藤原黒麻呂の子孫を掘っていこう。
順を追うと、
黒麻呂ー春継ー良尚ー菅根ー季方 となる。
この季方の姉妹藤原元姫が『平時望の室』となっている。
黒麻呂も790年頃に因幡国司であったように、菅根も880年代に因幡権大掾を務めている。
季方の弟元方。
その息に藤原 致忠(むねただ)がいて、その息に盗賊となった藤原保輔がいる。兄弟だが、藤原保昌の方ではない! 保昌の妻は和泉式部である。
保昌は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BF%9D%E6%98%8C
平時望(桓武平氏高棟流)とつながり、藻原にある橘樹神社の蓮西尼(信西の娘)とつながるが、
源氏方面では満仲の妻となったものもいる。藤原致忠の娘で、源頼信の母となっている。
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藻原の豪族の「斎藤兼綱」は日蓮の支援者であり、富木常忍との関係も示唆されている。
この斎藤氏は日蓮の父である貫名重忠の兄弟(小林)民部実信の預先だそうである。
この斎藤氏は清原氏から斎藤氏となる、あの清原清定の息『斎藤長定』=【斎藤浄円】と関係があるのだろうか?
斉藤浄円 コトバンクより
没年:延応1.10.11(1239.11.8)
生年:建久8(1197)
鎌倉初・中期に幕府評定衆などを務めた実務家。藤原利仁の子孫。清定の子。法名浄円,斎藤兵衛入道を名乗る。
嘉禄1(1225)年12月,評定衆設置に際して文人系官僚としてこれに加えられ,貞永1(1232)年,御成敗式目制定には起草者のひとりとして参与し,また評定衆連署起請文の草案を作成したとされる。
さらに同年12月には鎌倉政権草創以来の散逸した重書の収集と目録作成を命ぜられ,暦仁1(1238)年には地頭職をめぐる一連の追加法制定の奉行を務めるなど,文書管理能力に長けた実務家として重んぜられた。<参考文献>竜粛『鎌倉時代』上
鎌倉・室町両幕府の奉行人を務めた斎藤氏。幕府初期より幕政に参加し,1225年(嘉禄1)評定衆に就任した斎藤長定以降,幕府奉行人を輩出した。
また六波羅探題検断方にも鎌倉後期に斎藤基明なる奉行人が見え,のち室町幕府奉行人家の斎藤氏はおそらくこの系統であろう。
斉藤長定浄円の息 斉藤清時 甥かも知れないが…
?-1266 鎌倉時代の武士。
斎藤長定の子。寛元4年幕府から追放され京都に送還される4代将軍九条頼経(よりつね)にしたがう。
弘長(こうちょう)3年引付衆。文永3年2月9日死去。
藻原寺
鎌倉時代中期建長5年(1253)5月、藻原の領主斎藤兼綱公と、その一族の高橋五郎時忠公は観世音菩薩のお告げにより「笠森」の観音堂で難を逃れていた日蓮聖人を自邸に招き、教えを乞い「南無妙法蓮華経」と唱える最初の帰依者となりました。
建治2年(1276)邸内に一小堂を建立し藻原寺「お題目初唱の霊場」が開かれました。日蓮宗の本山の一つです。
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斎藤兼綱は、長定とは別系で「岩櫃斎藤氏 」六つ葉柏 (藤原北家秀郷流) の方かもしれない。「兼」の字が通し字となっている。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/iwa_saito.html
memo
対馬左衛門尉仲康(三善)三善仲康 中原仲康
あの地行った時にとてもお参りしている方が祝詞あげていたのが強い印象に残ってます。女系的にもその後考えてしまうようになってます。あと地形も独特なんで、和泉式部と合わせて自分のワークのヒントにしますね。