紡ぎ糸で織っていないのにどうして「大島紬」と呼ぶ?
明治40年まで真綿紬、玉糸紬などの紡ぎ糸が大島紬の糸の主流だった
明治40年に今まで絣を手で一本ずつくくっていたのを「締め機」という織機が開発され、その織機に使う糸は生糸ででないと使えないので、その後は縒り糸の生糸が大島紬の糸となり、あの光沢のある、衣擦れの音の美しい着物になった
元々は薩摩藩の統括であり、薩摩の高級お召し物として大島紬は存在していて、生産量も少ないことから、一般には出回ることはなかった
しかし噂は耳に入っていたので、明治に入ると一気に流行し生産が追い付かなくなって「締め機」が考案され大量生産の道を歩み始めた。と同時に絣もより細かいものが出来るようになった
といっても一柄16反なので現在のような機械織には程遠い生産量
売れ始めると絣の工夫が精密となり、大島紬の蚊絣や亀甲絣は着物痛の憧れとなった。絣を十字に合わせるというのも織り手にとってはなかなか困難。そこである主婦が考案したのが、木綿針を使って、針で経糸を救い上げ通した横糸の絣のきちんと合わせるという工夫。この技術は今でも続けられている
大正に入ると大島紬を持つというのはステータスになり、あれも我もと買い求めた。大島紬は絣を使わないバラ柄という島の娘たちの機織りの練習柄があり、織り上がったバラ柄は絹なので娘たちのちょっとした余所行きになっていた。バラ柄をきれいに織ると竜郷柄を織り恥縁るという順序があったみたい
竜郷という村は大島紬の織の本場のようなところで、最も盛んであったと言われている
奄美大島の基幹産業は「黒糖、砂糖づくり」それに今度は「大島紬」が入り、明治大正昭和平成はこの二つの産業が奄美大島を潤した
しかし
大島紬は昔のような力はなく基幹産業とは言いづらい。しかしここに住む人たちは、縄文時代から続いている織の技術をきちんと次の世代に繋ごうと黙々と技術を磨いている
絣や泥染めの追及に人々は日夜努力して、先人たち残した知恵を生かし続けている
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