『四国遍路』
辰濃 和男
先日DVDを借りに行ったとき、隣の新古書店で
何気なくこの本を手に取りました。
ちょうど歯医者通いが始まったので、薄いし、待ち時間に読むのに
ちょうどいいと思って購入しました。
著者は、朝日新聞の元記者で、天声人語を担当されたこともある方です。
退職され、今回二回目となるお遍路ということで、単なる旅行記や
「お遍路さん体験記」というのでもなさそうでした。
別に、四国八十八ヶ所に興味があったわけではありません。
ただ、最近忙しかったし、どことなく閉塞感を感じていたので、
ぶらりとどこかへ旅に出られたらいいだろうなあ、
それが無理なら旅の本でも、くらいの気持ちでした。
主人がときどき、いつか八十八ヶ所を(走って)回りたい、
などと言っていますが、いつも聞こえないふりをしています(笑)
やれ、次はさくら道を走りたいだの、萩往還250キロに出たいだの、
好き勝手言ってますから(これも聞き流す)。
でも、そのせいで頭の隅っこに「お遍路さん」という言葉が
住み着いていたのかもしれません。
内容は、一番霊場霊山寺から八十八番霊場大窪寺まで、
ひとりで歩き遍路をしながら、著者が感じたこと、考えたことを、
歌や出会った人たちのことを交えながら書き綴ったものです。
かつて、お遍路さんをする人は、修行僧や病人、
罪を犯した人であったりしたようですが、
最近は自分の生き方と向き合うために回る
「哲学的な遍路」がふえているそうです。
それだけ社会が病んで、人々が生きづらい状況に
陥っているということでしょうか。
そして、四国を歩くことで、四国の自然や人々の暖かさに触れることで、
癒され、それぞれに何かをつかんで、日常に戻っていくのでしょう。
ひとりで1200キロの道を歩き通すということは、
そう簡単にできることではありません。
(著者は、区切り打ちといって、何回かに分けて歩かれています)
雨の日もあるし、足が痛くて歩けないときもあります。
山道に迷ったり、泊まる所がなかったり、
食べるものがなくなることだってあるのです。
だからこそ、「お接待」をしてくださる人々の暖かさが、
屋根の下で眠ることのありがたさがわかるのです。
こんな世の中に、「お接待」という風習が、
今なお受け継がれているということに驚かされました。
著者が歩き遍路で出会った人たちも、また、印象に残ります。
自分のようなものに情けをかけてくれる、そんな人の情けがつらかった
と語る小指のない元ヤクザの男性。
乳母車にすべてを積み、帰る故郷も家もなく、延々と
四国路を回り続けているおばあさん。
それぞれが、人に言えない、止むに止まれぬ事情を抱え、
歩き続ける四国遍路。
そんな人々を受け入れ、罪も悩みも包み込んでくれる四国路。
そんな四国路に魅了され、何度もお遍路をする人が多いそうです。
この本を読み終えると、主人でなくても、いつか私も・・・
という気持ちが芽生えてしまいました(笑)
歩き遍路は安易な気持ちでできることではないし、
またするべきではないと思いますが。
今では交通手段はいくらでもあるし、ツアーもあります。
しようと思えばいくらでも簡単に回れる四国八十八箇所を、
自分の足で一歩一歩大地を踏みしめ、風を感じながら、
かつてこの道を歩いた空海や山頭火に思いをはせながら
歩くというのは、この忙しい現代においては、この上なく
贅沢なことなのかもしれません。
実際歩いて回るとなると、50日はかかるというし、
その間の宿泊費、食費、四国までの交通費などを計算すると
50万円はかかるといいます。
それに、歩きやすい靴、軽いリュックなどの装備から
歩き続ける体力を考えると、普通の主婦がそうカンタンに
「ごめん。もう、限界。
自分を見つめなおすために、明日からお遍路さんになります」
というわけにはいきませんよねー。
何より、時間とお金と体力がいるわけです。
(もちろん、家族の理解も)
毎日毎日、三度三度の食事を作り、
年老いた親や、受験生の子どもの心配をし、
日々のスケジュールをこなしながら、ふと
「このまま年老いていくのかなあ。
自分の人生、このままでいいのかなあ」
と、家事の手を止め、思い迷いながら過ごしていく・・・。
四国まで行かなくても、それもまたひとつの修行なのでしょうか。
・・・物思う、秋です