九里 【九里】を探して三千里

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いろいろmemo

2019-08-20 | 雑記


中原清業 中原章清 中原康清 中原賢清 中原橘次経任 中原経久 中原経重 かも???
しかし、康清は鹿ケ谷の事件があったので、同じ系図には書かれなかった、という事もあるかもしれない。



● 桓武平氏 千葉氏流の鷲尾と英保と「源頼政」後裔

上総一族。鷲尾氏略系図- 匝瑳常広-鷲尾常定 (八郎)が鷲尾を称した。
英保 播磨国飾磨郡英保地頭 本姓中原氏/称源頼政後裔

道兼子孫の宇都宮流であるとき もと 中原を称していた。

英保助兼━次郎左衛門━弾正━兼盛━━━┓
┏━━━・・・・・・・・・・・・━━━┛
┗和泉守━内膳━備前守常政━与次郎常久━小河之直(福岡藩士一万石)

英保(あぼ)氏は宇野(小寺)氏の分流で、始めは江見氏を称した。
助兼の時、分家して姫路近郊・英保城の主となり姓とした。
また、英保氏の分流 神崎氏は総社の神主になってもいる。

● 源頼政と 嵯峨源氏
頼政は 「以仁王」に加担して、子孫低迷するが、
嵯峨源氏は 「渡辺綱」子孫・松浦氏により 「明治天皇」の母方の血に入る。

嵯峨源氏の流れを組む渡辺党の上に摂津 源氏の嫡流多田氏があり、それらを代表する形で頼政の系が源氏の一派を形成する。

【摂州多田院御家人 高岡氏系図】というのがある。摂州高岡氏は、池田奉貞の實弟肥後守貞望の後裔源頼政後裔という中原と近くにいた可能性がある。

これらは 武士のときのことで、公卿辞典では 高丘家は閑院流。江戸時代頃橋本から養子が入り、以後 高倉 三条西 四辻 他から 養子養子で名がつがれた。つまり 徳大寺も西園寺と兄弟筋からでるので よく 辞典をみなければわからないけど 徳大寺の血がまわりまわって高丘へはいっているかもしれない。

http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-takaoka-settsu.html


田中氏は橘氏の子孫


朴市秦田来津
渡来系氏族の秦氏の一族。近江国愛智郡に移り地名を冠して、朴市秦と名乗ったと考えられる[2]。延暦年間(782年 - 806年)に依知秦公(えちはたのきみ)と記された木簡が発見されている。上蚊野古墳群(愛知郡秦荘町大字上蚊野)は依智(依知)秦氏の居住が色濃く認められる地にあり、古墳時代後期における渡来系氏族の居住が契機となって本格的な群集墳を造営したものと理解されている[3]。

滋賀県東浅井郡浅井町にある湯次山誓願寺には、田来津を秦河勝の子とし、その子孫を誓願寺開基了慶以下誓願寺21世了忍まで繋げる系図がある   

朴市秦田来津(秦河勝の三男。近江、依智秦公)─押分─國万呂─隈麿(弟豊人)。


朴市秦豊人(朴市秦國万呂の二男)─竹足─古麿(弟弟名)─人成─広見(弟広守)─安主(弟安宗)─春野(弟瀧野)─近主─近者(弟信慶)。


朴市秦弟名(朴市秦竹足の二男)─富勝(弟武勝)。


朴市秦広守(朴市秦人成の二男)─前山麻呂(弟建岑、弟足岑)─松雄。


朴市秦瀧野(朴市秦安主の二男)─永時(弟時頼)。


朴市秦時頼(朴市秦瀧野の二男)─時経(弟覚忍、弟時次)。


朴市秦安宗(朴市秦広見の二男)─広宗(弟広亮、弟広道、弟広範)─経久(弟経宅)─高経(弟秀経)。


朴市秦秀経(朴市秦経久の二男)─湯次時経─経逸(弟東野則高、弟西野時勝)─経長─勝長─経應(弟大矢田為経、弟酢村正経)─経盛(弟淳真、弟實経)─経章─経貞─経時─了慶─了弘─慶唯。



湯次庄地頭は北条宗政の「後室」であった。

秦経久 片岡経久 佐竹との関係がある東野氏


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