甲賀二十一家の中の柏木三家
柏木御厨一帯に力を有する山中家と他に伴・美濃部の三氏については、柏木三家といわれる。
姓氏家系大辞典での近江の山中氏の解説をかいつまんで書くと以下のようである。
甲賀二十一家柏木三家の一にして、「鶴見系譜に伊予守為俊の女は山中氏室」と載せ、応仁略記に山中の民部、細川両家記に「甲賀の谷山中新左衛門」(細川條に詳か也)、其の外、山中遠江守、山中また三郎等見え、鈎の陣には山中十郎・武功を記す。…
この細川家記載の山中新左衛門こそ九里と共に闘っていた新左衛門ではないのだろうか。
手稿の修史館の記載を見ると、細川政元が六月二十四日に殺されたとあるので、1507年永正五年の事と思われる。(宣胤卿記)
そして二十六日に細川澄元、同被官三好(之長)と共に、江州甲賀郡青地城甲賀山中新左衛門(名ハ為俊、実隆公記 永正八年八月二十一日ニ見ユ)之城へ御移云々
・・・・とある。
そして、澄元ハ三好筑前守以下馬廻少々相俱シ、江州サシテ被落、甲賀郡ニテ山中新左衛門尉ニ憑テソ被居ケル、玄蕃頭元治子息源五郎元全ハ手定戦テ、手勢十余人ニテ、是ハ若狭国へソ落ラシケル。
二十七日、六角氏網京師ニ在り、将軍義澄其謁見ヲ許サス、是ニ至り将ニ近江ニ帰ントス。義澄之ヲ召シ、幕府ヲ警守セシム。
…六角四郎氏綱が甲賀被官人三雲ヲ初トシテ、同心ニ六郎澄元三好之長ヲ討テ可進…となっており、詳しくはわからないが緊迫している様子が感じられる。
~~~*~~~
山中氏は初めは鈴鹿峠ふもとの土山町山中村を本拠とし、地頭職にあって鈴鹿の関の警護役などを務めていたそうである。
土地の売買・高利貸しのような役割も担っていたそうである。
この後のことは、その2.に書きたいと思う。
柏木御厨一帯に力を有する山中家と他に伴・美濃部の三氏については、柏木三家といわれる。
姓氏家系大辞典での近江の山中氏の解説をかいつまんで書くと以下のようである。
甲賀二十一家柏木三家の一にして、「鶴見系譜に伊予守為俊の女は山中氏室」と載せ、応仁略記に山中の民部、細川両家記に「甲賀の谷山中新左衛門」(細川條に詳か也)、其の外、山中遠江守、山中また三郎等見え、鈎の陣には山中十郎・武功を記す。…
この細川家記載の山中新左衛門こそ九里と共に闘っていた新左衛門ではないのだろうか。
手稿の修史館の記載を見ると、細川政元が六月二十四日に殺されたとあるので、1507年永正五年の事と思われる。(宣胤卿記)
そして二十六日に細川澄元、同被官三好(之長)と共に、江州甲賀郡青地城甲賀山中新左衛門(名ハ為俊、実隆公記 永正八年八月二十一日ニ見ユ)之城へ御移云々
・・・・とある。
そして、澄元ハ三好筑前守以下馬廻少々相俱シ、江州サシテ被落、甲賀郡ニテ山中新左衛門尉ニ憑テソ被居ケル、玄蕃頭元治子息源五郎元全ハ手定戦テ、手勢十余人ニテ、是ハ若狭国へソ落ラシケル。
二十七日、六角氏網京師ニ在り、将軍義澄其謁見ヲ許サス、是ニ至り将ニ近江ニ帰ントス。義澄之ヲ召シ、幕府ヲ警守セシム。
…六角四郎氏綱が甲賀被官人三雲ヲ初トシテ、同心ニ六郎澄元三好之長ヲ討テ可進…となっており、詳しくはわからないが緊迫している様子が感じられる。
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山中氏は初めは鈴鹿峠ふもとの土山町山中村を本拠とし、地頭職にあって鈴鹿の関の警護役などを務めていたそうである。
土地の売買・高利貸しのような役割も担っていたそうである。
この後のことは、その2.に書きたいと思う。