保立道久氏 の 研究雑記 HPより
https://note.com/michihisahotate/n/n4794c647bcad
上記の考察を読んで、私なりに解けた部分があったので書いておきたい。
黒麻呂の父巨勢麻呂は仲麻呂の弟であり、協力していたと思われる藤原仲麻呂の乱764年のあたりに没している。
黒麻呂が上総介に補任されたのが774年(黒麻呂は近江国生まれ)…近江のどこで生まれたのかなぁ。
【仲麻呂の乱の影響】もあったであろうことが上記のHPに書かれていた。
780年に治部大輔となる。(6年間上総にいた)この後も息の春継はそのまま住み続けていたようで、
『常陸大目坂上盛の女をめとって、父黒麻呂とともに開発した藻原荘に住み生涯を終え、同荘に埋葬された』とwikipediaにはある。
877年黒麻呂の孫であった良尚が他界。良尚の父春継の遺言であった「藻原荘」を興福寺に施入する件は黒麻呂の曾孫の菅根が行う(890年)。
菅根の息は元方。
元方の娘は、源雅信に嫁ぎ、源 扶義(みなもと の すけのり)の母となる。
この源 扶義の息成頼が近江国蒲生郡佐々木郷に住むこととなる。
成頼の祖母が藤原元方の娘という事になる。
近江国の小脇のあたりに住んで、後に経方が沙々貴宮神主職となっているため沙々貴神社の近くに居を移したのかもしれない。
ともかく、近江国から上総国、そして上総国から近江国へとつながる『藤原氏』がいたことになる。
しかも、そのひとのルーツに藻原荘を開拓し造った人物がいるという、驚きの展開がココにあった。
九里の祖と関係があるからこそ、この両方に、しかもピンポイントでつながりがあるのだと思う。
藻原と近江国の沙々貴神社の近く。
近江八幡の西本郷あたりの良い場所に九里氏が居を構えていた理由はここにありそうに思う。
怪しいルーツや人物に、佐々木氏に接している大切な土地は与えることはないだろうと思う。
もとから、九里氏の先祖が持っていた土地だったか、同族であったからという事になるのかもしれない。
これがあっているとすれば、九里氏の以前は「中原氏」で、その前は「藤原氏」であったのだ。
近江蒲生郡志 第二巻 の「藤原氏なり」の「どの藤原氏」だったのかが解明できたように思う。
実は藻という文字だけでも超大好物ですよ。懐風藻の藻ですね。梅花藻も。
行った事ない藻原の橘樹さん調べてもみます。