、法律で制限されているとのことだった。そのため、広い敷地を高い塀で囲んだ富裕な家は、外からは全く中が覗けない。屋敷街と言っても、道を行く者には壁が続くだけのそっけない街並に見えた。往来するのも屋敷に出入りする業者や使用人、それに警備の兵士だけだった。
「すみません、いいですか?」
「ああ?」
 愛想よく笑ってみせれば、可愛くも美しくもある彼のこと、屈強な兵士もやや相好を崩した。
「お願いがあるんです。ご主人さまのお使いで、ここで働いていらっしゃるルキス様に手紙をお渡ししたいのですけど、どなたか仲介をお願いできませんか?」
「ルキス秘書長殿に?」
 衛士は眉を寄せた。
「大事な手紙なら表の執事を通したほうがいいんじゃないのか?」
「いえ、ルキス様への私信なんです。ご主人様はルキス様をお見かけして以来、どうしてもお心をお伝えしたいと思われて…」
 真新しいローディアの服を着、ローディア語を話し、話し方も雰囲気も上品なテスは、ローディアの上流の家に仕える小姓を完璧に演じていた。
「…なるほど、そっちの用か」
 どうしても主人の命令を果たさなければ、と懇願の表情のテスに、合点がいったらしい男はしたり顔でうなずいた。
「いいとも。次の交替のときに女中に届けるよう頼んでおいてやるよ。手紙は俺が預かろう」
「本当ですか?ありがとうございます!」
 テスは胸に抱いていた手紙を渡すとき、男の手に銀貨を握らせた。
「必ずお返事くださるようにと書かれているそうですので、確かにお渡しくださいね。でないとぼくが奥様に叱られてしまいますから」
「わかっているさ。内密に、だろう」
 首尾よく手紙を預け、待っていたエドのところに戻ってきたテスは、彼を促して屋敷街を出た。
「……あれ、ちゃんと届けてもらえるの?」
 エドがこっそり訊くと、
「たぶん。ああいう門番や下働きの者たちは、普段から自分たち使用人同士や、勤め先の家人への付け文や贈り物を仲介することに慣れている。お互いに頼みあって持ちつ持たれつだから、まず渡さずに捨てたり中身を他に洩らすことはない。それをやったことがばれたら信用をなくして仲間内からもつまはじきにされるし、場合によっては仕事もクビになるからな」
 この世界にはまだ郵便制度や宅配便はなかった。運送業や、同業者同士、あるいは商売上のネットワークはあるようだが、個人と個人の間は自分で届けるか知り合いに託すか、個人的に運搬人を雇うしかない。もっとも、庶民がそのようなものを必要とすること自体めったにないのだろう。
「…訊いてもいいかい?手紙の相手って、君の……家族?」
「いや。だが、家族のようなものだ。ルキスの母はおれの乳母で、ルキスはおれにとって兄のようなものだ」
 やっぱり、とエドは思った。乳母がつくほどの家に、テスは生まれ育ったのだ。
「彼に、帰ってきたと知らせたんだ?」
「ああ。それから、中の手紙を渡してくれるようにと」
 昨夜テスが、封筒の中にまた封筒を入れたのを、エドも見ていた。
「その人に直接届けないの?」
「ルキス経由でないと無理だ。いくらなんでも右大臣相手に裏口から手紙はまわせない」
 エドは思わず足を止めてしまったが、我に返ってテスに追いついた。
「ルキスが秘書長──3年前はただの秘書だったんだがな──として仕えるあの家の主人、右大臣ファビウス・モスカーティ宛ての手紙だ」
 その夜遅く、彼らが泊まっている宿に使いがやって来て、「エドとテスという兄弟に」と手紙を置いていった。宿の者に呼ばれて取りに行ったエドは、部屋で待っていたテスにそれを渡した。
 封を剥がし、読み終えたテスは言った。
「明日、ここを引き払う。何日かモスカーティ家の世話になるだろう。お前には窮屈な思いをさせるが、すまない」
「俺は気にしないよ。君が納得するまでつきあうよ」
 手紙をサイドテーブルに置いて、テスは自分自身に向かって言った。
「できるだけ早く、一族の村に向かえるようにする」
 荷物をまとめ、馬を引いて向かったのは、昨日行った屋敷ではなく、サーランの中心部をはずれた、湖畔の港町だった。そこからはカーブを描いた湖岸に佇む王宮が、湖面に浮かんでいるように見えた。実際、一部の建物は湖の上に建てられていた。
 港には帆と何十本も櫂を備えた船から、公園の池にあるようなボートまで様々な舟が係留され、荷や人がひっきりなしに出入りして賑わっていた。その港を抜けて湖沿いに行くと、道が湖から離れるように曲がってしまう。そこから先は、瀟洒な邸宅が湖岸に連なる私有地で、入れなくなっているのだ。
 道なりに行くと家々の表玄関が湖側に並ぶ通りに出た。どうやらこの辺りは貴族の別邸が集まっている地区らしい。港とは対照的にひっそりとしたその通りを進み、ある別荘の前で足を止めたテスは、門の内側に立つ門番に話しかけた。
「ファビウス候にご招待いただいたものだが」
 彼は封筒からカードを取り出して渡した。門番はそれをさっと見ると、恭しく礼をして、
「承っております。どうぞお入りください」
 もう一人の門番が門を開けると、取り付けられていた鐘がカランカランと鳴り響いた。テスは馬の手綱を男に預けた。
 大理石の大きな鉢の中央に水が湧き出、溢れた水が小川となって流れる、強い日射しの中でも涼しげな庭を通って玄関にたどり着くと同時に、中から扉が開かれた。
「お待ちしておりました、エドワード様、テス様。こちらへどうぞ」
 まだ若い、30代くらいの生真面目そうな男が、深々とお辞儀をして彼らを迎えた。迎え入れられた内部の床はすべて大理石。白い漆喰の壁に大きな窓が特徴の開放的な造りで、エドは高級リゾートホテルに足を踏み入れてしまったような気がした。窓には湖が大きく広がり、廊下のそこかしこに美しい花が活けられ、彼らを先導する使用人の方が彼らよりもよほど高級そうな服を着ており、どうにも居心地が悪かった。これが「別荘」だというのだから、全く中の見えなかった「本宅」はどれほどのものだろう。さすがに王に次ぐ権力者だけのことはあった。
 邸内は彼ら以外いないように静まりかえっていたが、これだけの家を維持するのだから、他にも使用人がいるはずだが、部屋に入るまで誰も姿を見せなかった。
 男は彼らを部屋に案内した。客の滞在用らしいその部屋は、ダイニングと居間、寝室が2つついていた。
「着替えを用意しておきましたが、少々サイズが合わないようですので、すぐに揃えます。主は8マーレ半にこちらに到着する予定でございます。それまでおくつろぎください。軽いお食事をお持ち致します。湯浴みの用意も整っておりますが、側仕えは必要でしょうか?」
「いや、結構だ」
「では、御用の際はその鈴を鳴らしてお呼びください。扉の外にお世話する者が控えております。申し遅れましたが、私はこちらの屋敷を預かる執事のコルネリと申します。何なりとお申しつけください。それから…大変失礼とは存じますが、お腰の物をお預かりしてよろしいでしょうか?」
「…ああ」
 テスは長剣の鞘をベルトからはずし、コルネリに渡した。
「ついでに砥ぎに出してくれると助かる」
「承知いたしました。確かにお預かりいたします」
 彼は両手で捧げ持つように受け取って、退出した。
 コルネリが出て行くとテスは、寝室のクローゼットをのぞき、シャツを出した。
「エド、来いよ」
 テスは居間の湖側の、ガラス格子の引き戸を開け放し、テラス伝いに移動した。
 驚いたことにテラスは、屋根はあるが壁のない、広々としたバスルームに続いていた。ベージュのタイルの床には小さなプールかと見紛う浴槽が掘られ、青く見える湯でいっぱいに満たされている。浴槽の横には膝くらいの高さに貝の形のボウルがあり、その端から湯が浴槽に流れ落ち、ボウルには壁から突き出た管から湯が供給される仕組みになっている。
「すごい……」
 上下水道はもちろん、給湯設備も整った元の世界ならたいしたことではないが、この世界でこれだけの設備を維持し使用するとなると、どれだけの金と人手がかかるのか見当もつかない。
「ローディアの上下水道普及率はこの大陸で最も高い。というか、他国とは比較にならないほどだが、これほどの贅沢はそうそう経験できないぞ」
「そうだろうね……」
 エドはため息をついた。
「おれは風呂に入ってくるが、お前も入るだろう?」
「うん。き、君のあとでね」
 テスは苦笑した。
 居間に戻ったエドは、テスには見せなかったが、打ちのめされた表情でカウチに身を沈めた。
 テスからの連絡で、右大臣はすぐにこの別荘で彼を迎える準備をさせた。しかもふたりの質素な身なりを見ても使用人たちの態度は慇懃この上なかったということは、丁重にもてなすように命令が徹底されているということだ。それはテスが右大臣家の人間か、それと同格、あるいは上の人間だからとしか思えない。右大臣への手紙を家族宛てではないと否定したことを考えると、ここがテスの実家だとは考えにくい。テスの「逃げ出した」という口ぶりから察すると、お家騒動とか何かいざこざがあったように思われた。もしテスが家には帰ってきたことを知られたくなくて、一時的に身を寄せるとしたら、匿ってくれそうな親戚か……家来のところしか考えられない。親戚ならまだしも、もしかしたら……
 テスが身分の高い生まれだとは予想していた。だがもし、右大臣家の主君にあたるとしたら……?
(テスは……王家の人間なのか…?まさか、王子……?)
 だとしたら説明がつく。ローディア王重病の情報に蒼白になり、逃げ出したはずの祖国に戻ることを決心した理由。国の一大事と思ったというよりも(それだって、王家に近い人間だからだろうが)、父の病を心配したという方が自然だろう。
(そうじゃないかと、あのとき思ったんだ……。いくら母国の王が倒れたからといって、あんなに取り乱すはずないもんな。だけど責任感の強い彼のことだから、家や家族に影響があるかもしれないと心配したんだろうと無理に納得したんだ……)
 エドはローディアの政情などわからない。だからなぜテスが国を出なければならなかったのかもわからない。噂どおりならば──ローディアに入ってからは、自然に王家の話が人々の口にのぼるのを聞くことができた──王の病は今すぐ命に関わるというものではないらしいし、将来王位を継ぐのは正式に王太子と指名されている、正妃の子の第二王子だということは当然視されている。摂政に就いたことに若すぎるという意見もあったが、大臣たちがうまく補佐するだろうという見解で決着していた。たまに「第一王子がご健勝だったら、もっと安泰なのに」という声も聞いた。「妾妃のお母上によく似て、見目麗しくて聡明で、弟殿下ともとても仲睦まじかったのにねえ……」
 人々の話を聞く限りでは、王家内で争いや不穏な出来事があるようには思えない。ただ、王のこどもは妾腹も含めて2人きりだという。もしテスが王の血を引いているのならば、確かに騒動が起こる可能性はある。が、成人した正妃の血筋の第二王子が、しかも王位継承が確定している王子がいるのだから、余程のことがなければ大きな影響があるとは思えない。
(君が王子でもそうでなくても、俺の気持ちは変わらない。身分違いが問題でもない。ただ不安なのは……)
 テスは家に戻るつもりなのだろうか。「逃げ出したことに決着」がついたなら、彼はどうするのだろう。
「待たせたな、エド。お前も入って来い」
 テラスから、濡れた髪を拭きながらテスが入ってきた。借りた大人もののシャツを着ただけで、足元もはだしだった。丈が膝上まである分、肩は落ちて袖も2、3回折り返している。真っ白なシャツの下に彼の体の線や肌の色が淡く透けて見え、エドは慌てて目をそらした。
「置いてある服は少し小さいかもしれないが、ゆったりしたデザインのものなら大丈夫だ」
「ああ、ありがとう」
「そうだな……おれが選んでやろう」
 テスは進んで服を物色し、一揃いエドに渡した。
「上着は体が冷めてから着ればいい。とりあえずそれで大臣の前に出られる格好にはなる」
 久しぶりに体を伸ばしてゆっくりと、気兼ねなく湯と石鹸を使って体の隅々まで洗ったエドは、テスが選んだローディアの服を身につけてみた。
 衿の高い白いドレスシャツは、基本の型は町で人々が着ているものと同じだが、大きな違いは丈の長さだった。普通は股下くらいだが、これは膝が隠れるほど長い。その下に履くストレートパンツは、生成りの薄い地で、よく見れば同色の糸で裾に草花の刺繍が施されていた。靴は涼しげなサンダルである。本当はこれに革の太いベルトをシャツの上から巻き、ウェストまでの短いベストを着るのだが、まだ体が熱いのでだらしなくないようベルトだけ締めた。
 部屋に戻るとテスはいつもの服に着替えてしまっていた。残念のようなほっとしたような心持ちで、エドは彼の向かい側に座った。
 テーブルの上には、運ばれてきた果物や菓子、チーズにパン、お茶とジュースと果実酒が手つかずで置かれていた。
「食べないの、テス?」
「別に腹は空いていない。…喉は渇いたかな」
「何か飲む?」
「…それをもらえるか」
 エドはピッチャーから鮮やかな黄色のジュースをグラスに注いだ。それを飲み干して空のグラスを持ったまま、テスは物憂げに呟いた。
「お前は頭がいいから……だいたいのことは察しているんだろうな……」
 エドもジュースを飲んだ。
「お前には、何も隠さないと言いながら、まだ何も話していない……」
「…テス、話したくないことを話す必要なんてないんだ。隠しごとのすべてが悪いことだとは、俺は思わないよ」
「………」
 唇を噛みしめたテスの黒い瞳から、懊悩の色は消えることはなかった。
「……風に当たってくる」
 テスはテラスから庭に出て行った。庭木の間を縫い、湖の方へ歩いていく彼の背を、エドは見守ることしかできなかった。