先日、年末に購入していた「3.11後の建築と社会デザイン」という本を読み終えた。
先日ある場所で仲間と話をしていた時、「ものを持つこと」のリスクに話が及んだ。所有することへの絶対的な価値観が揺らぎ始めている。そんなことを感じていた矢先にこの本を読んだ。
東日本大震災により、東北を中心にこの国は甚大な被害を受けた。だが、この国の社会はそれ以前から壊れ始めていた。「限界集落」という言葉に代表されるように、地域のコミュニティが維持できない状況が生まれている。そして、それは地方だけの話ではなく、大都市の中心市街地においても「シャッター街」と言われるような空洞化が進んでいる。
以前、商店街を店舗と住居に上下分離し、店舗部分の流動性を高めてはどうかと考えたことがある。実際にそうした動きは現れているが、まだまだ日本人の「所有」に対する価値観は高く、その流れは主流にはなりえないだろう。
本書では、個人が住宅を取得することが経済成長の仕組みに組み入れられていたという指摘がされている。確かにその通りで、住宅取得控除などはその考え方を表している。最近になり「100年住宅」などという考え方も出てきてはいるが、まだまだスクラップアンドビルドのサイクルが短いのが現状だ。
読みながら、個人による住宅取得について、もうひとつの経済的側面を考えていた。本書では指摘されていなかったと思うが、個人が住宅を取得するには大抵ローンを組む必要があるだろう。長期にわたるローンは、人を職場に強く結びつける役割を持っている。ローンを組んだあとに退職するのは難しい。そのことにより、人を隷属的に仕事に従事させるという意味があったのではないだろうか。特に、高度経済成長期においてはそうした役割を強く担っていたのだろうと思える。
実際、僕も住宅ローンを組んだ時にはその思いを強く感じた。その時は「家を建て替えるしかない」と思い込んでいたが、それは果たして正解だったのだろうか…っていう漠然とした不安が、震災により強く意識されるようになった。
震災からの復興に際しては、これからの日本がどのような道を歩むのかを真剣に考えなければならない。姿形を元に戻すことが復興なのか。そうではなく、人と人をどのように結び付けていくかこそ「復興」なのではないだろうか。
そんなことを、さまざまな人たちと話し合ってみたい。
先日ある場所で仲間と話をしていた時、「ものを持つこと」のリスクに話が及んだ。所有することへの絶対的な価値観が揺らぎ始めている。そんなことを感じていた矢先にこの本を読んだ。
東日本大震災により、東北を中心にこの国は甚大な被害を受けた。だが、この国の社会はそれ以前から壊れ始めていた。「限界集落」という言葉に代表されるように、地域のコミュニティが維持できない状況が生まれている。そして、それは地方だけの話ではなく、大都市の中心市街地においても「シャッター街」と言われるような空洞化が進んでいる。
以前、商店街を店舗と住居に上下分離し、店舗部分の流動性を高めてはどうかと考えたことがある。実際にそうした動きは現れているが、まだまだ日本人の「所有」に対する価値観は高く、その流れは主流にはなりえないだろう。
本書では、個人が住宅を取得することが経済成長の仕組みに組み入れられていたという指摘がされている。確かにその通りで、住宅取得控除などはその考え方を表している。最近になり「100年住宅」などという考え方も出てきてはいるが、まだまだスクラップアンドビルドのサイクルが短いのが現状だ。
読みながら、個人による住宅取得について、もうひとつの経済的側面を考えていた。本書では指摘されていなかったと思うが、個人が住宅を取得するには大抵ローンを組む必要があるだろう。長期にわたるローンは、人を職場に強く結びつける役割を持っている。ローンを組んだあとに退職するのは難しい。そのことにより、人を隷属的に仕事に従事させるという意味があったのではないだろうか。特に、高度経済成長期においてはそうした役割を強く担っていたのだろうと思える。
実際、僕も住宅ローンを組んだ時にはその思いを強く感じた。その時は「家を建て替えるしかない」と思い込んでいたが、それは果たして正解だったのだろうか…っていう漠然とした不安が、震災により強く意識されるようになった。
震災からの復興に際しては、これからの日本がどのような道を歩むのかを真剣に考えなければならない。姿形を元に戻すことが復興なのか。そうではなく、人と人をどのように結び付けていくかこそ「復興」なのではないだろうか。
そんなことを、さまざまな人たちと話し合ってみたい。