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伊賀守朝光・光季 と 土岐光基・光衡・光行・頼基(2)

2021-01-21 | 山内・伊賀・深尾・下河辺・野本・結城

手に余ることを書いているために、読みにくく、意味不明かもしれません。すみません!

ただ、この伊賀氏と土岐氏、どうも関係がありそうです。


伊賀氏も土岐氏も、千葉氏と婚姻関係で結んでいる。
伊賀光季の姉妹「伊賀の方」は北条義時に嫁ぎ、土岐光定の妻も北条氏である。(時代は違う)

更に土岐光基の娘も藤原秀宗に嫁いで
藤原秀康・秀能は、藤原北家秀郷流の養子となった藤原秀宗の子として誕生している。(実は和田義盛の弟・宗実(宗妙)の子である。)

ここで、和田氏とも繋がっていることになる。

土岐光基は、秀郷流とつながり、弟光重は源頼政の義兄弟で「波多野御曹司」である。(馬場仲政為養子・住下総国)
既に、何等かのつながりができていたのではないだろうか?

日本通信百科事典によると、この藤原秀宗は「波多野秀宗 : 官職は河内守。相模波多野氏(秦野氏)一門。土岐光基の娘を妻とした。」

承久の変では秀能は院方のようである。「承久3年(1221年)の承久の乱では挙兵の際に京都守護・伊賀光季を攻め殺す。」と、wikipediaにある。
伊賀氏とは敵対。





藤原秀能の猶子に能茂(1204生)がいて、母は平定清の娘となっている。この人物は中原定清(貞清)と思われるが、年代が合うだろうか。秀能の妻に平定清の娘と成ると、中原氏との接点が増える。

詳しくはまだ調べていないが、中原氏との接点「中原定清」承安四年・建久九年の文書にも名前が出ていた。





===*===

波多野義通の妹が中原某に嫁ぎ「久経」を産み、私のアバウトな仮想では「政経・経久・‥‥」と続く。
中原政経は、一条家の家司であり、三左衛門の変で捕まって、近江国伊香郡に逼塞する。
其の流れで行くと伊賀の変の「一条実雅」ともつながりがあったであろうと思われる。

伊賀氏の母・妻にも「中原氏」がいたのかもしれない。

===*===
話がずれたので、もとに戻そう。

土岐光基は長生きしたのかもしれないが、頼基は平清盛に誅され、光衡は「土岐三郎」と幕府の文書に記載がありながらも、1206年に歿している。
光衡の本当の父光長も、光衡の兄弟光経も1184年に歿している。

下の系図の赤い線に、ココで切る!のような「チョン」と印がある。
これは、光衡の兄弟であった光季を(藤原秀郷流の朝光に)養子に出したことを意味しているのではないかと思ってしまう。



伊賀光季「京都守護」として素晴らしい活躍をしていた。気持ちの良いほど、闊達に!
承久の乱がなければ‥‥と思ってしまうほど。
北条義時の親類という事で、殺されてしまったようである。

元の同僚たちに‥‥である。むごい…




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