湖畔人です。
今ウクライナで起きている事を正しく知るのに、とても良い教科書がこの映画だと思います。
ウクライナの悲しい歴史、ネオナチの発生過程等、良く説明できている映画だと思います。と言う事で、オリバーストーン監督の『ウクライナ・オン・ファイヤー』の要約をここで試みたいと思います。ネタバレになるので、ご自身で映画(動画)を観られる予定がある方は見ない方が良いかと思います。
●ウクライナの地政学的な状況と歴史
肥沃な大地を持つウクライナは東西の文明の境目にあり、大国の緩衝地帯として苦しみの歴史がありました。
嘗てはモンゴルに支配され、ロシア、ドイツ、スウェーデン、ポーランドと言う周辺の大国に囲まれ、翻弄され、その都度味方を変えて来た歴史がありました。
またウクライナは統一国家であった時期が大変短く、東部と西部では全く違う文化があり、違った言語を持つ複数の民族が混じったパッチワークの様な複雑な国が今のウクライナのようです。
●第二次大戦中のウクライナの民族主義者達(ナチス達)
先の大戦中、その西部方面のウクライナ人達は、ナチスを歓迎し、ナチスに加担し、ポーランド人や、ロシア人、そしてユダヤ人への大量虐殺を行っていました。
そうしたナチスへの同調者の中に、ウクライナの独立を目指す民族主義テロ組織、OUNも存在しました。OUNは一度消え掛けましたが、その機運は継続し、1940年、OUNには反ユダヤ、反共産主義の過激な国粋主義の指導者、ステファン・バンデラというリーダーが現れました。彼は1941年にウクライナの独立を宣言しました。しかしそうした行為はナチスに嫌われ投獄される事となりました。しかし、投獄後も獄中から大きな思想的影響を与え続け、OUNの民兵達を突き動かし、結果、OUNは15~20万人のユダヤ人の虐殺を行いました。同年9月にはキエフのバビヤールで、2日間で3.3万人ものユダヤ人が虐殺を行っています。所謂ジェノサイドですね。
43年にはポーランドのヴォルイニと、東ガリツィアにおいて大虐殺が起きました。これは別の過激な国粋主義者達のリーダーで、ミコラ・レベドと言う人物の指揮の元、行われたジェノサイドでした。ヴォルイ二では約3.6万人のポーランド人が殺され、東ガリツィアでは約4万人が殺害されました。
戦況が変わりドイツが劣勢になると、OUNは独ソ両方に対し戦争を開始しました。44年秋、ソ連がウクライナ領域からドイツを追い出し、それ以降は、OUNはソ連に対しゲリラ戦を継続しました。そのゲリラ戦は戦後の50年代まで続く事になりました。そして、45年にドイツが降伏し、ウクライナはソ連の一部となりました。
●戦後の冷戦とCIAと民族主義者達(ナチス達)
戦後は米ソ冷戦がはじまり、45年間も核戦争への緊張が続きました。
USはウクライナをソ連攻略に使えると重要視し、特にウクライナの民族主義者達(ナチス達)の存在に目を付け、彼らを支援し、味方に付けんとして来ました。
CIAは、恐怖政治で評判の悪かったOUNのバンデラ他の民族主義者達(ナチス達)を欧州に逃がし、かくまったのです。その後CIAは長きに渡りウクライナの民族主義者達(ナチス達)を支援をし続けました。戦後のニュルンベルグ裁判でナチスは裁かれましたが、ウクライナの民族主義者達(ナチス達)はその裁きから免れ、生き延び、CIAに保護され続けました。また、CIAは冷戦を口実にOUNに非合法活動を命じていました。
ヴォルイ二で大虐殺を指揮したミコラ・レベドは、CIAの手引きで49年にUS移住し、市民権を獲得し、89年まで生き延びました。彼が戦争犯罪人として裁かれる事は一切ありませんでした。
一方、OUNの精神的支柱のバンデラの方は、59年に潜伏先のドイツで殺害されました。しかし、逆にその死により彼はウクライナの愛国のシンボルの様なアイコニックな存在となり、その後もずっとウクライナにおける民族主義(ナチス)のシンボルとして崇められ続けました。
そして、ウクライナの独立と、民族主義への願いは、その後もずっとウクライナ人達の中で静かに燃え続けました。
54年、当時のソ連の指導者でウクライナ出身のフルシチョウフの判断で、クリミアがウクライナに編入されました。当時もその判断の妥当か議論が巻き起こりましたが、そのクリミアが後日、60年後に、ウクライナ危機として火種となって注目を浴びる事になります。
●ペレストロイカ以降 ウクラナイ独立と複数のネオナチグループの誕生
80年代になりゴルバチョフが現れ、ペレストロイカが起き、ソ連の民主化が起きて、ソ連が弱体化しました。
ウクライナでは、89年に、ナロード二・ルフ(人民運動)と言う、民族主義組織が立ち上がり、独立の機運が高まりました。その中で複数のネオナチのリーダーが生まれました。
・91年にオーレフ・チャフニボーグが過激な民族主義を唱える『スヴォボーダ』と言う政党を立ち上げ、"ウクライナはウクライナのもの、ロシア人やユダヤ人を追い出せ!"、と言うかつてのバンデラの主張を復活させ、多くの人々に支持されました。
・94年にドミトロ・ヤロシが極右組織『トリーズブ』を立ち上げました。
2013年にはヤロシは、野党ウダールの議員の顧問になり、同年、もっとも過激なネオナチ政党『右派セクター』の指導者となりました。
・アンドレイ・パルビィは国粋者の部隊を率い、その後、要所要所で現れてきます。
91年、ウクライナは独立を果たしました。近代史でウクライナが独立を果たしたのはそれが初めてでした。
その後、2015年、ウクライナの多くの主要都市で、嘗てのナチスのように、人々は松明を持って街を行進をしました。ウクライナにナチスの精神は息づいているのです。
●ソ連解体後の混乱 2度のカラー革命 オレンジ革命とマイダン革命
旧ソ連の国々は独立後、どの国も貧しく、混乱していました。各国でオリガルヒが産業を支配し、貧富の差が拡大し、格差社会が生まれ、社会が混乱し、人々は貧困に喘いでいました。
政治も腐敗が横行し、海外からの影響で、富が海外に収奪されて行きました。
そしてカラー革命と言う名の新しい戦争が始まりました。
腐敗した政治に市民が抗議をする、民主化のための革命、と言う建前でしたが、ウクライナでは2004年と、2014年に二度起きました。2004年の革命はオレンジ革命と呼ばれました。
そこでは、再び、ウクライナが、西側諸国とロシアの板挟みになりました。
特に2004年11月の大統領選でその対立が顕在化しました。親米のユシチェンコと親露派のヤヌコビッチの対立が起きたのです。因みにユシチェンコの奥様は、米国務省の職員ですので、ユシチェンコは筋金入りの親米派です。
ウクライナは、二分され、東側はヤヌコビッチ、西側はユシチェンコと分かれました。そんな中、ユシチェンコは毒を掛けられました。肌が荒れましたが、一命は取り留めました。
選挙はヤヌコビッチの勝ちとなりましたが、選挙に不正があったとクレームが入り、デモは一カ月続き、NATOまで介入して、結果、選挙はやり直しとなりました。
その結果ユシチェンコが勝ち、西側からはその結果が歓迎されました。しかし、ユシチェンコ政権の民主化への改革は失敗をし、一期で退陣となりました。ユシチェンコは最後の置き土産として、毒を撒いて去って行きました。あのジェノサイドに影響を与えた反ロシアの極右指導者、バンデラを称え『ウクライナの英雄』を言う称号をパンデラに与えたのです。
その後、次の選挙でヤヌコビッチが勝ち、その称号は取り消されました。
しかしヤヌコビッチもしんどい政権運営を強いられました。頼みのIMFは無理難題を押し付け公共料金を上げろと言い、ヤヌコビッチは、EUとロシアにヘルプを求めるも、EUとは中々折り合いが付かず、プーチンさんに助けを求めました。しかし、欧露、両方と手を握ると言う訳には行かず、どちらかを選ぶ必要が出て来ました。そしてヤヌコビッチはロシアを選択する事にし、EUとの協定を延期したのです。
しかし、EU加盟を希望する多くの市民が、2013年11月に市民約10万人を集めてキエフにてデモを行いました。
野党『祖国』のリーダー、アルセニー・ヤツェニク、
極右政党『スヴォボーダ』のオーレフ・チャフニボーグ、
極右政党『ウダール』の元ボクサーのクリチコ、
この3党首がデモ隊を煽り、政府への抵抗を呼びかけました。
そしてその後、暴徒化するのです。
●マイダン革命の裏の陰謀 資金とメディア
2013年11月から2014年2月のデモの暴徒化と混乱は、実はその下地が時間を掛けて作られていました。それは長きに渡り計画され仕組まれ来た陰謀でした。
複数のNGOを介して、USから巨額の資金が、この民主化のデモと政権転覆運動の為に、大量にウクライナに流れ込んでいました。その為に、ジャーナリストも買収の対象でした。
本来CIAの役目でしたが、長年のCIAの悪行が人々の知る所となり、80年代初頭のCIAのお評判は最悪でしたので、CIAは直接は動かず、代理として、全米民主主義基金(NED)と言うNGOを介してウクライナの民主化運動をサポートしました。そうした長年にわたるUSによるウクライナ内の民主化のサポートが、マイダン革命成功のベースとなっていました。
その革命には新しいメディア、新しいテレビ局が大きな役割を果たしました。
デモ開始直後、11月の後半に、ほぼ一日おきに3つの新しいテレビメディアが誕生しました。
今ウクライナで起きている事を正しく知るのに、とても良い教科書がこの映画だと思います。
ウクライナの悲しい歴史、ネオナチの発生過程等、良く説明できている映画だと思います。と言う事で、オリバーストーン監督の『ウクライナ・オン・ファイヤー』の要約をここで試みたいと思います。ネタバレになるので、ご自身で映画(動画)を観られる予定がある方は見ない方が良いかと思います。
●ウクライナの地政学的な状況と歴史
肥沃な大地を持つウクライナは東西の文明の境目にあり、大国の緩衝地帯として苦しみの歴史がありました。
嘗てはモンゴルに支配され、ロシア、ドイツ、スウェーデン、ポーランドと言う周辺の大国に囲まれ、翻弄され、その都度味方を変えて来た歴史がありました。
またウクライナは統一国家であった時期が大変短く、東部と西部では全く違う文化があり、違った言語を持つ複数の民族が混じったパッチワークの様な複雑な国が今のウクライナのようです。
●第二次大戦中のウクライナの民族主義者達(ナチス達)
先の大戦中、その西部方面のウクライナ人達は、ナチスを歓迎し、ナチスに加担し、ポーランド人や、ロシア人、そしてユダヤ人への大量虐殺を行っていました。
そうしたナチスへの同調者の中に、ウクライナの独立を目指す民族主義テロ組織、OUNも存在しました。OUNは一度消え掛けましたが、その機運は継続し、1940年、OUNには反ユダヤ、反共産主義の過激な国粋主義の指導者、ステファン・バンデラというリーダーが現れました。彼は1941年にウクライナの独立を宣言しました。しかしそうした行為はナチスに嫌われ投獄される事となりました。しかし、投獄後も獄中から大きな思想的影響を与え続け、OUNの民兵達を突き動かし、結果、OUNは15~20万人のユダヤ人の虐殺を行いました。同年9月にはキエフのバビヤールで、2日間で3.3万人ものユダヤ人が虐殺を行っています。所謂ジェノサイドですね。
43年にはポーランドのヴォルイニと、東ガリツィアにおいて大虐殺が起きました。これは別の過激な国粋主義者達のリーダーで、ミコラ・レベドと言う人物の指揮の元、行われたジェノサイドでした。ヴォルイ二では約3.6万人のポーランド人が殺され、東ガリツィアでは約4万人が殺害されました。
戦況が変わりドイツが劣勢になると、OUNは独ソ両方に対し戦争を開始しました。44年秋、ソ連がウクライナ領域からドイツを追い出し、それ以降は、OUNはソ連に対しゲリラ戦を継続しました。そのゲリラ戦は戦後の50年代まで続く事になりました。そして、45年にドイツが降伏し、ウクライナはソ連の一部となりました。
●戦後の冷戦とCIAと民族主義者達(ナチス達)
戦後は米ソ冷戦がはじまり、45年間も核戦争への緊張が続きました。
USはウクライナをソ連攻略に使えると重要視し、特にウクライナの民族主義者達(ナチス達)の存在に目を付け、彼らを支援し、味方に付けんとして来ました。
CIAは、恐怖政治で評判の悪かったOUNのバンデラ他の民族主義者達(ナチス達)を欧州に逃がし、かくまったのです。その後CIAは長きに渡りウクライナの民族主義者達(ナチス達)を支援をし続けました。戦後のニュルンベルグ裁判でナチスは裁かれましたが、ウクライナの民族主義者達(ナチス達)はその裁きから免れ、生き延び、CIAに保護され続けました。また、CIAは冷戦を口実にOUNに非合法活動を命じていました。
ヴォルイ二で大虐殺を指揮したミコラ・レベドは、CIAの手引きで49年にUS移住し、市民権を獲得し、89年まで生き延びました。彼が戦争犯罪人として裁かれる事は一切ありませんでした。
一方、OUNの精神的支柱のバンデラの方は、59年に潜伏先のドイツで殺害されました。しかし、逆にその死により彼はウクライナの愛国のシンボルの様なアイコニックな存在となり、その後もずっとウクライナにおける民族主義(ナチス)のシンボルとして崇められ続けました。
そして、ウクライナの独立と、民族主義への願いは、その後もずっとウクライナ人達の中で静かに燃え続けました。
54年、当時のソ連の指導者でウクライナ出身のフルシチョウフの判断で、クリミアがウクライナに編入されました。当時もその判断の妥当か議論が巻き起こりましたが、そのクリミアが後日、60年後に、ウクライナ危機として火種となって注目を浴びる事になります。
●ペレストロイカ以降 ウクラナイ独立と複数のネオナチグループの誕生
80年代になりゴルバチョフが現れ、ペレストロイカが起き、ソ連の民主化が起きて、ソ連が弱体化しました。
ウクライナでは、89年に、ナロード二・ルフ(人民運動)と言う、民族主義組織が立ち上がり、独立の機運が高まりました。その中で複数のネオナチのリーダーが生まれました。
・91年にオーレフ・チャフニボーグが過激な民族主義を唱える『スヴォボーダ』と言う政党を立ち上げ、"ウクライナはウクライナのもの、ロシア人やユダヤ人を追い出せ!"、と言うかつてのバンデラの主張を復活させ、多くの人々に支持されました。
・94年にドミトロ・ヤロシが極右組織『トリーズブ』を立ち上げました。
2013年にはヤロシは、野党ウダールの議員の顧問になり、同年、もっとも過激なネオナチ政党『右派セクター』の指導者となりました。
・アンドレイ・パルビィは国粋者の部隊を率い、その後、要所要所で現れてきます。
91年、ウクライナは独立を果たしました。近代史でウクライナが独立を果たしたのはそれが初めてでした。
その後、2015年、ウクライナの多くの主要都市で、嘗てのナチスのように、人々は松明を持って街を行進をしました。ウクライナにナチスの精神は息づいているのです。
●ソ連解体後の混乱 2度のカラー革命 オレンジ革命とマイダン革命
旧ソ連の国々は独立後、どの国も貧しく、混乱していました。各国でオリガルヒが産業を支配し、貧富の差が拡大し、格差社会が生まれ、社会が混乱し、人々は貧困に喘いでいました。
政治も腐敗が横行し、海外からの影響で、富が海外に収奪されて行きました。
そしてカラー革命と言う名の新しい戦争が始まりました。
腐敗した政治に市民が抗議をする、民主化のための革命、と言う建前でしたが、ウクライナでは2004年と、2014年に二度起きました。2004年の革命はオレンジ革命と呼ばれました。
そこでは、再び、ウクライナが、西側諸国とロシアの板挟みになりました。
特に2004年11月の大統領選でその対立が顕在化しました。親米のユシチェンコと親露派のヤヌコビッチの対立が起きたのです。因みにユシチェンコの奥様は、米国務省の職員ですので、ユシチェンコは筋金入りの親米派です。
ウクライナは、二分され、東側はヤヌコビッチ、西側はユシチェンコと分かれました。そんな中、ユシチェンコは毒を掛けられました。肌が荒れましたが、一命は取り留めました。
選挙はヤヌコビッチの勝ちとなりましたが、選挙に不正があったとクレームが入り、デモは一カ月続き、NATOまで介入して、結果、選挙はやり直しとなりました。
その結果ユシチェンコが勝ち、西側からはその結果が歓迎されました。しかし、ユシチェンコ政権の民主化への改革は失敗をし、一期で退陣となりました。ユシチェンコは最後の置き土産として、毒を撒いて去って行きました。あのジェノサイドに影響を与えた反ロシアの極右指導者、バンデラを称え『ウクライナの英雄』を言う称号をパンデラに与えたのです。
その後、次の選挙でヤヌコビッチが勝ち、その称号は取り消されました。
しかしヤヌコビッチもしんどい政権運営を強いられました。頼みのIMFは無理難題を押し付け公共料金を上げろと言い、ヤヌコビッチは、EUとロシアにヘルプを求めるも、EUとは中々折り合いが付かず、プーチンさんに助けを求めました。しかし、欧露、両方と手を握ると言う訳には行かず、どちらかを選ぶ必要が出て来ました。そしてヤヌコビッチはロシアを選択する事にし、EUとの協定を延期したのです。
しかし、EU加盟を希望する多くの市民が、2013年11月に市民約10万人を集めてキエフにてデモを行いました。
野党『祖国』のリーダー、アルセニー・ヤツェニク、
極右政党『スヴォボーダ』のオーレフ・チャフニボーグ、
極右政党『ウダール』の元ボクサーのクリチコ、
この3党首がデモ隊を煽り、政府への抵抗を呼びかけました。
そしてその後、暴徒化するのです。
●マイダン革命の裏の陰謀 資金とメディア
2013年11月から2014年2月のデモの暴徒化と混乱は、実はその下地が時間を掛けて作られていました。それは長きに渡り計画され仕組まれ来た陰謀でした。
複数のNGOを介して、USから巨額の資金が、この民主化のデモと政権転覆運動の為に、大量にウクライナに流れ込んでいました。その為に、ジャーナリストも買収の対象でした。
本来CIAの役目でしたが、長年のCIAの悪行が人々の知る所となり、80年代初頭のCIAのお評判は最悪でしたので、CIAは直接は動かず、代理として、全米民主主義基金(NED)と言うNGOを介してウクライナの民主化運動をサポートしました。そうした長年にわたるUSによるウクライナ内の民主化のサポートが、マイダン革命成功のベースとなっていました。
その革命には新しいメディア、新しいテレビ局が大きな役割を果たしました。
デモ開始直後、11月の後半に、ほぼ一日おきに3つの新しいテレビメディアが誕生しました。
スピルノTV、
プロマツケTV、
エスプレッソTVの三つです。
これらの新テレビはデモをサポートし煽っていました。特に、プロマツケTVの創立者のムスタファ・ナイエムは、フェイスブックを通してのデモへの参加を呼びかけていました。
その甲斐もあって、11月21日、多くの人々がキエフの広場に集まっていました。ネオナチも多数紛れていたのです。
24日、デモ隊が暴徒化し始めました。
11月30日、深夜に、デモをしていた市民達を、武装した警察の集団がが襲撃し、流血騒ぎとなりました。
しかし、それは政府の指示ではなかったのです。キエフ市長の指示のようですが、市長が独断で出来る筈もなく、誰かの指示でした。疑われているのはオバマ政権のネオコン、ビクトリアヌーランドとも近い、政府主席補佐官のレボチキンでした。彼は、野党『祖国』のリーダーのヤツェニクと連絡を取り合い、クリスマスツリーを広場に納品するフリをして、デモ隊を排除する計画を立てていたと言います。
また、何故か、その日、その場には、世界中のメディアが呼ばれ、カメラを回していました。まるで何かが起こる事が判っていたかのようです。それらメディアの報道では、寝ていた平和的にデモに参加していた学生達を、非道な警察官達が襲ったのだ、と報じていましたが、(湖畔人:まるでブチャに関する報道の様です)カメラに映ったその画像によれば、実際には、武器を持ったトレーニングを受け来たプロの武装したデモ隊が待ち構えており、それらの過激派が実際には暴れていたのだ、と言います。
主にドミトロ・ヤロシの過激なネオナチ政党『右派セクター』が中心となって暴れていたようです。それ以降、平和的だったデモは一気に暴徒化した訳です。
翌朝、広場は、警官批判が渦巻、暴力の連鎖が起きていました。政府関連施設も破壊され始めていました。
しかし、この暴挙はかなり前から綿密に練られたものと見られています。
●カラー革命の共通する手口
カラー革命はリビア、シリア、イエメン、他、で起きて来ましたが、そこには共通する明確なパターンがあったようです。
◎扇動テクニック
・まずコブシのマークなど、反抗と暴力を肯定するかの様なシンボルマークを見せるポスターが、街中にあふれました。
・リズムを作り出し音で興奮を高めました。
・一部に犠牲者を出して、その死を生贄として使いました。生贄は死後、伝説となり、人々の団結に利用されました。
・同様に、怪我人をヒーロー&ヒロインに仕立て上げ、その人物をオピニオンリーダーに仕立ててデモを扇動させました。
・またデモにおいては、高揚化させるためのチャント、"団結は力だ!"的な
スローガンを皆で叫ばせ、群衆を一体化させました。
・またデモを暴徒化するトリガーは、事前に念入りに訓練されて来たプロの扇動家達が、最初の一撃を加え、そこをキッカケに平和だったデモを一気にクーデターへと変質させて来ました。
他、
・バチカンの教皇も、デモの正当性の証明の為に利用されました。
・コンサートやエンタメも混ぜて、政権打倒のその日まで人々が飽きないように、人々のデモへの興味が継続する為の工夫が凝らされていました。
◎資金支援
・そしてNGOを介して多額の資金がこのデモをクーデターと変えるために使われました。因みに、デモを煽ったフロマツケTVにはアメリカとオランダ政府からの多額の寄付がありました。またあの悪名高い投資家、ジョージソロスのルネサンス財団からも多額の寄付が入っていました。この財団はロシアから独立する前からウクライナに設置されており、陰に日向にウクライナのロシアからの引き離しの為に使われてきたと言います。
◎ネオコンのプロパガンダ
・アメリカのネオコンの政治家達の関与も顕著で、バイデンや、マケインや、ビクトリアヌーランドなどネオコンの政治家達は民主、共和に関係なく、何度もウクライナを訪れては、デモ自体にも参加をし、デモをする側には、世界最強国の大統領候補まで参加しているのだ、と印象付けをし、彼らの気持ちを大きく強くしました。そうしたUSの政治家達のデモ支援の姿勢が、デモ隊による政府ビルの破壊まで許させてしまうような場の空気を作っていたのです。
これは中南米の政権転覆で何度もネオコン達が使ってきた常套手段であり、中南米での成功で味をしめた政権転覆の成功方程式でした。
倒したい敵が悪魔のように見えるように演出をし、繰り返し繰り返し刷り込むように、対象が悪く見える報道を繰り返し、人々を洗脳するのです。倒したい対象、政権のリーダーの悪い面を何度も何度も強調して報道し、現地民にもアメリカ国内にも、これから倒す相手は悪と印象付け、多くの自国民や現地民の支持の元、対象を心置きなく叩く、という手口です。(湖畔人:この手は、フセイン、カダフィー、日本に対しても取られた手ですね。イランでもやらんとしているし、今はプーチンさんがそのターゲットになっています。それを仕組んでいるのは今も14年も同じネオコン達です)
◎時間を掛け政府を弱らせ仕留める
11月後半から始まった政府とデモ隊の衝突は2月にピークを向かえ、国粋者の部隊を率いていたアンドレイ・パルビィがマイダンの司令官を自称し、過激派を仕切り、警官は襲わせ、殺し始めました。元ボクサーのクリチコもデモを煽りクーデター一歩手前まで来ました。
仏独ポーランドの外相が来て状況の緩和を試み、政府も過激派も一旦停戦に同意しましたが、右派セクターのヤロシなどは、同意をせず、ヤヌコビッチの辞任を要求し続けました。ヤヌコビッチは自宅も襲われ、官邸も攻撃されと、亡命をせざるを得なくなり、ロシアに亡命申請をし、ロシアに逃げました。何とか暗殺は免れた次第です。
2月23日、革命は達成され、アレクサンドル・チョルチノフが大統領代行となりました。
24日、デモ隊が暴徒化し始めました。
11月30日、深夜に、デモをしていた市民達を、武装した警察の集団がが襲撃し、流血騒ぎとなりました。
しかし、それは政府の指示ではなかったのです。キエフ市長の指示のようですが、市長が独断で出来る筈もなく、誰かの指示でした。疑われているのはオバマ政権のネオコン、ビクトリアヌーランドとも近い、政府主席補佐官のレボチキンでした。彼は、野党『祖国』のリーダーのヤツェニクと連絡を取り合い、クリスマスツリーを広場に納品するフリをして、デモ隊を排除する計画を立てていたと言います。
また、何故か、その日、その場には、世界中のメディアが呼ばれ、カメラを回していました。まるで何かが起こる事が判っていたかのようです。それらメディアの報道では、寝ていた平和的にデモに参加していた学生達を、非道な警察官達が襲ったのだ、と報じていましたが、(湖畔人:まるでブチャに関する報道の様です)カメラに映ったその画像によれば、実際には、武器を持ったトレーニングを受け来たプロの武装したデモ隊が待ち構えており、それらの過激派が実際には暴れていたのだ、と言います。
主にドミトロ・ヤロシの過激なネオナチ政党『右派セクター』が中心となって暴れていたようです。それ以降、平和的だったデモは一気に暴徒化した訳です。
翌朝、広場は、警官批判が渦巻、暴力の連鎖が起きていました。政府関連施設も破壊され始めていました。
しかし、この暴挙はかなり前から綿密に練られたものと見られています。
●カラー革命の共通する手口
カラー革命はリビア、シリア、イエメン、他、で起きて来ましたが、そこには共通する明確なパターンがあったようです。
◎扇動テクニック
・まずコブシのマークなど、反抗と暴力を肯定するかの様なシンボルマークを見せるポスターが、街中にあふれました。
・リズムを作り出し音で興奮を高めました。
・一部に犠牲者を出して、その死を生贄として使いました。生贄は死後、伝説となり、人々の団結に利用されました。
・同様に、怪我人をヒーロー&ヒロインに仕立て上げ、その人物をオピニオンリーダーに仕立ててデモを扇動させました。
・またデモにおいては、高揚化させるためのチャント、"団結は力だ!"的な
スローガンを皆で叫ばせ、群衆を一体化させました。
・またデモを暴徒化するトリガーは、事前に念入りに訓練されて来たプロの扇動家達が、最初の一撃を加え、そこをキッカケに平和だったデモを一気にクーデターへと変質させて来ました。
他、
・バチカンの教皇も、デモの正当性の証明の為に利用されました。
・コンサートやエンタメも混ぜて、政権打倒のその日まで人々が飽きないように、人々のデモへの興味が継続する為の工夫が凝らされていました。
◎資金支援
・そしてNGOを介して多額の資金がこのデモをクーデターと変えるために使われました。因みに、デモを煽ったフロマツケTVにはアメリカとオランダ政府からの多額の寄付がありました。またあの悪名高い投資家、ジョージソロスのルネサンス財団からも多額の寄付が入っていました。この財団はロシアから独立する前からウクライナに設置されており、陰に日向にウクライナのロシアからの引き離しの為に使われてきたと言います。
◎ネオコンのプロパガンダ
・アメリカのネオコンの政治家達の関与も顕著で、バイデンや、マケインや、ビクトリアヌーランドなどネオコンの政治家達は民主、共和に関係なく、何度もウクライナを訪れては、デモ自体にも参加をし、デモをする側には、世界最強国の大統領候補まで参加しているのだ、と印象付けをし、彼らの気持ちを大きく強くしました。そうしたUSの政治家達のデモ支援の姿勢が、デモ隊による政府ビルの破壊まで許させてしまうような場の空気を作っていたのです。
これは中南米の政権転覆で何度もネオコン達が使ってきた常套手段であり、中南米での成功で味をしめた政権転覆の成功方程式でした。
倒したい敵が悪魔のように見えるように演出をし、繰り返し繰り返し刷り込むように、対象が悪く見える報道を繰り返し、人々を洗脳するのです。倒したい対象、政権のリーダーの悪い面を何度も何度も強調して報道し、現地民にもアメリカ国内にも、これから倒す相手は悪と印象付け、多くの自国民や現地民の支持の元、対象を心置きなく叩く、という手口です。(湖畔人:この手は、フセイン、カダフィー、日本に対しても取られた手ですね。イランでもやらんとしているし、今はプーチンさんがそのターゲットになっています。それを仕組んでいるのは今も14年も同じネオコン達です)
◎時間を掛け政府を弱らせ仕留める
11月後半から始まった政府とデモ隊の衝突は2月にピークを向かえ、国粋者の部隊を率いていたアンドレイ・パルビィがマイダンの司令官を自称し、過激派を仕切り、警官は襲わせ、殺し始めました。元ボクサーのクリチコもデモを煽りクーデター一歩手前まで来ました。
仏独ポーランドの外相が来て状況の緩和を試み、政府も過激派も一旦停戦に同意しましたが、右派セクターのヤロシなどは、同意をせず、ヤヌコビッチの辞任を要求し続けました。ヤヌコビッチは自宅も襲われ、官邸も攻撃されと、亡命をせざるを得なくなり、ロシアに亡命申請をし、ロシアに逃げました。何とか暗殺は免れた次第です。
2月23日、革命は達成され、アレクサンドル・チョルチノフが大統領代行となりました。
しかし、ヤヌコビッチの追放は正式な弾劾によるものではありません。弾劾には投票で議員の3/4の賛成が要りますが、そこまで票は伸びておらず、よってヤヌコビッチの辞任は正式なものではないのです。
しかしアメリカ政府はその暫定新政府を認め、歓迎しました。
(湖畔人:そりゃ、米政府は、高額をつぎ込んで仕込んできた陰謀ですから、悲願が達成出来て嬉しかった事でしょう。バイデン、ヌーランドなどネオコン達による金とメディアと暴力を使った政権強奪劇が大成功した、と言う訳です。)
●クリミア 親露派の反動
しかし親露派が多いエリアのクリミアでは、そうしたキエフの動きを歓迎せず、むしろ、不安視しました。過激派やネオナチの暴力による政権転覆で生まれた新政権ですから、自分達ロシア系にも危害が及ぶと不安視し、自ら住民投票を行い、ウクライナからの独立を求めました。
2月27日、親露のデモ隊はクリミアの州政府の建物を占拠し、クリミアの現政権を追い出し、セルゲイ・アクショーノフを、クリミア自治共和国の新リーダーとして立てました。3月16日に住民投票を行い、ウクライナからの離脱とロシアへの編入も決めたのです。
西側のメディアでは、ロシアが侵略したとか、違法選挙、不正があったとか、言い、クリミアの独立とロシアへの編入を否定しましたが、実はクリミアの投票結果はクリミアの人々の本音の選択であり、96%の住民がウクライナからの離脱とロシアへの編入に賛成したのです。
ですので、ロシアへの編入が決まった日は、広場に大勢の市民が集まり、花火を上げては祝福をし、歓びを分かち合っていたのです。それが真実の姿であって、西側の報道は殆どFAKEでした。
そうしたクリミアの住民達の行動を見て、プーチンさんは言いいます。
"民主主義ってなんだ?
民主主義とは、国民の意思による政治であろう。国民の意思を知る為に、選挙をするはずだ。その選挙の結果、住民の90%がロシアへの編入に賛成したのだ。で、あれば住民の意思を尊重すべきだ。地政学的な利害の為に、国際法や、民主主義の原則を曲げてはならない。ここクリミアでは銃弾の一発も撃たれていないのだ、この編入に際し、誰も死んでいない。"と言います。
●クリミア 親露派の反動
しかし親露派が多いエリアのクリミアでは、そうしたキエフの動きを歓迎せず、むしろ、不安視しました。過激派やネオナチの暴力による政権転覆で生まれた新政権ですから、自分達ロシア系にも危害が及ぶと不安視し、自ら住民投票を行い、ウクライナからの独立を求めました。
2月27日、親露のデモ隊はクリミアの州政府の建物を占拠し、クリミアの現政権を追い出し、セルゲイ・アクショーノフを、クリミア自治共和国の新リーダーとして立てました。3月16日に住民投票を行い、ウクライナからの離脱とロシアへの編入も決めたのです。
西側のメディアでは、ロシアが侵略したとか、違法選挙、不正があったとか、言い、クリミアの独立とロシアへの編入を否定しましたが、実はクリミアの投票結果はクリミアの人々の本音の選択であり、96%の住民がウクライナからの離脱とロシアへの編入に賛成したのです。
ですので、ロシアへの編入が決まった日は、広場に大勢の市民が集まり、花火を上げては祝福をし、歓びを分かち合っていたのです。それが真実の姿であって、西側の報道は殆どFAKEでした。
そうしたクリミアの住民達の行動を見て、プーチンさんは言いいます。
"民主主義ってなんだ?
民主主義とは、国民の意思による政治であろう。国民の意思を知る為に、選挙をするはずだ。その選挙の結果、住民の90%がロシアへの編入に賛成したのだ。で、あれば住民の意思を尊重すべきだ。地政学的な利害の為に、国際法や、民主主義の原則を曲げてはならない。ここクリミアでは銃弾の一発も撃たれていないのだ、この編入に際し、誰も死んでいない。"と言います。
多分、プーチンさんは、この独立と編入は、ロシアが強引にやった事ではないと言いたいのでしょう。
またクリミアとNATOへの懸念に関し、こう言っています。
"もしクリミアがNATOに奪われたなら、基地自体はさほど問題ではないが、
NATOの意思決定方法に懸念を持っているのだ。今のNATOは、誰も米国の圧力に抗う事が出来ていない。それが我々がNATOに反発する理由なのだ。加盟国には米国の核ミサイルが配備されている、それを隣国でされれば、我々も対抗措置をとる必要が出てくる。その結果、緊張が生まれるのだ。"とも言っています。
●ドネツク オデッサでも 親露派の反動
14年の革命が起こるまではロシア語は東南部では第二公用語でしたが、暫定政府により否定されたそうです。
東部の住民達は、その決定に反対し、デモを起こしました。そしてマイダン肯定派、ネオナチと衝突をし始めたのです。ドネツクではデモ隊がドネツク政府の建物を攻撃し、ドネツク人民共和国を宣言しました。クリミアに続き、ドネツクも独立です。それに対し暫定政権はテロと認定し、ドンバスに軍を送り込み、自国民に軍事攻撃をしています。
14年1月以降はオデッサでは反マイダンデモが起きていました。ドンバスと呼応されると面倒と言う事で暫定政府は対応を迫られていました。そこで、14年5月、サッカーの試合に紛れてマイダン革命の過激派達がオデッサに集結し、反マイダン派を襲撃し、ビルに押し込み、ビルに火を付けビルごと焼いてしまいました。マイダンの司令官を自称していたアンドレイ・パルビィはその悲劇の数日前にオデッサに入り、事件を指揮したリーダー達と事前の段取りの打ち合わせをしていたようです。その悲劇を右派セクターはSNS上で祝福しています。
オデッサには大きな貿易港があり軍事的拠点でもあり、新知事に重要な人事がなされました。15年5月末に、ジョージア出身で、アメリカにもコネがある悪名高いミヘイル・サーカシビリが任命されました。アメリカの奨学金でNYのクマラと言う法律事務所に勤務した彼は、ジョージアの政権転覆時のバラ革命をクマラのメンバーとして革命に参加をし、革命の後押しをしました。その後、彼は、ジョージアのTOPとなり、ジョージアはNATOに加盟し、ロシア国境にミサイル配置の計画まで立てました。西側はそれを歓迎しましたが、地元住民は反抗をしデモが起きました。サーカシビリはそのデモを武力で弾圧し、国民の支持を失いました。次の選挙でサーカシビリは負け、政権交代が起きましたが、政権にいた時の数々の不正(職権乱用や横領)により逮捕される事を懸念し、アメリカに逃亡しました。
逃亡先のアメリカでは、新しい仕事、ウクライナの大統領顧問とオデッサの知事職を紹介され、その仕事に飛びつきました。その職に就く前にジョージア国籍を放棄し、ウクライナ人になり、オデッサの知事となったのです。調子がいいものです。給与はアメリカ政府が高給を保証しています。
その後、ウクライナ国境ではマレーシア航空の飛行機が撃墜され、米露間で責任のなすり合いが起きました。その後、米政府はそれを口実にロシアへの経済制裁を開始したのです。しかし、調査の結果、マレーシア航空機の攻撃に使われたミサイルは旧式でウクライナしか使っていない物だった事が判っています。(湖畔人:ブチャのジェノサイドと一緒です。ウクライナ軍しか使わない兵器でブチャの市民は殺されたのに、ロシアのせいにされています。)と言う事で、米露は非難をし合い、戦争一歩手前のようです。
気付けば、世界はまた終末に近づいてしまいました。終末時計が示す、人類滅亡までの残された時間は後3分だそうです。
今の戦争は、戦車や爆弾だけではありません。嘘を付き、隠蔽し、情報を曲げるメディアも兵器の一つです。
その嘘の情報操作から身を護る方法は気づく事です。
気付けば自国も他国も救えるかもしれません。
以上
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
以上が、ウクライナオンファイアーと言う映画の要約でした。
どうでしょう?でも、まぁ思った通りですね。アメリカは、分からないように、ウクライナを使いロシアを潰しにかかっています。
民主化は善、その為なら、嘘を付こうが、殺人をしようが、何でもござれ、やりたい放題、仮に、うまく行かなくても兵器は売れるし、少なくとも弱体化は出来る、と言う訳ですね。余り褒められたものではないですね。どっちがまともでしょう?自分にはプーチンさんの方が100倍マトモに見えます。
そう言えば、オデッサ、ロシア艦隊が被害を受けていますが、でも住民自体は親露派が多そうですね。オデッサまでロシア圏にするのかどうか、今後が見ものですね。
プーチンさんはオリバーストーンとのインタビューの中で、"世界は変化している。全てを冷戦のまま、凍結したままではいられない。未来を見るべきだ。"と言っています。
今回の軍事行動も、"冷戦のまま、凍結したままではもういられない、問題の根幹に踏む込み、ケリをつける時が来た"と思ったのかもしれませんね。プーチンさんを応援したいと思います。
さて、オリバーストーン監督はスノーデンの映画も撮っていますね。スノーデン曰く、日本の情報インフラにはマルウェアが仕組まれており、アメリカと同盟が組めなくなったら、日本のインフラがすべてストップする仕掛けがある、気を付けろ、と警鐘を鳴らしているようですね。
さぁどうでしょうね。
まぁ多分そうなのでしょうね。
スノーデンは日本の恩人なのかもしれません。
そして、そのスノーデンをかくまっているのは?
そう、プーチンさんです。
プーチンさん、何とか頑張って持ちこたえて欲しいね。
では。
湖畔人
またクリミアとNATOへの懸念に関し、こう言っています。
"もしクリミアがNATOに奪われたなら、基地自体はさほど問題ではないが、
NATOの意思決定方法に懸念を持っているのだ。今のNATOは、誰も米国の圧力に抗う事が出来ていない。それが我々がNATOに反発する理由なのだ。加盟国には米国の核ミサイルが配備されている、それを隣国でされれば、我々も対抗措置をとる必要が出てくる。その結果、緊張が生まれるのだ。"とも言っています。
●ドネツク オデッサでも 親露派の反動
14年の革命が起こるまではロシア語は東南部では第二公用語でしたが、暫定政府により否定されたそうです。
東部の住民達は、その決定に反対し、デモを起こしました。そしてマイダン肯定派、ネオナチと衝突をし始めたのです。ドネツクではデモ隊がドネツク政府の建物を攻撃し、ドネツク人民共和国を宣言しました。クリミアに続き、ドネツクも独立です。それに対し暫定政権はテロと認定し、ドンバスに軍を送り込み、自国民に軍事攻撃をしています。
14年1月以降はオデッサでは反マイダンデモが起きていました。ドンバスと呼応されると面倒と言う事で暫定政府は対応を迫られていました。そこで、14年5月、サッカーの試合に紛れてマイダン革命の過激派達がオデッサに集結し、反マイダン派を襲撃し、ビルに押し込み、ビルに火を付けビルごと焼いてしまいました。マイダンの司令官を自称していたアンドレイ・パルビィはその悲劇の数日前にオデッサに入り、事件を指揮したリーダー達と事前の段取りの打ち合わせをしていたようです。その悲劇を右派セクターはSNS上で祝福しています。
オデッサには大きな貿易港があり軍事的拠点でもあり、新知事に重要な人事がなされました。15年5月末に、ジョージア出身で、アメリカにもコネがある悪名高いミヘイル・サーカシビリが任命されました。アメリカの奨学金でNYのクマラと言う法律事務所に勤務した彼は、ジョージアの政権転覆時のバラ革命をクマラのメンバーとして革命に参加をし、革命の後押しをしました。その後、彼は、ジョージアのTOPとなり、ジョージアはNATOに加盟し、ロシア国境にミサイル配置の計画まで立てました。西側はそれを歓迎しましたが、地元住民は反抗をしデモが起きました。サーカシビリはそのデモを武力で弾圧し、国民の支持を失いました。次の選挙でサーカシビリは負け、政権交代が起きましたが、政権にいた時の数々の不正(職権乱用や横領)により逮捕される事を懸念し、アメリカに逃亡しました。
逃亡先のアメリカでは、新しい仕事、ウクライナの大統領顧問とオデッサの知事職を紹介され、その仕事に飛びつきました。その職に就く前にジョージア国籍を放棄し、ウクライナ人になり、オデッサの知事となったのです。調子がいいものです。給与はアメリカ政府が高給を保証しています。
その後、ウクライナ国境ではマレーシア航空の飛行機が撃墜され、米露間で責任のなすり合いが起きました。その後、米政府はそれを口実にロシアへの経済制裁を開始したのです。しかし、調査の結果、マレーシア航空機の攻撃に使われたミサイルは旧式でウクライナしか使っていない物だった事が判っています。(湖畔人:ブチャのジェノサイドと一緒です。ウクライナ軍しか使わない兵器でブチャの市民は殺されたのに、ロシアのせいにされています。)と言う事で、米露は非難をし合い、戦争一歩手前のようです。
気付けば、世界はまた終末に近づいてしまいました。終末時計が示す、人類滅亡までの残された時間は後3分だそうです。
今の戦争は、戦車や爆弾だけではありません。嘘を付き、隠蔽し、情報を曲げるメディアも兵器の一つです。
その嘘の情報操作から身を護る方法は気づく事です。
気付けば自国も他国も救えるかもしれません。
以上
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以上が、ウクライナオンファイアーと言う映画の要約でした。
どうでしょう?でも、まぁ思った通りですね。アメリカは、分からないように、ウクライナを使いロシアを潰しにかかっています。
民主化は善、その為なら、嘘を付こうが、殺人をしようが、何でもござれ、やりたい放題、仮に、うまく行かなくても兵器は売れるし、少なくとも弱体化は出来る、と言う訳ですね。余り褒められたものではないですね。どっちがまともでしょう?自分にはプーチンさんの方が100倍マトモに見えます。
そう言えば、オデッサ、ロシア艦隊が被害を受けていますが、でも住民自体は親露派が多そうですね。オデッサまでロシア圏にするのかどうか、今後が見ものですね。
プーチンさんはオリバーストーンとのインタビューの中で、"世界は変化している。全てを冷戦のまま、凍結したままではいられない。未来を見るべきだ。"と言っています。
今回の軍事行動も、"冷戦のまま、凍結したままではもういられない、問題の根幹に踏む込み、ケリをつける時が来た"と思ったのかもしれませんね。プーチンさんを応援したいと思います。
さて、オリバーストーン監督はスノーデンの映画も撮っていますね。スノーデン曰く、日本の情報インフラにはマルウェアが仕組まれており、アメリカと同盟が組めなくなったら、日本のインフラがすべてストップする仕掛けがある、気を付けろ、と警鐘を鳴らしているようですね。
さぁどうでしょうね。
まぁ多分そうなのでしょうね。
スノーデンは日本の恩人なのかもしれません。
そして、そのスノーデンをかくまっているのは?
そう、プーチンさんです。
プーチンさん、何とか頑張って持ちこたえて欲しいね。
では。
湖畔人