モーリス・センダックの絵本を映画化した『かいじゅうたちのいるところ』、
ようやくDVDで観ることができました。
この絵本は、内面を表現する手段としての絵本、あるいは
子どものためだけではない絵本というものの奥深さ、
などを教えてくれた、私にとって心に残る特別な一冊です。
だから映画化と聞いたとき(しかも実写!?)、どちらかというと
「映画化して原作のイメージを壊すのはやめてよね」という
気持ちのほうが強かったと思います。
でも、予告編でかいじゅうたちを見たとき、ん、なかなかいいかも、と
期待が膨らみました。
内容より、まず映像に魅かれたのです。
(期待通り、映像も音楽もとてもよかったです!)
そして、DVDを見終わって・・・やられました~
マックスに、あるいはかいじゅうキャロルにすっかり感情移入してしまって、
マックスが島を出るシーンでは涙がぽろぽろ。
(おばさんが泣く映画とは思えなかったのに)
誰も自分を相手しくれない、その淋しさ・孤独感から
何かをめちゃくちゃにしてしまいたくなる、そんな感情を
誰もが経験したことがあるのではないでしょうか。
私は子どものころ、両親は仕事で忙しく、姉たちは年が離れていて、
遊び相手もなくいつも淋しい思いをしていました。
ひとりで本を読んだり、絵を描いたり。
おとなしい子どもだと言われつつ、いったんキレたら
喧嘩相手の姉に噛みついたり引っ掻いたり、姉の学校のノートに落書きしたりと
けっこう凶暴なところもありました。
(体力では負けるので、いかにダメージを与えるか子どもなりに考えるわけです)
おまけに強情で謝らず、よくお灸をすえられたり、
反省するまで押入れに閉じ込められたりしました(笑)
ほんとは淋しくて、誰かにかまってほしかったのでしょうね。
そのときの性格はいまだに残っていて、時おり衝動的に何かを壊したくなります(笑)
欲しいのにいらないと言ったり、好きなのに嫌いと言ったり。
これまで築き上げてきたものを、いっぺんにひっくり返しかねない行動を
とってしまいそうになるのです。
それもこれも「ちゃんとこっちを見て!」という、心の表れなのでしょうけれど。
我ながら、困ったものです。
だから、ほんとはみんなと楽しくうまくやっていきたいのに、
それを伝えられなくて、自分のワイルドな感情をもてあましてしまう
マックスやキャロルの気持ちが痛くって・・・。
彼らの孤独感が、かいじゅうたちの表情や、あるいは
かいじゅうたちの島の風景などの映像からもよく伝わってきます。
マックスはかいじゅうたちの島で王様になって、最初はみんなで
楽しく暮らしますが、結局うまくはいかず母親のところへ戻ります。
この物語は、みんな最後はうまくいきましたとさ、めでたしめでたし、
みたいなハッピーエンドではないのですね。
マックスとキャロルは心を通わせることができたけれど、
それはずっと持続するものではなくて、一瞬にしてこわれてしまう。
トラブルメーカーのキャロルがこのあとみんなとうまくいくとは思えないし、
KWとどうなるのかもわからない。
そんな彼らを残して、マックスは来たときと同じように小さなボートに乗って
母親のもとへ帰るわけです。
中途半端な終わり方かもしれませんが、私はこの作品が、
みんなうまくいってめでたしめでたしで終わったり、
マックスがいい子になって帰ってきました、みたいな教訓的な終わり方でなくて
よかったと思います。
だって、だぶん、それは嘘だから。
そんなことあり得ないから。
日常生活においても、友達や恋人同士や家族や夫婦で、
うまくいくときもあれば喧嘩をしたりすれ違ったりもするわけです。
それをひとつひとつ解決しているかといえばそうではなくて、
なんとなくうやむやに過ぎてしまってることも多くありません?
そして、気まずいながらもお腹がすいたらみんなでご飯を食べたりする。
そんなもんだと思うのですよね。
お母さんと喧嘩して家を飛び出し、かいじゅうの島へ行ったけど、
やっぱりお母さんのところへ帰りたくなった、
というのは子どもの心理描写ではリアルなことだと思います。
大切なことは、マックスが抱えていたどうしようもなかった感情を
なんとか宥めて戻ってきた、ということなのでしょう。
それには、やはり自分の心を投影したようなキャロルの存在が
あったからこそ、なのですね。
この作品は、子供向けというより、子どもの心理描写を描いて、
子どもも、そしてかつて子どもだった大人も楽しめる映画だなあと思いました。
↓原作 我が家にはなぜかこちらの英語版があります